talk show -9ページ目

終末の唄_046

「今夜は、あんたが犠牲者なのかい?」

 ライオンのバーテンダーが、言った。

「犠牲者?」

「そう」彼はふっと鼻で小さく笑って、言う。

「彼女、セクシーだろう? あの顔に、あの身体。
 柔らかい膨らみの上の、十字架のタトゥーがまた、たまらない。
 股間をぎゅっとするのも、これまた、たまらない。
 でも、デキないよ? 残念ながらね。
 いいところまでいって、そこで、我々の欲望はピークを迎える。けれどそれは、ある瞬間、無惨にも行き場をなくして、夢と散るのでした」

 バーテンダーはトイレの方をちらっと見て、マリリンがまだ出てこないことを確かめてから、続ける。

「彼女ね――いや、オレはほかのだれかに聞いただけなんだけれどさ――、ベッドに入って、さあってところになると、そこで急にひとがかわるんだって。
 自分の方から誘ってきといてさ、そんなことおかまいなしに、モウレツに怒りだして、ぼこぼこにされるんだとさ。
 そして、『サイテー』って捨てぜりふをはいて、部屋から出ていくんだってさ。
 この店の客なんか、みんな一度は犠牲になってるんだよ?」

「そうなんですか」とぼくは、言った。
 
 そうか、きっと危険を感じると、アリスの本能が働いて、また人格が入れかわるんだな。

「気をつけた方がいいよ? あんたも」そう言うと、彼はぼくにウインクした。

「ありがとう」

 それにしても、今日はなんだか長い一日だったな、とぼくは思う。
 クリニックでチェン先生に新しいメソッドを受けて、そして月兎やマリリンにこうして会って、もう時刻は午後十時を過ぎている。
 ひどく喉が乾いたな。
 何でもいいから、喉の奥を潤したかった。だからぼくは、飲めないはずの目の前のカクテルを、一口飲んだ。マリリンが言ったとおり、それはただのオレンジジュースのように思えた。
 わりと美味いじゃないか。
 ぼくはもうあとさきのことは考えずに、残りを一気に飲み干した。

 マリリンはまだトイレから戻ってこない。
 ぼくは、さっき見たマリリンの胸の十字架の刺青のことをぼんやりと考えていた。
 そして、以前に校正したことのある、刺青についての原稿のことをふと思い出した。

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 刺青とはそもそも、肌に消えない色料を刺し入れて、独特な絵柄を彫りつけるボディーデコレーションのことだ。
 世界中の各々の部族、民族により、独特の絵柄とスタイルが伝承され、受け継がれている。
 部族的な絵柄は、周囲の物事に基づいた象徴的な図が多い。
 装飾の為、あるいは宗教に関係して象徴を示したり、その他、信仰や恐れを示す為であった。
 また、霊と病に対する魔術的な防御という意味を持つこともあった。

 世界共通の絵柄も存在する。
 十字がそれだ。
 北アフリカで悪魔の邪眼に対するお守りとして、琉球諸島でマルタ十字に似た絵柄が女性の装飾柄として使われていた。
 パラグアイのアビポネ族は、部族の印として額に描き、ミクロネシアのギルバート諸島や、ヨーロッパの十字軍においても描かれていた。

 この十字が世界各国に数多く存在するのは、まさに〈十字〉という絵柄自体が、人間そのものを示している為だ――

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 そんな原稿を思い出していると、さっき飲んだカクテルの中のウォッカが、身体中の血管を駆けずりまわりはじめた。
 顔がほてり、鼓動がどんどん早くなってくるのがわかる。
 壁面の緑色の水が、真っ赤な血になって、動脈を逆流している。
 そして、なんとも心地よくなってきて、このまま眠りに落ちそうになる。

 しまった。ただでさえ眠いのに、アルコールのせいで、さらに眠気を助長してしまったのだ。
 ぼくはまた、このまま睡魔に負けてしまうのだろうか?
 〈銀色の男〉に、ぼくの夢をむざむざと差し出してしまうのだろうか?

 そのときふと、チェン先生の顔が浮かんできた。

 そうだ、たとえ眠ってしまうにしても、ただでは眠らないぞ。
 ぼくの夢を、みるんだ

 ディシプリン、ディシプリン。

 ぼくの夢は、決して〈銀色の男〉のものではないんだ。
 ヤツに負けない夢を、みるんだ。
 ヤツと、戦う夢を――。

To be continued.

終末の唄_045

 店には、まだ時刻が早いせいか、ぼくら以外には客はひとりもいなかった。
 そして、エアコンディショナーが適切に設定されていないせいで、少し蒸し暑かった。
 その暑さが、彼女の赤いダッフルコートと赤い手袋をしぜんととらせた。
 天井にぶら下がっているJBLのスピーカーからは、チャーリー・パーカーのナンバーが静かに流れている。

「大丈夫よ? ただのオレンジジュースみたいなもんだから。
 ところで、アータも、あのクリニックの患者さんなの?」

「ええ、そうです。あのクリニックのクランケ」

「それじゃあ、アリスとはしりあい?」

「いいえ。何度か、バスなんかで顔を合わせたことがあるだけです。
 ただ、あなたに会う前に、月兎さんにはじめて会って、彼からアリスの友だちになってやってくれって、頼まれたところです」

「そうなんだ? それじゃあ、もう彼から、わたしたちのことは、だいたいのところ聞いてるんだ?」

「ええ、まあ。だいたいのところ、は」とぼくは、言った。

「それなら話が早いわ。わたしはね、ひとにいちいちまどろっこしい説明するのって、すっごく苦手なの。
 よかったわ、手間が省けて。
 あ、わたし、マリリンっていうの。
 こう見えても、じつはストリッパーなのよ? よ・ろ・し・く」

