終末の唄_001
♯00
「『ソウルトレーン』が好きなんだ」
宙に浮かんだ音符を指すように、ぼくは左手の人差し指を上に向けた。右手には水の入った大きめのゴブレットを握っている。その澄んだ水の表面には、薄暗くどんよりと曇った夕空を、幾何学模様を描くように飛んでいるコウモリのシルエットが浮かんでいる。
「そう、ジョン・コルトレーンの数あるすばらしい演奏の中でも、とりわけね」
「――そうなの?」
ぼくの向かい側に座っているかをりは、アルミ製の丸いテーブルの上で両腕を組んで、ぼんやりとしたままテンポ遅れの返事を返してきた。
「マイルス・デイヴィス・クインテットに採用された頃の彼の演奏は、まだ少々ぎこちなく、聴いていて、どこか迷いが感じ取られるような、そんな演奏だったんだ。
それが、セロニアス・モンクのバンドで音楽理論を学んでからというもの、彼の演奏はじつにスムースで、揺るぎなく、強固な構築物を思わせるように確実で――そこら辺が、成り行きで演奏する、彼と同時期に活躍したソニー・ロリンズなんかとは決定的に違うところなんだろうけれど――、自信と確信に満ちたものにかわっていったんだ。
つまり、彼はとうとう、自分のスタイルというものを確立したんだね。そしてこのアルバムは、ちょうどその時期の演奏をおさめた傑作、というわけなのさ」
ぼくはそこで、ゴブレットの水をコウモリごと一口飲んだ。
「まあ、こんなふうに偉そうなことを言っても、じつはぜんぶ、何かの解説書の受け売りなんだけれどね。でも、ほら、いま流れている『グッド・ベイト』――タッド・ダメロンとカウント・ベイシーが作曲したんだ――なんかを聴けば、この演奏の中に、それまでの彼にはない、驚くほどのユーモアとくつろぎが満ちているということが、きみにもなんとなくわかってもらえると思うんだ。
たとえるなら――そうだな、何か大きな困難にぶつかったあとに、何とかそれを克服して、ようやくすべてがうまく流れだした――そんな安堵感みたいなものが、感じ取れると思うんだけれど?」
「ふうん」
かをりはカフェテラスのスピーカーから聞こえてくる音楽に少しは耳を傾けたようだけれど、それでもあくまで関心なさげだ。
「――で、このチケット、いったい何なの?」
彼女は話題をかえるためにグラスの氷をストローで鐘のようにカラリンと鳴らしたあと、テーブルの上に置いてあった小さなブルーのブックマーカーのようなチケットを自分の手に取って、そう訊いた。
「だから――」ぼくは幾分不満げに、言い返す。「いままでひとの話をぜんぜん聞いてなかったのかい? それについては、ついさっき話したところじゃないか」
「ごめん、ごめん。悪かったわ。ちょっと、考えごとしてたもんだから」
かをりはそう言うと、前髪を掻き上げ、黄金色のアップルタイザーを一口飲んだ。少しも反省しているようではない。ただ、彼女にしてはめずらしく、少し何かに疲れているように見えた。
To be continued.