『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』 石飛 幸三/著 | いのちと病の図書室

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医療、病気、介護、死生学等‟いのちと病”に関する書籍の紹介です


講談社文庫 20132月発行(20102月、講談社より単行本発行)


〔目次〕

はじめに

第一章 ホームで起きていたこと
はじめて見た光景/芦花ホーム/数日おきに来る救急車/肺炎の原因/食べられなければ生きていけないはずだった/もう一つの肺炎の原因/過剰な水分と栄養の補給/入所期間の半分を病院で過ごした人/これでは餓死してしまう/一日四〇〇キロカロリー/迷ったが胃瘻を選択/経管栄養では予期せぬことが/迷う家族/家族会/三宅島の言い伝え/世話になった女房/三日で百万円/家族の状況/認知症の姑を抱えたとき/ホームで最期を迎えた方々/デス・エデュケーション

第二章 高齢者には何が起きているのか

人間の一生/老衰/入院検査は必要だったのか/どこまで医療を/認知症/若くして始まる認知症/認知症の方との付き合い方/四季折々の花の写真/骨折/死への時間/死に場所/最期だと思っても後悔したくない/自然死を知らない医者/胃瘻の是非について i一番楽なのは自然死 ii盛んに胃瘻が作られる iiiなぜこうなるのか iv認知症に対する胃瘻は有用なのか/肺水腫/単なる延命処置はもう結構だ

第三章 なぜホームで死ねないのか
ホームで死ねない理由/特養にはなぜ常勤医が居ないのか/常勤配置医が保険診療を行えるようになったら/常勤医が居ない特別養護老人ホームでは/平穏な死に貢献を/介護保険制度との絡み/地獄の沙汰も金次第/尊厳死と事前指示/日本の刑法と平穏死

第四章 私たちがしたこと

I 肺炎を防ぐ 過剰な栄養や水分をあげない できれば、経管栄養はさける 九十五歳、認知症、一日六〇〇キロカロリーで二年間 口腔ケアを推進する/II 職員の意識改革 過去のある日の医務室 萎縮した意識 過保護が生んだモンスター 率先して取り組む 看護師へのしわ寄せ 目標を再認識する/介護士の仕事/鍵を握る相談員/職員の意識を変えた──できれば何もしないで看取る/百二歳の大往生/「看取り介護」調査に関わって感じたこと

第五章 ホームの変化
「何もしない看取り」の実績 i肺炎の減少 ii救急車を呼ぶ回数が減った iiiホームで最期を迎える人が増えた/泣いてご遺体を見送る/ホームで最期を迎えられて幸せでした

第六章 どう生きるか

外科医として働いてきて/責任の取り方 i正当性の証明 ii事態を変えるということ/闘い/がん告知/入舞/いろいろなことがあった人生/現代の神学論争/経管栄養に対する批判/形だけの人命尊重論/安らかな最期を

おわりに

主な参考文献

解説 日野原重明

〔著者について〕

1935年生まれ。血管外科医として活躍した後、2005年より世田谷区立特別養護老人ホーム「芦花ホーム」に常勤配置医として勤務


〔本書について〕

 85歳以上のお年寄りのことを、老年医学では超高齢者と呼んでいる。本書は特別養護老人ホーム(特養)に勤務する医師である著者が、超高齢者が人生の最期を迎える場所において、どのようなケアを受けているかを紹介し、その問題点とあるべき姿について提言を行った本である。


