talk show -22ページ目

終末の唄_014

 長谷は世間でいうところの有名私立大学を卒業して、当時花形だった有名外資系企業に就職した。
 彼はそこで何不自由なく、順調に働いていたのだけれど、いまからちょうど五年前に、彼は突然その会社を辞めて、自ら探偵事務所をはじめることにしたのだった。

 長谷がそうすると言いだしたとき、彼の妻はもちろん、彼の無謀ともいえるその計画に猛反対した。しかも彼女はそのとき、出産を間近に控えていたのだからなおさらのことだった。
けれど長谷の決心は固く、もう揺らぐことはなかった。

「もともとオレには、会社勤めはむいていなかったんだよ。このままこうして勤めていたところで、いいことなんか何も、訪れはしないさ。だからオレは、いま会社を辞めて、オレにできること――そう、探偵をやる、と決めたんだ。
 大丈夫。オレはこう見えても、学生時代にずっと探偵事務所でアルバイトをしてたんだからな。腕も良かったんだぜ? 事務所の社長にも見込まれていて、大学四年になって就職活動をはじめたときにも、このまま正社員として働かないかって、かなりしつこく勧誘されたんだから」

 それから少なくない回数の話し合いがふたりの間でもたれたけれど、ふたりにはもう折り合いをつけるべき地点が見いだせなかった。彼と彼女の価値観は南極点と北極点くらい離れた位置にあり、お互いにそれぞれがいる地点のことは決して理解することができたかったのだ。
 そして彼女はある日、そのまま彼のもとから消え去ってしまったのだった。

 彼らは正式に離婚したわけではなかったけれど、彼女が出ていって以来、ふたりは一度も直接会ったことはなかった。ほんの何度か、電話で話したことがあるだけだ。
 出産直後、彼女から長谷のもとに手紙が送られてきた。子どもは無事産まれ、元気にすくすくと育っている、ということだった。たった一枚だけ、その子の写真が同封されていた。クラシック音楽が大好きな彼女が、子どもにもクラシック好きな子になって欲しいという願いを込めて、「タクト」という名前をつけたと、そこに記されていた。

 隣の痩せ男が半ベソをかいているように、その頃自分も毎日泣きたい気持ちで過ごしていたことを、裸電球の光でカウンターの上に揺れる自分の影を見ながら、長谷はふと思い出していた。
 タクトはいったいどんな子に育っているのだろうか、と長谷はときどき思う。
 長谷は自分のことはさておき、息子にはまっとうに育って欲しいといつも願っている。そしていつか息子に何かしら困難が立ちはだかったとき、少しでも”現実的な”手助けができるようにと、わずかな報酬の中から少しずつ、妻の口座に振込を続けている(だから彼はいつも貧乏暮らしなのだ)。
 送られてきたたった一枚の写真は、毎日肌身離さず持ってはいるけれど、生身の我が子には一度も会ったことがない。どこで暮らしているのかさえ、しらされていない。探偵なのだから、本気で探せば探し出せないこともないのだろうけれど、たとえ居場所をつきとめたところで、きっと彼女は素直に会わせてはくれないだろう。
 そりゃあ、そうだろう。そんなことは、こんなオレにでも簡単に想像できるよ。こんなやくざな暮らしをしている男が突然子どもの目の前に現れて、オレがおまえのおとうさんなんだよ? なんて、夢の中でも言って欲しくないだろうさ。なにせあいつは、びっくりするほど生真面目な女なんだから。

 そんなことをぐずぐず考えていると、長谷はなんだかもうこれ以上ひとりで飲む気にはなれなくなって、吸いかけのタバコを灰皿で揉み消し、そのまま店を出て、だれも待ってはいない自分の部屋へと帰ることにしたのだった。

To be continued.

終末の唄_013

 そのあと、長谷はひとりで夜の繁華街へと向かっていた。

 くたっとよれたカーキ色のジャケットの胸の辺りを軽く叩くと、そこには確かに、厚い札束の感触があった。
 彼がこれほどのまとまった金を手にしたのは久しぶりのことだった。調査は明日からということで、とりあえず今夜は前祝いでもしよう、と彼は決めた。
 彼はこの町には不案内だったけれど、最初に目についたごくありふれた居酒屋に入ることにした。

 長谷は座敷の前に脱ぎ散らかされたいくつもの靴を踏まないようにしながら、細い通路を奥へと入っていった。そして一番隅の空いているカウンター席に座った。
 店の中は気違いじみた喧噪と、さまざまな匂いと、タバコの煙でむせかえっていた。威勢良くオーダーを訊きにきた店員に、カールスバーグととりあえず枝豆を頼んだ。
 そのあと何を注文しようかとメニューを眺めていると、そういえば昨日の晩は持ち合わせがなくって、白飯に缶詰のオイルサーディンをのっけて、マヨネーズをぶっかけて済ませたんだったな、とふと思い出した。
 そうだな、せめて今夜はちょっと贅沢してみるか、と長谷は思った。

