秋 隆三のブログ

秋 隆三のブログ

昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神  ―思考停止社会 序―

秋 隆三

 

 私に残された時間も僅かとなってきた。かつて、若い頃には、時間を感じるということはほとんどなく、無限にあると思っていたが、老いてみると、時間が目の前に迫ってきて、狭い空間に閉じ込められているような感覚に陥る。

 こういった時空感覚に対して、思考には制約がない。一つの「なぜ」が次ぎの「なぜ」を生じさせる。思考を停止したときに「死」がやってくるのだろう。カントの言う、無限の理性の本質はどうもこの辺にあるらしい。

 

<コロナ後遺症>

 コロナ感染症もそろそろ終焉を迎えそうだが、これでコロナウイルスがなくなるわけではない。有史以来、日本人には4種のコロナウイルスが住み着いていることは、かつて説明したが、これに1種が加わり、5種のコロナウイルスが未来永劫住み続けることになった。

 コロナワクチン(mRNA)の後遺症に関する論文が文芸春秋4月号に掲載された。1年半前から、私が体感したことに見事に一致する。参考までに、一部を引用しておく。括弧内は、論文数である。

  「ワクチンによる副作用の上位10疾患は、

   (1)血小板減少(557)、(2)頭痛(455)、(3)心筋炎(344)、

   (4)血小板減少を伴う血栓症(328)、(5)深部静脈血栓症(241)、

   (6)ギラン・バレー症候群(143)、(6)静脈洞血栓症(143)、

   (8)アナフィラキシー(140)、(9)リンパ節腫大(132)、(10)血管炎(129)」

 私の症状は、溶連菌感染症、筋力低下、心房細動である。ギラン・バレー症候群の軽い症状に似ているが、ギラン・バレー症候群と断定するためには、それこそ大変な検査が必要になるので、病院は診断しようとはしない。血栓症も同様である。よほど重篤にならない限り検査はしない。コロナ感染症対策が、果たしてこういった後遺症の発症と比較して適正であったかどうかの評価は難しいが、mRNAワクチンについては今後も研究が必要であろう。

 

<ウクライナ情勢>

 ウクライナ、ロシア双方とも弾切れで膠着状態に入った。「もしトラ」の影響からか、EUが防衛費の増額、武器・弾薬の域内生産の増加を相次いで実施した。当たり前だろう。このEUなるものの、言い換えればヨーロッパ民主主義のいい加減さは驚くべきものである。NATO予算の40%以上を米国が負担しているというから、トランプでなくとも「いい加減にしろ」と言いたくなるのは当然だ。これは、日本に対しても同じである。バブル経済の崩壊以後、金融引き締めと円高で最悪の事態を招き、デフレが30年も続いた要因の多くは、日本の経済学者・財務官僚なるものの似非科学にあることは明らかであるが誰も責任をとろうとはしない。これも民主主義である。それはさておいて、ウクライナ戦争をどのように終わらせるかが問題である。ロシア本土攻撃もこうなってはやむを得ないかもしれない。ロシア国民においても戦争の悲惨さを共有するしか方法がないのかもしれない。国家のリーダーの責任である。

 

<政治思想とは何か?>

 

 コロナパンデミック、第三次世界大戦の危機をはらむウクライナ戦争、パレスチナと、この数年の間に世界を震撼させる出来事が相次いでいる。

 

 戦後生まれの私は、昭和の高度経済成長、バブル後の長期デフレ経済の両方を体験した。さらに、上記の二つ世界事変である。天変地異も、阪神・淡路大地震、東日本大震災と二つの大震災を目にした。70年以上生きるということは、何時の時代でも、この程度の出来事に直面することである。

 さらに、今、中国経済が危うい。これも経済学者が、日本への影響は少ないと言うが、経済は経済システムの価値認識だけで動くわけではない。大きく変化するのは、経済合理性という価値観以外の価値判断・認識によるものである。ケインズも言っている。経済学は科学ではない。倫理学だと。

 

 中国経済の低迷は、不動産不況が直接の原因ではあるが、それは目に見える一部の現象にしか過ぎない。要は、マンション需要を遙かにこえて建設したことだが、それだけではない。例えば、鋼材の生産量は既に世界需要を遙かに超えている。太陽光パネル、リチウム電池、白物家電品、衣料品、素材・部品等々、ほぼ全ての工業製品・部材・日常品が過剰に生産されている。足りないのは食品・農水産物ぐらいだ。経済装置にブレーキがついていないのである。ブレーキとは、精神である。

 

 中国共産主義は、かつてのソ連のような計画経済であった。ところが、かの鄧小平が、改革開放を宣言し、共産主義国家でありながら資本主義経済を導入した。それが、中国の経済成長につながったことは言うまでもない。

 中国の資本主義システムには、シュムペータが言うように、ブレーキ機構が内在されていない。シュムペータは、資本主義システムが自ら変化し、経済を加速させ、新たな経済システムへと転換していくのは、ブレーキ機構があるからだと言う。ブレーキのない自動車を想像してみよ。アクセルペダルを踏むなどは、恐ろしくて到底出来ない。ブレーキ機構が備わっていて、それが正確に作動することを前提条件にアクセルペダルを踏み込み、加速させることが可能なのである。経済を加速させるためには、ブレーキ機構がなくてはならない。

 中国経済は、経済システム内にブレーキ機構が存在しないのである。こういったシステムを資本主義システムと呼べるかと言えば、ノーである。強いて言えば、共産主義体制における半自由経済システムである。民主主義は、資本主義システムを前提条件に成立する。資本主義システムは、あらゆる社会政治システムの前提条件なのである。共産主義を前提条件として資本主義システムが成立することは、論理的にも、感情的にも成立しないことを中国経済は示している。

 

 さて、ここでわからないのが、共産主義、社会主義、民主主義、資本主義と、常識のように報道されるこれらの社会・政治思想の真の意味である。19世紀後半以来、これらの良いこと(主義)については、多くの思想家によって論じられてきた。しかし、真の意味、真の定義が存在するかどうかは甚だ疑問である。真の意味が存在するのであれば、その意味は具体的に何か、存在しないのであればなぜ存在しないのか。

 19世紀欧米の大衆社会において、これらの主義が当然の如く大衆によって叫ばれ、知識人は煽るように○○主義、シュギ、しゅぎと唱えてきたが、果たしてどこまでこれらの思想の真実を伝えられていたかは、いくつかの文献をあたってみても見当たらない。

 

 社会主義、民主主義、法治主義、資本主義、自由主義等々は、人間個人の問題ではない。もちろん、人の生においてこういった思想とその制約は様々に関連する。人の生の制約として関連するものは、国家経営、つまり政治でありその思想は政治思想そのものである。

 民主主義は、すべての先進国が民主主義だと言われているが本当なのか? 民主主義の具体とは一体何なのかは誰もわからないのではないか? 資本主義はどうなのだ。1991年のソ連崩壊をもって社会主義が失敗し、資本主義が勝ったと言うが、本当なのか?

 マルクスは、資本主義は自己崩壊を起こし、社会主義へ移行すると予言した。逆の現象が真であったのか?

 

 資本主義とは一体何者なのか?

 

 21世紀に入って金融資本主義が世界の悪のように言われ、資本主義経済システムが生み出す格差社会が問題となり、金融資本が世界を支配すると言う。

 

 最近、トランプが盛んに演説の中でディープステートと叫んでいるが、某衛星放送の報道番組が、このディープステートを取り上げた。この放送では、ディープステートは陰謀論であることを前提として報道していた。日本の報道番組もここまで落ちたかと呆気にとられた。ディープステートなるものの存在は確かに疑わしい。Qアノンなどと同じように、でっち上げ、嘘、フェークまみれかもしれない。ネット社会の中で、出ては消える噂話といえばそうかもしれない。報道の姿勢として、仮にも前米国大統領、現最有力大統領候補が発した言葉であるからには、陰謀論であるか否かは別としても、ディープステートなるものが生まれた背景、実体の存在についての疑義についての考究がなくてはならない。さらに言えば、政治思想における陰謀論的推論は、何もディープステートに限ったことではない。第二次世界大戦前夜のドイツ・ヒットラーの演説においても同様の手法はあった。日本においても、臥薪嘗胆、五族協和、八紘一宇等々、陰謀論といえなくはない用語は新聞紙上に踊っていた。最近では、プーチンのナチズムや、米国におけるパレスチナ擁護派における反ユダヤ主義等であろう。

 

<思考停止社会>

 

 スマホ社会だ。わからないことがあればネットで検索すればたちどころにわかる。さらにAIの登場である。ネットがあれば、この世の中でわからないことは何もないという錯覚に襲われた。

 話は変わるが、以前、マイクル・クライトンの「自由にものがいえない社会」について論じた。1992年の地球温暖化問題以後、世界の民主主義国家では、温暖化について自由にものが言えない「恐怖の時代」を迎えた。自由にものが言えない社会は、個人の思考を停止させ、社会全体が思考停止社会へと向かう。SDGsなどは、その典型的な例である。

 

 日本では、バブル経済の崩壊と地球温暖化問題が同時に起こった。偶然といえば偶然である。世界は、1995年のウインドウズ95の登場でネット社会へと移行し、2007年のApple iphoneの登場以後、本格的ネット社会が始まった。実質的にはこの10年間がネット社会である。あまりにも社会変化のスピードが速すぎる。考える暇もなく、社会が変化する。社会全体ではなく、情報社会の変化でしかないのだが。情報社会が変化すれば、人間関係も変化すると人間は錯覚する。

 

 政治思想の真の意味とは何かを考える前に、こういったネット社会という現代を思考停止社会という観点から様相を少し探る必要がある。なぜなら、思考停止した人間は、感情で動くことになるからである。果たして、社会は、感情で動いているのか、それとも知性が働いているのか。

まず、感情とは何かから考究する必要がある。

 

2024/07/14

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―エピローグ―

秋 隆三

 

  昭和歌謡曲に随分と長い時間がかかった。まだまだ足りない。膨大な数の歌謡曲である。一体、世界の国、民族で、日本の歌謡曲と呼べるような音楽スタイルのものがどれほどあるのだろうか。

  スペインのフラメンコ等は、歌謡曲ではなく民謡である。日本であれば津軽じょんがら節や、追分等と同じような分類であろう。

  1800年代初頭に完成するヨーロッパ楽曲、つまり、モーツアルト、ベートーベンに代表される作曲家によって成熟・完成した音楽技術、12音階、和声、記譜法が、明治文明開化とともに輸入され、江戸時代の長唄・小唄、明治期の浪曲、民謡等と融合しつつ、昭和の大衆社会への移行とともに出現したのが歌謡曲ではないかと考えられる。

  欧米では、オルテガの言う大衆社会は日本より数十年早く出現している。フランスのシャンソン、同じ語源をもつイタリアのカンツオーネ等は、その典型的な例である。これら以外にもポルトガルのファドがある。

  古くは、吟遊詩人が自作の詩に曲を付けて歌っていたものと思われるが、上記いずれの国の歌謡曲にも独特の曲調と詩を引き立てるコブシが見られる。コブシなどはないという専門家なるものもいるかもしれないが、詩という言葉には、必ずイントネーションがあり、微妙な装飾性が備わっているものである。言葉のリズムと抑揚が旋律を生み出す。

 

  昭和歌謡曲は、まさに昭和に入ってから創作された日本独自の楽曲と言えよう。中山晋平という作曲家がいる。昭和3年に小学校教員を退職し、日本ビクターの専属作曲家となって、有名な「波浮の港」を作りヒットする。翌年には「東京行進曲」が発表されている。この昭和初期には、古賀政男、古関裕而等の作曲家が相次いで出現し、日本の昭和歌謡曲を洗練し、成熟させていくが、作詞家の活躍があってこそとも言える。明治以来、昭和にかけて、日本文学における詩人の活動はめざましいものがあった。

 

<オルテガと大衆社会学>

 

  さて、オルテガの「大衆の反逆」にインスパイアされて、昭和歌謡に挑んできた。何ともまとまりのないものになってしまったが、大衆が嗜好するもの等は、オルテガの言うように「波のまにまに漂っている」に過ぎないのである。

  ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、明治16年(1883年)にスペインの高名なジャーナリストの息子として、スペイン・マドリードで生まれ、昭和30年(1955年)に72歳で没している。第一次世界大戦前のドイツに2年間留学し、カント哲学、フッサールの現象学等を研究したと言われる。19歳で学士号、21歳で博士号を取得している。現代とは、大学制度が異なるとは言え、一人の天才と言えよう。

  オルテガは、「大衆の反逆」に見られるように、自らの思想を体系的・論理的に説明しようとはしていない。思想というものを理性だけで説明することは不可能であり、感性(情動)と理性の相互作用と考えていたのではないかと思われる。理性には限界があり行きつく先は無限だとするカントの純粋理性批判、フッサールの主観哲学・認識哲学に通ずるものであるが、オルテガは、真理を追求する哲学ではなく、浮き草の如き今を生きる人の思想に着目した。「生」きるということは、現実問題なのである。過去でもなく未来でもない。だからといって、「人は何故生きるか」という真理を必要としないわけではない。人が生き抜くためには、思想が必要なのだと言うのである。それも、自由で民主的な社会に生きる大衆が重要なのだと。

 

  オルテガが、「大衆の反逆」をまとめた時代は、1920年代後半である。第一次世界大戦が終わり、ロシア革命・ボルシェビキの台頭・ソ連共産党独裁政権の誕生、ドイツナチス党の躍進、それこそヨーロッパ全体が揺れ動いていた。この時代のヨーロッパを、E・H・カーは、「危機の20年」と呼んだ。

  さて、オルテガが生まれた1880年頃とは、イギリスはヴィクトリア朝であり、エジプトの軍事占拠、アイルランド農業恐慌・国民同盟発足、スーダン戦争等、現代にまで影響を及ぼす植民地問題が吹き出している。フランスは、第3共和制時代であるが、パリ・コンミューン後、王政復古の失敗・共和制の復活と混乱するが、もっぱら国内法の整備に集中している。

  1898年には、米西(アメリカとスペインのメキシコ湾での戦争)戦争が勃発し、スペインはキューバ・フィリピン・プエルトリコを失っている。この戦争によりキューバとフィリピンは独立に向けた紛争の時代を迎える。スペインは、この戦争を契機に王政は衰退し、1909年にはカタルーニャ(バルセロナ)で「悲劇の一週間」と呼ばれる労働争議が発生する。1931年にはスペイン革命により共和政国家となる。

 

  こういった歴史を見るたびに感ずることだが、先人達はよくもこのような激動の中を生き抜いたものだと思う一方、戦争や紛争の当事者以外の人達にとっては、どこかで何かやっている程度の認識であって通常の生活にはほとんど影響がなかったとも思えるのである。勿論、後年、長い時間を経過して一般人にも何らかの影響、例えば社会思想・制度、経済、科学技術等を通して影響を及ぼすことになるのだが。

ウクライナ紛争に続いてイスラエル紛争が発生した。これらの地域以外にも紛争の可能性の高い地域は、この日本の近くにもある。我々の日常生活とはほとんど無関係なところで殺し合いをしている。今の我々の世界認識と変わらない状況が第一次世界大戦後のヨーロッパ大衆にもあったことは確実である。ついこの間、千万人とも言われる戦死者を出した戦争があったにも係わらず、大衆の認識とはこの程度のものではなかったか。オルテガは、このことに気がついた。気がついてみると、何とも恐るべきことである。さらに恐ろしいことは、19世紀社会のような少数の支配者による国家ではなく、大衆支配社会でかつ、人類の理想とも言える自由主義的民主主義国家こそが最大の危険国家であることである。

 

  オルテガは、ナチズムを最も危険視し、警鐘を鳴らし続けていたが、「大衆の反逆」が出版されて2年後、ドイツではヒトラー率いるナチ党が第1党に選出された。ドイツ国民は、民主主義という多数決方式によりナチ党の議会議員を選出したのである。首班指名を控えた1932年7月、ヒトラーは次のような演説をした。

 

  「(権力者は)国家が覚醒に向かうことを恐れながら、彼ら(権力者)は民衆を立場の異なる人々に対しての敵対心や優越感を持たせるように仕向けていった。都会が田舎を見下し、給与所得者は公僕を見下し、手作業をする者は頭脳を使う者を見下した。ババリア人(ドイツ南部の人々)はプロイセン人(ポーランド周辺の人々)を見下し、カトリック教徒はプロテスタント教徒を見下した。見下される側もまた、自分たちを見下す側を同様に見下していた。

 ・・・・・我が人種は国内で活力を使い果たしてしまった。今の外の世界に残っているのは空想のみである。文化的良心、法治国家、世界の良心、会議に出席する大使、国際連盟、第二インターナショナル、第三インターナショナル、プロレタリアートの団結…このような空想による希望のみが残った。世界も我々をこの空想に基づき扱っているのだ。

 ・・・・国家が階級や地位、職業によって分断されることになってしまった。このような事態の積み重ねによって、輝かしい経済の未来を約束していたはずの我が国の権力者による政策は、完全に失敗に終わったのである。

 ・・・・・全てのドイツ人が、同じ目的に向かい、運命を共にできる共同体をもう一度この国に誕生させることこそが我々の願いなのだ。」

      (引用元 https://imasenze.hatenablog.com/entry/2018/01/22/112507

 

  国家分断論、空想的世界論、運命共同体論・・・現代社会のことではない、90年前のドイツのことである。

  ジャーナリズムが盛んに取り上げる欧米における分断社会論、地球温暖化論・AI社会論にみる空想的世界論、ネット社会に対応すべき新たな共同体論、これらは現代最先端の社会議論である。どの議論をとってもニュースに表れるのは根拠の薄いものである。

 

  オルテガは、ヒトラーと同時代の社会人について、次のように書いている。

  「・・・・あらゆる時代とあらゆる民族の「貴族」に特徴的な傾向が、今日の大衆人の中に芽生えつつあることを示すことができよう。たとえば、勝負事やスポーツを人生の主要な仕事にしたがる傾向とか、自分の肉体への感心・・・とか、女性との関係におけるロマンティシズムの欠如とか、知識人を楽しみの相手にしておきながら、心の底では知識人を尊敬せず、召使いや警吏に彼等を鞭打つように命ずるとか、自由な議論よりも絶対的な権威の元での生活を好む、等々といったことである。」

 

  現代は、以上のことが大衆人に芽生え始めているのではなく、大衆人に完全に定着し、これらのことなしに大衆人の「生」は存在しないところにまで行き着いている。

 

  ウクライナ戦争をみれば一目瞭然である。プーチンの演説と政権のプロバガンダはヒトラーを想起させ、権威に漬かりきりのロシア国民においておやである。ウクライナのゼレンスキーはどうかと言えば、自国で武器の生産さえできないのにどうやって戦争をするというのだ。戦争の覚悟があるのならば、ヒトラーが言ったように、まずは運命共同体とともに武器の生産に邁進しなくてはならない。ウクライナ国民にしても同様である。

  世界のジャーナリズムの論調は、武力による侵略は許さないというものであるが、武力なしの侵略というものはそもそも存在しないのである。

  今回のパレスチナ紛争に至っては、もはやなにをか言わんやである。元来、イスラエルとパレスチナは、同一の地域の住民である。3千年前から住民同士であったようだ。あえて民族と言わないのは、ユダヤ民族とは遙か昔はユダ族のことであったようだが、ユダヤ教の信者をユダヤ人と呼ぶようになった。現代では先祖がユダヤ教の信者であった場合にもユダヤ人と呼んでいるようである。

  イスラエルは政教分離であるが、憲法上は国教が定められており、福音ルーテル教会である。ルーテルとはルターのことであり、プロテスタントである。しかし、国民の70%以上は、ユダヤ教信者である。

  イスラエル国家というものは完全な分断国家と考えた方が現在の紛争について理解しやすい。パレスチナ人、あるいはパレスチナ人の居住地域をイスラエルと融合すると、建前である政教分離政策を実行せざるを得なくなる。分断社会の混乱の極みとなるだろう。ユダヤ人の国家という暗黙の理想が崩壊するのである。

 

  こういった戦争の解決策はあるのだろうか。オルテガが言うように、歴史的教訓、既存の手法・技術では解決しえない新たな問題であり、試行錯誤以外に手はなさそうである。

  オルテガは、人類は理想的な政策手法を獲得したかに見えて、実は、とてつもなく複雑怪奇な「生」に突入し、精神・思想という知的生命体が元来、進歩・進化させなければならない分野が退化・後退するのではないかと危惧した。オルテガの大衆社会論が発表されて90年を経て、このことが現実問題となってきたのである。

  「大衆の反逆」は、様々な視点から大衆を観察している。この大衆社会論を議論するには、オルテガが書いたと同じだけのページが必要だろう。「大衆の反逆」の最後は、「国家」と「世界」についてであるが、この項については、この昭和の大衆精神とは別に考えることにし、終わりにオルテガの言葉を引用することにする。

 

  「人間の生は、望むと望まざるとにかかわらず、つねに未来の何かに従事しているのである。だからこそ、生きるということは、つねに休むことも憩うこともない行為である。なぜ人々は、あらゆる行為は、一つの未来の実現であることに気づかなかったのだろうか。

・・・・・・・・・つまり、人間にとっては、未来と関係していないものは全て無意味だといえるのである。」

 

2023/11/09

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和50年~昭和63年―

秋 隆三

 

<欲望の時代の始まり:昭和末期>

 

  昭和40年代から50年代初頭にかけて、東大紛争後に過激化した日本赤軍事件が相次ぎ、よど号ハイジャック、リンチ殺人、浅間山荘、ダッカ日航機ハイジャック事件等が起こった。

