この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和21年~昭和26年― | 秋 隆三のブログ

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昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 昭和歌謡にみる大衆の精神―昭和21年~昭和26年―

秋 隆三

 

<始まりはリンゴの唄だった!>

  この歌は、Wikipediaによれば、昭和20年10月11日に公開された映画「そよかぜ」の主題歌である。昭和20年12月14日には、NHK「歌と軽音楽」で初めて放送されたとある。映画の内容は、一人の少女がスター歌手として成功するまでのハートウォーミング 映画である。それにしても、戦後2ヶ月も経たぬ間に制作したとは驚きである。

  歌詞は、4番まであり、有名な出だしの詩は下記のとおりである。

    赤いリンゴに 口びるよせて

    だまってみている 青い空

    リンゴはなんにも いわないけれど

    リンゴの気持は よくわかる

    リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

                  出典: リンゴの唄/作詞:サトウハチロー 作曲:万城目正

   https://www.youtube.com/watch?v=Gf0jDTOyF4U

 

  歌詞の解釈については、種々の出版物があるので、それを参考にしてもらいたいが、概ね、愛しい彼女をリンゴに見立てて歌ったものだろうと想像はできる。一方では、戦争で亡くなった多くの命のいとおしさをリンゴに託したとも読み取れるが、少し読み過ぎかもしれない。

  サトウハチローは、昭和20年8月に広島原爆により実弟を失い、広島まで弟を探しに行っており、肉親の死から間もなくこの詩を作っている。戦前に作ったという説もあるようだが、戦前では如何にサトウハチローでも作れないと思われる。映画の脚本を見てから作ったとのことであるが(Wikipediaより)、映画の内容は主人公の少女が恋人と仲違いし、実家のリンゴ農家に帰ってしまうことから、この詩が生まれている。

  私には、実弟を被爆で失った悲しみの中で、ひたすら与えられた仕事に向かうサトウハチローの姿が目に浮かぶ。戦後、大衆は、このサトウハチローの姿そのものだったのではなかろうか。親しい人を失うという悲しみは、耐えることさえ難しく、ただただ今の生それさえも認識できず、すがるものがあればひたすらそれと対峙するしかない。

  曲は、万城目正の作曲である。これはもはや行進曲以外の何ものでもない。万城目正は、「やけくそ」で作ったのではないかと思われる。徹底的に明るくやってやれという、破れかぶれの曲のように思われてならない。

 

  人の悲しみは、大きく二つに分けられる。一つは、人生の失敗であり絶望である。これは、あくまでも個人の問題であり、言わば自己責任によって引き起こされた絶望である。この場合、行進曲では癒やされない。ますます絶望に追いやられる。絶望を癒やしてくれる曲調は、これ以上はないという絶望の曲の方が癒やされるのである。クラシックで言えば、ラフマニノフのピアノ協奏曲のような曲調だろう。

  一方、肉親の死のように、鮮明な記憶とともによみがえる悲しみに対して、悲しい曲調は、さらに悲しみの記憶をよみがえらせ、ますます悲しみのドン属に落ち込ませる。死を受け入れることができるような曲調でなくてはならない。叙情歌もいいし行進曲もいい。元気のでる演歌なんかも適しているかもしれない。つまり、記憶を呼び戻さない、考えなくてよい曲が必要なのである。

  敗戦国の大衆は、これ以上はないという悲哀の中で、過去から現在につながる記憶を一時的に封印し、今を生きる精神を必要としたのである。

  歌謡曲は何が当たるか皆目見当が付かないそうである。当時の知識人達のこの映画と挿入歌に対する評価は、最悪・最低である。しかし、ヒットした。知識人達が脳で考えたものがヒットしないという典型的な事例である。

  時代の感性を理屈抜きで、つまり理性的ではなく情動で受け止めることができなければヒット曲は生まれない。王陽明が言った「心即理」とはまさにこのことである。感性と知性との反復運動であり、そのことから生まれる技術―悟性(カント)が時代の精神を形にするのである。

