この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和27年~昭和32年― | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和27年~昭和32年―

秋 隆三

 

<激動の昭和>

 

  あらたまって説明するまでもなく、何とも世の中というものは、いろいろな事件が次から次へと発生するものである。特に明治維新以後の社会変化のすさまじさは、世界でも日本が抜きんでていたのではないだろうか。勿論、20世紀科学技術の進歩は、欧米は勿論、アジアでは日本が世界水準で変化した。

  明治初期には輸入蒸気機関車が走り、明治26年には国産化されている。明治22年には東海道線が、明治24年には東北本線が全線開通した。何という早さだろうか。明治時代と言う文明は、明治10年の西南戦争後ではないかと考えられるので、文明化されてから16年で蒸気機関の国産化がされ、14年後には北は青森から南は尾道まで開通し、25年後には下関まで開通する。明治30年頃の大衆にとって、鉄道料金は高かったには違いないが、鉄道で旅をすることは既に常識となっていたに違いない。

  電話は、明治23年に東京~横浜で営業を開始する。明治33年には公衆電話が登場するというのだから、もはや何おか言わんやの早さである。

  ラジオに至っては、米国では1920年にラジオ放送が開始されている一方、日本では遅れること5年の1925年(大正14年)に開始している。

  飛行機はどうだろう。商用航空として定期航空路線が始まったのが、大正11年(1922年)とあり、大阪と四国を結んでいる。軽井沢―東京間の運航は、昭和2年である。

 

  大正時代には、鉄道、電話は既に生活の中に入っていた。

 

  戦後は、こんなものではない。昭和28年から昭和34年までのわずか7年間で、ラジオから白黒テレビへと入れ替わる。世帯普及率はほぼ現代に近い。おまけに、全て国産テレビである。所謂、最初の3C(電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ)時代の到来である。私の母が電気洗濯機を最初に買ったときの喜んでいる姿、皇太子と美智子様の結婚パレード中継を買ったばかりの白黒テレビにかじりついて見ていた姿が今でも思い出される。

  東京オリンピックを契機に、3Cは、カラーテレビ、クーラー、自家用自動車へと変わり、鉄道は新幹線へと転換する。

  戦後昭和の技術革新は、7年程度の間隔で劇的に変化する。軍事技術や産業技術ではなく、生活道具の変化としてたちどころに大衆に浸透するのである。

  一方、科学技術の本場の米国では、戦前から軍用技術を中心に革新的とも言える科学技術が次から次へと誕生していた。テレビ・通信、コンピューター、制御技術、エンジン等々である。1950年代から60年代は、世界の中で米国だけが抜きんでていた。勿論、現代で言う白物家電等は当たり前であった。

  日本は、生活水準で米国に追いつけが目標となっていた。

 

  生活水準は、7年間程度の間隔で上昇していく。経済も、神武景気以後、ほとんど不況しらずで上昇する。戦後の朝鮮戦争特需で、資本蓄積のチャンスを握り、その後の産業・生活用製品開発における技術革新、製品の国産化によって経済大国への道を駆け上るのである。

  さて、大衆の精神はどうであったろうか。「心は形」を求め、「形は心」を勧めるのは真理である。戦後大衆の精神は、米国の豊かな生活を求めていた。貧困にあった戦後大衆が、豊かさを求めるのは、当然の理である。7年足らずの間隔で豊かになっていく生活とその形(ライフスタイル)は、我々の精神をどのように勧め、精神の何を変えたのか。

  以前にも説明したように、「心は形を求め、形は心を勧める」というキャッチフレーズは、昭和時代の墓園・墓石会社の宣伝文句である。亡くなった方を心から弔いたいという心が墓園を求め墓石を建てさせる。墓園に墓石を建てれば、お彼岸や命日には、墓石にお参りし、信仰心を深めることになる。人の信仰心は、弔いを形にすることから深まるのである。