  現代の状況を思えば、すごい事件ばかりであったが、何故か風が通り抜けるように過ぎていった印象しかない。大衆の日常生活とはあまりにもかけ離れていたのである。

  庶民にとっては、こういった殺伐として事件より、昭和48年末にはじまる第一次オイルショックの方が衝撃であった。第4次中東戦争の勃発により、原油価格が瞬時に4倍に高騰した。全国のスーパーからトイレットペーパーがなくなったのだから驚きである。

  ウクライナ戦争で石油価格が高騰したが、せいぜい2倍程度である。今から50年前には、想像を絶する価格高騰があったのだ。

  昭和53年には第二次オイルショックが発生し、この時は原油価格が2.7倍に上がった。原因は、イラン革命、イラン・イラク戦争であった。

 

  第一次オイルショックに先立って、昭和48年2月に、外国為替が固定相場制から変動相場制へと移行した。1ドル360円が一気に270円台に突入し、さらに昭和60年のプラザ合意によって1ドル240円台の為替レートが200円まで上がり、5年後には120円台にまで上昇する。昭和後期は、まさに為替戦争の真っ只中にあった。

 

  バブル景気は、昭和61年から平成3年までを言うようだが、既に昭和40年代後半からその兆候が現れ始め、昭和50年代後半には土地価格の急騰などの土地バブルが始まっていた。といっても、土地価格の上昇は、戦後ズーッと続いていたのであるが。

 

  現在の円安動向がどうのこうのというが、この程度の為替変動などは、この昭和後期では変動でも何でもなく、日常茶飯事の些末な変動にしか過ぎなかったのである。

 

  このバブル経済は、1億総国民が欲望の渦に巻き込まれた時代であった。株だ債券だ土地だと目の色を変えて追いかけた。勿論、バブル経済の危険性について冷静に考える人達もいたことは確かだが、儲けられるときには儲けておこうというのが大衆の精神であった。まさに、NHKが言う「欲望の資本主義」の様相が大衆にまで及んだのである。

 

  オルテガは、「大衆の反逆」において、「たしかに人類の新しいそして比類なき組織への移行過程でもありうるが、しかし、同時に、人類の運命における一つの破局ともなりうる」と言っている。人類を日本大衆と置き換えても良い。オルテガは、1930年代のヨーロッパは、危ういとしてこういう表現をしたのだが、人間の進歩には必ず退化と後退の危険性が伴うと言いたかったのである。オルテガは続けて言う。「なぜならば、個人的であれ集団的であれ、人間的であれ歴史的であれ、生というものは、この宇宙において危険をその本質とする唯一の実態だからである」と。

  生命体というものは、人間であれ動物であれ、昆虫であれ植物であれ、命あるもの全て、生きていることそれ自体が奇跡なのである。

 

  こういったバブル景気のさなかに、エズラ・ヴォーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出した。大衆は、この本のタイトルだけで満足した。大衆だけではない。ごく少数の指導的立場にある、官僚、企業経営者、学者までもが有頂天になった。日本型経営は正しいと。しかし、この時代の世界の技術は、情報革命の真っ只中にあった。パソコンと通信である。特にアメリカは、1995年に発売されるWindows95に向けて必死の投資が続けられていたのである。バブル崩壊とともに、日本は退化と後退の闇穴へと落ちていく。

 

  昭和50年以後、昭和最後までの歌謡曲も、これまた、これでもかと言わんばかりの多さである。

  かなりはしょってしまった。この時代は、とにかく忙しかった。連日の徹夜などは当たり前であり、現代の働き方改革等は夢の又夢であった。聞いた覚えがある曲は沢山あるが、強く印象に残る曲は少ない。原因は、多忙にあると思うが、次から次へと出てくる歌謡曲の多さであろう。ニューミュージックでは、ただただ言葉で飾る恋病歌や叙情歌である。演歌からニューミュージックまで、曲調もまた多様となっていた。

記憶に残る歌謡曲を拾い上げることにした。

 

<昭和50年~昭和63年の歌謡曲>

 

(170)心のこり(昭和50年)

作詞:なかにし礼、作曲:中村泰士、細川たかしがやけに明るい声で高らかに歌う、女性の失恋の歌である。女性の失恋は、失意のどん底にあるのではない。ケセラセラ、明日があるのである。

https://www.youtube.com/watch?v=tntpuvs2byY

 

(171)さだめ川(昭和50年)

作詞:石本美由起、作曲:船村徹、ちあきなおみが歌ってヒットする。島津亜矢版と聞き比べをどうぞ。

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=Yi_XTGZxXf4

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=x1eF89Vs2gM

 

(172)釜山港へ帰れ(昭和47年韓国、昭和52年日本)

大韓民国の歌謡曲が日本でヒットした初めての曲である。

元詞・作曲:黄 善友 日本語詞:三佳令二

渥美二郎版

https://www.youtube.com/watch?v=C3ARKfqp1EY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=q3aBXAPN6Is

チョー・ヨンピル版

https://www.youtube.com/watch?v=zNXctKc4gkA

 

(173)中の島ブルース(昭和50年)

作詞:須田かつひろ/作曲:吉田佐、内山田洋とクールファイブが歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=M8-pqLIimfs

 

(174)およげ!たいやきくん(昭和50年)

作詞: 高田ひろお、作曲:佐瀬寿一、フジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』で‎子門真人が歌って450万枚を超える大ヒットとなった。子供向けの楽曲が何故これほど売れたのか。団塊世代が生んだ子供達が幼年期となり、第二団塊世代による需要増が見込まれるようになったのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=Cfz3CcmTROY

 

(175)北の宿から(昭和50年)

作詞: 阿久悠、作曲:小林亜星、都はるみ67枚目のシングルである。演歌というよりは、ニューミュージックというジャンルであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=QKmma_bRdQE

 

(176)津軽海峡冬景色(昭和52年)

作詞: 阿久悠、作曲: 三木たかし、石川さゆりが歌いヒットした、

https://www.youtube.com/watch?v=nIN8pXMsl9U

 

(177)夕焼け雲(昭和52年)

作詞:横井弘. 作曲:一代のぼる、千昌夫が歌ってヒット。

https://www.youtube.com/watch?v=suUUNwXGtH4

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=E5ImxQrfDtk

 

(178)北国の春(昭和52年)

作詞:いではく、作曲:遠藤実、千昌夫が歌い、日本だけでなくアジア全体でヒットした。

若い頃は、遠藤実の曲をそれほどいいとは思っていなかった。しかし、今回、昭和歌謡曲を整理すると、この作曲家がただものではないことを知った。日本語の詩・言葉を、無理なく曲へと変換する名人ではないだろうか。この曲もそうだが、美空ひばりが歌った「哀愁出船」などはそれを端的に示している。

  哀愁出船(昭和38年)

   作詞:菅野小穂子、作曲:遠藤実

   美空ひばりが紅白歌合戦でオオトリで歌った貴重な映像つきである。これは美空ひばり生涯の中でも逸品であろう。

  美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=8RD4sSVZdsc

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=9GPhkS0sDXA

 

船村徹が作曲した「哀愁波止場」(昭和35年 石本美由紀作詞)という曲がある。船村徹と遠藤実は昭和7年生まれの同い年である。この両曲は、実は、Bmというコード進行でほぼ同じである。遠藤実が、船村徹の「哀愁波止場」のコード進行にインスパイアされたかどうかはわからないが、同じようなコード進行であっても全く違う曲になっている。どうぞ、聞き比べを。

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=S0WqvSXazdk

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gND5TjN9ieM

 

(179)与作(昭和53年)

作詩・作曲、七沢公典、歌:北島三郎。

https://www.youtube.com/watch?v=7pF0GoFnjIg

 

(180)舟歌(昭和54年)

作詞:阿久悠、作曲:浜圭介、八代亜紀が歌って大ヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=_hO22b2gcYY

 

(181)奥飛騨慕情(昭和55年)

竜鉄也作詞・作曲・歌。累計販売数300万枚以上と言われている。

https://www.youtube.com/watch?v=c_qKXOFVOI0

竜鉄也は独特な声で歌っているが、曲はなかなかなものである。

竜鉄也が作曲し、美空ひばりが歌った裏町酒場という曲がある。(作詞、さいとう大三)これも、いい演歌である。

美空ひばり版(昭和57年)

https://www.youtube.com/watch?v=BT6o8ZHa_NE

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=4qUN3IRbdAI

 

(182)望郷酒場(昭和56年)

作詞:里村龍一、作曲:桜田誠一、千昌夫が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=36sjcPtSI3U

島津亜矢版。これがいい。

https://www.youtube.com/watch?v=srdsn5afi3s

 

(183)昭和流れうた(昭和60年)

作詞:いではく、作曲:遠藤実、森進一が歌ってヒットした。「いではく」は遠藤実の弟子である。母の好きな歌だった。

https://www.youtube.com/watch?v=yMmJhdEyszQ

 

(184)お久しぶりね(昭和58年)

作詞・作曲:杉本真人で小柳ルミ子が歌った。それほどヒットしたわけではないが、杉本真人の作曲であることから掲載した。こういう曲も作っていた。なかなかの曲ではないか。

https://www.youtube.com/watch?v=PA_uw20Qc38

 

最近、杉本真人にはまったので、続けて三曲掲載しよう。

冬隣(昭和63年)

作詞:吉田旺,作曲:杉本眞人、歌:ちあきなおみ

https://www.youtube.com/watch?v=K7K1EYgB3T0

これも「ちあきなおみ」版と言われているがどうも違うようなのだが?

https://www.youtube.com/watch?v=-7UKbfEC1vM

紅い花(平成3年)

作詞:松原史明,作曲:杉本眞人、歌:ちあきなおみ

https://www.youtube.com/watch?v=l2Lr4S8lmXo

吾亦紅(2007年)

作詞:ちあき哲也,作曲・歌:杉本眞人

https://www.youtube.com/watch?v=cs_pCM7Q7Jo

 

(185)ラブ・イズ・オーヴァー

作詞・作曲:伊藤薫、台湾の歌手欧陽菲菲が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=ioCsP0m_d-E

 

(186)雪国(昭和61年)

作詞・作曲・歌:吉幾三。

https://www.youtube.com/watch?v=bqEJ2O4nigQ

 

(187)天城越え(昭和61年)

作詞:吉岡治,作曲:弦哲也、石川さゆりが歌ってヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=cwL09UKDqdI

 

(188)みだれ髪(昭和62年)

作詞:星野哲郎 作曲:船村 徹 歌手:美空ひばり

https://www.youtube.com/watch?v=WSHdsS0ms7E

 

いよいよ昭和最後に、美空ひばりの2曲である。

愛燦燦(昭和63年)

作詞・作曲: 小椋佳

https://www.youtube.com/watch?v=nMXQUl-2M7E

 

川の流れのように(昭和64年、平成元年)

作詞:秋元康,作曲:見岳章

https://www.youtube.com/watch?v=e79qXOB7nrs

 

<ニューミュージック>

 

(189)我が良き友よ(昭和50年)

作詞・作曲:吉田拓郎、かまやつひろしが歌ってヒット。

https://www.youtube.com/watch?v=XExjTr9HYkI

https://www.youtube.com/watch?v=j1qdEYacGpY

 

(190)酒と涙と男と女(昭和50年)

作詞作曲:河島英五、河島英五が歌ってヒットした。どうしようもない寂しさの時、男は酒をあおって寝、女は泣きつぶれて寝るという。本当か?

https://www.youtube.com/watch?v=Uxy9Keo_KVc

 

河島英五が歌ってヒットした「時代おくれ」という曲がある。昭和61年にリリースされたが、日本酒のコマーシャルソングであったそうだ。

作詞:阿久悠、作曲:森田公一

河島英五版

https://www.youtube.com/watch?v=FPzjn9iogxc

玉置浩二がカバーしているがこれがいい。

https://www.youtube.com/watch?v=2mVwR15KamU

 

(191)シクラメンのかほり(昭和50年)

作詞作曲:小椋佳、布施明が歌って100万枚を超える大ヒットとなる。

https://www.youtube.com/watch?v=wGVVJXvSWC0

 

(192)無縁坂(昭和50年)

作詞・作曲・歌:さだまさし。

https://www.youtube.com/watch?v=kiXvdDhUJ3A

 

精霊流し(昭和49年)

https://www.youtube.com/watch?v=YYdv1XrCqX8

 

案山子(昭和52年)

https://www.youtube.com/watch?v=q-YWPosTX1M

 

関白宣言(昭和54年)

https://www.youtube.com/watch?v=tsXkp9FVzgg

 

関白失脚(昭和54年)

https://www.youtube.com/watch?v=pq9hnKyZtuU

 

雨やどり(昭和52年)

https://www.youtube.com/watch?v=C_5AcQyINh8

もう一つの雨やどり

https://www.youtube.com/watch?v=C_5AcQyINh8

 

(193)わかって下さい(昭和51年)

作詞・作曲・歌:因幡晃でヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=3OCZluBj2xQ

ちあきなおみ版である。これがいい。

https://www.youtube.com/watch?v=V8C__pkd4jM

 

(194)あんたのバラード(昭和52年)

世良公則作詞・作曲、世良公則&ツイストのデビュー曲。

https://www.youtube.com/watch?v=OKl-WniLtzs

 

(195)ホームにて(昭和52年)

中島みゆき作詞・作曲・歌。中島みゆきの隠れたヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=FfwQVTa-9l0

昭和50年代から中島みゆきが注目されヒット曲を量産していく。

アザミ嬢のララバイ

https://www.youtube.com/watch?v=uGnyHf1cm-0

時代

https://www.youtube.com/watch?v=Ry_bpaKDcAo

ファイト

中島みゆき版

https://www.youtube.com/watch?v=gYzaUDa4A90

吉田拓郎版  これがなかなかいい。

https://www.youtube.com/watch?v=S8GVuQhf7WQ

 

(196)青葉城恋歌(昭和53年)

星間船一作詞、さとう宗幸作曲・歌。

https://www.youtube.com/watch?v=u-GYBCktieU

 

(197)いい日旅立ち(昭和53年)

谷村新司作詞・作曲、山口百恵が歌ってヒットした。国鉄の旅行キャンペーンソングである。

https://www.youtube.com/watch?v=QKjLZkAdDus

 

山口百恵が登場したので、さだまさしの「秋桜」も挙げておこう。

https://www.youtube.com/watch?v=mBmp1ThfGt0

 

(198)季節の中で(昭和53年)

松山千春作詞・作曲・歌。

https://www.youtube.com/watch?v=QHQvJd1cg-0

 

(199)贈る言葉(昭和54年)

作詞:武田鉄矢、作曲:千葉和臣、海援隊が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=9c5SbpPMUEE

 

(200)恋人よ(昭和55年)

作詞・作曲・歌、五輪真弓。

https://www.youtube.com/watch?v=qhsEV3SAT4w

 

(201)昴

作詞・作曲・歌:谷村新司。これもアジア全域で歌われたロングヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=VMhAgFIgfpg

 

(202)なごり雪(昭和50年)

作詞・作曲:伊勢正三、かぐや姫、カバーイルカでヒット。

https://www.youtube.com/watch?v=H2TR3oEA13o

雨の物語(昭和52年)

https://www.youtube.com/watch?v=OKN_zkHcEs0

 

(203)俺ら東京さ行ぐだ(昭和59年)

作詞・作曲・歌:吉幾三

https://www.youtube.com/watch?v=UzRVEQDxiOo

俺はぜったい!プレスリー

https://www.youtube.com/watch?v=7OareNAj6fc

 

(204)ワインレッドの心(昭和54年)

作詞:井上陽水,作曲:玉置浩二、安全地帯。

https://www.youtube.com/watch?v=IbdcIIY3_EU

 

メロディー(昭和61年)

https://www.youtube.com/watch?v=nIACxpcD4r4

 

 

<戦後昭和とは?>

 

  歌謡曲を通して戦後昭和の様相を見てきた。戦争で失った350万人を超える命と引き替えに、戦後は「進歩」こそが正義であるとして突き進んだ。思想・制度は、自由主義的民主主義国家先進国であるアメリカの借り物でよい。経済を立て直し、貧乏からの脱却こそが進歩だと。

  戦後昭和は、奇跡的な経済回復を成し、昭和末期のバブル経済により世界第二位の経済大国に上り詰めた。

  破れかぶれに歌った「リンゴの唄」に始まる大衆歌は、昭和40年代にフォークへ、50年代にはニューミュージックへと変容する。

  この日本にオルテガの言う「大衆」と呼べる群衆が誕生するのは、この戦後昭和期になってからである。昭和40年代末の赤軍事件を最後に、この国では政治的思想に基づくテロは起こっていない。平成に入ってからオウム真理教事件が発生するが、政治性の微塵もない。

  昭和末期には、日本の科学技術は世界でも有数のものとなっていた。つまり世界でも有数の文明国となっていたのである。オルテガが言うように、昭和50年代以後に誕生した子供達にとって、文明の諸原理はどうでもよく、文明の産物にこそ感心がある。これは、現代にも通じる。スマホという文明の産物には熱中するが、スマホという文明の諸原理には感心がないのである。2000年代に入ると、当時の10代後半、20代、30代の若者達の純粋科学に対する関心は極めて低くなった。オルテガが「大衆の反逆」を書いた1930年代のヨーロッパも同じであった。

 

  歌謡曲を聞いていると、ニューミュージックというジャンルにおける言葉の多さが気になってしょうがない。これでもかと日本語ばかりではなく、英語も交えてやたら沢山並べ立てる。これは、現代歌謡でも同様である。考えようによっては、言葉はどうでもいいのだ。歌には言葉が必要で、ハミングだけでは物足りないからではないかと思える。

  日本語の詩には韻がないので、言葉の持つリズムが唄になる。それが、言葉と一緒になって心に響く。つまり、感情を揺り動かす。中脳から直接大脳前頭葉に延びるニューロンに信号が走り、言葉の意味を瞬時に解読するのである。

  人間だけが理解する音楽とは、こういうものではないだろうか。

 

  戦後昭和の歌謡曲を随分聞くことができた。ついでに、ギターで弾き語りをしていると、老化した自律神経が再生されるような気がする。

 

  次回は、エピローグとして、オルテガをまとめることにする。1930年代ヨーロッパの大衆の精神と、ウクライナ戦争下の現代大衆は、よく似ているのである。歴史は必然であり繰り返すことはない。しかし、精神の退化・後退はあるのである。

2023/08/12

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和42年~昭和49年―

秋 隆三

<昭和40年代とは?>

 

  やっと、昭和40年代に入ることができた。歌謡曲を聞いていると、聞いただけで何となく納得してしまい、その時代とは何だったのかと考究することを忘れてしまう。オルテガの言う大衆とは、こういうものなのだろう。

 

  昭和46年に丸山真男の「日本の思想」(岩波新書)が出版された。丸山が書いたのは、昭和32年から34年頃であるが、昭和30年代、40年代の思想界について論じたものと言えよう。

122ページまでは、かなり専門的であり、丸山の思想研究の総括とも言うべき論点が整理されているが、なかなかに読みにくい。第3章「思想のあり方」(昭和32年岩波文化講演会の収録)についてからが、丸山の本音が見えてくるところである。

  丸山は、第3章冒頭で「人間はイメージを頼りにして物事を判断する」として次のように述べている。「こういうふうにして何となくいつの間にか拡がっていったイメージがほんものから離れて一人歩きする・・・・・・・。自分が環境から急激なショックを受けないように、あらかじめ個々の人間について、あるいはある集団、ある制度、ある民族について、それぞれイメージを作り、それを頼りに思考し行動する・・・」。

  現代脳科学においても同様に説明できるが、急激なショックというわけではなく、人の記憶や思考というものは、抽象化された言葉でなされているので、例えば、赤いリンゴも黄色いリンゴもリンゴとして記憶し、リンゴの味やにおいも同様に抽象化された記憶なのである。丸山が言うイメージとは、記憶と思考における抽象性と捉えられよう。これは、人工知能のディープラーニングにおいても同様である。こういったメカニズムがAIと脳とで同じかどうかはわからないが。

  しかし、世の中がますます複雑怪奇になり、多様になると自分の抱いているイメージでは感覚的に現実を確かめることができなくなる。つまり、環境が複雑になると、われわれと現実の環境の間に介在するイメージの層が厚くなってしまい、固まってしまうのだと丸山は言う。そして、ついには、無数のイメージが独自の存在、つまり化け物と化してしまう。簡単に言えば、「アメリカとはこういう国だ」という場合である。

丸山は、このあと日本思想の特殊性について、有名な「タコツボ」型文化の解説を始める。

  

  一方、同時代の会田は、「日本のナショナリズム」を力説する。ナショナリズムを欠いているということがどれだけ世界史的にみて特殊なことかと言う。そのとおりであろう。

  

丸山は、日本の特殊性について、学問や組織が過度に専門化していく問題は、世界共通だが、日本の機能集団の多元的な分化は、それとは別であり、人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがないことが問題だと言う。欧米には教会やサロンがあるが、日本にはそのようなものはない。個別の機能集団がタコツボ化していくと、集団間相互のコミュニケーションが失われ孤立化する。戦前には、「天皇制」によって国民的意識の統一を図っていたが、戦後にその結び目がほぐれてしまったと言う。

 

  タコツボ化した機能集団の集まりである日本にナショナリズムなど育つはずがないのである。

 