 

  昭和21年にヒットした曲は、「リンゴの唄」以外には、田端義夫が歌った「かえり船」ぐらいであり、他にはほとんどないのではないだろうか。レコーディングされた曲があったとしても記憶に残るような曲ではなかったかもしれない。「リンゴの唄」以外の歌謡曲は、本当は、誰も歌いたくなかったのだろう。食べるものさえない年だったのだから。

 

  昭和22年から新曲が徐々に増加する。戦争の記憶を少しづつではあるが封印し始めたのである。

 

  さて、考えてみるまでもなく、第二次世界大戦後、既に77年が経っている。この年数は、明治維新から昭和20年までの期間に相当する。昭和20年に明治維新から明治時代の全期間の明治大衆精神を、明治歌謡曲(明治時代の歌謡曲は多分なかった)を通して分析することは音の記録がほとんど無いのだから不可能である。明治24年には国産1号機となる蓄音機が制作され、明治後期には発売されているので、何とか音の記録を聞くことは出来るが、戦後の歌謡曲流行とはほど遠い時代なのである。

 

  奇しくも、明治維新から77年目が昭和20年の敗戦であり、昭和21年から令和5年が同様に77年目にあたる。昭和初期の大衆は明治維新などは、遠い昔のことであると考えていたに違いない。明治が「いい時代」だと思った者はそう多くはないだろう。何せ、明治維新前後と言えば、まだ侍がいて、腰には人斬り包丁を差し、頭はちょんまげなのである。現代人はどうだろうか。

  オルテガは、「時代の高さ」の感情について論究している。ここでいう「時代の高さ」とは時代の水準、時代の大衆の感情、時代の生と言ってもよい。「昭和はいい時代だったね!」という言葉をときどき耳にする。この「いい時代」には、様々な意味を含んでいる。科学技術、政治、経済等に関する歴史的水準は、向上している。少なくとも過去に戻ることはない。オルテガは、「ほとんどの時代が、自分の時代が過去の時代より優れているとは考えない」というのが一般的な感情であると言う。オルテガの言う時代の高さとは、人々が抱く過去への思慕、いい思い出と言ってもよい。科学技術、政治、経済は確実に向上するが、大衆の生(生きていくこと)は、親子、友人、隣人、地域社会との関係においては情動、道徳・倫理といったもので支配される。生活水準の向上は、合理性の追求においてこれらのなにがしかを犠牲にしてはいないだろうか。もう一方では、オルテガが指摘するように、文化芸術、政治、経済、科学技術等の過去のシステムでは、未来に直面するであろう問題の解決は困難となり、まさに「今日的な次元において」解決してゆかなければならないのである。大衆の感情と大衆が支配する社会の今日的問題とには大きな乖離が生じる。大衆は、こういった大衆支配社会の今日的問題について考えることはない。オルテガが、「時代の高さ」で言いたかったことはこの矛盾であると思われるが、やや舌足らずの説明になっている。

 

  昭和20年の敗戦は、過去の時代への感情さへも封印した。

 

  オルテガはさておいて、昭和歌謡を続けることにしよう。

 

 

<昭和22年~昭和26年>

 

  歌謡曲の分類は極めて難しい。大衆の様相を分類することと大差ないからである。そのため、手当たり次第に、私の好みを優占して曲目を挙げていくことにする。

 

(1)啼くな小鳩よ(昭和22年)

  高橋掬太郎作詞、飯田三郎作曲で岡晴夫が歌ってヒットした。

  この高橋掬太郎の有名な歌謡曲は「酒は涙かため息か」(昭和6年)、「古城」(戦後最大のヒット曲300万枚)等がある。

  この詩は全く意味不明であり、ほとんど意味がないのかもしれない。

    啼くな小鳩よ 心の妻よ

    なまじ啼かれりゃ 未練がからむ

    たとえ別りょうと 互の胸に

    抱いていようよ おもかげを

  別れた女の事を思った唄なのか、これから戦場に向かう男の心情なのか、お互い好き合ったが未練無く別れようといいながら、男の方が未練たっぷりということを歌ったのか、さっぱりわからないが、歌詞の内容とは異なり、曲はやけに明るい唄である。岡晴夫という歌手は後からも登場するがやたら明るい声なのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=yGO4ky5TEF8

