自分らしく生きるレッスン  コーチングで人生の質をあげる! -354ページ目

自分史 大学院時代その2 初めての就職

私は工学分野の大学院修士を修了し東京にある都市ガス会社に
初めての就職をしました。24歳の時でした。

初めてと書くのは、3年弱で退職し紆余曲折の後 メガバンク
に中途採用で入行することになるからです。

この記事では初めての就職前後の自分の気持ちを書いてみます。

今、振り返ると私はこの就職に至るまで真剣に自分が将来何を
していきたいのか? 何を仕事としたいのか? 突き詰めて考え
ることがありませんでした。

工学部での同級生のオーソドックスなパターンは、幼い時からメカ
いじりが大好きでエンジニアになるのが当然と考えるというもの
でした。

私は目先の損得 つまり、受験勉強時の得意科目で理科系を選ぶ
という選択をしていました。

中学生の時には電気工作をしたりしたこともあったので、興味が
無い訳ではなかったのですが、同級生達とは違うという引け目を
感じていた気がします。

また、大学入学の時点では工学部とか理学部とかの選択も不要
だったこともあり本当に漫然としていたと思います。

そして、のんびりとした学生生活を送り社会人の入り口まで
きてしまっていました。

大学院の博士過程に進み工学の学者を目指すという気迫も持て
ませんでしたし、多くの同級生が進むメーカーでの技術者に
なる道も魅力を感じませんでした。

そういう中で就職先として選んだのが都市ガス会社でした。

理科系出身として技術者として就職するのですが、メーカーの
技術者の様に特定の商品・分野で企画・開発をすることよりも

会社運営全体の視野にたって技術系のセンスを活かすという
色合いが濃い就職形態でした。

私は自分に対して、「公共の役に立つことを使命とする企業で
自分を活かす」という大義名分を作っていました。

自分が本当に何をしたいのか? どういうビジョンを描いて
いるのか? を一旦棚上げにして、世間的にも自分にも納得
できる理由をみつけていました。

自分の深いところでは、ざわざわしている何かがあったんで
すが蓋をしていたのだと思います。

そして、このことが後になって 頭をもたげてきました。

(続きは別稿で・・)








自分史 都市ガス会社勤務時代

私は工学分野の大学院修士を修了し東京の都市ガス会社に
初めての就職をしました。24歳の時でした。

  就職前後の様子はこちら
         ↓
  自分史 大学院生時代 (こちらをクリック)

会社に入ってからは社会人1年生として沢山の方にお世話に
なりました。

入社後半年間の研修では、石炭からガスを作る工場、LNG
に水をかけてガスを作る工場、ガス管網を管理する部署、
ガス営業の現場 等でいろいろな体験をさせてもらい
ました。

研修後に配属された部署では、上司・先輩達に恵まれ 活き
活きと働いていました。今 考えると感謝・感謝ですね。

ところが、仕事が順調な一方で 自分のこころがざわついて
くる様になってきました。

「自分はこの会社で何をしていきたのか?」
「何の為に働いているのか?」
「人生は何をする為にあるのか?」

といったことです。

こういう自問自答は入社前にすませておくべきことかも
しれません。

しかし、ここまでの人生で私はこういう自問自答に蓋を
して 目先の損得勘定(有利/不利、困難/簡単 など)に
進路選択の判断軸を委ねてきていました。

そして、自問自答の中で 「弁護士になり困った人に
直接貢献する」という答えを見出したのです。

今考えると、これは「自分がしたいこと」では無く「ひと
から見られた時に立派だと評価されること」だったと
感じます。

しかし、その当時は「理科系出身の知識を活かせる分野で
法的知識を生かし困った人に貢献すること」を自分がした
いことだと理屈を作っていました。

そして、司法試験受験の為に退社をし 塾でアルバイトを
しながらの受験勉強生活に入っていきました。

(続きは別稿で・・・)

自分史 法律勉強時代その1

私は、26歳のときに、司法試験受験の為に東京の都市ガス会社
を退社をし 塾でアルバイトをしながらの受験勉強生活に入り
ました。

 → 都市ガス会社勤務時代(こちらをクリック)