  この状況は、バブル崩壊後にさらに激しくなった。経済のグローバル化だ、中国進出だ、アジアだと世界に飛び出した企業集団は、丸山の言うタコツボ文化を保ったまま飛び出した。機能集団とは別の日本人としての共感、統一感、精神、思想の何も持たずにである。勿論、アメリカ人にそれがあるかと言えば、明確なものを指摘することは難しいだろうが、機能集団以外のコミニュケーション手段、例えば、クエーカー教徒であるとかクリスチャン等がある。

 

  さて、昭和40年代の世相はどうだったろうか。ベトナム戦争が激しさを増し、学生運動は過激さを増していた。経済は、高度経済成長の真っ只中である。物価、地価はどんどん上がるが、給与も上がる。団塊世代が成人となり、膨大な労働力が供給されると同時に、消費も一気に拡大する。

 

  昭和歌謡もこの時代に突入すると同時に激変することになる。これまでの演歌は影が薄くなり、ムード歌謡、日本型シャンソン、フォークへと多様化する。

  それでも、昭和30年代後半から、三波春夫の歌謡浪曲は爆発的なヒットを放つ。忠臣蔵を題材にしているが、この時代の企業組織の拡大・成長に伴う組織と個人の葛藤や、組織強化のイメージと重なるものがあったに違いない。忠臣蔵は、現代においても暮れになると必ずと言って良いほどTVドラマで放送される。日本大衆の精神は、それほど変化していないのかもしれない。

 

  それでは、昭和42年から49年までの歌謡曲を見ていこう。歌謡曲とフォークを分けて整理した。

 

<昭和42年~49年の歌謡曲>

 

(112)あなたのすべてを(昭和42年)

佐々木勉 作詞・作曲で歌も歌っている。恋病であるが、この時代に入ると、恋に落ちる歌がはやりだす。歌謡曲というよりは、フォークの先駆けとも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=LwcSpXN_UXQ

 

(113)粋な別れ(昭和42年)

浜口庫之助作詞・作曲、石原裕次郎が、主演映画「波止場の鷹」の主題歌として歌った。石原裕次郎主演の日活映画は、この時代すごいもので、1年に6作ぐらい制作されている。石原裕次郎の声質がずば抜けている。

https://www.youtube.com/watch?v=13jGH-JcOzI

ちあきなおみ版である。ちょっと面白い。

https://www.youtube.com/watch?v=5MvXDyHWY00

 

 同年の映画「夜霧よ今夜も有難う」も、浜口庫之助の作詞・作曲である。この歌も裕次郎にぴったりである。

https://www.youtube.com/watch?v=rVG3x1BsE-4

 

(114)君こそわが命(昭和42年)

作詞は川内康範、作曲は猪俣公章で水原弘の奇跡のカムバック曲である。この曲も恋に落ちる曲である。昭和20年代、30年代の失恋とは違う新たな恋病の歌謡曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=PljdauSi1wY

 

(115)こまっちゃうな(昭和41、42年)

遠藤実の作詞・作曲で山本リンダが歌って100万枚を突破した。遠藤実がこんな歌も作曲するのかと驚きである。

https://www.youtube.com/watch?v=pIAo-CxHKiM

 

(116)小指の想い出(昭和42年)

作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳、伊東ゆかりが歌ってヒットした。これも、昭和の新しい恋病の歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=tS24d0fCFfA

 

(117)三百六十五歩のマーチ(昭和43年)

作詞:星野哲郎、作曲:米山正夫、水前寺清子が歌いヒットした。ベトナム反戦運動等、そろそろ社会が騒がしくなり始めた頃であるが、何とも明るく、しっかり地に足をつけて頑張ろうという歌である。水前寺清子の明るい声質とぴったりフィットした。

https://www.youtube.com/watch?v=BCk5t8DTzRs

 

(118)世界は二人のために(昭和42年)

作詞:山上路夫、曲作・編曲:いずみたく、佐良直美が歌いヒットした。どちらかと言えばフォーク調である。

https://www.youtube.com/watch?v=434GlcJIVbY

いいじゃないの幸せならば(昭和44年)もヒットした。この詩は、面白い。

作詞:岩谷時子/作曲・編曲:いずみたく

 https://www.youtube.com/watch?v=_0ZcktxfF-g

 

(119)ブルー・シャトー(昭和42年)

橋本淳作詞、井上忠夫(当時。後に井上大輔)作曲、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが歌いヒットした。GS(グループ・サウンズ)が、僅かな期間であるが流行する。

https://www.youtube.com/watch?v=52YWxKiVr1o

 

(120)伊勢佐木町ブルース(昭和43年)

作詩:川内康範 作曲:鈴木庸一 編曲:竹村次郎、青江三奈の再起ヒット曲である。この時期、ご当地ソングが流行する。

https://www.youtube.com/watch?v=s-dLf7e3cH4

 

(121)命かれても(昭和42年)

作詞:鳥井実/作曲:彩木雅夫 森進一が歌った。この時期、森進一が活躍し、数々のヒット曲が生まれる。

https://www.youtube.com/watch?v=99YRi4YNktI

  盛り場ブルース

  年上の女

  一人酒場で

 

(122)ブルーライト横浜(昭和43年)

作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平 いしだあゆみが歌ったご当地ソング。

https://www.youtube.com/watch?v=F8RPkEl6pyM

 

(123)星影のワルツ(昭和43年アレンジ版)

作詞:白鳥園枝/作曲・編曲:遠藤実 千昌夫 アジアでもヒット

https://www.youtube.com/watch?v=sQUosDz7w8g

 

(124)いい湯だな(昭和41年、43年)

永六輔作詞、いずみたく作曲、昭和41年にデューク・エイセスが歌っている。群馬県のご当地ソングとしてリリースされたとのことである。昭和43年にザ・ドリフターズが歌い、「8時だよ全員集合」で使用してヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=UcqfxF-cJOo

 

(125)今日でお別れ(昭和42年、44年再発売)

作詞:なかにし礼、作曲:宇井あきら、菅原洋一が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=nnYHCEO1sLA

 

(126)座頭市

川内康範作詞、曽根幸明作曲、勝新太郎が歌った。

勝新太郎主演で26作シリーズ映画の主題曲。主題曲は、その作品によって様々であり、この歌は後年作られた。

 

(127)東京でだめなら(昭和44年)

作詞:星野哲郎、作曲:首藤正毅、水前寺清子が歌った。東京でだめなら名古屋があるさ、名古屋がだめなら大阪があるさ・・・と夢さえあればどこかで花が咲くと歌う。現代では、とても考えられない歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=fDlXNacri1k

 

(128)長崎は今日も雨だった(昭和44年)

作詞:永田貴子,作曲:彩木雅夫、内山田洋とクール・ファイブの最大のヒット曲。

https://www.youtube.com/watch?v=YGfseX5WdVE

 

(129)港町 涙町 別れ町(昭和49年)

浜口庫之助作詞作曲、石原裕次郎が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=3ziMhYBGs2g

 

(130)港町ブルース(昭和44年)

作詞:深津武志/補作詞:なかにし礼、作曲:猪俣公章、森進一が歌ってヒットした全国港町を網羅したご当地ソング。

https://www.youtube.com/watch?v=LMaLeZAJEIU

 

(131)男はつらいよ(昭和44年)

作詞:星野哲郎,作曲:山本直純、渥美清が映画「男はつらいよ」の主題歌として歌った。26年間に48作が公開された。

https://www.youtube.com/watch?v=qjd-4rrX1K8

玉置浩二が歌っている。

https://www.youtube.com/watch?v=EHl1BbyChnI

 

(132)希望(昭和45年)

作詞:藤田敏雄、作曲:いずみたく、編曲:川口真 岸洋子が歌ってヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=fSbTj_zl1CE

 

(133)京都慕情(昭和45年)

作詞:ザ・ベンチャーズ、訳詩:林春生,作曲:ザ・ベンチャーズ 渚ゆう子が歌ってヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=zekvNWZlStM

 

(134)知床旅情(昭和35年、46年)

森繁久彌が作詞・作曲、森繁久弥が歌っているが、46年に加藤登紀子が再リリースして140万枚を売る。

森繁久弥版

https://www.youtube.com/watch?v=tfjKZD03Ox8

加藤登紀子版

https://www.youtube.com/watch?v=OGXCachBfYY

 

(135)また逢う日まで(昭和46年)

作詞:阿久悠 作曲・編曲:筒美京平、尾崎紀世彦がうたって大ヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=CCUN3658HKU

 

(136)よこはま たそがれ(昭和46年)

作詞:山口洋子/作曲:平尾昌晃、五木ひろしと名前を変えてやっとヒットした曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=tPCWCN1QoGA

 

(137)わたしの城下町(昭和46年)

作詞:安井かずみ。作曲:平尾昌晃、小柳ルミ子が歌いヒットした。オリコン12週1位の記録がある。

https://www.youtube.com/watch?v=UaKe0TwITlc

 

(138)おまえに(昭和41年、47年)

岩谷時子、吉田正、フランク永井が歌い、昭和52年に再リリース、ロングヒットの代表作である。

https://www.youtube.com/watch?v=GgX0WMrmH1c

 

(139)喝采(昭和47年)

作詞:吉田旺、作曲:中村泰士。ちあきなおみが歌い大ヒット。

https://www.youtube.com/watch?v=tOGB74vILT0

 

(140)せんせい(昭和47年)

作詞:阿久悠,作曲:遠藤実、森昌子が歌った。山口百恵、桜田淳子とともに「花の中三トリオ」。

https://www.youtube.com/watch?v=EYnuZLPbTsE&list=PL188D7F83B63C222F&pp=iAQB

 

(141)どうにもとまらない(昭和47年)

作詞:阿久悠,作曲:都倉俊一、山本リンダが歌った。何とも言いようのない歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=ceC9CXXDAto

 

(142)五番街のマリーへ(昭和48年)

作詞・作曲: 阿久悠(作詞); 都倉俊一、ペドロ&カプリシャスが歌ってロングヒットとなる。

https://www.youtube.com/watch?v=CxKS8mFGRTw

 

  ジョニーへの伝言

https://www.youtube.com/watch?v=vz5k2UrrYoQ

 

(143)花街の母(昭和48年)

作詞:もず唱平,作曲:三山敏、金田たつえ

https://www.youtube.com/watch?v=i7MUz-7Gzt8

 

(144)昭和枯れすすき(昭和49年)

作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし、さくらと一郎

https://www.youtube.com/watch?v=iHpdxhwgJpA

 

(145)二人でお酒を(昭和49年)

作詞・作曲: 山上路夫(作詞); 平尾昌晃、梓みちよ

https://www.youtube.com/watch?v=NE3ttugoKq4

 

 

<フォーク・ソング 昭和42年~49年>

 

(146)この広い野原いっぱい(昭和42年)

小薗江圭子の作詞、森山良子の19歳のときの曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=BZBbi7bUa3M

 

(147)帰って来たヨッパライ(昭和42年)

作詞:フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修)、作曲:加藤和彦、編曲:ザ・フォーク・クルセダーズが歌った。アングラフォークと呼ばれる。

https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

 

  イムジン河(昭和43年)

  作詞・作曲: 作詞:朴世永、松山猛(訳詞)

https://www.youtube.com/watch?v=0MdCLjr9STs

 

(148)山谷ブルース(昭和43年)

作詞:平賀久裕・岡林信康、作曲・編曲:岡林信康

日本のフォーク・ソングとして、高石ともやの「受験ブルース」と共に大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=6n4mJsMi81g

 

友よ(昭和44年)

歌:岡林信康. 作詞:岡林信康. 作曲:岡林信康

1969年、新宿駅西口地下広場で展開されたベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)で歌われた。歌った記憶がある。

https://www.youtube.com/watch?v=MOOpLHTV8Go

 

(149)受験生ブルース(昭和43年)

作詞:中川五郎/作曲:高石友也

https://www.youtube.com/watch?v=_VpFqy3f7ok

 

(150)自衛隊に入ろう(昭和44年)

作詞:高田渡、作曲:ピート・シーガー(アンドラより)。この高田渡という歌手は何とも言えないムードがある。

https://www.youtube.com/watch?v=QfffBvRhlNA

 

(151)風(昭和44年)

作詩:北山修、作曲:端田宣彦 シューベルツ

https://www.youtube.com/watch?v=ugtGClQLUdQ

 

(152)白い色は恋人の色(昭和44年)

作詞: 北山修、作曲: 加藤和彦 ベッツィ&クリス

https://www.youtube.com/watch?v=aF5ATASda74

 

(153)白い珊瑚礁(昭和44年)

阿久悠、田辺信、ズー・ニー・ヴー

https://www.youtube.com/watch?v=oHfiHKjkhAw

 

(154)白いブランコ(昭和44年)

作詩:小平なほみ、作曲:菅原進、ビリーバンバン

https://www.youtube.com/watch?v=b4iMbJi_-2c

 

(155)アンドレ・カンドレ(井上陽水)/カンドレ・マンドレ(昭和44年)

作詞・作曲:マンドレ(井上陽水) 井上陽水のデビュー曲、昭和46年に井上陽水として再デビュー。

https://www.youtube.com/watch?v=vcOr3y_MPSw

傘がない(昭和47年)

https://www.youtube.com/watch?v=bnEX9lJACKU

夢の中へ(昭和48年)

https://www.youtube.com/watch?v=zIxBzIgdPeE

心もよう(昭和48年)

https://www.youtube.com/watch?v=9TWH8nj7dFM

 

(156)時には母のない子のように(昭和44年)

作詞:寺山修司/作曲:田中未知、カルメン・マキ

https://www.youtube.com/watch?v=TuN03KG8Ymk

 

(157)ひとり寝の子守歌(昭和44年)

作詞:加藤登紀子,作曲:加藤登紀子

https://www.youtube.com/watch?v=hfYDxsH7xr4

 

(158)フランシーヌの場合(昭和44年)

いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲、新谷のり子 プロテスト・フォークの代表作

https://www.youtube.com/watch?v=fIYFbDQPNJg

 

(159)真夜中のギター(昭和44年)

作詞:吉岡治/作曲:河村利夫、千賀かほるが歌いロングヒット

https://www.youtube.com/watch?v=SZALv1S3NUM

 

(160)竹田の子守歌(昭和44年)

採譜したのは、作曲家の尾上和彦 森山良子、赤い鳥等が歌っている・

場所は、京都市伏見区竹田と言われる。

https://www.youtube.com/watch?v=1IeuDyR3ax4

 

(161)誰もいない海(昭和42年、43年、45年)

作詞:山口洋子、訳詞:ジェリー伊藤、作曲:内藤法美、トワ・エ・モワ、越路吹雪が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=TdRQE_dLgxs

越路吹雪版

https://www.youtube.com/watch?v=pLNw0I4Kt4Q

 

(162)酔いどれ女の流れ歌(昭和45年)

みなみ らんぼう作詞作曲、森本和子が歌った。

加藤登紀子版

https://www.youtube.com/watch?v=fVF8sD4FMnc

 

(163)イメージの詩(昭和45年)

作詞:吉田拓郎,作曲:吉田拓郎 吉田拓郎のデビュー曲。

https://www.youtube.com/watch?v=Jp24mwqQ9WQ

結婚しようよ(昭和47年)

https://www.youtube.com/watch?v=ryutpbPwrz4

旅の宿(昭和47年)

https://www.youtube.com/watch?v=i0IvbEXMRsY

 

(164)花嫁(昭和46年)

作詞: 北山修 、作曲: 端田宣彦・坂庭省悟、はしだのりひことクライマックス

https://www.youtube.com/watch?v=c38bMZzPGm0

 

(165)神田川(昭和48年)

作詞:喜多条忠、作曲:南こうせつ、南こうせつとかぐや姫

https://www.youtube.com/watch?v=JSgyHiKESGw

 

(166)白いギター(昭和48年)

作詞:林春生/作曲・編曲:馬飼野俊一、チェリッシュ

https://www.youtube.com/watch?v=QwTWA60blbA

テントウムシのサンバ(昭和48年)

https://www.youtube.com/watch?v=1KNX3_REMOk

 

(167)愛のくらし(昭和46年)

作詞:加藤登紀子、作曲:アルフレッド・ハウゼ

https://www.youtube.com/watch?v=Gl_6vLHLegM

黒の舟歌(昭和49年)

作詞:能吉利人,作曲:桜井順、加藤登紀子

https://www.youtube.com/watch?v=lsZdcs-USwQ

 

(168)襟裳岬(昭和49年)

作詞は岡本おさみ、作曲は吉田拓郎、森進一が歌ってロングヒット。

https://www.youtube.com/watch?v=ROsl65oxb2w

 

(169)精霊流し(昭和49年)

さだまさし作詞作曲、グレープ歌。さだまさしの実質デビュー曲となった。

https://www.youtube.com/watch?v=4QEgGwZRIK8

 

 

<ベトナム反戦運動、全共闘等々>

 

  この時代、ベトナム戦争が泥沼化し、学生・若者を中心に反戦運動が広がった。フォークソングは、言わば社会的抵抗運動の声とも言える。

  昭和40年にベ平連が誕生し、昭和49年に解散となる。ソ連のKGBの資金が入っていたとも言われる。

昭和43年の東大安田講堂事件、新宿騒乱、昭和44年の新橋事件は、テレビで実況放送されるなど学生を中心とする運動は過激さを増していた。

  学生運動の背景は、極めて複雑である。戦争反対、平和運動、大学自治等の問題も確かにあったが、急速な経済成長による所得格差・貧困問題もあった。

 

  オルテガは、この時期の40年前、遙かスペインの彼方で、せっせと次のような論文をしたためた。「ヨーロッパに、数年前からいろいろと「奇妙なことが起こり始めている」として、サンディカリズム(労働組合主義と訳されている)とファシズムを挙げ、「サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプが現れた」ことを発見した。そして、大衆である平均人は、「自分の中に「思想」を見出しはするが、考える能力をもたない」と断言する。大衆の「思想」が「真の思想ではなく、恋愛詩曲のように言葉に身をつつんだ欲望に他ならない」とする理由は、「意見は主張するが、あらゆる意見の主張のための条件と前提を認めようとはしない」ことであると言う。

  

  戦後日本は、アメリカ流の自由主義的デモクラシーを突き進んだ。昭和40年代とは、この自由主義的デモクラシーにおける政治権利の最も混乱した時代とも言える。オルテガは、自由主義的デモクラシーについて、見事に以下のように解説している。

  「政治において、最も高度な共存への意志を示したのは自由主義的デモクラシーであった。自由主義的デモクラシーは、隣人を尊重する決意を極端にまで発揮したものであり、「間接行動」の典型である。自由主義は、政治権利の原則であり、社会的権力は全能であるにもかかわらずその原則に従って自分を制限し、自分を犠牲にしてまでも、自分が支配している国家の中に、その社会的権力、つまり、最も強い人々、大多数の人々と同じ考え方も感じ方もしない人々が生きていける場所を残すよう努めることである。自由主義とは至上の寛容さなのである。」

  省略せず全文を載せたが、オルテガは、この結論にいたるまで、あえて焦点をぼかしながら説を展開するとい独特の書法をとっている。

  自由主義的デモクラシーを、「人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたい」と評し、「その同じ人類がたちまちそれを廃棄しようと決心したとしても別に驚くにはあたらない」ことだと言う。人類が自由主義的デモクラシーに到着したこと自体が奇跡なのである。サンディカリズムであろうとファシズムであろうと、近年のロシアの専制国家であろうと、どんな国家が出現しても不思議でも何でもないのである。

  オルテガは、「大衆が何らかの理由から社会的な生に介入した時は、常に「直接行動」という形を」とると断言する。直接行動とは、「従来の秩序を逆転し、暴力を唯一の手段と宣言する」ことであり、自由主義的デモクラシー社会においては、この「直接行動」が公然と認められた規範として現れてきたと言う。1930年代のヨーロッパでは、ナチズムが力を付け、「ほとんどの国において、同質的大衆が社会的権力の上にのしかかり、反対派をことごとく圧迫し、抹殺」していると論じる。

 

  昭和40年代は、平和運動、学生運動、社会主義活動等が入り乱れて社会を騒がせていたが、こういった活動は、大衆の中では少数派であり、多数の大衆は「直接行動」には見向きもせず、日々の生活と経済活動に追いまくられていた。マスコミが、こういった状況を社会変動として大々的に報道しまくった。

 

  この時期の歌謡曲をみると、フォークソングという新しいジャンルが登場するが、これも1960年代後半のボブディランの影響を受けたものを日本流にアレンジすることから始まっている。しかし、昭和40年代後半のフォークには、政治的においは全くなく、恋歌、叙情歌とオルテガの言う、言葉に身をつつんだ日本歌謡へと変わるのである。

 

  丸山の言う「タコツボ」化した機能集団、会田の言う「ナショナリズム」なき大衆の精神は、いよいよ欲望の極致の時代へと突入する。

 

  次回は、昭和50年から昭和63年までの昭和最後の14年間を見ていくことにしよう。

 

2023/07/08

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和33年~昭和41年―

秋 隆三

 

<昭和30年代とは>

 

  なぜ、昭和33年から昭和41年までを一つの区切りにしたかと言えば、まず、昭和33年には売春防止法が施行されたことがある。

  売春は、江戸時代にも禁止令が出ているが公娼制度は、取り締まり外地区として存在し、この売春防止法が施行されるまで、公娼制度は存在していた。ちなみに、小笠原諸島では昭和43年まで、沖縄では昭和47年まで公娼制度があった。世界では、売春の合法化が進んでいる。組織的売春は人権問題はあるが、個人が売春をビジネスとするのには問題はないという考え方である。ヨーロッパのピューリタニズム、プロテスタンティズム等の厳格なキリスト教徒ではかつて、夫婦となるのは子供を生むためであり、夫が性欲を満たすためには売春宿に行っても良いという風習も存在したようであるから、売春が社会的に公認されていたのであろう。結果として、梅毒が猛威を振るうのだが。