  ここでいう信仰とは、特定の宗教を指したことではない。石器時代から始まると言われる死者への思慕であり、敬意である。

  この信仰という心と形の循環作用は、様々な宗教を生みだしたが、今から2500年前から2000年前までに、ほぼ現在の宗教という形に完成し、さらに哲学的究明は現在においてもなお継続している神秘である。

  文明は信仰ではない。文明と人の心との循環作用から、科学技術、法制度、政治・経済システム、商業流通、文化・芸術等、もろもろのものが形成される。オルテガが言う、生における環境である。オルテガの言う環境とは、もろもろの可能性のことである。環境、すなわちもろもろの可能性は、オルテガが19世紀に比較して20世紀の初頭には驚くほど増加したと述懐している。まさに、そのとおりである。明治から現代に至る科学技術の進歩がもたらした文明の産物の多さは恐るべきものだ。

  しかし、敗戦は、それらのほとんどを壊滅させたばかりではなく市場さえも消滅させた。つまり、大衆の選択可能性は敗戦によってほとんど皆無の状況となったのである。この状況が、前回の昭和21年から昭和26年までの時代であると言っても過言ではあるまい。買えるものがないのである。勿論、貧困であることは事実であるが、物がないことも事実であり商品の生産流通市場が崩壊したのである。オルテガは、この物を「買う」という選択行為に着目した。「買う」ということは、生として物を選択しているのであり、人は一瞬たりともこの選択行為から逃れることは出来ず、選択行為、つまりもろもろの可能性という環境の内部で生きているということである。このことは、「買う」という可能性だけではなく、快楽の可能性についても同様である。しかし、面白いことに、敗戦前の時代を良き時代、敗戦直後の状態よりも優れているというものは、この時代のこの国の大衆にはいなかったと思われる。オルテガは、科学技術の成長を、精神の自由によるものと表現している。精神の自由とは、知性の能力であり、この能力は、従来、分離できないと考えられた概念を分離する能力だと言っている。概念とは、例えば、時間という一般的概念(抽象的言葉)でもよい。アインシュタインは、時空という概念により、時間の概念をさらに分離した。

 

  昭和27年の占領政策の終焉、徐々に回復を始めた生産活動と朝鮮戦争特需により加速された生産活動により、市場が急速に回復し、たちどころに「3C」時代を迎える。そして、自分が過去のあらゆる時代以上のものであるという奇妙なうぬぼれを持つ時代に突入し、何を実現すべきかを知らない時代、自分を完全に掌握していない時代(オルテガの表現を借用)へと量とともに変質の時代に向かうのである。

ちなみに、当時の写真等がYouTubeにあったのでURLを参考までに下記に挙げておく。

「昭和20年代の子供たち」 当時の子供達の貴重な写真と映画から

https://www.youtube.com/watch?v=m8Zo7pASTQ0

【衝撃】カメラで撮った懐かしい昭和の写真!!古き良き風景! 貴重な昭和の写真!

https://www.youtube.com/watch?v=YOKATMyKbYU

 

  昭和25年以後の様々な流行の様相については、下記のURLが参考になる。

  https://nendai-ryuukou.com/

 

 

<昭和27年~昭和32年>

 

(27)ああモンテンルパの夜は更けて(昭和27年)

代田銀太郎作詞、伊藤正康作曲で渡辺はま子、宇都美清が歌ってヒットした。

占領政策の終了を見計らって登場した第1号の歌謡曲である。この曲は、戦後、フィリピンで拘束され死刑が宣告された戦犯108人の望郷の歌である。渡辺はま子は、現地を尋ねでこの歌を歌った。翌年除名嘆願がかない、当時のキリノ大統領の特赦によって解放された。

https://www.youtube.com/watch?v=R8q7hn3gTN0

 

(28)赤いランプの終列車(昭和27年)

大倉芳郎作詞、江口夜詩作曲で春日八郎が歌ってヒットした。

春日八郎のデビュー曲と言っても良く、翌年にヒットする。「白い夜霧の あかりに濡れて別れせつない プラットホーム」で始まる曲調は、演歌曲調の一つのスタイルとも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=nLYLLM4I4lE