週に3回高校生対象の数学専門塾でアルバイトをしながら、
食事と睡眠以外のすべての時間を法律の勉強にうちこんでいま
した。

今、考えるとあまりに自分を追い込みすぎていました。それが
たたり、過酷な生活をして1年くらい経った頃、心身の不調が
襲ってきました。

それは、神経がすごく敏感になり 音や光が通常の100倍くらい
大きく感じられてしまう、という症状でした。

音で言えば、食器洗いの時にスプーンとお皿が触れ合ってカチャ
カチャする音が 頭の中を轟音をたてて鳴り響くのです。

光も、曇りの日でさえもサングラス無しに外出ができない程
でした。本当にちょっとした光が眩しいんです。

今思うと本当に不思議ですが、本当に私の身に起こったでき
ごとです。

そして、大学病院に行って検査をすることになりました。

その結果、耳にも目にも脳(CTスキャン)にも何の異常も
見つかりませんでした。

年の為、違う大学病院にもいきましたが結果は一緒でした。

病院の先生からは、「特に異常はみつかりません、精神安定剤
を出しますから 様子をみてください。」といわれるばかり
でした。

私は混乱し、さらに大きな不安と絶望感に襲われました。

「自分のこの異常で苦痛な症状は、大学病院に診てもらっても
直る見込みがたたないんだ!何故!」

「ずっとこんな状態が続くのだろうか? 」

「何の為に会社をやめてまで頑張っていたんだろうか?」

「母子家庭で育ててくれた母にも、迷惑をかけてしまって
いる。申し訳無い。」

こんな思いで一杯でした。


本を読もうとしても、この時は不思議なことに本の数行分
が同時に目に飛び込んできて読むことができませんでした。

数行分がいっぺんに絵の様に目に飛び込んでくるのです。

意味をつかみたい一行を選別するという自動的に行って
いる機能がうまく働かない様でした。

しばらく、何もできず家に閉じこもっているしかありません
でした。

(続きは別稿で・・・・)

自分史 法律勉強時代その2

私は、26歳のときに、司法試験受験の為に東京の都市ガス会社
を退社をし 塾でアルバイトをしながらの受験勉強生活に入り
ました。

 → 自分史_都市ガス会社勤務時代 (こちらをクリック)

その後、神経がすごく敏感になり 音や光が通常の100倍くらい
大きく感じられてしまう、という異常な症状に襲われ、家に閉じ
こもり状態になってしましました。

 → 自分史_法律勉強時代その1 (こちらをクリック)

近所の知り合いのそば屋さんが、私の様子を聞きつけ 家に閉じ
こもってばかりだと良くないからうちの店で2~3時間アルバイト
しないかと 声をかけてくれました。

私は、目や耳の症状は相変わらずでしたが 家に閉じこもりきり
の状態から抜け出る為、思い切ってアルバイトを始めました。

仕事の内容は、そば屋さん店内での接客です。お茶を出して、
注文をとり調理場に伝え、調理場から注文の品を配膳する
というものです。

1週間くらい無我夢中で、

「たぬきそば2つとすきやきうどん定食1つ、あとビール1本お願い。
それからたぬきそばの1つは大盛りにして。」

等という注文を聞いて覚えたり、

「すきやきうどん定食の配膳に必要な お皿はどれだっけな?
大きい方か、小さい方か??」と

自問自答して 仕事をしていました。

すると、不思議なことに気がつきました。

アルバイトの行き帰りの道では苦痛な症状はあいかわらず続いて
いるんですが、夢中で接客しているときは症状を感じていない
ことに気がついたんです。

その瞬間 瞬間に集中しているときは、症状を持っている自分
というものから離れていた という感覚ですね。

今 思うと病人状態の私をアルバイトに使ってくれたそば屋さん
には本当に感謝しています。

(症状がこの後、どうなっていったかは 別稿で・・・)

