★棚倉町に2社ある陸奥国一之宮で2大神社の1つ★
場所・ 福島県東白河郡棚倉町八槻字大宮224
創建・ 弘仁2年(811年)頃の説も
竣工・ 古め
構造・ 木造 石造明神系鳥居
祭神・ 味すき高彦根命 日本武尊 別名・八槻明神・近津明神
社務所・ あり 御朱印あり 日中
祭礼・ 12月第二土曜・日曜(霜月大祭) 御田植祭 (旧暦1月6日)
最終訪問・ 2022.04
*国・重要無形民俗文化財
福島県南部、中通り地方の棚倉町に2つある一之宮の1つで、こちらの方がメジャーで県外からの参拝客もいました
こちらも規模の大きなメジャーな神社
創建は、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際に、日本武尊を守護した3神が建鉾山に隠れたので、尊は東方に矢を放ち矢の着いた地に神社を創建したといいます
真冬に行われる祭り さすが太平洋側
そして源義家が奥州討伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝わります
第一鳥居 Pもこの前にあり
地名の「八槻」の語源伝承は「陸奥国風土記」にも見え、日本武尊が東夷討伐の際に放った八目鳴金筒が落ちた地が「矢着」と称されましたが、
境内
神亀3年(726)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので、「八槻」になったともいいます(土蜘蛛という言い方が悲しいなあ、しかも処刑)
随神門 関東の影響か赤くて派手
これらは、陸奥勢力の大和勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して説明したものとされます
なお、前述のように弘仁2年(811)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もあります
中世からは、馬場の方と同じく、山岳信仰が入って修験化し、別当の八槻家が管掌しました
この八槻は高野郡南郷一帯を掌握し、同じく北郷を掌握した馬場都々古別神社別当の高松家と並行したとされます
境内 社務所
近世には領主からの崇拝を受けて社領寄進・社殿造営があり、慶長9年(1604)の文書によると神領高は200石ありました
社務所 石倉
明治維新後、近代社格制度では当初・郷社に列しましたが、明治18年(1885)4月に国幣中社に昇格
境内
明治の神仏分離に際して境内の仏教系堂宇は廃されましたが、別当の八槻家は継続して神職を担っています
戦後は神社本庁の別表神社に列しています
*
こちらが3社の〆となる「八槻 都々古別神社」で、茨城の近津の方を入れなければ、福島県内で一番南にある「都々古別神社」です
境内 狛犬 子連れ
3つの神社の中でも、こちらは赤い社殿が印象的で、「大明神」時代の名残か、仏教系の名残か
こちらも県外ナンバーや子連れの参拝者もおり、有名な一般的に観光で来るような神社のようです
大きな神社で、この辺りの初詣や七五三などもにぎわうのでしょうね
境内 玉乗り狛犬
仏教の歴史を感じられるような赤い山門も彫刻が素晴らしく、色合いも派手で、関東ぽい雰囲気を感じます
境内にあるこま犬が個性的で、写真を撮っているおじさんも
拝殿 唐破風の立派なもの
社殿も大きく立派で、さすがは一之宮
唐破風のあたりは馬場の方と共通ですね
幹線道路ぽいところに面しているので、馬場ほど静かではありません
拝殿 馬場の方と造りが似ている
拝殿の背後にある本殿が重文で、こちらも赤く塗られ、彫刻も鮮やかに塗られ、やはり関東の神社ぽい雰囲気を感じます
拝殿 扁額
お寺の文化が入ってきているのがあるのでしょうが、やはりもうすぐ南は関東に接している影響もあり、徳川家の影響も大きいのでは
福島県の重要文化財の本殿
それと、戦争の歴史から日本の歴史もできていて、それが神社の成り立ちにも関わっている辺りが少し辛いです
討ったとか源氏とか討伐とか戦争ですよね
本殿 背後にも立派なものが
この土地の首長さんを矢で亡き者にしたという話も聞いていて聖地なのに辛いです
神社の伝承にはそういうのが多いけど、、、8人の魂を罪滅ぼしに祀っているのでしょうか
本殿 彫刻も素晴らしい
こちらの祭神も、この神社独自の神様で、そこに中央の神様が一緒に祀られていますね
この後、いろんなラッキーが重なり、さすがは3つの素敵な
本殿 繊細な彫刻が見もの
神社様にお参りしただけの3つのラッキーが起きました
やはりその土地の神様に参拝をすると、その土地にいる間に奇跡や御利益を届けて下さるのですね
境内社 うっそうと埋もれている
まあ、現代の私への影響はこんな感じなので、ありがたい神様でした
無事に3つの都々古別神社へ参拝できて良かったです
これで福島県の一之宮は、「伊佐須美神社」も含めて制覇
一之宮・神社・歴史好きの方にもオススメです♪
*
★都々古別神社 3社 参拝 福島県の一之宮勢ぞろい
★東北の一之宮