 

(29)お祭りマンボ(昭和27年)

原六朗作詞・作曲・編曲、美空ひばりが歌った。お祭り好きな江戸っ子の気性を、マンボのリズムで明るく歌う。理屈も何もない、祭りなのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=aGI-CRlfzGg

 

(30)芸者ワルツ(昭和27年)歌唱:神楽坂はん子 (1952)

西条八十作詞、古賀政男作曲で神楽坂はんこが歌った。本物の神楽坂芸者の歌手デビューであった。古賀政男は、戦前から有名な作曲家であるが、昭和23年の「湯の町エレジー」以来の久しぶりのヒットであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=r5iGsUyh9pk

「湯の町エレジー」については前回掲載していなかったのでここで挙げておく(野村俊夫作詞、古賀政男作曲 近江俊郎歌)。

美空ひばり版であるが、実にうまい。

https://www.youtube.com/watch?v=m8A7iXHroI4

 

(31)リンゴ追分(昭和27年)

小沢不二夫作詞、米山正夫作曲で美空ひばりが歌った。

元々は、ラジオ東京のラジオドラマの挿入歌だったそうである。この1年間で、戦後最大の売上70万枚となったと言われる。作曲家の米山は、ほとんどヒットするとは思っていなかったようである。大衆の選択というものは何とも予測し難い。歌自体は実に短く、美空ひばりのうまさが光る曲である。歌詞・曲というよりは、曲風が美空ひばりの歌手技量をあまねく表現し、それが大衆に受けたとも言える。

https://www.youtube.com/watch?v=S0KLu6lZ5Yw

 

(32)雨降る街角(昭和27年)

東篠寿三郎作詞、吉田矢健治作曲で春日八郎が歌った。

春日八郎の2曲目の別れ歌である。前回の昭和26年以前同様に、男と女の恋病が悪化して別れることになる。恋病が緩解完治して結婚してしまっては、歌にならないのである。洋の東西、古今から恋病は別れなければ歌にならない。

ちあきなおみ版が素晴らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=QxZlAax0nlc

 

(33)君の名は(昭和27年) 

菊田一夫作詞、古関裕而作曲で折井茂子が歌ってヒットする。

いよいよ恋病ドラマの大ヒット作の登場である。

1952年(昭和27年)4月10日から1954年(昭和29年)4月8日。 毎週木曜20時30分から21時までの30分放送され、全98回も続いたとある(Wikipediaより)。 番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションが入る。放送時間には、風呂やががら空きになったという伝説がある。

菊田一夫も、これだけヒットするとは思ってもいなかったであろうから、続けるには苦心したことだろうと推察される。最後は、何となくハッピーエンドとなるが、男が独身を続け、女の方が旧習から逃れきれず、結婚し人妻となるが、お互いに忘れられない。禁断の三角関係が描かれる。当時の人妻大衆にとっては、何となく身につまされるような体験、あるいは願望があったのかもしれない。

https://studentwalker.com/moviemusic-your-name

 

(34)街のサンドイッチマン(昭和28年)

宮川哲夫作詞、吉田正作曲で鶴田浩二が歌った。

鶴田浩二というのは何とも言えないムードのある役者ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=57YwgPQUhTg

 

(35)待ちましょう(昭和28年)

矢野 亮作詞、渡久地政信作曲で津村 謙が歌った。

何を待つのかさっぱり解らない歌である。これと同様の歌が、シャンソンにある。恋人を待つ、戦争が終わるのを待つ、景気が良くなるのを待つ、まあ、とりあえず大衆は待つのみだ。

津村謙版

https://www.youtube.com/watch?v=oIhkkMJNsBk

鮫島有美子版

https://www.youtube.com/watch?v=QTCabrf2gt8

 

(36)雪の降る街を(昭和27年初版 昭和28年)