自分史 法律勉強時代その3

私は、26歳のときに、司法試験受験の為に東京の都市ガス会社
を退社をし 塾でアルバイトをしながらの受験勉強生活に入り
ました。

その後、神経がすごく敏感になり 音や光が通常の100倍くらい
大きく感じられてしまう、という異常な症状に襲われ、家に閉じ
こもり状態になってしまいました。

そして近所の知り合いのそば屋さんのご厚意で、アルバイトを
始めることにより 新たな気づきを沢山貰うことになったのです。

     → 自分史_法律勉強時代その2 (こちらをクリック)

毎朝アルバイトに向かう時、商店街を抜けていきます。ちょうど
私が通るころ、八百屋さんや薬屋さんの店主さんがシャッターを
ガラガラッ と大きな音を立て店を開いていました。

そして、お隣の店通しで元気良く「おはよう、今日はいい天気だね!!」
という言葉をかわし 活き活きとお客さんを迎える準備をして
いました。

これを毎朝見て、私は「なんて幸せそうなんだ! うらやましい」と
心から思いました。

私は、いつ直るか分らない、もしかしたらずっと直らない異常な症状
を抱えて、一日一日を辛い思い一杯で過ごしていましたので、本当
に「健康で元気で活き活きしている人」がまぶしかったのです。

それまでの人生で、「商店街の店主の皆さんにうらやましい等と
いう感情を持ったことが無かった。」

「自分は気づかぬうちに、狭い価値観の世界に入り込んでいたん
だな~」「驕っていたのかのしれないな」 と感じました。

そして こういう気づきがあった後、私の心境はだんだんと「もう
このままでもいいや」「この具合の悪い状態でもできる仕事はどん
なものがあるんだろうか?」 と考える様になりました。

こういう風に元に戻ることをあきらめはじめたら、奇跡が起こり
始めました。

(続きは別稿で)

自分史 法律勉強時代その4

私は、26歳のときに、司法試験受験の為に東京の都市ガス会社
を退社をし 塾でアルバイトをしながらの受験勉強生活に入り
ました。

その後、神経がすごく敏感になり 音や光が通常の100倍くらい
大きく感じられてしまう、という異常な症状に襲われ、家に引き
こもり状態になってしまいました。

そして近所の知り合いのそば屋さんのご厚意で、アルバイトを
始めることにより 新たな気づきを沢山貰うことになりました。

 → 自分史_法律勉強時代3(こちらをクリック)

自分の異常な症状につき、直ることをあきらめはじめてから
奇跡が起こりました。

「もういいや このままでも・・」と本気で思いはじめてから、
急に症状が軽くなっていったのです。薬を飲み始めた訳でもないし、
カウンセリング等を受けていた訳でもありません。

私が目に見えぬものに抵抗しなくなってから、戦うのを止めてから
状況が急変した というイメージでしょうか。

そして、ちょうど同じタイミングでそば屋さんのご主人から、

「地域の再開発により大規模ビルへの立替をするので店をしばらく
閉じることになったんだよ。」

という説明があり、アルバイトを終えることになりました。

私の症状は7割方 改善していて、まあまあ普通の状態に近くなって
いました。

もう受験勉強を続ける状態では無いので、リクルート社から発刊さ
れだした Bing という雑誌で中途採用の応募をしました。

当時は景気も良く、大手企業の中途採用募集記事が沢山載って
おり 法律勉強のブランク期間があったのですが メガバンク
の一つに就職が決まりました。

体調は7割くらいの回復で「大丈夫か?」という心配も浮かびまし
たが、こころの深いところからの 後押しをする声を感じ 就職
することに決めました。

(法律勉強時代 終わり)

自分史_銀行員時代_その1

私は心身の異常な状態の回復を待って本調子の7割くらいの状態で
メガバンクの一つに中途採用で就職をすることになりました。

  この経緯こちら →  自分史_法律勉強時代その4


銀行で待っていたのは、その直前まで過ごしていた病気療養生活とは
180度異なる、多忙な厳しい環境でした。

システム企画部署に配属となりました。仕事の内容はシステム利用部署の
ニーズを汲み取りシステム要件として整理・まとめあげて、システム
開発部署に提示・諸調整を行う業務がメインでした。