  売春はさておいて、大衆の倫理観に大きな影響を与えたと考えられる年が昭和33年である。

 

  昭和41年は、戦後20年の一つの区切りと考えたからである。昭和22年生まれの団塊世代が高校を卒業し、就職、大学へと進んだ年である。大量の団塊世代が東京、大阪に集中する。一極集中が本格的に始まった。

 

  戦後20年を経た昭和40年代に入ると、戦後社会、戦後思想とは何か、日本人とは何ものかをテーマに多くの著作が発表されるようになる。昭和46年には、丸山真男の「日本の思想」が出版されるが、これは昭和32年から34年頃に書かれたものである。昭和47年には、会田雄次の「日本人の意識構造」が出版された。これも昭和40年から41年にかけて書かれた論文を編集して出版している。

  会田雄次の「日本人の意識構造」(講談社現代新書)の前半部90%は、ほとんど読む必要はないが、後半176ページ「日本ロマンティシズムの復興」あたりから、会田雄次の本領が発揮される。

 

  会田雄次は、富永健一が戦後20年を、5年毎の4期に分けて論じた四段階区分論を取り上げて、戦後20年を次のように論じている。「昭和20年から25年までの第一期は、アメリカの占領政策そのものも「容共」的であって、日本の思想界は社会主義社会の実現のため確実に歩をはこんでいると自覚された」と言う。会田は、昭和24年の自らの体験、「大学生がたずねてきて、大学の授業で教授から「君達が卒業するときには日本が革命が起こっているだろう」と言われたが先生はどう思うか」と尋ねられたことを挙げている。経済の混乱が、革命が起こるという錯覚を起こさせたと言う。次の第二期は、体制派が自信を取り戻し、極左との闘争の時期にあたり、現実政治に埋没して思想にまでは達しなかったとしている。進歩的知識人という言葉も生まれている。この時代の社会学者、思想家の特徴は、戦前からの論壇人が容共的左派思想やリベラリズム、あるいは体制的ナショナリズムと右往左往し、思想的究明の方法を見付けられずいたことである。

  清水幾太郎、日高六郎、福田恆存、丸山真男、小林秀雄等々、この時代の知識人なるものを挙げるとキリがないほどに多数に上り、それも全て戦前からの知識人と言われる人達である。この時代のかれらの著作を読むと、最終的には思考停止状態で終焉を迎えている。オルテガに言わせれば、自分の中に「思想」を見いだしはするが、考える能力を持たない状態に陥る。意見は言うが、意見を主張するための根拠を見いだしてはいない。こんな思想は、「恋愛詩曲のように言葉に身をつつんだ欲望」だと、オルテガが切って捨てる。これが大衆の「思想」なるものなのである。無常なるものを追求するのであれば、坊主にでもなればよいのだが、それも出来ずにいた。

  話はそれるが、小林秀雄の「本居宣長」という著作があるが、彼は、この著作において何を主張したいのかさっぱり解らない。また、数学者の岡潔との対談集「人間建設」に至っては、双方、まったくかみ合わない。岡潔が、研究心の衝動を情動というのに対し、小林は何の反応も示さない。自然科学の究明心を、小林は自らの情動で理解できないのである。

 

  話を元に戻すとしよう。こういった、右往左往する思想について、会田は、「もともと日本の学問も思想も、自分自身で思考できず、独立できず、たえず先進国の権威に依存しなければならぬという性格を持っていた」と言う。そのとおりである。

  昭和30年代に入ると、これまでの左派の思想が急速に後退する。スターリン批判、東欧圏の反ソ運動が要因であるが、社会主義社会に対して不安を抱き、保身に走る知識人が多く存在したことも事実である。この時期は、朝鮮特需もあり飛躍的に経済成長し、所謂サラリーマンと呼ばれる新たな階層が出現する。やっと、オルテガの言う大衆が日本に出現しはじめたのである。

  会田は、「病的なまでの日本人の戦争反対感覚・・・・アメリカへの従属体制に反対するナショナリズム」が、様々な思想をもつものを一つにまとめたと言う。

  それにしてもだ、この右往左往する知識人や教育者に教えられた若者達の思想というものが、ほとんど瞬間的とも言える時間で喪失する昭和戦後中期というのは、実に不思議な時期である。戦前から続く、日本の学問、思想的究明の浅薄さが、この時期に全て露呈したのである。オルテガが言うように、教養は思想であるが、この時期の若者はその教養さえ教えられなかったとは言えないだろうか。

  現代ではどうだろうか。論文を英語で書くのだそうだ。日本語もろくに書けない研究者が英語で書いてどうするのだ。時代は変わっても、日本の学問業界は、何も変わっていないのではないか。このことは、会田も後段で語っているので、その時にまた論じることにしよう。

  会田は、昭和35年以降の思想について、「日本人が求めつつあるものは、日本人同士の互いに肌のあたたかみを感じるような連帯感であり、共同感覚である。それは日本というものへの誇らかな賛歌であり高らかな希望の歌」だという。日本人が共通に抱く感情であるが、感情だけに浸ってられなかったのもこの時代の事実であり、現実世界は、この時代以後、近代資本主義、自由主義、民主主義と大衆を取り巻く思想は、めまぐるしく変化する。

 

<60年安保と歌謡曲>

 

  昭和35年、日米安保条約を巡り、全学連は、安保阻止のため国会突入の大規模デモを決行する。これに対して、岸政権は、警察では人手が足りず、やくざ・暴力団・右翼に協力を要請した。これが、日本の組織暴力団を生み出すきっかけとなった。自民党と反社会組織との関わりはここから始まると言って良い。バブル経済の崩壊、つまり、昭和末期までこの関係は続くことになる。

  この政党と組織暴力団との関係というものは、日本だけではなく欧米も似たり寄ったりである。最近では、ロシアのプーチンとオリガルヒ、ワグネルとの関係みたいなものである。

 

  安保闘争の前年は、皇太子殿下の結婚があり、開かれた皇室として広く国民に宣伝される。

昭和39年には、東京オリンピックが開催された。東洋の魔女、柔道、体操日本等々、日本の活躍は、否応無しに国民大衆の愛国心・ナショナリズムをかき立てた。

 

  ところで歌謡曲と言えば、東京オリンピックに関しては、テーマソングである東京五輪音頭ぐらいであり、時代の変化を感じさせるような曲は全くと言って良いほど見られない。

占領政策が終わり、社会主義思想の流行に陰りがみえ、工業生産が活発となり、労働者がサラリーマン化し、資本主義・自由主義思想が盛んになるにつれて、大衆の共感を得るような歌謡曲が売れ始める。それも、全ての国民に向けてではなく、例えば「高校三年生」の団塊世代向けの青春歌謡、戦前世代向けの演歌といったように市場が絞られるのである。昭和41年に、マイク眞木による「バラが咲いた」がヒットし、フォークのはしりが登場する。洋楽も全盛である。

 

  とりあえず、私が選んだこの時期の歌謡曲である。

 

<昭和33年~昭和41年の歌謡曲>

(67)おーい中村君(昭和33年)

作詞:矢野 亮 作曲:中野忠晴 歌唱:若原一郎

新婚サラリーマンのハッピーな歌謡曲である。サラリーマン時代の始まりである。

https://www.youtube.com/watch?v=Ysu1HXk9bcE

 

(68)だから言ったじゃないの(昭和33年)

作詞:松井由利夫 作曲:島田逸平、松山恵子

恋病にはめっぽう強くなった女の歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=Ce2m476JrsI

 

(69)星は何でも知っている(昭和33年)

歌:平尾昌晃. 作詞:水島哲. 作曲:津々美 洋

後に新しい昭和歌謡の代表的作曲家となる平尾昌晃の歌手デビュー曲である。

昭和35年には「ミヨちゃん」がヒットし合計200万枚を突破した。

https://www.youtube.com/watch?v=EH52VsFaJ60

https://www.youtube.com/watch?v=EH52VsFaJ60

 

(70)無法松の一生(昭和33年)

作詞:吉野夫二郎、作曲・編曲:古賀政男 村田英雄のデビュー曲である。

この年にはヒットせず、昭和37年の「王将」がミリオンセラーとなってこの曲も相乗効果でヒットする。歌謡浪曲のはしりとなる。

https://www.youtube.com/watch?v=qe4fSip2Abc

https://www.youtube.com/watch?v=a3K32Tk8fYo

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=mjhUg_ltPh8

 

(71)泣かないで(昭和33年)

和田弘とマヒナスターズ 作詞:井田誠一、作曲:吉田正

ムード歌謡の始まりである。

https://www.youtube.com/watch?v=075vKtVHAy4

 

(72)あいつ(昭和33年)

旗照夫 作詞:平岡精二、作曲:平岡精二

歌謡曲というよりも、日本版シャンソンといった方がよいが、歌謡曲の新しいタイプが登場する。ちあきなおみ版がすばらしい。

https://www.youtube.com/watch?v=AgIK-_264To

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=GG4zjEFcaTA

 

(73)大利根無情(昭和34年)

作詞:猪又 良 作曲:長津義司歌手:三波春夫

どちらかと言えば、戦前のリバイバル的な歌謡曲である。実は、この時期は、戦前の歌謡曲が爆発的にヒットする。軍歌、演歌等が、戦前世代が歌い始めた。製造業、金融業、土建業等々、企業規模の拡大に伴う日本的経営・組織管理において、戦前の共感が最適であったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=AzaLvd4MMQY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gn2WwDdTg8k

 

(74)黄色いさくらんぼ(昭和34年)

作詞は星野哲郎、作曲は浜口庫之助 スリー・キャッツ

昭和34年最大のヒット(25万枚)。NHKは、歌詞に使った「ウフン」を卑猥と判断し、放送禁止とした。それにしても、とんでもない曲が出てきたものだ。浜口庫之助は、新しいタイプの歌謡曲を次々と生み出したこれも昭和を代表する作曲家である。

https://www.youtube.com/watch?v=uggdCW52YLU

 

(75)ギターを持った渡り鳥(昭和34年)

作詞:西沢爽/作曲:狛林正一、小林旭

https://www.youtube.com/watch?v=4YODCtSQVlk

 

(76)黒い花びら(昭和34年)

永六輔作詞、中村八大作曲で水原弘が歌って大ヒットとなる。八六コンビの誕生である。

「黄昏のビギン」も同時に創られたが、黄昏のビギンがヒットするのは10年以上経ってからである。

https://www.youtube.com/watch?v=INGcQ3CsVmg

 

(77)古城(昭和34年)

三橋美智也 作詞:高橋掬太郎,作曲:細川潤一

三橋美智也の曲は、この時期に多く発売され全てヒットしている。この曲は、発売年300万枚を突破し、おそらく日本記録ではないだろうか。三橋美智也のレコード販売枚数は、累計で1億600万枚に達したという。

それにしても、こんな曲が何故ヒットしたのか良くわからない。明治末から大正年代の人達に爆発的に受けたのかもしれない。単純に郷愁とは言いがたい。この時期、戦前には確かに存在した何かが失われつつあったのである。

https://www.youtube.com/watch?v=_ky9DxHeb_o

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=7D4ckxeY9X4

 

(78)南国土佐を後にして(昭和34年)

作詞・作曲: 武政英策、ペギー葉山

ご当地ソングのはしりとも言えよう。

https://www.youtube.com/watch?v=1JcGhhPM3YQ

ペギー葉山のヒット曲には下記の曲もこの時期である。

学生時代(昭和39年)

作詞・作曲: 平岡精二(作詞・作曲) ペギー葉山

https://www.youtube.com/watch?v=UEnsPCL9bAY

 

(79)僕は泣いちっち(昭和34年)

守屋浩 作詞:浜口庫之助,作曲:浜口庫之助

浜口庫之助の、これも変わった歌である。守屋浩というのは独特の歌い方をする。

https://www.youtube.com/watch?v=O_8vnblfDMo

 有り難や節(昭和35年)

作詞=浜口庫之助/採譜=森一也/補作・作編曲=浜口庫之助、守谷浩

これは面白い。ふざけているのではないかと思うかもしれないが、浜口は、おそらく世相を笑い飛ばしたのである。

金がなければくよくよします。女にふられりゃ泣きまする。

腹が減ったらおまんま食べて、命つきればあの世行き。

デモはデモでもあのこのデモは、いつもはがいてじれったい

早く一緒になろうと言えば、デモデモデモと言うばかり

 

安保反対デモで世の中が騒がしくなった時期であるが、大衆にとっては、またデモか程度だったのかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=7oZq9SLr96k

 

(80)山の吊橋(昭和34年)

春日八郎、作詞:横井 弘、作曲:吉田矢 健治

https://www.youtube.com/watch?v=nbSuqmATyQc

 

(81)哀愁波止場(昭和35年)

美空ひばり、作詞:石本美由起、作曲:船村徹

演歌に「哀愁」はつきものになる。美空ひばりがうまい。

https://www.youtube.com/watch?v=S0WqvSXazdk

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gND5TjN9ieM

 

哀愁出船(昭和38年)

作詞:菅野小穂子 作曲:遠藤 実 オリジナル歌手:美空ひばり

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=8RD4sSVZdsc

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=17Ih-PfkGzs

 

ひばりの佐渡情話(昭和37年)

作詞:西沢爽、作曲・編曲:船村徹 美空ひばり歌

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=A1R0vxMHAzA

 

(82)アカシアの雨がやむとき(昭和35年)

作詞 : 水木かおる/作曲 : 藤原秀行 西田佐知子の歌謡曲デビューである。

https://www.youtube.com/watch?v=Mvu9_zDrYBQ

この曲の前にコーヒールンバを歌っている。

井上陽水版

https://www.youtube.com/watch?v=LTbaGdPiN1s

 

(83)潮来笠(昭和35年)

作詞:佐伯孝夫/作・編曲:吉田正 橋幸夫のデビュー曲である。

この年には、ダッコちゃんブームが起きる。何とも不思議な社会現象である。何の変哲もないビニールの人形が爆発的に売れるのだから、世の中というものはわからない。

https://www.youtube.com/watch?v=NGTEOCsd5kg

 

(84)ガラスのジョニー(昭和36年)

作詞:石浜恒夫、作曲・歌:アイ・ジョージ

https://www.youtube.com/watch?v=u0A2E-YnuaQ

 

(85)誰よりも君を愛す(昭和34、35年)

作詞:川内康範、作曲:吉田正 松尾和子・和田弘とマヒナスターズによるムード歌謡。

https://www.youtube.com/watch?v=YkaPTZIkCkA

 

(86)月の法善寺横町(昭和35年)

作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、藤島桓夫が歌った。関西弁が登場する歌謡曲はこれが最初ではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=jyVF-DeOD4s

 

(87)上を向いて歩こう(昭和36年)

作詞:永六輔、作曲:中村八大、坂本九が歌い、世界で1300万枚以上売れた。

NHK「夢であいましょう」でテレビ初披露された。玉置浩二版が面白い。

坂本九 版

https://www.youtube.com/watch?v=SPWDhYiHl44

玉置浩二版

https://www.youtube.com/watch?v=yNwj9Yoilik

 

同年、「見上げてごらん夜の星を」もリリース。

作詞:永六輔 、 作曲:いずみたく

島津亜矢版

 https://www.youtube.com/watch?v=7R0y7b2TD28&pp=ygU244Gh44GC44GN44Gq44GK44G_44CA6KaL5LiK44GS44Gm44GU44KJ44KT5aSc44Gu5pif44KS

 

(88)おひまなら来てね(昭和36年)

作詞:枯野迅一郎、 作曲:遠藤実、五月みどりが歌ってヒットした。この時期以後、昭和を通して、夜の商売、新宿・銀座がはやり出す。

https://www.youtube.com/watch?v=WO6RLTTvoTc

 

(89)川は流れる(昭和36年)

作詞:横井弘、作曲・編曲:桜田誠一、仲宗根美樹が歌いヒットする。

https://www.youtube.com/watch?v=3O5zNfaC7kI

 

(90)北上夜曲(昭和36年)

作詞:菊池規、作曲:安藤睦夫

ダークダックス、多摩幸子&和田弘とマヒナスターズ、菅原都々子の競作。

リバイバルブームに火をつけた。前述のようにこの時期から戦前の歌がはやりだし、旧制高校寮歌等が歌われた。歌声喫茶でもはやった。

https://www.youtube.com/watch?v=3120-ipPwLU

 

惜別の歌

作詞:島崎藤村,作曲:藤江英輔、中央大学学生歌

小林旭版

https://www.youtube.com/watch?v=Cw0Gpv_kgWY

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=7MC3n4hh_J4

 

(91)刃傷松の廊下(昭和36年)

作詞:藤間哲郎、作曲:桜田誠一、浪曲師の真山一郎が歌ってヒットした。歌謡浪曲のはしりである。

真山一郎版

https://www.youtube.com/watch?v=a5nJ5NIrNMw

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=Sl-3QoiZVk8

 

 歌謡浪曲は、三波春夫が昭和39年から忠臣蔵を題材に爆発的なヒットとなる。

 

(92)スーダラ節(昭和36年)

作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶、ハナ肇とクレージーキャッツが歌い大ヒット。昭和のサラリーマン世相を表現した。

https://www.youtube.com/watch?v=Y-_AKuZefSM

 

(93)寒い朝(昭和37年)

作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正 吉永小百合のデビュー曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=ezQUhHyFdps

翌年には、「いつでも夢を(昭和37年)」がリリースされる。

作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:吉田正 吉永小百合、橋幸夫の歌

https://www.youtube.com/watch?v=0jknQa9Ipws

 

(94)なみだ船(昭和37年)

作詞:星野哲郎、作曲:船村徹 北島三郎の実質デビュー曲である。

北島三郎版

https://www.youtube.com/watch?v=AAFyzw74BrM

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=r0hSdELHtPI

 

ギター仁義(昭和39年)

作詞:嵯峨哲平,作曲:遠藤実 

北島三郎版

https://www.youtube.com/watch?v=wGfuDpmEuN8

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=huOYJ6mnvC0

 

函館の女(昭和40年)・・・・ご当地ソングの代表的作品。

作詞:星野哲郎,作曲:島津伸男

https://www.youtube.com/watch?v=-9zU8Rk6f_g

 

(95)美しい十代(昭和38年)

作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正 三田明

御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)につづく歌手の登場である。

https://www.youtube.com/watch?v=TGZBCg7wMRg

 

(96)高校三年生(昭和38年)

作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、舟木一夫が歌い、高校生に市場を絞って累計230万枚を売る大ヒットとなる。この時期になると、歌謡曲のマーケット指向が顕著になる。

https://www.youtube.com/watch?v=JMhxfAurkKc

 

(97)ああ上野駅(昭和39年)

作詞:関口義明、作曲:荒井英一、井沢八郎が歌ってヒットする。集団就職が始まって10年程度が経過し、東京で自立できる基盤を築いた人には郷愁を誘う一曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=fEFMJ__kXtk

 

(98)あんこ椿は恋の花(昭和39年)

作詞:星野哲郎、作曲・編曲:市川昭介、都はるみの初ヒットであり、演歌歌手に新たな旗手の登場である。

https://www.youtube.com/watch?v=LjHt4siM6Wk

 

涙の連絡船(昭和40年) 

作詞:関沢新一、作曲:市川昭介

都はるみ&島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=y-ZBxsHiNrE

 

(99)幸せなら手をたたこう(昭和39年)

作詞は早稲田大学人間科学部名誉教授の木村利人。坂本九が歌ったが、世界で愛唱されている。

 

(100)涙くんさようなら(昭和40年)

作詞・作曲:浜口庫之助 坂本九が歌った。

NHK「夢であいましょう」で放送された。

ちなみ「夢であいましょう」から生まれたヒット曲は以下のとおり。

上をむいて歩こう(昭和36年)

遠くへ行きたい(昭和37年 ジェリー藤尾)

こんにちは赤ちゃん(昭和38年 梓みちよ)

帰ろかな(昭和39年 北島三郎)

 

(101)夜明けのうた(昭和39年)

作詞:岩谷時子、作曲・編曲:いずみたく 岸洋子でヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=MbT2_QH0db0

 

 越路吹雪 昭和40年から連続コンサート  シャンソンブーム

 

(102)網走番外地(昭和40年)

作詞:タカオ・カンペ、作曲:山田栄一、高倉健が歌った。

昭和40年から47年まで20作に及ぶ網走番外地シリーズの第1作の主題歌である。ギャング物、任侠物がはやりだす。昭和35年の安保闘争以来、表に出始めた暴力団組織との関係もあるだろう。急速な経済成長に伴い生ずる社会現象の一つである。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBnp7DGVf4

 

(103)知りたくないの(昭和40年)

なかにし礼:作詞、ドン・ロバートソン:作曲、菅原洋一のヒット曲である。

菅原洋一版

https://www.youtube.com/watch?v=jAIbN28ul18

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=zszIs_IhbFU

 

(104)「ヨイトマケの唄」(ヨイトマケのうた)(昭和41年)

美輪明宏が自ら作詞・作曲して歌いヒットした。

 

(105)お嫁においで(昭和41年)

作詞:岩谷時子、作曲:弾厚作、加山雄三の登場であり、大ヒットとなる。これ以外にも、このコンビは、同年に「君といつまでも」、「旅人よ」と続いてヒット作を連発する。

https://www.youtube.com/watch?v=ooPAyvG5HIg

 