内村直也作詞、中田喜直作曲で高英男が歌ってヒットした。

雪の降る夕方、母に手をひかれて、市電を待っている時に、街頭放送からだと思われるこの曲を聞いた覚えがあるが、雪と寒さと寂しさを子供心に覚えている。

https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

 

(37)お富さん(昭和29年)

山崎正作詞、渡久地政信作曲で春日八郎が歌い累積125万枚売れた。

https://www.youtube.com/watch?v=B0LGm6WZpo8

この年から春日八郎の歌謡曲が次々とヒットする。

あン時やどしゃ降り(昭和32年)

作詞:矢野亮 作曲:佐伯としを

https://www.youtube.com/watch?v=j_4_Gg3DB7o

 

(38)岸壁の母(昭和29年)

藤田まさと作詞、平川浪竜作曲で菊池章子が歌った。

実話を基に創られたが、義理の息子(養子)であり、実際は中国で生存していたらしいが、詳細はわからない。台詞入りの演歌である。

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=gOp-HypOeic

 

(39)黒百合の唄(昭和29年(28年))

菊田一夫作詞、古関裕而作曲で映画「君の名は」の主題歌となった。

https://www.youtube.com/watch?v=cQqW1u05UMQ

 

(40)高原列車は行く(昭和29年)

丘十四夫作詞、古関裕而作曲で岡本敦郎が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=HaO5_00LYCI

 

(41)ひばりのマドロスさん(昭和29年)

石本 美由起作詞、上原げんと作曲で美空ひばりの歌である。

これも美空ひばりのマドロスもののヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=r80_PMTy6oc

 

(42)吹けば飛ぶよな(昭和29年)

東条寿三郎作詞、渡久地政信作曲で若原一郎が歌った。

若者が、ふけば飛ぶよな存在だがと自嘲しつつも、いつまでもこうじゃない、今に見ていると未来を夢見る。現代の流行歌には、こんな詩は見られない。

https://www.youtube.com/watch?v=54CMUgG2fjw

 

(43)逢いたかったぜ(昭和30年)

石本美由起作詞、上原げんと作曲で岡晴夫が歌った。

この歌はなかなかいい演歌である。岡晴夫の歌では演歌とはならないが、ちあきなおみが歌うとまさしく昭和の演歌である。

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=IEs9m1vvkYQ

岡晴夫版

https://www.youtube.com/watch?v=cDWODqVtl0c

 

(44)おんな船頭唄(昭和30年)

藤間哲郎作詞、山口俊郎作曲で三橋美智也が歌った。いよいよ三橋三智也の登場となる。これで、昭和歌謡の大歌手、春日八郎、美空ひばり、三橋三智也が揃うことになる。三橋三智也も演歌であるが、民謡風のこぶしが入るようになる。

https://www.youtube.com/watch?v=6Sf_TMAaarE

 

(45)カスバの女(昭和30年)

大高ひさを作詞、久我山明作曲でエト邦枝が歌った。戦前のフランス映画が下敷きだという話もある。久我山明は、韓国人の作曲家である。演歌には、韓国民族系の曲調も混在している。

https://www.youtube.com/watch?v=ZcPuNigBaW4

青江三奈、ちあきなおみ、藤圭子

https://www.youtube.com/watch?v=Hr2E3lfZam4

 

(46)ガード下の靴みがき(昭和30年)

宮川哲夫作詞、利根一郎作曲で宮城まり子が歌った。

戦争孤児が沢山いた時代である。子供労働などは当たり前の時代である。一般大衆のどの家でも、こどもが家事労働を任されるのは当たり前であった。

https://www.youtube.com/watch?v=hR539wtW0dY

 

(47)銀座の雀(昭和30年)

野上彰作詞、仁木他喜雄作曲で森繁久弥が歌った。森繁は、満州から引き揚げて、俳優に転身したが、歌手としての最初の曲ではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=HkqtWqm-zLE

 

(48)この世の花(昭和30年)

