名鉄揖斐線・忠節~黒野の廃線跡(プチ廃線跡探訪) | 『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)

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黒野駅にて現役時の2000年撮影。モ510形電車です。

 

今回のプチ廃線跡探訪コーナーは、岐阜県の県庁所在地・岐阜市の長良川北側にある忠節駅から西へ向かい、大野町にある黒野駅との間を結んでいた名古屋鉄道【名鉄】の岐阜地区600V線区の一路線で、利用客減などの原因で2005年4月1日に全線廃止(最終運行日は3月31日)となった、
名鉄揖斐線(忠節~黒野)を簡単に紹介します。他の岐阜地区600V線区が軌道線だったのに対し、揖斐線と谷汲線は鉄道線でした。
尚、2001年に廃止された黒野~本揖斐については、別記事でUP予定です。

 

ちなみに、今回の区間には現役時にも乗車していまして、過去に簡単なレポート記事を投稿しています。
(記事はこちら。黒野~本揖斐についてはこちら。)

 

名鉄揖斐線は、岐北軽便鉄道により1914年に忠節~北方町(後の美濃北方)が開業し、美濃電気軌道北方線になってから1926年に黒野まで、1928年に本揖斐まで全線開業しました。1930年には名岐鉄道揖斐線になり、1935年には名古屋鉄道揖斐線となりました。起点の忠節駅は長らく独立したターミナル駅でしたが、戦後の1954年に岐阜市内線支線(忠節支線)とつながりました。そして1967年に岐阜市内線直通の急行の運転が開始され、1980年代と1990年代に冷房付きの新型車両が導入され全列車が市内線直通になるなど利便性向上が図られてきましたが、地方線区の常としてモータリゼーションの影響で利用客が減り、2001年に末端部の黒野~本揖斐が谷汲線と共に廃止となりました。その後も利用客の減少に歯止めがかからず、結局、岐阜市内線や美濃町線、田神線とともに2005年に全線廃止となり、岐阜地区600V線区の歴史は終焉を迎えました…。


 

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(Yahoo!地図を使用)

 
 

路線名   区間   営業キロ  備考  
名古屋鉄道:揖斐線  忠節~黒野  12.7km  2005年4月1日廃止  
(※)全線単線・直流600V電化。軌間1,067mm。   
(※)因みに、忠節~本揖斐ですと18.3km。   

  
  

踏破達成時   2000年8月  
撮影時   2000年ほか  

  

  

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忠節駅跡にて。
忠節駅はホーム3面4線の構造でした。南側の1、2番線は揖斐線列車折り返し用の頭端式で、北側の3、4番線は揖斐線黒野方面と直通可能でした。
末期の揖斐線電車はほぼ全数が岐阜市内線へ直通していたことから、頭端式の1、2番線はほとんど使用されませんでした。
忠節駅は大きな駅ビルが併設されていましたが解体され、末期は2000年に建てられた簡素な2階建て駅舎になっていました。
その新しい駅舎も2005年の廃止後に解体され、現在忠節駅跡にはスーパー「ヤマナカ」などがあります。

 

忠節を発車すると右へカーブして住宅街の中を西へ進み、近ノ島(ごんのしま)着。近ノ島を発車後は岐阜環状線と交差し、左へカーブして旦ノ島(だんのしま)に着きました。


 

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忠節~近ノ島にて。2011年の時点では踏切跡や線路敷は残っていました。
踏切跡以外のレールや枕木、架線柱は撤去されていましたが…。

 

旦ノ島を発車後は伊自良川を渡り、その後は左へ右へカーブしながら住宅地の中を西へ走り、尻毛(しっけ)に着きました。尻毛を発車後は田園も見られる住宅地の中を西へ進み、又丸に着きました。又丸を発車後は岐阜県岐阜市から北方町へと変わり、国道157号線をアンダーパスすると北方東口に着きました。北方東口を発車後は北方町の中心市街地へと入り、北方千歳町に着きました。北方千歳町を発車後も市街地を西へ走り、主要駅であった美濃北方に到着しました。


 

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又丸~北方東口では国道157号線をアンダーパスしていました。2011年の時点では線路敷が残存しています。
尚、国道の陸橋ですが現在は平面化されています。

 

美濃北方を発車すると築堤高架となって糸貫川を渡り、真正町(現・本巣市)へと変わります。その後も築堤上を走り、本巣縦貫道路と樽見鉄道樽見線をオーバークロスします。交差地点には駅は設置されておらず、樽見鉄道側にも駅はありません(少し北側に北方真桑駅があります)。


 

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美濃北方~真桑では樽見鉄道樽見線をオーバークロスしていました。2009年の時点では築堤や橋梁、架線柱が残存していました。

 

その後は地平区間となり、田園風景の中を西へ走ると真桑に着きました。
真桑を発車後も田畑の中を走り、右へカーブすると政田に着きました。政田を発車後も田畑の中を北西へ走り、築堤区間になると根尾川を渡り、大野町へ変わると下方に着きました。駅は築堤高架上に設けられていました。下方を発車後は右へカーブして地平区間になり、富有柿(?)の果樹園の中を北上して相羽に着きました。相羽を発車後は田畑の中を走り、左へカーブして市街地の中へ入ると2001年~2005年までの4年間終着駅だった黒野に到着しました。


 

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黒野駅は島式・単式ホーム1面ずつの計2面3線の構造でしたが、末期は島式ホームの2番線のみが乗降に使用されていました。
2001年までは写真奥の方、揖斐方面や谷汲線の谷汲まで路線が延びていました。
また、駅構内には車両基地(黒野検車区)がありました。
現在は『黒野駅レールパーク』として整備され、2・3番線ホームと2番線の線路が残されています。すなわち、写真左側の1番線ホームと線路は撤去されてしまいました。
ちなみに、揖斐線の本揖斐方面につきましては2011年に廃線跡探訪をしています。
⇒廃線跡探訪の記事はこちら


 

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黒野駅は市街地の中にあり、古風な木造駅舎を有していました。
揖斐線の廃止後も解体されずに残り、現在は駅舎を改装して『黒野駅ミュージアム』としてリニューアルオープンしました。
館内には揖斐線の備品などが展示されており、出札口や2階部分にも入ることが可能になったそうです。

  

  
あとがき  

岐阜市中心部(岐阜駅・名鉄岐阜駅・忠節)~北方千歳町駅跡にほど近い北方バスターミナルの間は岐阜バスが昼間でも毎時3本ほど走っていて、一部廃線跡はバスの車窓から確認が可能です。北方バスターミナル~黒野駅跡(黒野八幡町)はバスの本数が少なく、廃線跡から遠い場所を通る系統もあるので、探訪時は注意が必要です。

 

徒歩でも無理な距離ではありませんが、黒野・本揖斐へ向かうほど店舗が減少します。また、根尾川を渡る際は迂回する必要があります。バスや列車の時刻を確認の上で余裕を持って探訪して下さい。
真夏(岐阜は猛暑になりやすいです)や真冬(岐阜は意外と積雪回数が多いです)は天気予報を確認してからの探訪をお勧めいたします。
  
  
接続路線  
接続駅   接続路線
忠節駅   名古屋鉄道:岐阜市内線(徹明町・岐阜駅前方面。2005年廃止)  
黒野駅   名古屋鉄道:揖斐線(本揖斐方面。2001年廃止)谷汲線(2001年廃止)  
  
(参考:『鉄道ジャーナル』2016年12月号、Wikipedia)