(106)悲しい酒(昭和41年)

作詞:石本美由起,作曲:古賀政男、美空ひばりの持ち歌となる。

https://www.youtube.com/watch?v=zi1yedKi3FE

 

(107)霧の摩周湖(昭和41年)

作詞:水島哲、作曲:平尾昌晃、布施明のデビュー・ヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=CRtmsUDaiKc

 

(108)バラが咲いた(昭和41年)

作詞・作曲:浜口庫之助、マイク眞木が歌ってヒットする。フォークソングの最初の曲とも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=hNHlyGgcpdM

 

(109)若者たち(昭和41年)

作詞:藤田敏雄,作曲:佐藤勝、ザ・ブロードサイド・フォーがTVドラマの主題歌として歌った。若者をターゲットとしたフォークソングのはしりである。

https://www.youtube.com/watch?v=wIVSPtk2hsk

 

(110)ベッドで煙草を吸わないで(昭和41年)

作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく、沢たまき が歌う。沢たまきは、1998年の参議院議員選挙で当選し、国会議員となっている。日本版シャンソンといったところであろう。ちあきなおみ版がすばらしい。

沢たまき版

https://www.youtube.com/watch?v=Iizqrw1BN4w

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=wJEodvkNmWk

 

(111)骨まで愛して(昭和41年)

作詞:川内和子、作曲:文れいじ、城卓矢が歌ってヒットする。何故か、耳に残る旋律であり、歌詞がいい。経済成長の真っ只中で、「なんにもいらない、ほしくない、あなたがあれば幸せよ、私の願いはただ一つ、骨まで愛して」という女が果たしていただろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=mYyl3vdQG30

沢田研二・吉田拓郎のデュエット版が素晴らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=LTlAYn479a8&pp=ygUf6aqo44G-44Gn5oSb44GX44GmIOeOiee9rua1qeS6jA%3D%3D

 

 

<歌謡曲の爆発>

 

  まさに、この時代から日本歌謡は爆発的に増加する。特に昭和40年代に入ると加速度的に増加するのである。岡本太郎は、「芸術は爆発だ」といって、大阪万博の太陽の塔を作成するが、爆発したのは太郎の芸術だけではなかった。大衆そのものが爆発していたのである。

 

  映画もシリーズ物が爆発的にヒットする。まず、社長シリーズである。昭和31年から45年まで森繁久弥、小林桂樹、加東大介、三木のり平、フランキー堺等で33作が作られた。サラリーマン社会を喜劇で表したものであるが、元々は源氏鶏太作の作品であった。この映画では、接待・宴会が必ず登場する。日本の企業慣習を表現した。さらに、森繁久弥に伴淳三郎を加えて、「駅前シリーズ」も登場し、24作も同時期に作成される。

  昭和36年から46年まで続く加山雄三主演の「若大将シリーズ」は24作、昭和37年から46年までの「クレージー映画」(クレージーキャッツ)は関連作品も含め34作になる。

 

  テレビが全国に広まったが、まだビデオデッキは発売されていず、昭和51年に日本ビクターが初めて発売した。録画テレビ放送も国産テープが発売されたのが昭和39年であり高価であることからこの時期ドラマを録画編集することは実質困難であった。VTRで制作されたテレビドラマが本格化するのは、昭和30年代後半以後である。

 

  ここで紹介した日本歌謡には、シャンソン、ジャズ、カントリー・ミュージック、等は含まれていない。カントリー・ミュージックの代表的歌手は、小坂一也であろう。昭和27年頃から活動を開始するが、米軍キャンプ等を中心に活動したのが始まりである。

  特に、シャンソンは昭和40年頃からヒットし始める。世界でもフランスを除いてシャンソンがこれほど流行した国は日本ぐらいではないだろうか。

  翻訳家・作詞家の岩谷時子と越路吹雪のコンビによるシャンソンは、一世を風靡した。昭和28年から活動を開始するが、本格的に流行に火をつけたのは、昭和40年からの日生劇場リサイタル以後であろう。

 

  一方、洋楽も大流行となる。ロカビリーのエルヴィス・プレスリーに熱狂し、ザ・ベンチャーズ、ブルージーンズ(寺内タケシ)のテケテゲが昭和41年には大流行となる。

  昭和41年には、ビートルズが来日公演を行っている。日本のグループサウンズの流行は昭和42年以降である。

  フォークソングも、昭和41年頃から流行し始める。昭和35年の安保闘争、昭和37年頃から始まるベトナム戦争等があり、反戦、貧困等の社会問題に焦点を当てた新しいミュージックが米国で流行りはじめ、日本のフォークが誕生することになる。

 

  以上のようにこの時期の歌謡曲の爆発は、何となくこの後に発生する社会情勢を予感させる曲が見られる。

  しかし、大衆がこれらの多様な歌謡曲を望んでいたかどうかは疑わしい。レコード会社が、若者が、歌謡曲を売るために作り出したとも言える。何が売れるかはわからない、しかし、そこには豊かになりつつある膨大な大衆という市場がある。ほとんど制約のない自由で開かれた市場があり、欧米からは新たな楽曲が次々へと輸入されている。

 

  昭和歌謡曲は、この時期を最後に、伝統的歌謡曲とは別の新たな歌謡曲へと変化していくことになる。大衆が自ら作り出したのではない。ごく少数の作詞家・作曲家・歌手、レコード会社が、これでもかと作り出しては市場へ供給した。大衆は、多様な曲から選んだだけである。

 

 

  オルテガは、市場で大衆が「買う」という行為、つまり選択することが何を意味しているかに論究した。大衆は、その生(生きること)の中で常に選択することを余儀なくされているとし、「生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚する」ことであり、こういった決断は、「一瞬たりとも休むことが許されない」という。昭和歌謡曲の爆発的氾濫は、大衆の選択の領域を極端に拡大した。このことは歌謡曲だけではなく、大衆の生活全般において選択せざるを得ない状況、つまりいつでもどこでも何かしらの決断をしなくてはならない状況にいたったということである。

  戦前、戦中においては、選択・決断の余地はほとんどなかった。政治権力が決めた一本道をすすむだけであった。それに反して、敗戦後の経済復興、工業化により豊かになりつつあった社会環境は、めまぐるしく更新され続けたのである。オルテガは政治権力について、自由主義的デモクラシーにおける大衆人の本質を説いた。しかし、制約のない自由主義的市場においても同様なのである。市場は、明確な未来像を示すことはなく、今よりも少し先の現実のみで動いているのである。オルテガは言う。「大衆人とは生の計画をもたない人間であり、波のまにまに漂う人間である」と。

  戦後教育は、自由主義的デモクラシーというシステムと、近代生活に必要な技術、今を強力に生きる道具しか教えてこなかった。歴史的使命に対する感受性、つまり精神は植え付けられてこなかったのである。昭和41年前後というのは、こういった戦後教育を受けた子供達が成人となる時代であった。

 

  オルテガは、19世紀の革命時代、第一次世界大戦の後、自由主義的デモクラシーと科学技術を獲得した20世紀前半のヨーロッパにおいて、最大の善と最大の悪の両方を所持する大衆というものを究明する必要性を感じていた。

 

  さて、次回は、昭和42年から昭和49年までである。70年安保、ベトナム戦争の反戦運動、高度経済成長、オイルショックとこれも激動の時期である。昭和歌謡曲は、どんな変化を見せたのだろうか。大衆はどんな歌謡曲を選択したのだろうか。

2023/06/24

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和27年~昭和32年―

秋 隆三

 

<激動の昭和>

 

  あらたまって説明するまでもなく、何とも世の中というものは、いろいろな事件が次から次へと発生するものである。特に明治維新以後の社会変化のすさまじさは、世界でも日本が抜きんでていたのではないだろうか。勿論、20世紀科学技術の進歩は、欧米は勿論、アジアでは日本が世界水準で変化した。

  明治初期には輸入蒸気機関車が走り、明治26年には国産化されている。明治22年には東海道線が、明治24年には東北本線が全線開通した。何という早さだろうか。明治時代と言う文明は、明治10年の西南戦争後ではないかと考えられるので、文明化されてから16年で蒸気機関の国産化がされ、14年後には北は青森から南は尾道まで開通し、25年後には下関まで開通する。明治30年頃の大衆にとって、鉄道料金は高かったには違いないが、鉄道で旅をすることは既に常識となっていたに違いない。

  電話は、明治23年に東京~横浜で営業を開始する。明治33年には公衆電話が登場するというのだから、もはや何おか言わんやの早さである。

  ラジオに至っては、米国では1920年にラジオ放送が開始されている一方、日本では遅れること5年の1925年(大正14年)に開始している。

  飛行機はどうだろう。商用航空として定期航空路線が始まったのが、大正11年(1922年)とあり、大阪と四国を結んでいる。軽井沢―東京間の運航は、昭和2年である。

 

  大正時代には、鉄道、電話は既に生活の中に入っていた。

 

  戦後は、こんなものではない。昭和28年から昭和34年までのわずか7年間で、ラジオから白黒テレビへと入れ替わる。世帯普及率はほぼ現代に近い。おまけに、全て国産テレビである。所謂、最初の3C(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)時代の到来である。私の母が電気洗濯機を最初に買ったときの喜んでいる姿、皇太子と美智子様の結婚パレード中継を買ったばかりの白黒テレビにかじりついて見ていた姿が今でも思い出される。

  東京オリンピックを契機に、3Cは、カラーテレビ、クーラー、自家用自動車へと変わり、鉄道は新幹線へと転換する。

  戦後昭和の技術革新は、7年程度の間隔で劇的に変化する。軍事技術や産業技術ではなく、生活道具の変化としてたちどころに大衆に浸透するのである。

  一方、科学技術の本場の米国では、戦前から軍用技術を中心に革新的とも言える科学技術が次から次へと誕生していた。テレビ・通信、コンピューター、制御技術、エンジン等々である。1950年代から60年代は、世界の中で米国だけが抜きんでていた。勿論、現代で言う白物家電等は当たり前であった。

  日本は、生活水準で米国に追いつけが目標となっていた。

 

  生活水準は、7年間程度の間隔で上昇していく。経済も、神武景気以後、ほとんど不況しらずで上昇する。戦後の朝鮮戦争特需で、資本蓄積のチャンスを握り、その後の産業・生活用製品開発における技術革新、製品の国産化によって経済大国への道を駆け上るのである。

  さて、大衆の精神はどうであったろうか。「心は形」を求め、「形は心」を勧めるのは真理である。戦後大衆の精神は、米国の豊かな生活を求めていた。貧困にあった戦後大衆が、豊かさを求めるのは、当然の理である。7年足らずの間隔で豊かになっていく生活とその形(ライフスタイル)は、我々の精神をどのように勧め、精神の何を変えたのか。

  以前にも説明したように、「心は形を求め、形は心を勧める」というキャッチフレーズは、昭和時代の墓園・墓石会社の宣伝文句である。亡くなった方を心から弔いたいという心が墓園を求め墓石を建てさせる。墓園に墓石を建てれば、お彼岸や命日には、墓石にお参りし、信仰心を深めることになる。人の信仰心は、弔いを形にすることから深まるのである。

  ここでいう信仰とは、特定の宗教を指したことではない。石器時代から始まると言われる死者への思慕であり、敬意である。

  この信仰という心と形の循環作用は、様々な宗教を生みだしたが、今から2500年前から2000年前までに、ほぼ現在の宗教という形に完成し、さらに哲学的究明は現在においてもなお継続している神秘である。

  文明は信仰ではない。文明と人の心との循環作用から、科学技術、法制度、政治・経済システム、商業流通、文化・芸術等、もろもろのものが形成される。オルテガが言う、生における環境である。オルテガの言う環境とは、もろもろの可能性のことである。環境、すなわちもろもろの可能性は、オルテガが19世紀に比較して20世紀の初頭には驚くほど増加したと述懐している。まさに、そのとおりである。明治から現代に至る科学技術の進歩がもたらした文明の産物の多さは恐るべきものだ。

  しかし、敗戦は、それらのほとんどを壊滅させたばかりではなく市場さえも消滅させた。つまり、大衆の選択可能性は敗戦によってほとんど皆無の状況となったのである。この状況が、前回の昭和21年から昭和26年までの時代であると言っても過言ではあるまい。買えるものがないのである。勿論、貧困であることは事実であるが、物がないことも事実であり商品の生産流通市場が崩壊したのである。オルテガは、この物を「買う」という選択行為に着目した。「買う」ということは、生として物を選択しているのであり、人は一瞬たりともこの選択行為から逃れることは出来ず、選択行為、つまりもろもろの可能性という環境の内部で生きているということである。このことは、「買う」という可能性だけではなく、快楽の可能性についても同様である。しかし、面白いことに、敗戦前の時代を良き時代、敗戦直後の状態よりも優れているというものは、この時代のこの国の大衆にはいなかったと思われる。オルテガは、科学技術の成長を、精神の自由によるものと表現している。精神の自由とは、知性の能力であり、この能力は、従来、分離できないと考えられた概念を分離する能力だと言っている。概念とは、例えば、時間という一般的概念(抽象的言葉)でもよい。アインシュタインは、時空という概念により、時間の概念をさらに分離した。

 

  昭和27年の占領政策の終焉、徐々に回復を始めた生産活動と朝鮮戦争特需により加速された生産活動により、市場が急速に回復し、たちどころに「3C」時代を迎える。そして、自分が過去のあらゆる時代以上のものであるという奇妙なうぬぼれを持つ時代に突入し、何を実現すべきかを知らない時代、自分を完全に掌握していない時代(オルテガの表現を借用)へと量とともに変質の時代に向かうのである。

ちなみに、当時の写真等がYouTubeにあったのでURLを参考までに下記に挙げておく。

「昭和20年代の子供たち」 当時の子供達の貴重な写真と映画から

https://www.youtube.com/watch?v=m8Zo7pASTQ0

【衝撃】カメラで撮った懐かしい昭和の写真!!古き良き風景! 貴重な昭和の写真!

https://www.youtube.com/watch?v=YOKATMyKbYU

 

  昭和25年以後の様々な流行の様相については、下記のURLが参考になる。

  https://nendai-ryuukou.com/

 

 

<昭和27年~昭和32年>

 

(27)ああモンテンルパの夜は更けて(昭和27年)

代田銀太郎作詞、伊藤正康作曲で渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした。

占領政策の終了を見計らって登場した第1号の歌謡曲である。この曲は、戦後、フィリピンで拘束され死刑が宣告された戦犯108人の望郷の歌である。渡辺はま子は、現地を尋ねでこの歌を歌った。翌年除名嘆願がかない、当時のキリノ大統領の特赦によって解放された。

https://www.youtube.com/watch?v=R8q7hn3gTN0

 

(28)赤いランプの終列車(昭和27年)

大倉芳郎作詞、江口夜詩作曲で春日八郎が歌ってヒットした。

春日八郎のデビュー曲と言っても良く、翌年にヒットする。「白い夜霧の あかりに濡れて別れせつない プラットホーム」で始まる曲調は、演歌曲調の一つのスタイルとも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=nLYLLM4I4lE

 

(29)お祭りマンボ(昭和27年)

原六朗作詞・作曲・編曲、美空ひばりが歌った。お祭り好きな江戸っ子の気性を、マンボのリズムで明るく歌う。理屈も何もない、祭りなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=aGI-CRlfzGg

 

(30)芸者ワルツ(昭和27年)歌唱:神楽坂はん子 (1952)

西条八十作詞、古賀政男作曲で神楽坂はんこが歌った。本物の神楽坂芸者の歌手デビューであった。古賀政男は、戦前から有名な作曲家であるが、昭和23年の「湯の町エレジー」以来の久しぶりのヒットであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=r5iGsUyh9pk

「湯の町エレジー」については前回掲載していなかったのでここで挙げておく(野村俊夫作詞、古賀政男作曲 近江俊郎歌)。

美空ひばり版であるが、実にうまい。

https://www.youtube.com/watch?v=m8A7iXHroI4

 

(31)リンゴ追分(昭和27年)

小沢不二夫作詞、米山正夫作曲で美空ひばりが歌った。

元々は、ラジオ東京のラジオドラマの挿入歌だったそうである。この1年間で、戦後最大の売上70万枚となったと言われる。作曲家の米山は、ほとんどヒットするとは思っていなかったようである。大衆の選択というものは何とも予測し難い。歌自体は実に短く、美空ひばりのうまさが光る曲である。歌詞・曲というよりは、曲風が美空ひばりの歌手技量をあまねく表現し、それが大衆に受けたとも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=S0KLu6lZ5Yw

 

(32)雨降る街角(昭和27年)

東篠寿三郎作詞、吉田矢健治作曲で春日八郎が歌った。

春日八郎の2曲目の別れ歌である。前回の昭和26年以前同様に、男と女の恋病が悪化して別れることになる。恋病が緩解完治して結婚してしまっては、歌にならないのである。洋の東西、古今から恋病は別れなければ歌にならない。

ちあきなおみ版が素晴らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=QxZlAax0nlc

 

(33)君の名は(昭和27年) 

菊田一夫作詞、古関裕而作曲で折井茂子が歌ってヒットする。

いよいよ恋病ドラマの大ヒット作の登場である。

1952年(昭和27年)4月10日から1954年(昭和29年)4月8日。 毎週木曜20時30分から21時までの30分放送され、全98回も続いたとある(Wikipediaより)。 番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションが入る。放送時間には、風呂やががら空きになったという伝説がある。

菊田一夫も、これだけヒットするとは思ってもいなかったであろうから、続けるには苦心したことだろうと推察される。最後は、何となくハッピーエンドとなるが、男が独身を続け、女の方が旧習から逃れきれず、結婚し人妻となるが、お互いに忘れられない。禁断の三角関係が描かれる。当時の人妻大衆にとっては、何となく身につまされるような体験、あるいは願望があったのかもしれない。

https://studentwalker.com/moviemusic-your-name

 

(34)街のサンドイッチマン(昭和28年)

宮川哲夫作詞、吉田正作曲で鶴田浩二が歌った。

鶴田浩二というのは何とも言えないムードのある役者ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=57YwgPQUhTg

 

(35)待ちましょう(昭和28年)

矢野 亮作詞、渡久地政信作曲で津村 謙が歌った。

何を待つのかさっぱり解らない歌である。これと同様の歌が、シャンソンにある。恋人を待つ、戦争が終わるのを待つ、景気が良くなるのを待つ、まあ、とりあえず大衆は待つのみだ。

津村謙版

https://www.youtube.com/watch?v=oIhkkMJNsBk

鮫島有美子版

https://www.youtube.com/watch?v=QTCabrf2gt8

 

(36)雪の降る街を(昭和27年初版 昭和28年)

内村直也作詞、中田喜直作曲で高英男が歌ってヒットした。

雪の降る夕方、母に手をひかれて、市電を待っている時に、街頭放送からだと思われるこの曲を聞いた覚えがあるが、雪と寒さと寂しさを子供心に覚えている。

https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

 

(37)お富さん(昭和29年)

山崎正作詞、渡久地政信作曲で春日八郎が歌い累積125万枚売れた。

https://www.youtube.com/watch?v=B0LGm6WZpo8

この年から春日八郎の歌謡曲が次々とヒットする。

あン時やどしゃ降り(昭和32年)

作詞:矢野亮 作曲:佐伯としを

https://www.youtube.com/watch?v=j_4_Gg3DB7o

 

(38)岸壁の母(昭和29年)

藤田まさと作詞、平川浪竜作曲で菊池章子が歌った。

実話を基に創られたが、義理の息子(養子)であり、実際は中国で生存していたらしいが、詳細はわからない。台詞入りの演歌である。

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gOp-HypOeic

 

(39)黒百合の唄(昭和29年(28年))

菊田一夫作詞、古関裕而作曲で映画「君の名は」の主題歌となった。

https://www.youtube.com/watch?v=cQqW1u05UMQ

 

(40)高原列車は行く(昭和29年)

丘十四夫作詞、古関裕而作曲で岡本敦郎が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=HaO5_00LYCI

 

(41)ひばりのマドロスさん(昭和29年)

石本 美由起作詞、上原げんと作曲で美空ひばりの歌である。

これも美空ひばりのマドロスもののヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=r80_PMTy6oc

 

(42)吹けば飛ぶよな(昭和29年)

東条寿三郎作詞、渡久地政信作曲で若原一郎が歌った。

若者が、ふけば飛ぶよな存在だがと自嘲しつつも、いつまでもこうじゃない、今に見ていると未来を夢見る。現代の流行歌には、こんな詩は見られない。

https://www.youtube.com/watch?v=54CMUgG2fjw

 

(43)逢いたかったぜ(昭和30年)

石本美由起作詞、上原げんと作曲で岡晴夫が歌った。

この歌はなかなかいい演歌である。岡晴夫の歌では演歌とはならないが、ちあきなおみが歌うとまさしく昭和の演歌である。

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=IEs9m1vvkYQ

岡晴夫版

https://www.youtube.com/watch?v=cDWODqVtl0c

 

(44)おんな船頭唄(昭和30年)

藤間哲郎作詞、山口俊郎作曲で三橋美智也が歌った。いよいよ三橋三智也の登場となる。これで、昭和歌謡の大歌手、春日八郎、美空ひばり、三橋三智也が揃うことになる。三橋三智也も演歌であるが、民謡風のこぶしが入るようになる。

https://www.youtube.com/watch?v=6Sf_TMAaarE

 

(45)カスバの女(昭和30年)

