終末の唄_009
窓に顔を近づけると、古ぼけた窓枠の隙間から冷たい風がすうすうと吹き込んでくる。山が深くなるにつれて、気温も正比例して下がっているのだ。
春先の気候は「三寒四温」とよく言われる。一週間のうちに、三日は寒い日があり、残りの四日は暖かい日だという意味だ。眠りをなくしたぼくは、油断すると曜日の感覚さえなくしてしまうのだけれど、どうやら今日は寒い方の日らしい。
柿ピーは厚手のジャンパー(目立たない、そこいらの影に紛れそうな濃い灰色だ)を着込んでいるけれど、ぼくは白のコットンシャツの上に、同じくコットンの焦げ茶色のジャケットを羽織っているだけだったので、少し肌寒くなってきた。
柿ピーは肩に掛けたバッグの中からアルミ製のポットを取り出して、くるくると蓋を回し、その蓋をコップにしてコーヒーを注いだ。そして立ち上る香ばしい湯気をふうふうと追いやりながら、ゆっくりと一口啜った。それを見て、そういえばぼくもひどく喉が乾いているんだ、と気づいた。
「オデはね、尾行のあと、必ずそのレポートを作成するんだ。このノートにね」
柿ピーはバッグからパンパンに膨らんだシステム手帳を取り出して、言った。
「できる限り詳しく。写真やイラストも添えてね。そうしてオデは、いろんな人間の生態を収集して、人間という”生き物の図鑑”を作りたいのさ。他人に言わせりゃ、このノートも、オデの病気の、ただの履歴になっちまうんだろうけどな」
柿ピーはノートをパラパラとめくって、懐かしそうな顔をしていた。
「でも、このクリニックに通いはじめてからは、この病気は――オデはとくに病気だなんて思っちゃいないんだけどな――確実によくなっていってる。
そりゃあオデも、最初はうさんくさいと思ったよ? なにせあの先生、いきなりシャンプーしはじめちゃうんだからさ。『これが、わたしのセラピーのメソッドなのよ』なんて、言っちゃってさ。
だけど、疑いながらも何度かそのセラピーを受けているうちに、だんだんと、こころが癒されだしたんだよな。なんだか、不思議なんだけどさ。いまではあの美人の先生にシャンプーしてもらったあとは、少なくとも一、二週間は、この病気がでなくなった。それも、回を重ねるごとに、そのスパンがだんだんと伸びてきているんだ。
きっと彼女は――チェン先生は、もうすぐオデの中の、病気の根元にたどり着いてしまうだろうよ。そうしたら、この病気ともお別れだ。少し、寂しい気もするけどな」
柿ピーの話を聞きながら、ぼくはチェン先生のことをぼんやりと思った。
「あんたの方は、調子はどうなんだい? まだイヤな夢、みんのかい?」と柿ピーが、訊いた。
「えっ? ああ、そうだね」ぼくは我に返って、答えた。
「相変わらず毎晩、〈銀色の男〉が夢にでてくるよ。おかげでぼくのナルコレプシー(睡眠障害)は、ますますひどくなる一方さ」
「へえ。大変なんだ」
彼は無関心にそう言って、ぼくのグリーンの座席から手を放して、どさりと自分の席に戻った。
To be continued.
