talk show -8ページ目

終末の唄_049

 やがて、ふたりを乗せたクルマは、高速道路の入口にさしかかる。
 料金所で、津川刑事はズボンのポケットからじゃらじゃらと小銭をかき集めて、料金を払った。
 高速道路に入り、次第に道路が高架になると、さっきまで目の前に浮かんでいた月は、少し左手に動いていた。

「次のサービスエリアで、ちょっとクルマ止めていいっスか?
 何だか、喉乾いちゃって。缶コーヒーでも買ってきます」と津川刑事が、言った。

「おいおい、ばかやろう。そんなモン、身体に悪いだけだぞ。
 喉乾いたんだったら、アタシのコーヒー、やるよ」

 そう言うと、真栄田刑事は後部座席に置いてあったカバンを取り上げて、中から古いステンレス製の魔法瓶を取り出した。
 そして蓋をくるくると回し、それをコップにして、コーヒーを注いだ。
 一瞬にして、芳醇な香りと、白い湯気が、狭い車内に広がった。

「ほれ、飲んでみ?」

 真栄田刑事は、こぼさないように静かにコップを差し出した。

「あれ、すいません。そいじゃ、遠慮なくいただきます」

 津川刑事は鼻を寄せて何度か香りを匂ったあと、ずずっと音をたてて真栄田刑事が入れてくれたコーヒーを啜った。

「あーれ? こりゃうまい。ほんと。
 何て言うのかな、こう、喉に引っかかりがぜんぜんないっスね」

「あったりまえだ。アタシが煎れたんだからな」

「へえー、おやじさん、そんな特技があったんっスね」

「コーヒーってヤツはね、そりゃあデリケートでね。
 煎れるひとの、その日の体調や、天候によっても味が微妙に変わるんだ。それほど繊細で、深遠なんだな。
 豆は、むかしっからつきあいのあるコーヒー専門店で、わざわざアタシ用にローストしたヤツを買ってるんだ。それを毎朝、天秤に分銅をのせて計り、ミルで丁寧に挽く。
 そのとき流す音楽は、いつもジャズと決めている。
 水にもたいそう、こだわる。田舎の井戸で汲んだ水をペットボトルに詰めて、知り合いにわざわざ送ってもらってるんだ。この井戸水でコーヒーを煎れるとね、不思議なことに、まろやかさがぜんぜん違ってくるんだよ。
 その井戸水を琺瑯製のドリップポットに入れて沸かし、沸騰してもそのあと少しの間そのままにして、八十度くらいまでさますんだ。
 さて、お湯を注ぐときも、ただじゃぼじゃぼ注ぐだけじゃあだめなんだ。ポットの長くて細い口先から、何回かにわけて、ゆっくり時間をかけて入れるんだ。
 そして、この一連の行程が万事うまくいくと、豆さんがよう、気持ちよくって思わずため息を出しちまうみたいに、豆の中に詰まったうまい成分がじっくりと抽出されてくるってすんぽうよ」

「そうすると、こんなにうまいコーヒーができあがるんっスね?」

 津川刑事はそう言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干した。

「そのとおり」

 真栄田刑事は津川刑事の手からコップを奪い、次に自分の分のコーヒーを注いだ。

「これはもう、アタシにとっちゃあ、何十年も続いている、毎朝欠かすことのできない、いわば儀式のようなものになっちまってるんだ。
 そして、アタシのコーヒーを携帯するには、このポットでなけりゃあならない。
 この、〝魔法瓶〟って名前がよ、なんてったっていいじゃないか。魔法の、瓶。
 そうさね、コーヒーってヤツは、まるで魔法がかかったみたいに、不思議な飲み物なんだよな」」

To be continued.

終末の唄_048

「でも、残念ながらこの少年には、このかあちゃんの痛みが伝わらなかったんだな」

 真栄田刑事は煙を吐きながら、言った。

「まあこれで、このかあちゃんは楽になったさ。もう息子のつらさを思って、苦しまなくてもよくなったんだからな」

「そのかわり、あの少年は、これから先、背中に重い十字架を背負って生きていくわけっスね?」と津川刑事が、言った。

「そうだな。ほんとそれくらい、あの少年が後悔してくれればいいんだけどねえ。
 ほら、聞いたかい? 逮捕されたときの、少年のことば」

「ええ。聞きましたよ。
 『せいせいした』、ですよね?」

 真栄田刑事は無言で頷いた。

「それ聞いたとき、マジぞっとしたっスよ」

 と、津川刑事が表情を強ばらせて、言った。そして目が痛くなるようなマルチストライプ柄のネクタイの首もとを緩めた。

「そうなんだ。アタシャね、犯罪を犯したことも、そりゃあ恐ろしいことだと思うよ?
 だけど、そのあとに、何にも感じない、罪悪感のかけらもない、そのこころの有り様の方が、もっと、ずっと、恐ろしいんだよ」