大高ひさを作詞、久我山明作曲でエト邦枝が歌った。戦前のフランス映画が下敷きだという話もある。久我山明は、韓国人の作曲家である。演歌には、韓国民族系の曲調も混在している。

https://www.youtube.com/watch?v=ZcPuNigBaW4

青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子

https://www.youtube.com/watch?v=Hr2E3lfZam4

 

(46)ガード下の靴みがき(昭和30年)

宮川哲夫作詞、利根一郎作曲で宮城まり子が歌った。

戦争孤児が沢山いた時代である。子供労働などは当たり前の時代である。一般大衆のどの家でも、こどもが家事労働を任されるのは当たり前であった。

https://www.youtube.com/watch?v=hR539wtW0dY

 

(47)銀座の雀(昭和30年)

野上彰作詞、仁木他喜雄作曲で森繁久弥が歌った。森繁は、満州から引き揚げて、俳優に転身したが、歌手としての最初の曲ではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=HkqtWqm-zLE

 

(48)この世の花(昭和30年)

西條八十作詞、万城目正作曲で島倉千代子が歌った。島倉千代子の最初のヒット曲だと思うが。この年以後、美空ひばりと並んで、島倉千代子が女流歌謡歌手の一翼を担う事になる。

https://www.youtube.com/watch?v=mNJ_wEGyvio

りんどう峠(昭和30年)

作詞:西条八十、作曲:古賀政男

https://www.youtube.com/watch?v=-EoghtjSels

東京の人よさようなら(昭和31年)

作詞:石本 美由起. 作曲:竹岡 信幸

https://www.youtube.com/watch?v=_MQV4gOfGRk

逢いたいなアあの人に(昭和32年)

作詞:石本 美由起、作曲:上原 げんと

https://www.youtube.com/watch?v=b7So76DaIAc

東京だよおっかさん(昭和32年)

作詞:野村俊夫 作曲:船村 徹

https://www.youtube.com/watch?v=WOAmubK0rvQ

からたち日記(昭和33年)

https://www.youtube.com/watch?v=LnS3LsBBsYY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=Um0hDvx5sk8

 

(49)月がとっても青いから(昭和30年)

清水みのる作詞、陸奥明作曲で菅原都々子が歌い、100万枚を突破した。あまりぱっとしなかった菅原に対して、それならばと父親が作曲してヒットした。恋病の曲であるが、悪化したのか完治したのかは解らないが、恋病中のうれしさの感情が共感を呼んだのであろう。この時代の恋病のパンデミック状況を実に良く表している。

昭和30年代であるが、田舎の私の住む町に菅原都々子の実演があった。母が歌謡曲が好きで連れて行かれて聞いた記憶がある。曲調は違うが、日本の演歌の新しいスタイルかもしれない。島津亜矢さんがいい。

菅原都々子版

https://www.youtube.com/watch?v=lutpArNLMsc

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=ZngPZl-X57g

 

(50)東京アンナ(昭和30年)

藤間 哲郎作詞、渡久地政信作曲で大津美子が歌った。デビュー直後に歌った曲であり大ヒットする。さらに翌年には「ここに幸あり」がヒットする。この歌は、ブラジル移民にも広く歌われた。

https://www.youtube.com/watch?v=KYs3OleDTZY

ここに幸あり

昭和31年

大津美子 (1956) 作詞:高橋掬太郎 作曲:飯田三郎

https://www.youtube.com/watch?v=IxFkk0m9qBQ

 

(51)娘船頭さん(昭和30年)

西城八十作詞、古賀政男作曲で美空ひばりが歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=-y961q_Tooc

 

(52)別れの一本杉(昭和30年)

高野公男作詞、船村徹作曲で春日八郎が歌ってヒットした。いよいよ船村節演歌の全盛時代を迎えることになる。いろいろな歌手が歌っているが、美空ひばり版もいい。特に、ちあきなおみ版をお勧めする。是非、聞き比べを。

春日八郎版

https://www.youtube.com/watch?v=lAuM-6ZBzOU

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=QWcNCjwc-eU

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=NwFfkPv-JVU

https://www.youtube.com/watch?v=sY57uDyvGW0

 

(53)哀愁列車(昭和31年)

横井弘作詞、鎌多俊与作曲で三橋美智也が歌ってヒットする。朝鮮戦争特需により日本奇跡的経済回復に向かい、東京は生産力増強、建設ラッシュとなった時代である。東北地方を中心に若い労働力が東京へと集中した。恋人と別れ東京へと向かう若者が、別れる寂しさと憧れの東京への期待が錯綜する感情があふれた曲である。

三橋美智也版

https://www.youtube.com/watch?v=SBpu9di6O5A

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=L6Pu0E3dpTU

 

(54)狂った果実(昭和31年(太陽の季節も同じ年))

石原慎太郎作詞、佐藤勝作曲で石原裕次郎が歌った。湘南族のはしりと言っていいだろう。戦後の経済復興は、貧富の差となって大衆に襲いかかる。豊かさは、無軌道な若者を生みだし、伝統的価値観などはへとも思わない。経済一辺倒に偏り、精神性を失っていく大衆支配社会の様相であるかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=Oo0m7f0K0do

石原裕次郎は、歌手としても多くの曲を歌っている。

俺は待ってるぜ(昭和32年)

作詞:石崎正美,作曲:上原賢六

https://www.youtube.com/watch?v=92rxVbnS3_w

嵐を呼ぶ男

作詞:荻原四朗,作曲:上原賢六。

https://www.youtube.com/watch?v=0JOzlR9QQ-E

 

(55)波止場だよお父つあん(昭和31年)

西沢爽作詞、船村徹作曲で美空ひばりが歌ったマドロスもののヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=R6e3eR_Y7dM

 

(56)早く帰ってこ(昭和31年)

高野公男作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。

この曲は、哀愁列車とは反対に、東京で頑張ろうと出てきたがうまくゆかず、かといって帰れない弟とその恋人を暖かく迎える田舎の家族の歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=67-5oXjzUyQ

 

(57)リンゴ村から(昭和31年)

矢野亮作詞、林伊佐緒作曲で三橋美智也が歌い、累積で270万枚に達した。この時代、仕事を求めて上京した兄弟・姉妹を思い、田舎へ帰っておいでと歌う曲が多くヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=OklkbAQj_TQ

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=vzmEkX9ftnI

 

(58)若いお巡りさん(昭和31年)

井田誠一作詞、利根一郎作曲で曽根史郎が歌った。警察は、市民の味方、優しい警察というイメージを創りあげる。夜の巷は、当時どこかに行くにしても若者には金がないから、公園のベンチは恋病の恋人達で満杯となる。大衆のエネルギーというものは恋病の流行によりもたらされる。

https://www.youtube.com/watch?v=VLZYN1y9QXQ

 

(59)母さんの歌(昭和31年)

窪田聡作詞・作曲である。うたごえ運動で広まった。うたごえ運動とは、戦後の大衆的社会運動・政治運動の一つである。日本共産党員であった声楽家の関鑑子が運動の創始者ともいわれている。昭和31年には、新宿にうたごえ喫茶「灯(ともしび)」が開店している。

 

(60)踊子(昭和32年)

喜志邦三作詞、渡久地政信作曲で三浦洸一が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=MisaCScN-u8

 

(61)柿の木坂の家(昭和32年)

石本美由紀作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。昭和30年代に確立する戦後演歌の代表曲と言ってもよい。聞き比べをどうぞ。

青木光一版

https://www.youtube.com/watch?v=CtIwNiWeMuo

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=5J9yASOrCTI

船村徹版

https://www.youtube.com/watch?v=I9dIh_Cg3dw

 

(62)男の友情(昭和32年)

高野公男作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。船村節である。

船村徹版

https://www.youtube.com/watch?v=4C-ByVDhj2k

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=_jHUdMYQIB0

 

(63)チャンチキおけさ(昭和32年(昭和31年デビュー))

門井八郎作詞、長津義司作曲で三波春夫が歌いヒットした。

宴会の登場である。日本の宴会は、昔からあるが、戦後も落ち着きはじめたこの頃から、接待や社内宴会等が盛んになる。森繁久弥主演の「社長シリーズ」は、昭和31年から始まる。

https://www.youtube.com/watch?v=A9DZxPXDFWY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=wy5npKxxfZs

 

船方さんよ(昭和32年)

作詞:門井八郎、作曲:春川一夫

https://www.youtube.com/watch?v=8123H6vnnTM

雪の渡り鳥

作詞:清水 みのる 作曲:陸奥 明

https://www.youtube.com/watch?v=NTS_Of0U4So

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=W_WsznQd-FM

 

(64)どうせひろった恋だもの(昭和31年)

野村俊夫作詞、船村徹作曲で初代コロムビア・ローズが歌ってヒットした。船村徹はこういう曲も作る、多才な人である。そうでなければ、昭和演歌などは到底難しいかもしれない。

この歌は面白い。恋病が悪化して別れた女の本当の気持ちだ。捨てちゃうのである。そこへいくと、男の未練たらしさは、歌にするのもはばかれる。

https://www.youtube.com/watch?v=ldzTqFZGwxk

初代コロムビア・ローズは、翌年この歌も大ヒットとなった。働く女性の登場である。

東京のバスガール(昭和32年)

作詞・丘灯至夫、作曲上原げんと

https://www.youtube.com/watch?v=kHFoO4L-KVw

 

(65)港町十三番地(昭和32年)

石本美由起作詞、上原げんと作曲で美空ひばりが歌って大ヒットする。歌いやすさ、調子の良さ、旋律の新鮮さ等、曲調が美空ひばりの声質とあった、日本を代表する歌謡曲と言えよう。

https://www.youtube.com/watch?v=rDMuUnz2dhw

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=IoKLG5WHYcA

 

(66)夜霧の第二国道(昭和32年)

宮川哲夫作詞、吉田正作曲でフランク永井が歌ってヒットした。これも旋律とフランク永井の低音がマッチした代表的な曲である。この頃から、歌手の声質、技量と旋律が重視される。大衆の耳が肥えてくるのである。

https://www.youtube.com/watch?v=An8zO43pMBo

フランク永井のヒット曲は、この後も続く。

俺は寂しいんだ

こいさんのラブコール

西銀座駅前

羽田発7時50分

有楽町で逢いましょう

 

(66)喜びも悲しみも幾年月(昭和32年)

木下忠司作詞・作曲、若山彰が同名の映画の主題曲として歌いヒットする。

戦後12年がたった。戦前、戦中、戦後を生きた灯台守の夫婦の生涯を描いている。この時代をリードした平均人大衆の思いがこもった映画である。これも、同年代よりも少し若い母に連れられて、続き映画を見に行ったことを思い出す。

https://www.youtube.com/watch?v=RdBCwnn7erE

 

 

<膨大な昭和歌謡の誕生>

 

  整理するのがなかなか大変であった。占領政策の終了と同時に、それこそ歌謡曲が爆発するのである。朝鮮戦争の終了、紙の統制廃止、木材緊急輸入、経済復興と経済成長、東京一極集中、現代につながる社会基盤が形成される時代であった。しかし、昭和31年の厚生白書では、1千万人もの低所得層が復興経済下で取り残され、医療保険未加入者は国民の1/3にも登ると言っていた。復興経済の中では、戦前の軍事態勢を担った政治家が権力を持ち始め、闇商売から財をなした一部の富裕層、ホワイトカラーと低所得ブルーカラーという大衆構造は、その格差を広げていたのである。

 

  この時代の歌謡曲を分類することは、もはや困難である。しかし、ただ一つ言えるとすれば、未来を予感させるような歌謡曲などは存在しないということである。歌は世相であり、大衆の様相を示しているのである。オルテガが言うように、この時代から大衆が支配する社会が始まった。大衆が社会的権力を行使するとは、権力そのものは全能でありながらその日暮しなのであることを意味する。田端義夫が歌った玄海ブルースに、「波に浮き寝のカモメ鳥」という詩がある。股旅ものの演歌も同様の情感を歌う。オルテガは、大衆を「波のまにまに漂う人間」と表現した。オルテガの大衆論については、次回にじっくりと論じることにしよう。

 

  歌謡曲の爆発時代を迎えた。次回は昭和33年から昭和41年までにしてみよう。ものすごい数の歌謡曲がそれこそ爆発的に生み出される。日本人が作り出した。それも売るために作ったのである。爆発したのは歌謡曲だけではない。大衆が爆発したのである。

 

2023/05/21

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和21年~昭和26年―

秋 隆三

 

<始まりはリンゴの唄だった!>

  この歌は、Wikipediaによれば、昭和20年10月11日に公開された映画「そよかぜ」の主題歌である。昭和20年12月14日には、NHK「歌と軽音楽」で初めて放送されたとある。映画の内容は、一人の少女がスター歌手として成功するまでのハートウォーミング 映画である。それにしても、戦後2ヶ月も経たぬ間に制作したとは驚きである。

  歌詞は、4番まであり、有名な出だしの詩は下記のとおりである。

    赤いリンゴに 口びるよせて

    だまってみている 青い空

    リンゴはなんにも いわないけれど

    リンゴの気持は よくわかる

    リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

                  出典: リンゴの唄/作詞:サトウハチロー 作曲:万城目正

   https://www.youtube.com/watch?v=Gf0jDTOyF4U

 

  歌詞の解釈については、種々の出版物があるので、それを参考にしてもらいたいが、概ね、愛しい彼女をリンゴに見立てて歌ったものだろうと想像はできる。一方では、戦争で亡くなった多くの命のいとおしさをリンゴに託したとも読み取れるが、少し読み過ぎかもしれない。

  サトウハチローは、昭和20年8月に広島原爆により実弟を失い、広島まで弟を探しに行っており、肉親の死から間もなくこの詩を作っている。戦前に作ったという説もあるようだが、戦前では如何にサトウハチローでも作れないと思われる。映画の脚本を見てから作ったとのことであるが(Wikipediaより)、映画の内容は主人公の少女が恋人と仲違いし、実家のリンゴ農家に帰ってしまうことから、この詩が生まれている。

  私には、実弟を被爆で失った悲しみの中で、ひたすら与えられた仕事に向かうサトウハチローの姿が目に浮かぶ。戦後、大衆は、このサトウハチローの姿そのものだったのではなかろうか。親しい人を失うという悲しみは、耐えることさえ難しく、ただただ今の生それさえも認識できず、すがるものがあればひたすらそれと対峙するしかない。

  曲は、万城目正の作曲である。これはもはや行進曲以外の何ものでもない。万城目正は、「やけくそ」で作ったのではないかと思われる。徹底的に明るくやってやれという、破れかぶれの曲のように思われてならない。

 

  人の悲しみは、大きく二つに分けられる。一つは、人生の失敗であり絶望である。これは、あくまでも個人の問題であり、言わば自己責任によって引き起こされた絶望である。この場合、行進曲では癒やされない。ますます絶望に追いやられる。絶望を癒やしてくれる曲調は、これ以上はないという絶望の曲の方が癒やされるのである。クラシックで言えば、ラフマニノフのピアノ協奏曲のような曲調だろう。

  一方、肉親の死のように、鮮明な記憶とともによみがえる悲しみに対して、悲しい曲調は、さらに悲しみの記憶をよみがえらせ、ますます悲しみのドン属に落ち込ませる。死を受け入れることができるような曲調でなくてはならない。叙情歌もいいし行進曲もいい。元気のでる演歌なんかも適しているかもしれない。つまり、記憶を呼び戻さない、考えなくてよい曲が必要なのである。

  敗戦国の大衆は、これ以上はないという悲哀の中で、過去から現在につながる記憶を一時的に封印し、今を生きる精神を必要としたのである。

  歌謡曲は何が当たるか皆目見当が付かないそうである。当時の知識人達のこの映画と挿入歌に対する評価は、最悪・最低である。しかし、ヒットした。知識人達が脳で考えたものがヒットしないという典型的な事例である。

  時代の感性を理屈抜きで、つまり理性的ではなく情動で受け止めることができなければヒット曲は生まれない。王陽明が言った「心即理」とはまさにこのことである。感性と知性との反復運動であり、そのことから生まれる技術―悟性(カント)が時代の精神を形にするのである。

 

  昭和21年にヒットした曲は、「リンゴの唄」以外には、田端義夫が歌った「かえり船」ぐらいであり、他にはほとんどないのではないだろうか。レコーディングされた曲があったとしても記憶に残るような曲ではなかったかもしれない。「リンゴの唄」以外の歌謡曲は、本当は、誰も歌いたくなかったのだろう。食べるものさえない年だったのだから。

 

  昭和22年から新曲が徐々に増加する。戦争の記憶を少しづつではあるが封印し始めたのである。

 

  さて、考えてみるまでもなく、第二次世界大戦後、既に77年が経っている。この年数は、明治維新から昭和20年までの期間に相当する。昭和20年に明治維新から明治時代の全期間の明治大衆精神を、明治歌謡曲(明治時代の歌謡曲は多分なかった)を通して分析することは音の記録がほとんど無いのだから不可能である。明治24年には国産1号機となる蓄音機が制作され、明治後期には発売されているので、何とか音の記録を聞くことは出来るが、戦後の歌謡曲流行とはほど遠い時代なのである。

 

  奇しくも、明治維新から77年目が昭和20年の敗戦であり、昭和21年から令和5年が同様に77年目にあたる。昭和初期の大衆は明治維新などは、遠い昔のことであると考えていたに違いない。明治が「いい時代」だと思った者はそう多くはないだろう。何せ、明治維新前後と言えば、まだ侍がいて、腰には人斬り包丁を差し、頭はちょんまげなのである。現代人はどうだろうか。

  オルテガは、「時代の高さ」の感情について論究している。ここでいう「時代の高さ」とは時代の水準、時代の大衆の感情、時代の生と言ってもよい。「昭和はいい時代だったね!」という言葉をときどき耳にする。この「いい時代」には、様々な意味を含んでいる。科学技術、政治、経済等に関する歴史的水準は、向上している。少なくとも過去に戻ることはない。オルテガは、「ほとんどの時代が、自分の時代が過去の時代より優れているとは考えない」というのが一般的な感情であると言う。オルテガの言う時代の高さとは、人々が抱く過去への思慕、いい思い出と言ってもよい。科学技術、政治、経済は確実に向上するが、大衆の生(生きていくこと)は、親子、友人、隣人、地域社会との関係においては情動、道徳・倫理といったもので支配される。生活水準の向上は、合理性の追求においてこれらのなにがしかを犠牲にしてはいないだろうか。もう一方では、オルテガが指摘するように、文化芸術、政治、経済、科学技術等の過去のシステムでは、未来に直面するであろう問題の解決は困難となり、まさに「今日的な次元において」解決してゆかなければならないのである。大衆の感情と大衆が支配する社会の今日的問題とには大きな乖離が生じる。大衆は、こういった大衆支配社会の今日的問題について考えることはない。オルテガが、「時代の高さ」で言いたかったことはこの矛盾であると思われるが、やや舌足らずの説明になっている。

 

  昭和20年の敗戦は、過去の時代への感情さへも封印した。

 

  オルテガはさておいて、昭和歌謡を続けることにしよう。

 

 

<昭和22年~昭和26年>

 

  歌謡曲の分類は極めて難しい。大衆の様相を分類することと大差ないからである。そのため、手当たり次第に、私の好みを優占して曲目を挙げていくことにする。

 

(1)啼くな小鳩よ(昭和22年)

  高橋掬太郎作詞、飯田三郎作曲で岡晴夫が歌ってヒットした。

  この高橋掬太郎の有名な歌謡曲は「酒は涙かため息か」(昭和6年)、「古城」(戦後最大のヒット曲300万枚)等がある。

  この詩は全く意味不明であり、ほとんど意味がないのかもしれない。

    啼くな小鳩よ 心の妻よ

    なまじ啼かれりゃ 未練がからむ

    たとえ別りょうと 互の胸に

    抱いていようよ おもかげを

  別れた女の事を思った唄なのか、これから戦場に向かう男の心情なのか、お互い好き合ったが未練無く別れようといいながら、男の方が未練たっぷりということを歌ったのか、さっぱりわからないが、歌詞の内容とは異なり、曲はやけに明るい唄である。岡晴夫という歌手は後からも登場するがやたら明るい声なのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=yGO4ky5TEF8

 

(2)星の流れに(昭和22年)

  清水みのる作詞、利根一郎作曲で菊池章子が歌ってヒットし、累計80万枚とも言われる。

子供の頃に、多分5歳頃だと思うが、「こんな女に誰がした」と歌っていたら、母親が笑っていたことを思い出す。戦後、食うために娼婦に身を落とした女の唄である。昭和33年の売春禁止法罰則施行で時代は転換点を迎えることになる。

  詩・曲調はどこか居直った感じであり、「文句があるなら言ってみろ。国が悪いんだ、国民全員の責任だ」と叫んでいる。終戦から2年が経ち、戦後のどさくさが落ち着いてきて、ふと敗戦を振り返ると、この国は何をしたんだという感慨が国民大衆に広まったのだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=n2zA0cxabc0

 

(3)港が見える丘(昭和22年)

  東辰三作詞・作曲、平野愛子が歌ってヒットし、累計45万枚と言われる。

  この曲も、恋をして二人で港が見える丘に来て、そこで別れて、忘れられずまたその丘に来たという歌詞である。曲調は、寂しくもなく楽しくもない。ただ、何となく欧米風の雰囲気が漂う、冷めた男と女の失恋の唄といったところだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=CPXbMtuKn7g

 

(4)山小屋の灯(昭和22年―昭和17年作)