西條八十作詞、万城目正作曲で島倉千代子が歌った。島倉千代子の最初のヒット曲だと思うが。この年以後、美空ひばりと並んで、島倉千代子が女流歌謡歌手の一翼を担う事になる。

https://www.youtube.com/watch?v=mNJ_wEGyvio

りんどう峠(昭和30年)

作詞:西条八十、作曲:古賀政男

https://www.youtube.com/watch?v=-EoghtjSels

東京の人よさようなら(昭和31年)

作詞:石本 美由起. 作曲:竹岡 信幸

https://www.youtube.com/watch?v=_MQV4gOfGRk

逢いたいなアあの人に(昭和32年)

作詞:石本 美由起、作曲:上原 げんと

https://www.youtube.com/watch?v=b7So76DaIAc

東京だよおっかさん(昭和32年)

作詞:野村俊夫 作曲:船村 徹

https://www.youtube.com/watch?v=WOAmubK0rvQ

からたち日記(昭和33年)

https://www.youtube.com/watch?v=LnS3LsBBsYY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=Um0hDvx5sk8

 

(49)月がとっても青いから(昭和30年)

清水みのる作詞、陸奥明作曲で菅原都々子が歌い、100万枚を突破した。あまりぱっとしなかった菅原に対して、それならばと父親が作曲してヒットした。恋病の曲であるが、悪化したのか完治したのかは解らないが、恋病中のうれしさの感情が共感を呼んだのであろう。この時代の恋病のパンデミック状況を実に良く表している。

昭和30年代であるが、田舎の私の住む町に菅原都々子の実演があった。母が歌謡曲が好きで連れて行かれて聞いた記憶がある。曲調は違うが、日本の演歌の新しいスタイルかもしれない。島津亜矢さんがいい。

菅原都々子版

https://www.youtube.com/watch?v=lutpArNLMsc

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=ZngPZl-X57g

 

(50)東京アンナ(昭和30年)

藤間 哲郎作詞、渡久地政信作曲で大津美子が歌った。デビュー直後に歌った曲であり大ヒットする。さらに翌年には「ここに幸あり」がヒットする。この歌は、ブラジル移民にも広く歌われた。

https://www.youtube.com/watch?v=KYs3OleDTZY

ここに幸あり

昭和31年

大津美子 (1956) 作詞:高橋掬太郎 作曲:飯田三郎

https://www.youtube.com/watch?v=IxFkk0m9qBQ

 

(51)娘船頭さん(昭和30年)

西城八十作詞、古賀政男作曲で美空ひばりが歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=-y961q_Tooc

 

(52)別れの一本杉(昭和30年)

高野公男作詞、船村徹作曲で春日八郎が歌ってヒットした。いよいよ船村節演歌の全盛時代を迎えることになる。いろいろな歌手が歌っているが、美空ひばり版もいい。特に、ちあきなおみ版をお勧めする。是非、聞き比べを。

春日八郎版

https://www.youtube.com/watch?v=lAuM-6ZBzOU

美空ひばり版

https://www.youtube.com/watch?v=QWcNCjwc-eU

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=NwFfkPv-JVU

https://www.youtube.com/watch?v=sY57uDyvGW0

 

(53)哀愁列車(昭和31年)

横井弘作詞、鎌多俊与作曲で三橋美智也が歌ってヒットする。朝鮮戦争特需により日本奇跡的経済回復に向かい、東京は生産力増強、建設ラッシュとなった時代である。東北地方を中心に若い労働力が東京へと集中した。恋人と別れ東京へと向かう若者が、別れる寂しさと憧れの東京への期待が錯綜する感情があふれた曲である。

三橋美智也版

https://www.youtube.com/watch?v=SBpu9di6O5A

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=L6Pu0E3dpTU

 

(54)狂った果実(昭和31年(太陽の季節も同じ年))

石原慎太郎作詞、佐藤勝作曲で石原裕次郎が歌った。湘南族のはしりと言っていいだろう。戦後の経済復興は、貧富の差となって大衆に襲いかかる。豊かさは、無軌道な若者を生みだし、伝統的価値観などはへとも思わない。経済一辺倒に偏り、精神性を失っていく大衆支配社会の様相であるかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=Oo0m7f0K0do