 特養は家庭でのケアが難しくなった高齢者の終の棲家となっており、著者の勤務する特養でも入所者の平均年齢は87.3歳、そのうち認知症が9割となっている。特養では医師の配置が義務付けられているが、非常勤でも可となっていることから、ほとんどの特養では医師が週に2時間ほど特養に来るだけで、著者のような常勤医のいる特養は珍しい存在である。そのため今まで医師から見た特養でのケアの問題点について広く知られることはなかったのだと思う。
 日本では法的な問題もあり、超高齢者が最期の時を迎えようとしていうときでも、延命のための治療が行われてきた。「多くの医師は自然死の姿がどのようなものか知る機会がありません。こう言う私自身、病院で働いていた40年以上の間、自然死がどんなものか知らなかったのです。ホームの配置医になって初めて知ったのです」と述べているとおり、最期を迎える時においてどういうケアが最も適切であるか十分な議論が行われていなかったのである。


 著者は、これまで超高齢者に対して行われてきたケアでの最も大きな問題点として、十分な検討が行われることがなく「胃ろう」の造設が行われてきたことを取り上げている。「胃ろう」は胃と体外のチューブを接続し、そのチューブから栄養補給を行うもので、嚥下障害を抱えるなど口からの食べることが難しい人に対して積極的に「胃ろう」の造設が行われ、本書が書かれた当時(2010年)「胃瘻造設キットが現在日本で年間20万個売れている」とされている。もちろん「胃ろう」を造設することによりその後の回復を得ることが可能な人も存在するのに対して、最期を迎えようとするときに体が栄養を必要としていないのに「胃ろう」によって延命措置となっていた場合も多かったのである。更に著者が指摘しているのは、口から食べると誤嚥性肺炎となる危険が高いために、「胃ろう」を造設した場合でも、やはり誤嚥性肺炎となる可能性は高く、また予期せぬ死亡となる確率は高まるという事実を示し、超高齢者に対する「胃ろう」造設の是非を充分に考えるべきということである。「胃ろう」造設を行うかの選択を迫られる患者・家族には非常に難しい選択であるが、この事実を理解する必要があると思う。

この本もきっかけの一つとなった思うが、その後「胃ろう」造設のあり方が医療界でも大きな問題となり、2014年の診療報酬改定では「胃ろう」造設の病院の収入を引き下げるとともに、「胃ろう」を造設する際に口から食べる能力についての評価を行うことに対して収入が得られる仕組みとし十分な検討がなしに「胃ろう」を造設しない制度に変更している。


 著者はこの本で、「平穏死」という言葉を世に広めた。平穏死について読売新聞インタビューでは次のように述べている。「自分で食べなくなり、点滴も何もしなければ、やがてひたすら眠り続けて、体のよけいな水分がなくなっていきます。そして、きれいな顔になって、いつの間にか大往生。それこそが平穏死です。」解説の日野原医師は、平穏死の英訳として「Peaceful Eternal Life」を提言している。

 今後、超高齢者が大幅に増加することにより、特養や老人ホームなど多くの人が医療機関以外で最期を迎える社会に変化する。著者は最後に「今求められているのは、現代における新しい看取りの文化」であると書いているが、自分や家族が最期を迎えるときに、どこでどういうケアを受けるかが最も望ましいかを一人ひとりが考えなければならない時代となっていく。本書は「安らかな死」を迎えるためにはどうしたらよいかを、よく理解させてくれる本である

 本書は大きな反響を呼び、著者も各地で講演活動を行うなど「平穏死」という考え方を広めてい

る。現在、望ましい人生の最期として無理な延命治療はしないで自然な死を迎えたいという考え方が確実に広がっているようである。


 著者が特養に来てからは、できる限り入所者の人生の最期を特養において看取る方針として多くの人を見送った。そのことによる遺族からの感謝の言葉や介護士の感動や悲しみのエピソードは印象に残るものである。

 また第6章では著者が外科医として活躍をしていた頃の想いを取り上げている。患者の命を救うことができなかったという「十字架の重さは、言葉で言い尽くせないものがあります」といい、「困難を乗り越える方法は、問題を正面から受け止め、断崖に立って闘うことしかないと思う」という、命の重みを真正面から受け止めてきた著者であり、その思いが原点となって、命の尊厳を保った最期を実現させたいという使命を感じているのではないだろうか。