春先の気候は「三寒四温」とよく言われる。一週間のうちに、三日は寒い日があり、残りの四日は暖かい日だという意味だ。眠りをなくしたぼくは、油断すると曜日の感覚さえなくしてしまうのだけれど、どうやら今日は寒い方の日らしい。
柿ピーは厚手のジャンパー(目立たない、そこいらの影に紛れそうな濃い灰色だ)を着込んでいるけれど、ぼくは白のコットンシャツの上に、同じくコットンの焦げ茶色のジャケットを羽織っているだけだったので、少し肌寒くなってきた。
柿ピーは肩に掛けたバッグの中からアルミ製のポットを取り出して、くるくると蓋を回し、その蓋をコップにしてコーヒーを注いだ。そして立ち上る香ばしい湯気をふうふうと追いやりながら、ゆっくりと一口啜った。それを見て、そういえばぼくもひどく喉が乾いているんだ、と気づいた。
「オデはね、尾行のあと、必ずそのレポートを作成するんだ。このノートにね」
柿ピーはバッグからパンパンに膨らんだシステム手帳を取り出して、言った。
「できる限り詳しく。写真やイラストも添えてね。そうしてオデは、いろんな人間の生態を収集して、人間という”生き物の図鑑”を作りたいのさ。他人に言わせりゃ、このノートも、オデの病気の、ただの履歴になっちまうんだろうけどな」
柿ピーはノートをパラパラとめくって、懐かしそうな顔をしていた。
「でも、このクリニックに通いはじめてからは、この病気は――オデはとくに病気だなんて思っちゃいないんだけどな――確実によくなっていってる。
そりゃあオデも、最初はうさんくさいと思ったよ? なにせあの先生、いきなりシャンプーしはじめちゃうんだからさ。『これが、わたしのセラピーのメソッドなのよ』なんて、言っちゃってさ。
だけど、疑いながらも何度かそのセラピーを受けているうちに、だんだんと、こころが癒されだしたんだよな。なんだか、不思議なんだけどさ。いまではあの美人の先生にシャンプーしてもらったあとは、少なくとも一、二週間は、この病気がでなくなった。それも、回を重ねるごとに、そのスパンがだんだんと伸びてきているんだ。
きっと彼女は――チェン先生は、もうすぐオデの中の、病気の根元にたどり着いてしまうだろうよ。そうしたら、この病気ともお別れだ。少し、寂しい気もするけどな」
柿ピーの話を聞きながら、ぼくはチェン先生のことをぼんやりと思った。
「あんたの方は、調子はどうなんだい? まだイヤな夢、みんのかい?」と柿ピーが、訊いた。
「えっ? ああ、そうだね」ぼくは我に返って、答えた。
「相変わらず毎晩、〈銀色の男〉が夢にでてくるよ。おかげでぼくのナルコレプシー(睡眠障害)は、ますますひどくなる一方さ」
「へえ。大変なんだ」
彼は無関心にそう言って、ぼくのグリーンの座席から手を放して、どさりと自分の席に戻った。
To be continued.
終末の唄_008
橋を渡り終えると、バスは山へと入る細い曲がりくねった道を登りはじめた。
右に左に、何度も小刻みにカーブを切りながら、山の奥へ奥へと入っていく。鬱蒼と茂った木々の葉の僅かな隙間から、ときどき陽の光が洩れ、それがうっすらとかかった靄に拡散されて、ぼんやりと輝く光の粉となって降ってくる。そしてその光の粉は、深い茂みの奥の静かなせせらぎに落ちて、きらきらと輝いては川底へと沈んでいった。折り重なるようにして立つ木々の根元には、朝露に濡れた羊歯がかさこそと揺れている。そして、カーブを切った数だけ――幾重にも層が重なっていくように――山はより深く、より濃くなっていった。
「また、だれかのあとをつけてたのかい?」
ぼくはもう一度うしろを振り向いて柿ピーに、訊いた。
「――そうなんだ。久しぶりにまた、病気がでやがった」
柿ピーは声を一層小さくしてそう言ったあと、ぼくの座席を両手で抱えるようにして立ち上がり、前のめりで話しはじめる。
「その女のあとを追って、オデは、バカげた夜行のハイウェイバスに乗っちまったんだぜ? まさか彼女、そんなバスに乗るなんて、さすがのオデも思ってもみなかったんだよ。
彼女はダークグレーのぱりっとしたスーツを着込んで、肩からブランド物の茶色の革製のバッグをさげて、アクセサリー類は嫌みのない極控えめな感じで、いかにもキャリアウーマンっていでたちだった。
そんな女が、夜の遅くに、なぜだか髪を振り乱して、足を挫かないようにヒールを気にしながらも、駅の階段を必死で駆け上っていたんだ。
どうしたんだろう? と思うと同時に、オデの頭と身体はもう彼女のあとを追っていた。
彼女は地上に出ると、バスターミナルまで一目散に走って、そのままそこに止まっていたバスにいきなり飛び乗ったんだ。もちろんオデも慌てて飛び乗った。なんかひどく料金の高い、見慣れないバスだなって思ってたら、そのバス、終点まで五時間もかけて走るような夜行のハイウェイバスだったのさ」
「そうだったんだ」
「まったく、まいったぜ」
そう言いながらも、柿ピーは少しもまいった風ではなかった。
「それで? その女をえんえん尾行して、何か収穫みたいなものはあったのかい?」
「収穫? 言っとくけど、オデはそんなもの、少しも求めちゃいないよ? オデはただ、その人間が、いったいどこへいき、何を買い、何を食べ、だれと会い、何をするのか――そういうことに興味があるだけなんだ。ただ純粋にな。その人間の行動原理が気になってしようがないだけなんだよ」
「ふうん。そんなものなのかな」
「まあもっとも、たまたまそのひとの表層とは違う意外な一面を見つけたときには、たまンない興奮をおぼえることも、あるにはあるんだがな」
柿ピーは少しいやらしい笑い方をして、言った。
To be continued.