石原裕次郎は、歌手としても多くの曲を歌っている。

俺は待ってるぜ(昭和32年)

作詞:石崎正美,作曲:上原賢六

https://www.youtube.com/watch?v=92rxVbnS3_w

嵐を呼ぶ男

作詞:荻原四朗,作曲:上原賢六。

https://www.youtube.com/watch?v=0JOzlR9QQ-E

 

(55)波止場だよお父つあん(昭和31年)

西沢爽作詞、船村徹作曲で美空ひばりが歌ったマドロスもののヒット曲である。

https://www.youtube.com/watch?v=R6e3eR_Y7dM

 

(56)早く帰ってこ(昭和31年)

高野公男作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。

この曲は、哀愁列車とは反対に、東京で頑張ろうと出てきたがうまくゆかず、かといって帰れない弟とその恋人を暖かく迎える田舎の家族の歌である。

https://www.youtube.com/watch?v=67-5oXjzUyQ

 

(57)リンゴ村から(昭和31年)

矢野亮作詞、林伊佐緒作曲で三橋美智也が歌い、累積で270万枚に達した。この時代、仕事を求めて上京した兄弟・姉妹を思い、田舎へ帰っておいでと歌う曲が多くヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=OklkbAQj_TQ

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=vzmEkX9ftnI

 

(58)若いお巡りさん(昭和31年)

井田誠一作詞、利根一郎作曲で曽根史郎が歌った。警察は、市民の味方、優しい警察というイメージを創りあげる。夜の巷は、当時どこかに行くにしても若者には金がないから、公園のベンチは恋病の恋人達で満杯となる。大衆のエネルギーというものは恋病の流行によりもたらされる。

https://www.youtube.com/watch?v=VLZYN1y9QXQ

 

(59)母さんの歌(昭和31年)

窪田聡作詞・作曲である。うたごえ運動で広まった。うたごえ運動とは、戦後の大衆的社会運動・政治運動の一つである。日本共産党員であった声楽家の関鑑子が運動の創始者ともいわれている。昭和31年には、新宿にうたごえ喫茶「灯(ともしび)」が開店している。

 

(60)踊子(昭和32年)

喜志邦三作詞、渡久地政信作曲で三浦洸一が歌った。

https://www.youtube.com/watch?v=MisaCScN-u8

 

(61)柿の木坂の家(昭和32年)

石本美由紀作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。昭和30年代に確立する戦後演歌の代表曲と言ってもよい。聞き比べをどうぞ。

青木光一版

https://www.youtube.com/watch?v=CtIwNiWeMuo

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=5J9yASOrCTI

船村徹版

https://www.youtube.com/watch?v=I9dIh_Cg3dw

 

(62)男の友情(昭和32年)

高野公男作詞、船村徹作曲で青木光一が歌った。船村節である。

船村徹版

https://www.youtube.com/watch?v=4C-ByVDhj2k

ちあきなおみ版

https://www.youtube.com/watch?v=_jHUdMYQIB0

 

(63)チャンチキおけさ(昭和32年(昭和31年デビュー))

門井八郎作詞、長津義司作曲で三波春夫が歌いヒットした。

宴会の登場である。日本の宴会は、昔からあるが、戦後も落ち着きはじめたこの頃から、接待や社内宴会等が盛んになる。森繁久弥主演の「社長シリーズ」は、昭和31年から始まる。

https://www.youtube.com/watch?v=A9DZxPXDFWY

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=wy5npKxxfZs

 

船方さんよ(昭和32年)

作詞:門井八郎、作曲:春川一夫

https://www.youtube.com/watch?v=8123H6vnnTM

雪の渡り鳥

作詞:清水 みのる 作曲:陸奥 明

https://www.youtube.com/watch?v=NTS_Of0U4So

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=W_WsznQd-FM

 

(64)どうせひろった恋だもの(昭和31年)

