talk show -27ページ目
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終末の唄_002

「それで――、どうしたんだっけ?」
 かをりはあらためて訊き直した。
「つまり――」
 ぼくは仕方なく、そのチケットのようなものについて、二度目の説明をはじめた。
「ここ何週間か、ぼくはとても膨大で、やっかいな原稿の校正にかかりっきりになっていたんだ。その本は専門用語だらけの――おまけにその文章の途中には、何桁もの数字や、見たこともない記号や式が、唐突に遠慮なしにちりばめられていて、まったく何度目の奥が痛くなったことか――とても難解で、意味不明で、おそろしく眠気を誘う物理学か何かの研究書だったんだ。

 そのことについては、きみにも何度か、愚痴ったよね?」
「ええ、そうね。そうだったわ」
「それがちょうど、今日締切だったんで、昨夜は追い込みでとうとう徹夜になっちゃったんだ。

 それでも何とか夜明けまでには校了させることができて、さっきその原稿をある印刷会社に届けにいってきたところなんだ」
「それはよかった、よかった。でも、あなたにそんな大仕事を任せるなんて、会社もちゃんとあなたのことをちからのある校正士だって、認めているわけだ。さすがわたしが推薦して、我が社に中途入社させただけのことはあるわ。それで?」
「そのあとぼくは、ひと仕事を終えた心地よい充実感と開放感を味わいながら、何か本でも読もうと思って――いや、膨大な原稿の校正をやっと終わらせたところで、普通ならもうしばらく文字は見たくないって思うかもしれないけれど、そんなことはなくて、自分のために文字を追うことはまたぜんぜん気分が違うことなんだ――紀伊国屋へいって、何冊かの本と、雑誌を買ったんだ」
 ぼくはテーブルの上の、原稿がなくなって薄っぺらになったバックの上に重ねて置いた紀伊国屋の袋を指さした。
「それから、きみとの待ち合わせ場所であるこの店に向かうために、ぼくはG市駅でJRを降りてターミナルを歩いていたんだ。

 その途中で、病院の事務員のような恰好をした女のひとが、街頭でそのチケットを配っていたんだよ」
「ふうん」
 かをりはもう一度、そのブルーのチケットを上からみたり、下からみたり、裏表をひっくり返してみたりして、じっくりと眺めた。
 それは横15センチ、縦5センチくらいの大きさで、紙質は鮮やかなブルーのつるっとした光沢のあるコート紙だった。そこに小さく白ヌキのローマ字で〈Ticket〉とだけ書かれている。ほかには何も書かれていない。日にちも、時間も、何のチケットなのかも、何もない。ただ横幅の三分の一あたりに、半券を切り取るためのミシン目が入っているだけだ。
「それで、結局、これはいったい何のチケットなのかしら?」
 かをりは右の人差し指と中指との間にそのチケットを挟んで、それをひらひらさせながら、言った。


To be continued.

終末の唄_001


 ♯00


「『ソウルトレーン』が好きなんだ」
 宙に浮かんだ音符を指すように、ぼくは左手の人差し指を上に向けた。右手には水の入った大きめのゴブレットを握っている。その澄んだ水の表面には、薄暗くどんよりと曇った夕空を、幾何学模様を描くように飛んでいるコウモリのシルエットが浮かんでいる。
「そう、ジョン・コルトレーンの数あるすばらしい演奏の中でも、とりわけね」
「――そうなの?」
 ぼくの向かい側に座っているかをりは、アルミ製の丸いテーブルの上で両腕を組んで、ぼんやりとしたままテンポ遅れの返事を返してきた。
「マイルス・デイヴィス・クインテットに採用された頃の彼の演奏は、まだ少々ぎこちなく、聴いていて、どこか迷いが感じ取られるような、そんな演奏だったんだ。

 それが、セロニアス・モンクのバンドで音楽理論を学んでからというもの、彼の演奏はじつにスムースで、揺るぎなく、強固な構築物を思わせるように確実で――そこら辺が、成り行きで演奏する、彼と同時期に活躍したソニー・ロリンズなんかとは決定的に違うところなんだろうけれど――、自信と確信に満ちたものにかわっていったんだ。

 つまり、彼はとうとう、自分のスタイルというものを確立したんだね。そしてこのアルバムは、ちょうどその時期の演奏をおさめた傑作、というわけなのさ」
 ぼくはそこで、ゴブレットの水をコウモリごと一口飲んだ。
「まあ、こんなふうに偉そうなことを言っても、じつはぜんぶ、何かの解説書の受け売りなんだけれどね。でも、ほら、いま流れている『グッド・ベイト』――タッド・ダメロンとカウント・ベイシーが作曲したんだ――なんかを聴けば、この演奏の中に、それまでの彼にはない、驚くほどのユーモアとくつろぎが満ちているということが、きみにもなんとなくわかってもらえると思うんだ。

 たとえるなら――そうだな、何か大きな困難にぶつかったあとに、何とかそれを克服して、ようやくすべてがうまく流れだした――そんな安堵感みたいなものが、感じ取れると思うんだけれど?」
「ふうん」
 かをりはカフェテラスのスピーカーから聞こえてくる音楽に少しは耳を傾けたようだけれど、それでもあくまで関心なさげだ。
「――で、このチケット、いったい何なの?」
 彼女は話題をかえるためにグラスの氷をストローで鐘のようにカラリンと鳴らしたあと、テーブルの上に置いてあった小さなブルーのブックマーカーのようなチケットを自分の手に取って、そう訊いた。
「だから――」ぼくは幾分不満げに、言い返す。「いままでひとの話をぜんぜん聞いてなかったのかい? それについては、ついさっき話したところじゃないか」
「ごめん、ごめん。悪かったわ。ちょっと、考えごとしてたもんだから」

 かをりはそう言うと、前髪を掻き上げ、黄金色のアップルタイザーを一口飲んだ。少しも反省しているようではない。ただ、彼女にしてはめずらしく、少し何かに疲れているように見えた。


To be continued.

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