 マリリンはぼくの腕に胸を押しつけて、また股間をぎゅっと掴んだ。
 彼女は、胸元が深く切り取られた淡いピンクのセーターを着ていて、その隙間からぼくの腕に押し上げられた彼女の胸の谷間がちらりと見えた。
 キュートな顔に不釣り合いなその豊かな膨らみの上には、何かの模様が描かれていた。
 それは、十字架の刺青だった。

「お待たせしました」

 バーテンダーが、きゅうりの輪切りのイラストがデザインされたコースターをぼくらの前に並べて、その上にそれぞれ注文されたカクテルを置いた。
 マリリンは細くて長い指の間に、Y字の華奢なグラスを挟んだ。
 そして、細いすらっとした左足を高くあげてから、その足を右足の上に組んだ。とてもカタチのいい足だ。
 ぼくの方のグラスは、縁にダイヤカットのオレンジがさしてあったけれど、まったく平凡なカタチのグラスだ。

「それじゃあ、ふたりの巡り逢いに、あらためて乾杯しましょう?」

 マリリンはグラスを持った右腕を、顔の辺りにかざした。
 すると、彼女は、彼女自身に起こっている異変に気づき、その乾杯は保留されてしまった。

「え? 何? この臭い? イヤだ、わたしの手から臭ってくるじゃない。何でこんなにすっぱいの?」

「ああ、そういえば、さっき月兎さんと回転寿司を食べにいったんだけど、彼はお箸を使わずに、全部手で食べていたよ?」とぼくは、言った。

「何考えてんのよ、あいつ。
 はっ、まさか――」

 マリリンはたすき掛けしている小さなポーチから、がさごそとあわてて手鏡を取り出した。

「何なのよ、この顔は!」

 マリリンは、店中に響き渡るようなきいきい声をあげた。

「お化粧も全部取れちゃって、めちゃくちゃじゃないの!
 いままでわたしは、こんなみっともない顔でバスに乗ったり、通りを歩いたりしていたわけ?
 恥ずかしいったりゃありゃしない!
 だいたいこのヘアスタイル、なんとかならないのかしら。ぜんぜんセクシーじゃないし、もうサイテー」

 ひとしきり騒ぎたてると、マリリンはものすごい勢いでトイレへ駆け込んでしまった。
 ぼくはただ、唖然としていた。
 アリスのあのおかっぱ頭は、アリス以外のほかの住人にはとても不評みたいだ。

To be continued.

終末の唄_044

 月兎が眠りから覚めると、べつの人格に入れかわっていた

「あーら、アータ、かわいいわねえ」

 ぼくに起こされた彼女は、ぼくを見るなり、そう言った。
 そしてぼくの股間をぎゅっと掴んだ。
 ぼくは驚いてすぐにその手を払いのけたけれど、アリスのキュートな顔でそんなことをされると、下半身は勝手に硬く固まってしまった。

「次、G市駅ですよ。降りるバス停でしょう?」

 ぼくはどぎまぎしながら、言った。

「うーん、そのようね」彼女は窓の外の風景を確かめて、言った。

「アータも、次で降りなさいよ」

「いや、ぼくはもっと先で降りますから」

 バスが彼女の降りるG市駅のターミナルに止まる。

「いいじゃないのよ。
 わたし、この近くにいい店しってるんだ。ねえ、いっしょに飲み直そうよ。ちょっとくらいいいでしょ?
 さあ、降りて、降りて」

 彼女はなかば強引にぼくの腕を引いて、いっしょにバスから引きずり降ろした。
 そしてそのまま、ぼくの腕に自分の腕を絡めたまま、雑居ビルが密集しているあやしい光が瞬く方へと歩きだしたのだ。
 何だか、妙なことに巻き込まれてしまったな、とぼくは思った。


 少しばかり路地裏を歩いていくと、「キューカン・バー」という小さな看板がかかったバーの入口があった。
 キューカンバー? きゅうり?

「ここよ」

 彼女はぼくの腕を引いて、地下への階段を下りた。
 英語の言い回しに、「きゅうりのようにクールだ」というのがあるけれど、この店はぜんぜんクールじゃなかった。
 床には――確かにきゅうりのような――緑色のふわふわとした毛並みの絨毯が敷かれていて、壁面に張られたガラスには――確かにきゅうりの組織が水分を吸収している様子を思わせるような――緑色のライトに照らされた水が壁を流れ落ちる仕掛けが施されている。
 けれど、どこか居心地の悪い空間だ。
 ぼくと彼女は猫の背中を歩くように、その緑色の絨毯の上をそろりそろりと歩いて、奥のカウンター席に座った。

「いらっしゃいませ」

 スチール製のカウンターに肘をついて、とにかく落ち着こうと思っていると、バーテンダーがやってきた。
 白いシャツに、ゴールドのベストを着て、金色の髪をワックスでつんつんと立たせたライオンのようなバーテンダーだ。
 彼は何か意味ありげな顔で、ぼくに目配せをした――ように、ぼくには思えた。
 けれどそのときにはまだ、彼が何を言いたいのかわからなかった。

「ご注文は?」と彼は、言った。

「アータ、何にする?」と彼女がぼくに、訊いた。

「ぼくは、飲めないんだ。だから――」

「それじゃあ、わたしが選んであげるわ」

 彼女はぼくの言葉を遮って、バーテンダーに注文した。

「彼には、スクリュードライバー。わたしには、サイドカーを、お願い」

「かしこまりました」

 バーテンダーは目を伏せて、言った。

To be continued.