 カウンターの隣の席では、よれたスーツにだらりと垂れたネクタイをした、三十代後半のサラリーマンがふたりで飲んでいた。
 長谷はすぐに運ばれてきた冷えたカールスバーグを自分でグラスに注いで、それを飲みながら聞くともなく彼らの話を聞いていた。
 ふたりの男のうち、痩せた男の方が、どうやら奥さんから離婚を迫られているらしく、小太りの男の方に相談を持ちかけている――そんなシチュエーションだった。
 痩せた男は半ベソで、メガネの中に指を入れて目をゴシゴシと擦りながら、離婚するということは結婚することよりも何倍ものエネルギーがいるんだよ、と小太りの男に訴えていた。
 その話を聞いて長谷は、まったくその通りだよな、とカウンターの木目のエンボスを爪でがりがりと擦りながら、思った。

To be continued.

終末の唄_012

「なるほど」

 長谷は先ほどからしきりに顎を撫でている。流行りを求めたわけではない無精髭が、その顎にいくらか伸びている。依頼人が指定してきたのだから仕方がないけれど、この店の中は完全禁煙なので、ヘビースモーカーの長谷もタバコを吸えない。だから彼は顎でも撫でていなくては、どうも手持ち無沙汰なのだった。

「つまり、一種の信用調査、というところですかね?」

 長谷はコーヒーカップを口に運び、そのカップの縁越しにじっと訝るように依頼人の女を見た。
 彼女は楕円形の黒いレンズのサングラスをかけ、頭にはサンドベージュのスカーフを被り、その端を顎の下でしっかりと結んでいた。そのスカーフの中から真っ直ぐな黒く長い前髪がいく束か垂れ落ちて、サングラスの上に被さっている。
 歳はだいたい、二十四、五歳というところだろう。そんな格好をしていても、オレにはだいたいわかるんだ(こんなつまらない能力だけ、これまでの数多の浮気調査で培われてきたんだ)。
 彼女は暖房が妙に効き過ぎているこのコーヒーショップの中でも、ベージュのステンカラーコートを着たままで、それも首もとまでボタンをびっちりと留めて、手には白いぴっちりとした手袋をはめている。そして素性がバレないよう、わずかな体臭さえも隠そうとしているのか、香水を全身に振りまいて、きつい匂いをプンプンさせていた。目立たないようにしているつもりだろうが、そこまでするとかえってあやしく見えてしまう。

「そうね。まあ、そのようなものね」

 女は右手の人差し指でサングラスのブリッジを少し押し上げて、言った。
 長谷は少し間をおいてから、言った。「わかりました。そのご依頼、お受け致しましょう」

「ありがとう」と、女は感情を込めずに、言った。

 店の中では、静かにコルトレーンが流れている。

「ところで、この女性の名前と住所は?」

「その写真の裏側に書いてあるわ」

「ああ、そうですか?」長谷は写真を裏返してみた。

「『足立かをり』ですね? ええと、住所は――G市ですか。この近くですね?」

 そういえばここは、今お騒がせのあの殺人事件が多発しているG市だったよな。オレもどっちかっていうと、〝夢遊殺人事件〟のようなハードボイルドな世界の方がいいのにな。なのになんでオレは、こんな女の調査なんだよ、と長谷はますますいらついてきた。

「それでは、調査料の方なんですが、まず必要経費として――」

 長谷がそこまで言うと、女は膝にのせていた小さなバックから茶封筒を取り出して、テーブルの上に置き、それを長谷の方に差し出した。
 長谷が封筒の中身を確かめてみると、必要経費どころか、そこには通常の成功報酬の何倍もの額の札束が入っていた。

「まさか。いくらなんでも、こんなにはかからないですよ。この程度の調査なら」

「いいの。とりあえず、受け取って」

 女はまた、サングラスのブリッジを人差し指で押し上げて、言った。

「けど、これじゃあ、あんまり――」

 すると女はすっと立ち上がり、言った。「それじゃあ、よろしく頼みますね?」

「えっ? ああ、わかりました」と、長谷も慌てて立ち上がって、言った。

 そして女は出口の方を向き、静かに店を出ていった。
 その背中を見送ったあと、長谷はソファーにどさりと座り込み、高い天井をぼんやりと見つめながら、聞こえてくるメロディーを聴くともなしに聴いていた。すでにコルトレーンは終わっていて、違う何かの曲が流れていた。長谷はそのメロディーにあわせて口ずさんだ。

これ、最近よく聴くけど、何の曲だっけかな?

To be continued.