  米山正夫 作詞・作曲、近江俊郎が歌った。

  現代でも、歌われることの多い唄の一つであり、歌謡曲というよりは、子供も歌える日本の叙情歌の一つである。当時はNHKのラジオ歌謡として発表されている。このラジオ歌謡(戦前は国民歌謡)は、その後のテレビのみんなのうたへとつながっていく。真面目で健全な子供達を育てるために、教育的な歌謡曲を広めようということだ。

  しかし、このラジオ歌謡はとてつもなくヒットする。小学生や中学生という子供達よりは、若い学校の先生、青年男女に受けた。娯楽のない時代に、男女が一緒になって合唱して楽しむことができたのである。昭和20年代後半から登山ブームが起き、若い男女がそろって山に登り、このラジオ歌謡を歌うのである。

  ラジオ歌謡、みんなの唄でのヒット曲は、昭和40年代以後の年代になると、ぷっつりと無くなる。

   https://www.youtube.com/watch?v=IWCqtksd44w

 

(5)夜霧のブルース(昭和22年)

  島田磬也作詞、大久保徳二郎作曲で、ディック・ミネが歌った。

  水島道太郎主演映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌である。人の善意に救われ更正していく人間の姿を描いたものだが、戦後のどさくさにはびこる悪に対する大衆の善と正義である。

   https://www.youtube.com/watch?v=qY0VTs8lHZ4

 

(6)憧れのハワイ航路(昭和23年)

  石本美由起作詞、江口夜詩作曲で岡晴夫が歌ったヒット曲である。現代でもよく歌われる、ハワイ観光の唄と言っても良い。

  真珠湾攻撃から7年後に、自ら攻撃したハワイにあこがれる。何とも複雑な心境であるが、真珠湾攻撃は、もはや忘却の彼方である。戦後歌謡曲の代表的作詞家である石本美由起が本格的に活動を開始した。

   https://www.youtube.com/watch?v=u49x6U5T15U

 

(7)異国の丘(昭和23年)

  増田孝治作詞、吉田正作曲(昭和18年の作曲)で竹山逸郎が歌ったヒット曲であり、累計50万枚である。

  シベリア抑留者が、必ず帰れるという故国への思いを歌ったものである。この曲の中に、「我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ」という歌詞がある。昭和23年は、まさに我慢の年であった。新円切り換えと猛烈なインフレとなったところに、昭和24年初めにドッジラインという占領経済政策による金融引き締めを行ったため、大不況となった。まだまだ、先が見えない時代であった。それこそ、嵐が過ぎれば、晴れの日が来るのだ。民族の精神・思想というものは、その国の風土と密接に関連している。有史以前から数百年に一度は発生する大地震、毎年決まって襲ってくる台風、この国の国民は、嵐が過ぎ去るのをじっと耐え、その都度立ち上がるのである。この戦後の立ち上がりの早さは、物質的な回復以前に伝統的自然観による大衆の精神性にあると思われる。

   https://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM

 

(8)東京の屋根の下(昭和23年)

  佐伯孝夫作詞、服部良一作曲であり、灰田勝彦が歌った。若い男女のデートで、東京見物をしている。「何にも無くともよい」、東京は二人の夢の街・希望の街なのだ。東京中はアベックであふれている。東京は世界の憧れだと歌う。服部良一の登場である。これまでの曲調とはがらりと変わり、戦前では考えられなかった西欧風の香りがぷんぷんとする。いよいよ、恋の時代の始まりである。前回掲載の(序)で示したように、この時期の結婚適齢期に当たる20歳から35歳の人口構成を見ると、男性より女性の人口の方が多いのである。当然である。男が戦死して人口が減ってしまったのだ。恋を渇望したのは女性の方であったかもしれない。いずれにしても、恋は病気である。感染する。これからしばらくの間、恋病という感染症が日本に蔓延する。

   https://www.youtube.com/watch?v=gn9SpOvzMrk

 

(9)東京ブギウギ(昭和23年)

  鈴木 勝作詞、服部良一作曲であり、笠置シズ子が歌い累計70万枚に達した。

またしても、服部良一である。ブギウギとは、ブルースと並んで、ジャズリズムの一つであり、コード循環に従ってピアノでは左手でリズムをとり、右手で即興変奏する。アメリカ文化が体感できる陽気な唄である。

   https://www.youtube.com/watch?v=9FCmuZXLt9g

 

(10)フランチェスカの鐘(昭和23年)

  菊田一夫作詞、古関裕而作曲で二葉あき子が歌った。これもジャズ風にスイングしている。

  女性の別れ話を真に受けた男が修道院に入るという内容だが、後に原爆被害者への鎮魂歌のイメージが強くなった。それにしてもだ、女性から「さよなら、バイバイ」と言われて修道院に入るとは、戦後の男の軟弱さはこの時から始まっていたのか。

   https://www.youtube.com/watch?v=9q18E0h4GfM

 

(11)青い山脈(昭和24年)

  西條八十作詞、服部良一作曲で藤山一郎と奈良光枝が歌った。国民的歌謡曲の誕生である。石坂洋次郎原作の日本映画「青い山脈」の主題歌であり、映画は何度もリメークされている。

  昭和22年学校教育法の公布に伴い新制高校が誕生した。それと共に、新制女子高生が古い道徳観念に疑問を持って挑戦していく姿に、国民的共感を読んだものである。映画のリメークが1988年まで5回行われており、1963年のリメーク版までは大ヒットしているということだから昭和38年までは、大衆に新鮮な共感となったに違いない。時代の転換点の一つを示している。

   https://www.youtube.com/watch?v=P-QUP13GAeA

 

(12)悲しき口笛(昭和24年)

  藤浦洸作詞、万城目正作曲で美空ひばりが歌った。当時45万枚、累積110万枚と言われる。

この昭和24年は、大不況・デフレ時代の一つであるが、レコードの売上はどんどん伸びていく。

美空ひばりの登場である。12歳の少女が、燕尾服を着て、大人びた恋の唄を歌う。恋病の続きだ。

   https://www.youtube.com/watch?v=_RVg1vpZXto

 

 (13)銀座カンカン娘(昭和24年)

  佐伯孝夫作詞、服部良一作曲で高峰秀子が歌った。累計85万枚のヒットである。

高峰秀子、笠置シズ子の同名主演映画の主題歌である。落語家の居候となった高峰秀子と笠置シズ子の姉妹が職を探して歌手として成功していく物語である。出演料で1000円という大金を手にするというのであるから、当時の報酬の程度が推察できる。何せデフレ不況の真っ最中なのだから。戦後の暗い時代に、せめて唄で吹き飛ばせという祈りさえ感ぜられる。

   https://www.youtube.com/watch?v=lMd0l_mT-GY

 

(14)さくら貝の歌(昭和24年(昭和14年))

  土屋花情作詞、八洲秀章作曲であり、ラジオ歌謡でヒットした。辻輝子、岡本敦郎等が歌っているが、数多くのクラシック歌手も歌っており、日本の歌曲といったところである。

  倍賞千恵子版を掲載している。

   https://www.youtube.com/watch?v=HIQZcGHlUuM

 

 (15)長崎の鐘(昭和24年)

  サトウハチロー作詞、古関裕而作曲であり、藤山一郎が歌った

  戦後4年を経て、やっと戦争被害者への鎮魂の唄を国民が受け入れるようになったと言えよう。占領統制下にあり、戦争、原爆などの言葉を使うことがきでなかったため、戦争、戦死に関する言葉は一切詩の中にはない。死の記憶と向かう感情を、いちいち考えるのではなく素直に理性が受け入れるためには、これだけの時間がかかるのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=wbq6mFL641w

 

(16)玄海ブルース(昭和24年)

  大高ひさを作詞、長津 義司作曲であり田端 義夫が歌った。戦後演歌の始まりといっても良い。この人は戦前から人気があった。

  田端義夫版である。

   https://www.youtube.com/watch?v=D2-dcD39vZE

 

  ちあきなおみ版である。これはうまい。

   https://www.youtube.com/watch?v=GNLz1Y06iWo

 

(17)イヨマンテの夜(昭和25年)

  菊田一夫作詞、古関裕而作曲であり伊藤久男が歌った。アイヌをテーマとした初めての歌謡曲であり、君の名はの主題歌である「黒百合の唄」が加わる。

   https://www.youtube.com/watch?v=jBWSe3EGOBY

 

(18)白い花の咲く頃(昭和25年)

  寺尾智沙作詞、田村しげる作曲した歌謡曲で、岡本敦郎が歌っている。ラジオ歌謡でヒットした曲である。賠償千恵子版を掲載した。

    https://www.youtube.com/watch?v=I6H6ZDuLnOQ

 

(19)ダンスパーティの夜(昭和25年)

  和田隆夫作詞、林伊佐緒作曲、林伊佐緒歌である。

  失恋の歌である。これも別れ話は女からである。女性の方が多いのだから、次の女性はいくらでもいそうなものだが、何とも未練がましい男の歌である。この時代の男の未練がましさは際立っている。これもまた、恋病の流行のせいだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=VZSVVFRg068

 

(20)東京キッド(昭和25年)

  藤浦洸作詞、万城目正作曲であり、美空ひばりが歌った。この年には美空ひばりの越後獅子の唄も出している

   https://www.youtube.com/watch?v=ywebYqsCxbo

 

(21)越後獅子の唄(昭和25年)

  西条八十作詞、万城目正作曲、歌は美空ひばりである。これまでの洋風の歌から日本調の歌へと変化し始める。

   https://www.youtube.com/watch?v=PwiD6W6aS6g

 

(22)星影の小径(昭和25年)

  矢野亮作詞、利根一郎作曲であり、小畑実が歌った。小畑実では何となくしっくりとこないが、ちあきなおみのカバーが素晴らしい。このちあきなおみと言う人は、美空ひばりがいなければ、恐らく昭和歌謡最高の歌手ではないかと思われる。演歌からムード歌謡まで、際立っている。歌手のうまさの条件は、音楽的技術は当たり前であり、耳がよくなくてはとても高度な技術は発揮できない。これ以外に天性の条件がある。声の質である。品が良く、艶があること。低音部の響きが抜きんでていなければならない。高音部は、美空ひばりのような裏声もあるが、裏声は聞きにくい。裏声でなくピアニッシモで発声できること。情景に逢わせた多様なビブラートが使い分けできること。声質が変えられるか。語りかけが自然にできるか。正確な日本語の発音ができるか。等々である。ちあきなおみはほぼ全てを揃えていると言えよう。ちあきなおみ版を掲載する。

   https://www.youtube.com/watch?v=pOtU2M9ZeQU

 

(23)水色のワルツ(昭和25年)

  藤浦洸作詞、高木東六作曲の歌謡曲。二葉あき子が歌った。現代まで歌いつながれる日本歌曲とも言えよう。倍賞千恵子版を掲載した。

   https://www.youtube.com/watch?v=XurckOX8XvY

 

(24)あの丘越えて(昭和26年)

  菊田一夫作詞、万城目正作曲であり、美空ひばりが歌った。

   https://www.youtube.com/watch?v=-cFW5Lb8lUw

 

(24)高原の駅よさようなら(昭和26年)

  佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲であり、小畑実が歌った。これまた恋病の歌であり、内容は少し複雑な関係の男女のもつれ合いであり、別れを題材にしているがたいしたことはなさそうな物語である。

   https://www.youtube.com/watch?v=n1zi1rYSScI

 

(25)上海帰りのリル(昭和26年)

  東條寿三郎作詞、渡久地政信作曲であり、津村謙が歌っている。戦前のアメリカ映画の主題歌から一部借用したとされている。アンサーソングといって「リル」をテーマにした曲も出ている。

   https://www.youtube.com/watch?v=myYFBcmLJcU

 

(26)私は街の子(昭和26年)

  藤浦洸作詩、上原げんと作曲であり、美空ひばりが歌った。何故この曲がヒットしたのかは、ほとんど意味のない詩なので不明である。曲調が、歌手の年齢と合致し、天才歌手の名声もきいたのかもしれない。どんな曲がヒットするかは、全く解らないのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=-1mIEE8IU60

 

 

 <占領統制下の大衆>

 

  レコード、ラジオ、映画等の全ての情報は、GHQの統制下にあり検閲を受けていた時代である。それも、戦争、原爆、占領等の言葉、悲惨さや鎮魂、慰霊のイメージはことごとく禁止された。アメリカ風の曲調、例えばジャズや行進曲が推奨された。おそらく、日本調の、この時代の後に爆発的に出てくる演歌についても、民族性を誇張することからかなり厳しかったに違いない。その中で、田端義夫の「玄海ブルース」は、演歌であるが内容は明るく(しかし曲調は日本人には響く)、ほぼこの1曲といってよい(菅原都々子が歌った「連絡船の歌」があるが、昭和演歌とは少し違う気がする)。

 

  私が挙げた26曲を通して、アメリカ風・洋風の曲調、日本歌曲とも言える叙情歌、今後出てくる演歌の走りとも言える恋病の歌、鎮魂歌、ただただ明るい行進曲といったような分類ができよう。

  しかし、明らかに戦前の詩・曲調とは変わってきた。食べるものさえない時代にレコードを買うのである。「花より団子」というが、この時代、「団子より花」を選択する大衆が多く存在した。精神の乾きなのである。世の中は殺伐とし、大衆は貧困にあった。積み上げてきた歴史的生活水準が一挙に崩壊した。まさに、貧困では圧倒的平均人と化した大衆の乾ききった感情に歌謡曲は何の抵抗もなくしみ通っていったに違いない。声を出して、みんなで歌うことが、厳しい状況における共感であったことも事実である。

  この時代を前後して、うたごえ運動が起こる。ロシア民謡、ラジオ歌謡等を取り上げ、労働歌、大衆歌等として学生、労働者を中心に広まっていく。

  大衆は、したたかである。政治的意図よりも遙かに複雑にかつ多様な歌謡曲を求める。求めるというよりも、歌謡曲市場が片っ端から作り出した歌謡曲を大衆が選択するのである。

 

 

  次回は、昭和27年から昭和32年までを見ていこう。

                                                       2023/05/11

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―序―

秋 隆三

 

  思想とは、人の思いであり共感である。確固たる思想などはないとも言える。それでも思想は片時も休むことのない社会・時代の中にあって、少し先へと人々を突き動かす。

  思想とは何か? スペインの哲学者オルテガは、著書「大衆の反逆」の中で次のように書いている。「思想とは真理に対する王手である」と。王手にもいろいろある。持ち駒があれば、ある意味、いつでもどこでも王手はかけられる。こういった王手となる持ち駒も、思想と言えなくはない。しかし、一手早く相手を詰ませられなければ、王手と言うには憚れる。

  オルテガは、思想とは教養でもあると言う。大衆にそれほどの教養があるとは思えないから、大衆の思想と言い切るのには勇気がいる。思想とは言えないまでも、精神とならば何かを語ることも出来そうである。

  「この国の精神」に真っ向から挑んだ文献は、「日本精神の研究」など、かつて説明したように3冊あった。いずれも大正時代に三人の血気盛んな青年達によって書かれたものであるが、同時代のスペインでは、情熱に燃えた中年のおじさんが大衆の反逆への思想的挑戦を企てた。

 

<大衆とは?>

  注:ここでは、オルテガの「大衆の反逆」から引用しつつ、昭和の大衆の皮を少し剥いでいる。「大衆の反逆」の詳細については下記をお読み下さい。

  「大衆の反逆」  オルテガ・イ・ガセット著 神吉敬三訳 ちくま学芸文庫

 

  オルテガが「大衆の反逆」を著したのは、オルテガ47歳、1930年の世界恐慌の真っ只中であった。日本精神に挑んだ日本の青年達は、当然オルテガの著書等は知るよしもなかったに違いない。奇しくも、オルテガが「大衆の反逆」を著す20年前(正確には1908年第1巻、1912年第2巻)には、かのシュペングラーが「西洋の没落」を著している。文明の歴史的考究から、ヨーロッパのキリスト教文明は既に衰退期に入り、いずれ没落するというものである。

 オルテガは、第一次世界大戦後の1920年代に突如として出現した群衆=大衆が、完全に社会的権力の座に登ったという事実に直面して、ヨーロッパが最大の危機を迎えたことを直感し、大衆の反逆の様相に迫ろうとした。この場合、反逆や大衆、社会的権力等の言葉に、政治的な意味を与えることを避ける必要がある言っている。つまり、政治の影響というような単純な現象では説明がつかない程に複雑なのである。政治的とは極めて狭い領域を指し、政治が介入する以前の社会環境全般(知的、道徳的、経済的、宗教的、風俗・流行的等一切の集団的慣習)を含むものであるからである。

  こういった状況、状態、つまり様相を分析・整理し、その一つ一つの要因を論究することは、容易ではない。一方で、オルテガは、その様相を指摘することは簡単だと言っている。オルテガは、当時の群衆の様相について、「ホテルは泊まり客で、汽車は旅行者で、道路は歩行者で満ちて」いるとし、様相を示すとすればただこれだけのことだと言う。

  オルテガの示す大衆とは、特定の集団、例えば労働者集団などではなく、「平均人」であり「特別の資質をもっていない人々の総体」を指している。少し厳密に言えば、「善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「全ての人」と同じであると感じ、・・・・・他の人々と同一であると感ずることに喜びを見いだしている」全ての人のことである。それでは、政治との関わりについてはどうなのだろうか。大衆が政治にあき、政治運営を専門家に任せきっていると解釈するのは間違いであり、事実は全く逆であるという。そこら辺の茶飲み話を実社会に強制し、かつ法律を作る支配権さえ持っていると言うのである。これは政治的問題だけではなく、知的分野でも同じだと、オルテガは主張する。さらに、オルテガは、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされ、かつ「すべての人」とは今日、ただ大衆を意味するにすぎなくなったと言う。

 

  振り返って現代を見ると、このオルテガの主張、大衆の実相、残酷な大衆支配なるものが、現実社会であることを実感するのは、私一人であろうか。

 

  話は逸れるが、近くのホテルでお茶を飲んでいると、幾組かの老夫婦が同様にコーヒーを飲んだりアイスクリームを食べているのをよく見る。しかし、少し観察すると、どの夫婦も会話することなくスマホと向き合っているではないか。私は、スマホではなく今もってガラ系の携帯電話であるが、外出する時だけ持って出る。公衆電話がないので何かあったときの用心である。この夫婦達にとって夫婦の会話はもはや必要無く、スマホがあればよいのである。

  温泉につかっていると地元の老人達の会話が耳に入ってくる。しかし、会話している老人達は極めて少なく、その少ない会話を聞いていると、これが激動の昭和を青年として生きた人間の会話かと耳を疑う。ゴルフの成績はどうだった、天気はどうなるか、畑の状態、病気・健康状態程度の話である。どうでもいい会話である。ウクライナの戦争、中国・日本の社会・経済、若者達の行く末、さらにはわが国の古代史の嘘が暴かれている等々、驚愕の時代を迎えていることには全く興味がない。

  少しは社会問題に興味ある老人が、東京から来ていた若者にウクライナ問題はどう思いますかと問いかけているのを聞いた。すると若者は、「僕はそういう問題はちょっと」と言って、そこそこにお湯から出て行ってしまった。

  現代日本の大衆は、もはや茶飲み話を実社会に強制するエネルギーさえ失ったのかもしれない。

 

<戦後昭和時代とは>

 

  昭和20年8月、終戦となった。長い戦争が終わった。よくもこれだけの戦争をしたものだと思うと同時に、よくもこれだけ耐えたものだと思わざるを得ない。ウクライナの戦況を目にするが、首都キーウへの空爆はあるものの、ほとんど日常の風景である。第二次世界大戦の東京やドイツベルリンの映像を見ると、もはや焼け野原と化している。

  昭和時代は、戦前の20年と戦後の43年の63年間であるが、ここでは戦後昭和時代を対象にすることにした。戦後昭和は、まずGHQの占領体制から始まる。占領期は、昭和20年(1945年)9月2日の降伏文書調印から昭和27年4月28日の平和条約の発効までの僅か6年8ヶ月の期間であるが、この時代に作られた日本国憲法、民主主義、政治制度、農業制度、金融経済システム、安全保障制度等の国家の枠組みは、憲法を除いて時代とともに変化はしたが、考え方は現代にそのまま受け継がれている。

  さらに重要なことは、戦前から戦後にかけて占領体制においても戦前の社会資本によって戦後体制が再構築されたことである。国、都道府県、市町村という行政機構とその組織・人、大学等の教育組織・人、一度は解散された財閥が再構築された経済界という資本家組織・人等である。軍隊を除く行政組織のエリート層はほとんど全てが、そのまま戦後体制に持ち込まれた。これが、所謂、少数の選ばれた人々と言える国民層であるかもしれない。その他全ての国民階層が大衆へと劇的に変化した。華族、士族の廃止、地主・小作人の廃止、婦人参政権・普通選挙等々であり、群衆の充満、大衆の出現である。この突然の大衆の出現は、現代に至るまで一つの社会危機の要因でもあると考えられるのである。

  占領体制が終焉し、朝鮮戦争の勃発は戦後復興の絶好の好機となった。神武景気の到来である、最盛期は昭和29年(1954年)12月から昭和32年(1957年)6月までの2年6ヶ月を指しているらしい。言論統制が解かれ、報道・表現が自由となり、その影響は、文化・芸術を含む大衆のあらゆる分野に及んだ。

  この後も、岩戸景気(昭和33年―1958年―7月から昭和36年―1961年―12月)、いざなぎ景気(昭和40年―1965年―10月から昭和45年―1970年―7月)と、オイルショックの不況までほとんど不況らしきものはなく好景気が続き高度経済成長を成し遂げ、昭和の終焉ともいうべきバブル経済へと突入していくことになる。