 

(2)星の流れに(昭和22年)

  清水みのる作詞、利根一郎作曲で菊池章子が歌ってヒットし、累計80万枚とも言われる。

子供の頃に、多分5歳頃だと思うが、「こんな女に誰がした」と歌っていたら、母親が笑っていたことを思い出す。戦後、食うために娼婦に身を落とした女の唄である。昭和33年の売春禁止法罰則施行で時代は転換点を迎えることになる。

  詩・曲調はどこか居直った感じであり、「文句があるなら言ってみろ。国が悪いんだ、国民全員の責任だ」と叫んでいる。終戦から2年が経ち、戦後のどさくさが落ち着いてきて、ふと敗戦を振り返ると、この国は何をしたんだという感慨が国民大衆に広まったのだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=n2zA0cxabc0

 

(3)港が見える丘(昭和22年)

  東辰三作詞・作曲、平野愛子が歌ってヒットし、累計45万枚と言われる。

  この曲も、恋をして二人で港が見える丘に来て、そこで別れて、忘れられずまたその丘に来たという歌詞である。曲調は、寂しくもなく楽しくもない。ただ、何となく欧米風の雰囲気が漂う、冷めた男と女の失恋の唄といったところだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=CPXbMtuKn7g

 

(4)山小屋の灯(昭和22年―昭和17年作)

  米山正夫 作詞・作曲、近江俊郎が歌った。

  現代でも、歌われることの多い唄の一つであり、歌謡曲というよりは、子供も歌える日本の叙情歌の一つである。当時はNHKのラジオ歌謡として発表されている。このラジオ歌謡(戦前は国民歌謡)は、その後のテレビのみんなのうたへとつながっていく。真面目で健全な子供達を育てるために、教育的な歌謡曲を広めようということだ。

  しかし、このラジオ歌謡はとてつもなくヒットする。小学生や中学生という子供達よりは、若い学校の先生、青年男女に受けた。娯楽のない時代に、男女が一緒になって合唱して楽しむことができたのである。昭和20年代後半から登山ブームが起き、若い男女がそろって山に登り、このラジオ歌謡を歌うのである。

  ラジオ歌謡、みんなの唄でのヒット曲は、昭和40年代以後の年代になると、ぷっつりと無くなる。

   https://www.youtube.com/watch?v=IWCqtksd44w

 

(5)夜霧のブルース(昭和22年)

  島田磬也作詞、大久保徳二郎作曲で、ディック・ミネが歌った。

  水島道太郎主演映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌である。人の善意に救われ更正していく人間の姿を描いたものだが、戦後のどさくさにはびこる悪に対する大衆の善と正義である。

   https://www.youtube.com/watch?v=qY0VTs8lHZ4

 

(6)憧れのハワイ航路(昭和23年)

  石本美由起作詞、江口夜詩作曲で岡晴夫が歌ったヒット曲である。現代でもよく歌われる、ハワイ観光の唄と言っても良い。

  真珠湾攻撃から7年後に、自ら攻撃したハワイにあこがれる。何とも複雑な心境であるが、真珠湾攻撃は、もはや忘却の彼方である。戦後歌謡曲の代表的作詞家である石本美由起が本格的に活動を開始した。

   https://www.youtube.com/watch?v=u49x6U5T15U

 

(7)異国の丘(昭和23年)