コンピュータは、学生時代に数値計算やシミュレーションをfortranという
言語(古い!)を使って実施していたくらいで、業務で使うコンピュータ
システムに関わるのは初めてでした。

システム利用部署の業務というのも、短期金利市場という金融マーケット
での取引ですので、当然 これも初めてです。

「うわぁ、大変だなぁ~」
「ここで、自分は務まるんだろうか?」
「目や耳の具合が良くなっていないのに・・・」

というのが実感でした。

それでも、入社した以上はとにかく足手まといになりたくないという気持ち
で必死に働きました。分らないことだらけだったので、かっこつけている
余裕は無く、ひたすら周囲に人に質問をし続けました。

と、いう日々を3ヶ月間程 送っていた時に ふと自分の体調のことを
考えていたら、

直っていたんです。不思議なことに・・・。

本当に不思議でした。何ヶ月か前までは、家に引きこもりに近い状態
だったのが、激務をこなしているうちに 普通の健康状態に直って
いたんです。

最初に「光や音が100倍くらいに感じられる」という状態で大学病院に
いった際に 詳しい検査をしても「目も耳も脳も異常は無い。」と
いうことだったんですが、私は本当に辛い症状を感じていました。

このことを通して、私は 「意識」の重要さ、深い意味合いを身体の
底から実感をしました。

このことを痛切に感じるために、心身の異常な状態が起こったのかも
しれませんが・・・

ざっくりと乱暴に言うと「再現性を持ち、客観的に確認できる範囲
での知見」を科学とすると、

明らかに私はそういう意味での科学を超えた体験を身を持って初めて
味わった劇的な経験でした。


自分史 銀行員時代その2  出社拒否体験 No1

私は会社員(メガバンク)時代、出社拒否を経験しています。

当時の年齢は32歳、中途採用で入った銀行勤めも4年程たち軌道に
のりはじめた頃でした。

10人くらいのチームリーダーとしてシステム開発プロジェクトを
複数抱えて多忙な毎日を過ごしていました。

出社拒否のきっかけは、「恐れ」からくる「不安」でした。

そしてその「不安」が「落ち込み状態」を生み、「不眠」にも
なり さらにそれが「不安」を増幅していくという悪循環に
なっていきました。

では、何を「恐れ」ていたのか?

今考えると「上司や同僚など他人から低い評価をうけ、軽蔑され
ること」を恐れていたんだと思います。

他人からどう思われるかに強く強くフォーカスをしていました。

  - プロジェクトの進捗が遅れている。
  - 会議が活性化せず運営役として力不足である。
  - 部下の管理ができていない。
  - 新しいアイデアを提案していない。

上にあげた様なことを他人から言われることを恐れていました。

上のことを少しでも言われると、自分が厳しく責められている
という実感を強く感じていました。

そして、自分では「上司、同僚、部下 みんなから責められない
様に先に手を打とう打とうとしてもがいていました。」

今、考えると不思議です。 そんなことできっこないのに・・・
周りだってそんなにこなしている人などいないのに・・・

そもそも他人の評価を自分の側がコントロールできるはずが無いし
、指摘されたとしてそれをどう受け止めるかは自分の問題ですから
ね。

「不安」が増幅しはじめると、どんどん視野が狭くなり 恐らく
同僚のアドバイスやフォローも耳に入っていなくなっていったん
だと思います。

目に見えぬ「他人の評価」をモンスターの様に感じ、恐れていま
した。


もし、その当時の悪循環に入りかけた自分に語りかけることが
できたなら 

「君の気持ちは分る。でも少しだけ耳を貸してほしい。責められ
ても軽蔑されてもいいじゃないか? 君が君のできる範囲での
ベストを尽くしていると胸をはって凛としていればいいさ・・」