  世界もまた、昭和の終りとともに冷戦時代に幕を閉じることになる。世界を見ると、冷戦の終焉をもって世界の戦後は終わったといってもいいだろう。

  日本だけではなく、世界が激動の戦後にあったのであるが、「大衆は、その変化を激動とは受け止めず、ひたすら変化を吸収しあるいは変化を積極的に求め、激動を心地よく受け止めていた」と言っても過言ではないかもしれない。

 

<なぜ戦後昭和歌謡なのか>

 

  現代社会をどのように捉えるかには、様々なアプローチがあろう。例えば少子化社会、デフレ社会といった社会現象を歴史的要因から探る等である。しかし、歴史は必然である。現代の社会現象は、現代の大衆の精神によって生み出されている。過去の社会現象は、過去の大衆の社会精神が生み出したものである。

  戦後に突然出現した大衆と変化の遅い少数の人々で構成された大衆社会という構造は、現代でも変わらない。オルテガが言う、大衆の生そのものである。ここで言う生とは、人々の営みであり、生きている社会のことである。大衆の様相は、群衆の充満状況で十分説明可能である。しかし、「大衆の精神」となると、その様相から探ることは難しい。

  「大衆」という言葉は、辞書、Wikipediaによれば、仏教用語が語源らしい。高僧に支配された僧の意味合いで用いられたとある。日本でも、オルテガが用いたとほぼ同時代の大正時代に使われ初め、都市給与生活者のことだったようであるが、確かではない。

  英語では、the general public、the masses、the people、popular(ization)と言うそうであるが、それぞれ全く語源を異にするので、ニュアンスはそれぞれ違い、用いる場合には概念が異なるはずである。日本語になると、これらの概念の区別が付かなくなる。日本語の抽象性というのは概念表現に実に曖昧である。そのため、欧米の哲学的表現が難しくなる。つまり、欧米語では一語で足りる部分を長々と解説することになり、種々の哲学書の翻訳版の難解性となっている要因である。

  いずれにしても、オルテガが定義した「大衆」である。大衆がつく言葉は沢山ある。大衆酒場、大衆映画、大衆文化、大衆文学、大衆食堂等々。これらのイメージの大衆が、所謂「大衆」である。

 

  私の高校時代、受験勉強をそっちのけに日本文学全集、世界文学全集を読破した。しかし、これらの全集に載っていた日本文学に戦後作家の文学はなかったと記憶している。つまり、戦後の純文学で知られているのは何だったのか、読んだのか、全く記憶にないのである。知っているのは、大江健三郎、村上春樹、「安曇野の白い庭」の丸山健二ぐらいなものだ。

  大学を出てから読んだのは、推理小説の松本清張、横溝正史、吉村昭、時代小説の司馬遼太郎、柴田錬三郎、池波正太郎、藤沢周平といったところだろう。どちらかと言えば大衆小説作家である。まさに文学の大衆化なのである。

 

  音楽はどうかと言えば、そもそもわが国独自のクラシックなどはないので、まさに歌謡曲がわが国の音楽であるということになる。この歌謡曲という言葉は、Wikipediaによれば明治時代に欧米から入ってきた芸術歌曲を歌謡曲と言ったらしい。昭和初期のレコードには「歌謡曲」という表記が見られるので、この頃からであろう。一方では流行歌という呼び名もある。歌謡曲には、詩を伴うことから、旋律が流行するのではなくその詩が時代を反映したものとなり、大衆の共感を伴って流行する。

  歌謡曲こそは、わが国の歴史において、初めて大衆の歌として広く歌われた。戦後大衆は、国歌は歌わなくとも歌謡曲は歌った。膨大な第二、第三の国歌がこの戦後昭和時代に誕生したのである。

  戦後昭和歌謡曲は、昭和30年代に入ると爆発的に流行する。戦後に活動を開始した作曲家がそろい初め、レコードプレーヤーが安価に手に入り、ラジオが普及し、昭和30年代半ばにはテレビの普及も始まったことが要因であるが、まさに昭和歌謡の爆発期である。昭和40年代になるとそれまでの曲調とは異なる、新たな曲調、70年安保を機にフォークが登場することになる。

  図-1は、昭和31年のわが国の人口構成であり、図-2は昭和の終わりである昭和63年の人口構成をグラフ化したものである。

  戦後、昭和20年から昭和40年頃までの昭和歌謡を体現している年代は、恐らく昭和31年前後の生まれが最後ではないだろうかと思われる。この昭和31年以前生まれの総人口は、昭和63年には7千百万人であり、同年の総人口に占める割合は58%である。昭和歌謡にどっぷりと漬かった人口割合は、昭和20年の100%から昭和63年の58%へと徐々に低下していくことになるが、それでも昭和63年には昭和31年以後の生まれた人の幾分かを巻き込むと、多分70%以上の国民は昭和歌謡を聞き、昭和歌謡を歌っていたことになる。昭和の最後まで昭和歌謡は大衆歌謡として生きていたのである。

 

   図-1 昭和31年の人口構成           

図-2 昭和63年の人口構成

 

(政府統計 e-Statより引用作成)

 

 <戦後昭和歌謡の変遷と大衆の精神>

 

  戦後の歌謡曲をどのように眺めていったらよいかである。様相を示すことは簡単である。「あの曲がはやった。こんな曲も現れた」と、ただ列挙すればよい。現代に残っている昭和歌謡は、当時ヒットした曲である。ヒットするということは、売れたということである。戦前のプレイヤーの販売台数はそれほど多くはなく、ラジオの普及率も低かった。戦後の昭和25年頃から、これらの機器は急速に普及し始める。また、NHKラジオの番組内容もがらりと変化する。ラジオドラマの登場である。どんな音楽であれば大衆が聞くか、どんなドラマであれば大衆に受けるかが最大の問題であった。勿論、戦前にもあった。歌謡曲であれば、大利根月夜(昭和14年)、支那の夜(昭和13年)、名月赤城山(昭和14年)、誰か故郷を想わざる(昭和15年)、目ン無い千鳥(昭和15年)等々であり、数々の軍歌である。現代でも歌われているが、戦後にも同じ歌手で再レコードして発売されている。

  戦後のヒット曲の量産は、戦前の比ではない。戦後、抑制からの解放と自由を得た大衆が何を求めているかを探ることは、極めて困難となった。数多くの思考錯誤の中からヒット曲が生まれてくる。つまり、過去の経験から今日的な大衆の欲求を探ることが困難な時代を迎えたのである。まさに、オルテガの言う、「大衆の反逆」の時代を迎えた。それも、オルテガが考察した時代よりも遙かに激しく、遙かに商業的であり、遙かに精神性に乏しく、遙かに変化のスピードは速かった。

  戦後歌謡曲と言っても、恐らく1万曲を超える曲があるに違いない。そのうち、毎年100曲程度がレコーディングされるとしても4千曲を超える。一方で、毎年3曲程度のヒット曲が生まれるとすれば千曲を超える歌謡曲が売れた。平成元年(1989年)版の1001(楽譜集)では、1200曲余りが掲載されているが、そのうち戦後昭和歌謡はおよそ1000曲である。

  まずは、これを基に、時代の区切りを適当に(設定の基準は極めてあいまいである)設定して、戦後昭和の大衆の精神とは何であったかに迫ってみることにする。迫り方は、オルテガの論究の視点を参考にしつつやってみるが、精神であるから、その時代の大衆の心、あるいは大方の人々の情感に迫りながらその精神性を考察することになる。

  これからの展開では、曲名・作詞者・作曲者・歌手を掲載しているが、歌謡曲そのものについてもYouTubeのURLで併記した。歌謡曲を聴きながら読んでいただきたい。

  この文章を書くにあたって随分と歌謡曲を聞き、懐かしさと同時に如何に素晴らしい日本の歌であるか感動し、歌手の技術の高さに感心した。掲載に当たってはオリジナル歌手だけではなくカバーしている歌手版も掲載している。

  次回は、昭和21年から26年までの昭和歌謡である。

                                                       2023/05/05

この国の精神 相も変わらぬ現代思想(3)

秋 隆三

<総務省と高市大臣>

 

  野党立憲民主党の元総務省小西某が、高市大臣に対して8年前の行政文書を基に、放送法に関して、当時の安倍総理とただならぬ議論をしたのではないかということを追求したものである。結論から言えば、議論はどのような意見をもってしても徹底的にやれば良いので、議論をもってとんでもないことをしている等の問題提起は、それだけで委員会議論のテーマとしては、問題外であり、議長権限で却下されるのが当たり前であるが、民主主義の常識を踏み外した国会状況となっているということだろう。

  しかし、ここまできたら、高市さん徹底的にやってもらいたい。放送・通信利権の巣窟となっている旧郵政組織を解体する覚悟が必要である。行政文書が小西某に渡った経緯などは、総務相では既に調査済みだろうし、高市さんが捏造を主張し続ける限り、この議論に終わりがない。そのため、総務省は国家公務員法違反を告発する義務があることから、高市さんが捏造を主張し続け、必要であれば告発も辞さないことを示すことにより、総務省は責任をとって刑事告発せざるを得なくなる。恐らく、総務省旧自治省系は、内心では絶好の機会到来と考えているであろうが、ぎりぎりの限界まで待つことになる。

  直近のニュースでは、総務省の管理簿には高市さんが指摘する4枚の文書は掲載されていないとのことである。つまり、誰が何時作成したか解らないのだ。端的に言えば捏造してファイルしたかもしれないのである。ここまでくると、総務省も何らかの処分を行わなければなるまい。総務省の態度が明らかになれば、検察が自主的に動く可能性が高くなる。つまり、偽造・捏造・違反公文書の漏洩疑惑事件の捜査であるが、裏には利権問題もある。

  高市さん、心理的に追い詰められるかもしれないが、ここは我慢です。ゼレンスキーのように、徹底抗戦の旗を掲げるべきです。勝利は貴方の方にあるのは100%間違いない。ゼレンスキーよりも遙かに楽です。主要メディアが何と言おうと、多くの国民は、高市さんを応援している。高市さんが頑張ることで、利権誘導機構を解体し、主要メディアに痛烈な一撃を加えることができる。それこそが放送の政治的公平性となるのだから。

  それにしてもだ、こんな野党しかないのかと思うと、お隣の韓国政治の批判等はおこがましい限りである。自民党も自民党だが、こんな野党は潰してしまえ。

 

<欧米の銀行破綻>

 

  米国で二つの銀行が経営破綻した。預金高もかなりのものである。ヨーロッパでは、スイスの銀行が、以前からおかしいと言われていたがどうやら破綻の一歩手前まで来たようだ。大量の国債、住宅債券(抵当証券)を保有していたため、インフレ抑制のための高金利政策により、債券価格が値下がりし、含み損が発生したため、預金・債権の取り付けにより、預金額が減少してバランスが崩壊したとされている。ネット情報であるが、SDGsやESG関連企業の債券も相当額あるらしい。それが、今回のエネルギー危機によって、詐欺まがいの再生可能エネルギー企業が続出し、かつ、米国の再生可能エネルギーへの公共投資が頓挫したことで、債券価格が暴落したことが直接の原因ではないかとも言われている。国債や抵当証券等の長期債券の長期金利の変動幅はそれほど大きくなく、かつ長期の保有であるから経営破綻となることは考えにくい。むしろ、金融政策による短期金利の上昇であり、それにより影響を受ける中短期社債・株の暴落である。ESG投資等の夢物語的投資に手を出したとする方が正しい気もするが、果たして真相は如何に。

  直近のニュースでは、SVBは中国の投資銀行との合弁銀行を中国に創設して運用していたらしい。何をどのように運用していたかは解らないが、ここにも何かうさんくさいものを感じるが果たしてどうなのか。

国内でも三浦某の夫が経営する太陽光発電事業が詐欺事件で逮捕となった。投資会社がだまされたのだが、これに類する話は、山ほどあるに違いない。

  元来、自然エネルギーは、極小規模な利用を除いて大規模に利用してはならないのである。水力も例外ではない。気候変動に最も影響を与えるのは、CO2よりはこの自然エネルギー利用の方が遙かに大きいからだ。

  水素にしろ核融合にしろ新エネルギー開発には、金と時間がかかるのだ。エネルギー問題は、社会の空気によって左右されるような政策・政治であってはならない。

 

  仮に、今回の金融破綻が連鎖するとすれば、欧米政府・財界が作りだしたSDGsという短絡した虚構のシステムがもたらした結果となるかもしれない。

 

<米国のニュースから>

 

  最近のFOXニュース等をみると、面白い映像が入ってくる。

  まず第一は、1月6日の大統領選挙を巡る、米国国会議事堂乱入事件である。

  この事件は、トランプ支持者が、ドアや窓を破壊して議事堂に乱入し、警察官が死亡したというものであった。ところがである、公開された議事堂内の監視映像では、逮捕されたインディアン姿の男は、警察官に案内されて議事堂内を見学しているではないか。乱入したというトランプ支持者も、何もせず議事堂内を静かに見学している。

  あの議事堂乱入の暴力行為と、この映像とはどんな関係・経緯があるのか、全く解らないが、暴力行為の映像は作為的なものではないかと思わせる。さらに、この暴力行為を記録した映像は、ペロシ議長の娘が撮ったものであるらしい。つまり、演出されている可能性があるようなのだ。経緯の前後関係、監視映像の信頼性、暴動記録の信憑性等、わからない点ばかりだが、今後の解明が待たれる、実に不思議な映像である。

 

  第二は、新型コロナのパンデミックは、中国武漢ウイルス研究所から漏れて流出したというものである。これは、私のブログでも書いたが、新型コロナウイルスは人為的に作られたというものである。コロナウイルスの大流行は200年前にあった。ウイルスは一度大流行を起こすと、ヒトヒト感染によって急激に変異し、毒性の低いウイルスに変異する。このことは、人間のDNAに刻まれているので、推測ではなく科学的事実である。鳥インフルエンザが人に感染して話題になっているが、今後もニワトリを殺処分して防止することは現実には不可能なのである。ヒトヒト感染しなければ弱毒性に変異することはないと考えられる。本格的な予防対策をとるのであれば、今回のようにワクチンを開発し、変異に対応して3年程度待つと弱毒化する。勿論、何もしなくても(当然死亡率は高くなるが)3年程度で収束する。ワクチン開発を世界規模で進めることが重要となるが、いつ流行するか解らないので企業ベーズの開発では無理である。脱炭素などは少しおいてワクチン開発を継続的に実施する体制が重要なのだが、国連は何もする気がない。

  さて、この中国武漢ウイルス研究所の機能獲得試験という極めて危険な研究に金を出したのが米国NIH(国立衛生研究所)であり、責任者がファウチだということである。この問題は、以前から問題視されて米国国会でも議論されていた。

  直近のニュースでは、SVBの破綻した日(3月10日)の米国国会で、満場一致で新型コロナの発生源調査に関する法案が通過したそうである。本格的な調査が開始されるだろう。

 

  第三は、バイデンの息子の不正問題である。ウクライナの石油会社から多額の報酬を得ていたり、中国との関係で不正なロビースト活動を行った疑惑である。大統領選挙の時は、陰謀論のように報道され、主要メディアから完全に閉め出されていた問題である。米国下院で共和党が優勢になったことから、様々な疑惑が表に飛び出した。これからの、米国政界の動きは、そこらへんのドラマを見るより遙かに面白いことになりそうである。

 

 

  ウクライナ戦争も両者被害甚大で弾切れ状態となっている。NATO陣営の本気でやる気があるのかどうか解らない煮えきれない態度。欧米中央銀行の、型どおりの金融政策がもたらすであろう未曾有の経済不況。日本では、だらしない野党がろくな政策提案もできずにうろうろしている。

  民主主義は、誰も考えない制度だと喝破した社会学者がいたが、現実の状況はまさにそのとおりになっていると思うのは私一人だろうか。

 

2023/03/17

この国の精神 相も変わらぬ現代思想(2)

秋 隆三

 

<ウクライナ情勢>

 

  ウクライナ戦争は、まだまだ終わりそうにない。東部ドンバス地方では激戦状況が続いているらしい。プーチンとしては、この地域を制圧しなければ戦争を始めた大義を失うことになるから、何としてもドンバスを手に入れる必要がある。しかし、計算したようには物事は進まないものだ。プーチンは、ロシアの大統領選挙を来年に控えて焦り始めた。これが勝敗を決めることになるだろう。何故なら、ロシア内部からの揺さぶりが起きるからだ。ロシアも形だけは民主主義である。投票によって大統領を決め、議会によって法律を作るという形式は何としてもとり続ける必要があるのだ。民主主義というのは何とも都合の良い思想であり道具である。しかし、戦死者が10万人を超えるとなると、国民が黙ってはいないだろう。特に都市部からの出兵者の戦死は、国民の感情を揺さぶる。終戦間際の日本の状態である。戦争から1年、ロシア経済は確実に崩壊に向かっているが、生活実感にまでは至っていない。地方の農業者が兵隊として徴用され、農業労働力が低下し、さらに工業労働力が低下し始めなければならない。この春の徴兵以後が一つの目安だろう。

 

<中国の振る舞い>

 

  それにしても、中国がしたたかである。中国の目的は一体何なのか? 個人的意見(意見というのはほとんど根拠のない言葉である。この場合も根拠はほとんどない。民主主義における国民意見というものはこういったものである)であるが、中国の狙いは、ロシア沿海州、つまりウラジオストク、ナホトカ、さらに広くはアムール川(黒竜江)西部地域一帯の、かつて、16世紀明朝から19世紀清朝初頭まで中国領であった地域の復帰である。中国としては、ロシアへの経済支援を小出しにしながら戦争を長引かせ、ロシアを疲弊させる。その中で、ウラジオストク、ナホトカ、ハバロフスク一帯の地域を自由国家としてロシアから独立させて、貿易自由国家を創り上げる。国連の加盟も承諾も要らない。それこそ、武力による侵略ではないので、国連だって反対のしようがない。この地域一帯は、現在のアムール州(1858年清から割譲)、沿海地方(1860年清から割譲)、ハバロフスク地方(満州族居住地にロシアが19世紀後半に侵入)、ユダヤ自治州(1858年清から割譲)であり、19世紀半ばまでは中国清朝の領土であった。但し、樺太南部、カムチャッカは、アイヌ民族と日本の領土と考えられている。仮に、この国をアムール国としておく。中国は、アムール国に武器弾薬、生活用品の原材料を輸出し中国企業が生産する。ロシアはエネルギーをアムール国にパイプラインを通して輸出する。これで、ロシアと中国の取引は貿易自由国を通して完全に成立する。中国は、香港と同様に機会を見ながら、アムール国の取り込み併合を計画すれば良い。

 

<日本の脅威>

 

  これは、日本にとって大変な脅威となる。中国は、台湾などには目もくれないだろう。資源、エネルギーを手に入れ、さらには、軍港までが手に入る。既に、この戦争をチャンスに、ハバロフスクの中国国境地帯は未曾有の景況を呈している。中国工作員、ロシアに潜伏している現地人中国スパイは、膨大な数に達していると推定しても不思議ではない。来年の大統領選挙前を目処に、アムール国独立の機運を高める。

  この推理が成り立つとすれば、後1年半ぐらい戦争が膠着状態で続いてくれなければ困る。プーチンの次期大統領選挙とアムール国の建国を同時に実行できれば、中国は広大な領土を獲得することができる。これが可能であれば、現状の中国経済の低迷等はどうということはない。アムール国建国とともに始まる大規模建国バブルは、中国に多大な財と富を提供することになるからだ。

  ロシアは、正々堂々とアムール国からエネルギーとのバーターで無尽蔵の武器弾薬を手に入れることができ、腰砕けの欧米、NATOを無力化し、ウクライナを手に入れることができる。ロシア、中国は戦争特需で好況を呈することになる。

 

  戦争というものは、最大のイノベーションを生むのである。科学技術だけではない。1990年以後、考えもせずにグローバル経済へと突き進んだ先進国のつけが、反グローバリズム思想の劇的変化を生んだ。ロシア、中国といった広大な領土を有する国家における国家経営技術のイノベーションとなりうるのである。

 

<どうする日本、ヨーロッパ、アメリカ>

 

  NHKの大河ドラマ「どうする家康」が、低視聴率だそうだ。面白くない? とりあえず面白くない。鎌倉時代に始まる武士の精神というものが、全く理解されていないからである。言い換えれば、日本人の精神性に深く迫っていないのである。現代日本人の精神性の希薄さというか、貧困というか。まあ、どうでもいいが。見なければ良いので。

 

  さて、中国とロシアが、密かにこのような計画を進めるとしたら、家康ではないが「どうする」のだ。日本よ、ヨーロッパよ、アメリカよ。

  核の使用が怖くて武器弾薬の提供に及び腰のバイデン及びヨーロッパの首脳達。ロシアが負けてロシアの分裂を懼れる皆さん。

  次は、中国の台湾侵攻だとビビりまくっている日本の政治家達よ。

  今の中国は、台湾等はどうってことはないのだ。現在の中国バブル崩壊による中国共産党崩壊を回避する絶好のチャンスが、ウクライナ戦争によってもたらされたのである。

 

  何としてもウクライナを勝たせなければならない理由は、ここにあると思いませんか。西側諸国は、武器弾薬の供給を躊躇している余裕はもはやありません。後1年で世界が変わるかもしれません。既に、第三次世界大戦は始まっているのですから。

 

今回は、お茶の時間の物語で終わります。

2023/03/06