  増田孝治作詞、吉田正作曲(昭和18年の作曲)で竹山逸郎が歌ったヒット曲であり、累計50万枚である。

  シベリア抑留者が、必ず帰れるという故国への思いを歌ったものである。この曲の中に、「我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ」という歌詞がある。昭和23年は、まさに我慢の年であった。新円切り換えと猛烈なインフレとなったところに、昭和24年初めにドッジラインという占領経済政策による金融引き締めを行ったため、大不況となった。まだまだ、先が見えない時代であった。それこそ、嵐が過ぎれば、晴れの日が来るのだ。民族の精神・思想というものは、その国の風土と密接に関連している。有史以前から数百年に一度は発生する大地震、毎年決まって襲ってくる台風、この国の国民は、嵐が過ぎ去るのをじっと耐え、その都度立ち上がるのである。この戦後の立ち上がりの早さは、物質的な回復以前に伝統的自然観による大衆の精神性にあると思われる。

   https://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM

 

(8)東京の屋根の下(昭和23年)

  佐伯孝夫作詞、服部良一作曲であり、灰田勝彦が歌った。若い男女のデートで、東京見物をしている。「何にも無くともよい」、東京は二人の夢の街・希望の街なのだ。東京中はアベックであふれている。東京は世界の憧れだと歌う。服部良一の登場である。これまでの曲調とはがらりと変わり、戦前では考えられなかった西欧風の香りがぷんぷんとする。いよいよ、恋の時代の始まりである。前回掲載の(序)で示したように、この時期の結婚適齢期に当たる20歳から35歳の人口構成を見ると、男性より女性の人口の方が多いのである。当然である。男が戦死して人口が減ってしまったのだ。恋を渇望したのは女性の方であったかもしれない。いずれにしても、恋は病気である。感染する。これからしばらくの間、恋病という感染症が日本に蔓延する。

   https://www.youtube.com/watch?v=gn9SpOvzMrk

 

(9)東京ブギウギ(昭和23年)

  鈴木 勝作詞、服部良一作曲であり、笠置シズ子が歌い累計70万枚に達した。

またしても、服部良一である。ブギウギとは、ブルースと並んで、ジャズリズムの一つであり、コード循環に従ってピアノでは左手でリズムをとり、右手で即興変奏する。アメリカ文化が体感できる陽気な唄である。

   https://www.youtube.com/watch?v=9FCmuZXLt9g

 

(10)フランチェスカの鐘(昭和23年)

  菊田一夫作詞、古関裕而作曲で二葉あき子が歌った。これもジャズ風にスイングしている。

  女性の別れ話を真に受けた男が修道院に入るという内容だが、後に原爆被害者への鎮魂歌のイメージが強くなった。それにしてもだ、女性から「さよなら、バイバイ」と言われて修道院に入るとは、戦後の男の軟弱さはこの時から始まっていたのか。

   https://www.youtube.com/watch?v=9q18E0h4GfM

 

(11)青い山脈(昭和24年)

  西條八十作詞、服部良一作曲で藤山一郎と奈良光枝が歌った。国民的歌謡曲の誕生である。石坂洋次郎原作の日本映画「青い山脈」の主題歌であり、映画は何度もリメークされている。

  昭和22年学校教育法の公布に伴い新制高校が誕生した。それと共に、新制女子高生が古い道徳観念に疑問を持って挑戦していく姿に、国民的共感を読んだものである。映画のリメークが1988年まで5回行われており、1963年のリメーク版までは大ヒットしているということだから昭和38年までは、大衆に新鮮な共感となったに違いない。時代の転換点の一つを示している。

   https://www.youtube.com/watch?v=P-QUP13GAeA

 

(12)悲しき口笛(昭和24年)

  藤浦洸作詞、万城目正作曲で美空ひばりが歌った。当時45万枚、累積110万枚と言われる。

この昭和24年は、大不況・デフレ時代の一つであるが、レコードの売上はどんどん伸びていく。

美空ひばりの登場である。12歳の少女が、燕尾服を着て、大人びた恋の唄を歌う。恋病の続きだ。

   https://www.youtube.com/watch?v=_RVg1vpZXto

 