野村俊夫作詞、船村徹作曲で初代コロムビア・ローズが歌ってヒットした。船村徹はこういう曲も作る、多才な人である。そうでなければ、昭和演歌などは到底難しいかもしれない。

この歌は面白い。恋病が悪化して別れた女の本当の気持ちだ。捨てちゃうのである。そこへいくと、男の未練たらしさは、歌にするのもはばかれる。

https://www.youtube.com/watch?v=ldzTqFZGwxk

初代コロムビア・ローズは、翌年この歌も大ヒットとなった。働く女性の登場である。

東京のバスガール(昭和32年)

作詞・丘灯至夫、作曲上原げんと

https://www.youtube.com/watch?v=kHFoO4L-KVw

 

(65)港町十三番地(昭和32年)

石本美由起作詞、上原げんと作曲で美空ひばりが歌って大ヒットする。歌いやすさ、調子の良さ、旋律の新鮮さ等、曲調が美空ひばりの声質とあった、日本を代表する歌謡曲と言えよう。

https://www.youtube.com/watch?v=rDMuUnz2dhw

島津亜矢版

https://www.youtube.com/watch?v=IoKLG5WHYcA

 

(66)夜霧の第二国道(昭和32年)

宮川哲夫作詞、吉田正作曲でフランク永井が歌ってヒットした。これも旋律とフランク永井の低音がマッチした代表的な曲である。この頃から、歌手の声質、技量と旋律が重視される。大衆の耳が肥えてくるのである。

https://www.youtube.com/watch?v=An8zO43pMBo

フランク永井のヒット曲は、この後も続く。

俺は寂しいんだ

こいさんのラブコール

西銀座駅前

羽田発7時50分

有楽町で逢いましょう

 

(66)喜びも悲しみも幾年月(昭和32年)

木下忠司作詞・作曲、若山彰が同名の映画の主題曲として歌いヒットする。

戦後12年がたった。戦前、戦中、戦後を生きた灯台守の夫婦の生涯を描いている。この時代をリードした平均人大衆の思いがこもった映画である。これも、同年代よりも少し若い母に連れられて、続き映画を見に行ったことを思い出す。

https://www.youtube.com/watch?v=RdBCwnn7erE

 

 

<膨大な昭和歌謡の誕生>

 

  整理するのがなかなか大変であった。占領政策の終了と同時に、それこそ歌謡曲が爆発するのである。朝鮮戦争の終了、紙の統制廃止、木材緊急輸入、経済復興と経済成長、東京一極集中、現代につながる社会基盤が形成される時代であった。しかし、昭和31年の厚生白書では、1千万人もの低所得層が復興経済下で取り残され、医療保険未加入者は国民の1/3にも登ると言っていた。復興経済の中では、戦前の軍事態勢を担った政治家が権力を持ち始め、闇商売から財をなした一部の富裕層、ホワイトカラーと低所得ブルーカラーという大衆構造は、その格差を広げていたのである。

 

  この時代の歌謡曲を分類することは、もはや困難である。しかし、ただ一つ言えるとすれば、未来を予感させるような歌謡曲などは存在しないということである。歌は世相であり、大衆の様相を示しているのである。オルテガが言うように、この時代から大衆が支配する社会が始まった。大衆が社会的権力を行使するとは、権力そのものは全能でありながらその日暮しなのであることを意味する。田端義夫が歌った玄海ブルースに、「波に浮き寝のカモメ鳥」という詩がある。股旅ものの演歌も同様の情感を歌う。オルテガは、大衆を「波のまにまに漂う人間」と表現した。オルテガの大衆論については、次回にじっくりと論じることにしよう。

 

  歌謡曲の爆発時代を迎えた。次回は昭和33年から昭和41年までにしてみよう。ものすごい数の歌謡曲がそれこそ爆発的に生み出される。日本人が作り出した。それも売るために作ったのである。爆発したのは歌謡曲だけではない。大衆が爆発したのである。

 

2023/05/21