右に左に、何度も小刻みにカーブを切りながら、山の奥へ奥へと入っていく。鬱蒼と茂った木々の葉の僅かな隙間から、ときどき陽の光が洩れ、それがうっすらとかかった靄に拡散されて、ぼんやりと輝く光の粉となって降ってくる。そしてその光の粉は、深い茂みの奥の静かなせせらぎに落ちて、きらきらと輝いては川底へと沈んでいった。折り重なるようにして立つ木々の根元には、朝露に濡れた羊歯がかさこそと揺れている。そして、カーブを切った数だけ――幾重にも層が重なっていくように――山はより深く、より濃くなっていった。
「また、だれかのあとをつけてたのかい?」
ぼくはもう一度うしろを振り向いて柿ピーに、訊いた。
「――そうなんだ。久しぶりにまた、病気がでやがった」
柿ピーは声を一層小さくしてそう言ったあと、ぼくの座席を両手で抱えるようにして立ち上がり、前のめりで話しはじめる。
「その女のあとを追って、オデは、バカげた夜行のハイウェイバスに乗っちまったんだぜ? まさか彼女、そんなバスに乗るなんて、さすがのオデも思ってもみなかったんだよ。
彼女はダークグレーのぱりっとしたスーツを着込んで、肩からブランド物の茶色の革製のバッグをさげて、アクセサリー類は嫌みのない極控えめな感じで、いかにもキャリアウーマンっていでたちだった。
そんな女が、夜の遅くに、なぜだか髪を振り乱して、足を挫かないようにヒールを気にしながらも、駅の階段を必死で駆け上っていたんだ。
どうしたんだろう? と思うと同時に、オデの頭と身体はもう彼女のあとを追っていた。
彼女は地上に出ると、バスターミナルまで一目散に走って、そのままそこに止まっていたバスにいきなり飛び乗ったんだ。もちろんオデも慌てて飛び乗った。なんかひどく料金の高い、見慣れないバスだなって思ってたら、そのバス、終点まで五時間もかけて走るような夜行のハイウェイバスだったのさ」
「そうだったんだ」
「まったく、まいったぜ」
そう言いながらも、柿ピーは少しもまいった風ではなかった。
「それで? その女をえんえん尾行して、何か収穫みたいなものはあったのかい?」
「収穫? 言っとくけど、オデはそんなもの、少しも求めちゃいないよ? オデはただ、その人間が、いったいどこへいき、何を買い、何を食べ、だれと会い、何をするのか――そういうことに興味があるだけなんだ。ただ純粋にな。その人間の行動原理が気になってしようがないだけなんだよ」
「ふうん。そんなものなのかな」
「まあもっとも、たまたまそのひとの表層とは違う意外な一面を見つけたときには、たまンない興奮をおぼえることも、あるにはあるんだがな」
柿ピーは少しいやらしい笑い方をして、言った。
To be continued.