とでも言ってあげたいと思います。


その時の現実は、悪循環にはまっていきある朝 出社拒否と
いう現実が自分に訪れてしまいました。
(続きは 別稿で・・・)

自分史 銀行員時代その3 出社拒否体験 No2

私は会社員(メガバンク)時代、出社拒否を経験しています。

その1では具合が悪くなっていく時の様子を書きました。
こちらです。
           → 出社拒否経験その1

この記事では出社拒否体験その2として出社できなくなった時の
ことを書きます。

目に見えぬ「他人の評価」をモンスターの様に感じ、恐れから
くる「不安」でうつ状態になっていました。

会社に行けなかった朝のことを実は自分でははっきりと記憶
していないのです。

妻に聞いたところによると状況はこうです。

ある朝、会社に行こうとして荷物を持って玄関に行き靴を履こう
として左足を靴にいれた状態で動きが止まっていたそうです。

右足を靴に入れ様とする意識はあるけれど どうにもならない
。そして「会社に行きたくない」とつぶやいてその場にしゃがみ
込んで泣き出してしまったそうです。

自分では全く覚えていませんでした。

この話を妻から聞いたのは、19年後である 今年2011年5月
です。ライフナビゲータとして活動する為に銀行を退職する
ことを親しい友人夫妻に話をしている時でした。

妻は、私が出社拒否状態になった時に このまま退職すること
になるかもしれないな・・と思っていたそうです。

それから19年も勤め続けたなんて、分らないものですね。

今、思うと本当に目に見えぬ「他人からの評価を気にする
恐れ」が私のこころと身体を覆っていたんだなと感じます。

この後、病院通いをして薬を処方されて家で過ごすことに
よって不眠がとれてきてだんだんと回復していきました。

そして、数週間たち会社への復帰めどがついてきたのです
が、ここからが大変でした・・・

(続きは別稿で・・・)








自分史 銀行員時代その4 出社拒否体験 No3

私は会社員(メガバンク)時代、出社拒否を経験しています。

その1では具合が悪くなっていく時の様子を書きました。
こちらです。
   → 出社拒否経験その1

その2では出社できなくなった当日朝の様子を書きました。
こちらです。
   → 出社拒否経験その2  

この記事では、会社への復帰について書こうと思います。


出社拒否の経験で何が大変かというと、この職場復帰です。

自宅でしばらく過ごし体調が戻ってきた頃、職場復帰を
決意しました。1週間後の月曜日から復帰しますという様な
感じで上司に電話をしたと思います。

この電話をするところまでは順調に不眠や不安は殆ど気に
ならない程度まで落ち着いていたのですが、職場復帰の
3日前くらいから重ーい気持ちになり沈んで行きました。

心身ともに回復しているはずなのに、私のこころの深い部分
では抵抗をはじめたんだと思います。

一般的にメンタル面で長期に休んだ場合の職場復帰は環境を
変えず、元の環境に復帰するのがスムーズと言われています。

ただ、当事者の私とすると 自分がおかしくなっていった
その環境に再び戻ることに、こころが抵抗して大きな不安
を感じていました。

これは大きな壁でした。

そして、何とか職場に復帰したんですが、ここからがまた
大変でした。

当たり前ですが何週間も休んでいたので、私が担当してい
た仕事は他の誰かが引き継いでやってくれていました。

勿論、私が突然長期の休みに入ったところをフォローして
くれた同僚には感謝しました。

2~3日たった頃から、「私には仕事が無い」という状況
に気づき愕然としました。

あんなに身体を壊すまで懸命に働いていたのに、職場は私
がいなくてもきちんとまわっているんです。

いったいなんだったんだろうか。私がちゃんとやらないと
まずい、上司や組織に迷惑をかける、責任を果たさねば
ならない という思いはなんだったんだろうか?

本当に不思議でした。

自分はいったい何と戦っていたんだろうか? 何を恐れて
いたんだろうか?

「一人ずもう」という言葉が浮かびました。

ここから私の「自分らしくのびのびと生きる」ことを模索
する旅がはじまったのです。