彼からは、何のメールもなかった。
早映子はホッとしながらも、どこかで寂しさも感じた。
「こんなものなんだ・・・、わたしの存在って・・・。」
彼は自分と別れても何も失うものなどない。
帰る家もある。
わたしは・・・
と、考えて思った。
「なに?なんだって言うの?
わたしも彼と別れて何を失うって、言うの?
失うものなんて何もない。
帰る家だってあるし、仕事もあるじゃない。
そうよ、自分だけの生活が始まるだけよ!」
早映子は、気づいた。
彼と別れたら、自分は何もかも失ってしまう。
一人ぼっちで孤独な生活が待ってる、と。
それは、全部自分が設定していただけだった。
自分が彼と一緒にいるために、誰に強制されたわけでもなく自らが作った設定。
それで自分が自分を縛っていただけだった。
「な~んだ、そういうことだったのか・・・」
目の前にぼんやりあって不安を映し出していた曇りが、スッキリと取れた気持ちになった。
実際、自分一人の生活はとても楽で居心地が良かった。
ここ2、3年、一ヶ月に一度しか会わなかったのと、メールもその日程調整と何かあった時に交わすくらいだったから、日常から彼の影を抹殺するのは、思った以上に簡単だった。
早映子は新しくスポーツジムに入り、仕事が早く終わった日はネットで探したレシピで美味しい一人ご飯を作り、ワインを開けて飲んだ。
できるだけ暇な時間を作らないようにし、自分の心と身体が喜ぶ時間を作る努力をした。
朝早く目が覚めたら、電車を使わずに一駅ウォーキングして通勤した。
夜眠れない時は、ヒーリング音楽をかけ瞑想して、心を落ち着かせた。
それでも時折、彼との思い出で胸が苦しくなった時は、遠慮なく大泣きした。
そうやって自分に素直になっていい、と自分に赦したのだ。
いくつものティッシュの箱だけが、その時の早映子の心の友だった。
当たり前だ、25年も付き合ってきたのだ。
すぐに何もかも断ち切れるわけがない。
そんなことも、ちゃんと知っていた。
そうして自分に無理することなく一ヶ月も経つと、昔からそうやって生活しているようなリズムができて、だんだん心の友からも離れていけた。
一時期恋愛のことを語る雑誌や本に
「今の恋を手放す為に、新しい恋をして古い恋を捨てましょう」
と書かれていた時期があったことを早映子は、思い出した。
自分もその手法を使ったから、よーくわかった。
理論上は、その方が楽だし安心だ。
けれど、~をするために新しい何かをする、というやり方は、保険をかけることだ。
恋愛は特にそうだ。
嫌いで別れるのならともかく、彼をすきなのに無理やり断ち切るために他の人を好きになるなんて、そんな器用な芸当はほとんどの女はできない。
子宮に、理論は通用しない。
子宮は、本能だ。
本能は退路を断ってこそ初めて目覚め、本当に望む幸せへの道を歩かせてくれる。
「幸せ、ていう言葉もクセモノよね・・・」
早映子は、つぶやいた。
頭で考える幸せが、心から望む幸せではない場合も多いことは、よくある。
早映子も
「誰とでもいいから、早く結婚したい!!」
と、望んだ時期があった。
合コンはもちろん婚活パーティーにも出かけ、お見合いもした。
でもなかなか、これぞ!という出会いはなかった。
今ならわかる。
「あの時のわたし、頭では結婚したい、と望んでいたけど本当はしたくなかったのよね・・・。
とにかく不倫状態から逃げて楽になりたかった。
それだけだった。
新しい恋がしたかったんじゃないの。
結婚がしたかったんじゃないの。
ただただ、あの時の自分や状況から逃げたかっただけ。
それが、あの時のわたしが望んでいた幸せだったのよね~。」
あたたかいココアの入ったマグカップを両手で抱え、体育座りをしてソファーに座った早映子は過去を振り返ってしみじみ感じた。
逃げるために選んだものは、ただの逃げ道にしかならない。
見た目は綺麗で輝いてるゴールドで、満足したフリをする。
けれどそれはイミテーション・ゴールドだ。
偽物の輝きに目がくらみ、つい手に取る。
しばらくするとイミテーションだから、メッキがはがれる。
すると、イミテーションを持っている自分が嫌になる。
みじめになる。
だから、捨てる。
女はイミテーションで、満足しない。
女が欲しいものは、いつでも本物だ。
宝石でも、バッグでも、男でも。
「はぁ~、彼はイミテーションだったんだ・・・。」
つきあった最初の頃は、彼は本物だった。
仕事ができる本当にすてきなかっこいい男だった。
颯爽として、生き生きと光り輝いていた。
でもお互い嘘を重ねていく内に、どんどんくすみ、価値が下がっていった。
早映子が他の男と行ったり来たりして、戻ってくるたびに、本物からイミテーションに成り下がった。
「だけど、そうさせたのは、わたしよね。
わたしも彼にとって、イミテーションな女だったのよね。
きっと。」
人は、自分と同じ持つ波動のものに、吸い寄せられる。
いわゆる「似た者同士」だ。
早映子がイミテーションな彼を引き寄せ、彼がイミテーションな早映子を引き寄せた。
お互いイミテーションな幻影を抱え、生きてきた。
「でも、もう偽物はいらないもんね~。」
飲み干したマグカップをテーブルに置いた時、スマホが通話を知らせるメロディーを鳴らせた。
スマホを手にした早映子は、見覚えある電話番号を見て固まった。
彼だった。
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