★3つの都々古別神社の中でも一番人気がなく雰囲気ある森☆
場所・ 福島県東白河郡棚倉町大字棚倉字馬場39
創建・ 大同2年(807 日本武尊による起源伝承あり
竣工・ 本殿 文禄3年(1594)再建
構造・ 木造 三間社流れ造り 石造明神系鳥居
祭神・ 味すき高彦根命 別名・馬場明神 相殿に日本武尊
社務所・ あり 御朱印あり 日中
例祭・ 9月11日
最終訪問・ 2022.04
*国・重要文化財
福島県南部の中通り地方、棚倉町の住宅街にある神社で、杜がうっそうとして人気がありません
創建としては、第12代・景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に渡り、都々古山に鉾を立てて味すき高彦根命を地主神としてまつったのが創祀とするそうです
その後、大同2年(807)に、坂上田村麻呂が現在の棚倉城跡の地に社殿を造営し、日本武尊を相殿に配祀しました
そして現在地に遷座したのは寛永2年(1625)になるそうです
創祀地とされる建鉾山は5世紀代の東北有数の祭祀遺跡として知られます
規模の大きな神社ですが貸し切り状態
中世からは山岳信仰が入って、修験化し、別当の高松家が管掌しました
建武年間(1334〜1338)からはこの高松家が高野郡北郷一帯の宗教・政治・軍事面を掌握し、同じく南郷を掌握した八槻都々古別神社の八槻家と並行したとされます
明治時代の宮司さん 会津藩家老 時代ですね
近世には代々の領主から社領寄進・社殿造営を受け、寛永2年(1625)には、棚倉藩主の丹羽長重が棚倉城を築城するに際して棚倉城跡から現在地に移築・遷座されています
参道 第一鳥居 住宅街の中の杜
この際に別当・高松家は遷俗して藩の家老となりました
社領は近世初期で363石でありましたが、慶長8年(1603)には150石と半分以下に減りました
参道 ちょうど桜の季節で美しい
明治維新後、明治6年(1873)に近代社格制度において国幣中社に列しました
明治8年(1875)から3年間は、
第二鳥居
会津藩家老を務めた西郷頼母(保科近真)が馬場都々古別神社宮司を務めたことが知られています
戦後は神社本庁の別表神社に列しています
随神門
社殿のうち本殿は、文禄3年(1594)の佐竹義宣による再建とされます
寛永2年(1625)の神社遷座の際に、元々の棚倉城の地から移築されたといいます
三間流れ造りで南面し、屋根は銅板葺き
第三鳥居 拝殿
彫刻がないなど全体に簡素な造りになるほか、東北地方では数少ない桃山期の本殿建築とされます
この本殿は国の重要文化財に指定
なお、本殿背後には「馬場古墳」と称される古墳も
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今回は、福島県南部の中通りの陸奥国一之宮巡りの一環で参拝
3つの「都々古別神社」の中で、一番うっそうとして静かで、人気もなくて雰囲気ある神社でした
一之宮でも今はひっそりとしているところも多いかも
社務所
でもやっぱり一之宮だけあり歴史が古く、古代からの聖地で古墳もあるのですね(古墳と神社ペアあるある)
でも、この地に遷座したのは400年くらい前なんですね
やはり棚倉町の元も城下町で、この神社も藩主とのかかわりが深いのですね
拝殿 唐破風の立派なもの
この辺は初めて来た土地で土地勘もないので、どんな町の成り立ちが多いのかな、と思ったら、石川町も棚倉町も白河市も全部城下町なのですね
この神社の江戸時代の宮司さんも政治に関わっていたことがあるくらいで
ブレました 扁額
現在の宮司さんはとても繊細な方なのか、神社の参拝者が目につく場所に新聞の切り抜きなど情報を貼り出しており、年代的にけっこう年配の方
本殿なのかな
今の世代ならSNSで情報発信するし、新聞とか読んでも切り抜きとかまでして貼る、とかはしなそう(まず新聞は読まない世代)
私はご朱印は頂かないので、宮司さんにお会いすることはありませんでしたが、なかなか個性的な方かも
境内社
それと本殿が国の重文とは、見逃したなあ、、、
こちらでは記念撮影をさせて頂き、参拝をして帰りました
棚倉町のマンホール 北緯37度の通る町
陸奥国の一宮が2つあるのは、やはり2大勢力があったからなのですね
もう1つもこの近くなので、セットで向かいます
一之宮・神社・歴史好きの方にもオススメです♪
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★都々古別神社 3社 参拝
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