 真栄田のことばはタバコの煙とともに、そのまま闇の中にすうっと吸い込まれていった。
 そしてしばらくの間、車内にはエンジンの音だけが低く響いていた。

人間って、何なんですかねえ?」と津川が再び、呟いた。

「さあてね。何なんでしょうかねえ」

 真栄田は右手で帽子を少し持ち上げ、薄くなった頭頂部を左手で掻いた。
 そして、しばらく何かを考えてから、言う。

「『生き物』っていうのは、”いきるもの”って、書くだろう? つまり、生き物ってのは、本来、生きるために生きているんだ。ただ純粋に、な」

「はあ」と津川刑事があいまいに、答える。

「言い換えれば、生き物は、<生きること>そのものが、<生きる目的>になっているんだよ。
 だけど人間はよ、そうじゃない。
 <生きること>は、ただあたりまえのことなんだ。当然のこと。
 つまり、ただの条件になっているんだな。そして<生きる目的>は、それぞれみんな、ほかにあるんだ。
 もちろん、例外はあるよ? 戦時中の人々や、闘病中のひとたちは、純粋に<生きること>が<生きる目的>であるはずだからね。
 だけどアタシたちみたいな大方の人間は、そうじゃない。純粋じゃないんだ。
 
 それでも、目的に向かってがんばっているときはいいんだ。充実しているからね。
 だけど、挫折し、絶望し、生きる目的を失ったときは、こいつはまずい。
 目的がなければ、条件も自ずと必要ではなくなっちまうからね。
 そうなると、生きてる意味をなくして、命を軽んじてしまうんだな。
 軽くなった命なんざあ、自分のだろうが、他人のだろうが、同じなんだ。どうでもよくなる。
 そしてついには、〝痛み〟を感じなくなり、何も〝想像〟できなくなっちまうんだ。
 そいつが、怖いんだ。

 まあ、ほかの生き物より、ちょこっとばかり知恵をもっちまったばっかりに、人間は神に呪われちまったんだろうなあ」

 真栄田刑事は、フロントガラスを流れては消える光の群れを、遠い目で見つめていた。
 津川刑事は、ただ黙ったまま、運転を続けている。

「やあ、やっぱ、まだちょっと冷えるな」

 真栄田刑事はそう言うとコートの襟を立て、短くなったタバコを灰皿で揉み消して、ウインドウを閉めた。
 すると再び、ふたりの間に沈黙が訪れる。
 そして、ときどき聞こえてくる無線のひび割れた声以外には、もう何も聞こえてはこない。

To be continued.

終末の唄_047

♯10

「――しっかし、疲れたっスねえ」

 津川刑事のその呟きは、真栄田刑事にはただのため息のように聞こえる。

「ああ。まったくな。
 ようカズ、運転、大丈夫か?」

「ええ、大丈夫っスよ。これくらい。自分はまだ若いっスからね」

 真栄田刑事と津川刑事は、空いた夜のバイパスの上にいた。
 中学生母親殺しの事件現場から署に戻るために、クルマを走らせているところだった。
 事件現場を出発してからの相当長い時間、クルマの中には重い沈黙が横たわっていて、その沈黙を破ったのが、いまの津川の言葉だったのだ。

「でも、考えれば考えるほど、やりきれない事件っスよね。
 中学生の少年が、母親を刺し殺すなんて」と津川が、言った。

「まったくだよな。どうかしちまってるよう」と真栄田が、言った。

 ふたりを乗せたクルマは、空の低いところに浮かんでいる白い大きな月に向かって走っている。

「少年は、学校でいじめにあってて、それで、もう学校へはいきたくないと言って、その母親と口論になった。
 それはわかりますよ? 親ともめるなんて、この年頃なら日常茶飯事ですからね。
 でも、だからって、何ですぐに母親をハサミなんかで刺し殺すわけ? 何でそんなに短絡的になれるんっスか?」

 と、津川刑事が声を震わせて、吐き捨てた。
 対向車がハイビームのまま近づいてくる。
 津川刑事は眩しさに目を細めながら、もっていきどころのない怒りをそのクルマにぶつけるように、何度も激しくパッシングしかえした。

〝痛み〟と〝想像〟というヤツが、だんだんとわからなくなってきちまってるんだな

 真栄田刑事がぽつんと、言った。

「なるほど、いじめられてるのはその少年であって、かわいそうに、当人もそれなりに毎日つらい思いをしていたんだろうさ。そりゃあわかるよ。
 ほんとうはだれだって、『無理してそんなにつらい思いしなくていいよ、もう学校へなんか、いかなくったっていいよ』って、同情的に言えたら楽さね。
 だけどよ、そうじゃないんだ。逃げてちゃなんにもならないんだよ。
 その点、このかあちゃんは偉かった。
 その甘っちょろい思いに負けないで、息子といっしょに戦おうとしたんだ。ここで負けたら、息子が登校拒否児になっちまったら、これから先の息子の人生に申しわけがたたないって、ぐっと踏ん張ったんだよ。じつに偉いよ。
 アタシャこのかあちゃん、ほんとうは、すっごくつらかったんだと思うよ?
 考えてもみなよ。自分の腹を痛めて、いろんな困難を乗り越えて、やっとここまで育ててきた息子がよう、学校で集団でもって、陰惨ないじめにあっているとわかったら、親っていうのは、そりゃ身を切るようにつらいもんだぜ? 自分が身代わりになってでも、守りたいって思うもんだぜ? それが親ってもんだよ。
 いったいどこの親がよう、息子が憎くって無理矢理にでも学校へいけなんて言うもんかよ。涙がでるよ」

 そう言うと、真栄田刑事はウインドウを少し開け、タバコに火をつけた。
 ウインドウの少しの隙間から、ひゅるるという音をたてながらまだ肌寒い風が吹き込んできた。

To be continued.