 (13)銀座カンカン娘(昭和24年)

  佐伯孝夫作詞、服部良一作曲で高峰秀子が歌った。累計85万枚のヒットである。

高峰秀子、笠置シズ子の同名主演映画の主題歌である。落語家の居候となった高峰秀子と笠置シズ子の姉妹が職を探して歌手として成功していく物語である。出演料で1000円という大金を手にするというのであるから、当時の報酬の程度が推察できる。何せデフレ不況の真っ最中なのだから。戦後の暗い時代に、せめて唄で吹き飛ばせという祈りさえ感ぜられる。

   https://www.youtube.com/watch?v=lMd0l_mT-GY

 

(14)さくら貝の歌(昭和24年(昭和14年))

  土屋花情作詞、八洲秀章作曲であり、ラジオ歌謡でヒットした。辻輝子、岡本敦郎等が歌っているが、数多くのクラシック歌手も歌っており、日本の歌曲といったところである。

  倍賞千恵子版を掲載している。

   https://www.youtube.com/watch?v=HIQZcGHlUuM

 

 (15)長崎の鐘(昭和24年)

  サトウハチロー作詞、古関裕而作曲であり、藤山一郎が歌った

  戦後4年を経て、やっと戦争被害者への鎮魂の唄を国民が受け入れるようになったと言えよう。占領統制下にあり、戦争、原爆などの言葉を使うことがきでなかったため、戦争、戦死に関する言葉は一切詩の中にはない。死の記憶と向かう感情を、いちいち考えるのではなく素直に理性が受け入れるためには、これだけの時間がかかるのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=wbq6mFL641w

 

(16)玄海ブルース(昭和24年)

  大高ひさを作詞、長津 義司作曲であり田端 義夫が歌った。戦後演歌の始まりといっても良い。この人は戦前から人気があった。

  田端義夫版である。

   https://www.youtube.com/watch?v=D2-dcD39vZE

 

  ちあきなおみ版である。これはうまい。

   https://www.youtube.com/watch?v=GNLz1Y06iWo

 

(17)イヨマンテの夜(昭和25年)

  菊田一夫作詞、古関裕而作曲であり伊藤久男が歌った。アイヌをテーマとした初めての歌謡曲であり、君の名はの主題歌である「黒百合の唄」が加わる。

   https://www.youtube.com/watch?v=jBWSe3EGOBY

 

(18)白い花の咲く頃(昭和25年)

  寺尾智沙作詞、田村しげる作曲した歌謡曲で、岡本敦郎が歌っている。ラジオ歌謡でヒットした曲である。賠償千恵子版を掲載した。

    https://www.youtube.com/watch?v=I6H6ZDuLnOQ

 

(19)ダンスパーティの夜(昭和25年)

  和田隆夫作詞、林伊佐緒作曲、林伊佐緒歌である。

  失恋の歌である。これも別れ話は女からである。女性の方が多いのだから、次の女性はいくらでもいそうなものだが、何とも未練がましい男の歌である。この時代の男の未練がましさは際立っている。これもまた、恋病の流行のせいだろう。

   https://www.youtube.com/watch?v=VZSVVFRg068

 

(20)東京キッド(昭和25年)

  藤浦洸作詞、万城目正作曲であり、美空ひばりが歌った。この年には美空ひばりの越後獅子の唄も出している

   https://www.youtube.com/watch?v=ywebYqsCxbo

 

(21)越後獅子の唄(昭和25年)

  西条八十作詞、万城目正作曲、歌は美空ひばりである。これまでの洋風の歌から日本調の歌へと変化し始める。

   https://www.youtube.com/watch?v=PwiD6W6aS6g

 

(22)星影の小径(昭和25年)

  矢野亮作詞、利根一郎作曲であり、小畑実が歌った。小畑実では何となくしっくりとこないが、ちあきなおみのカバーが素晴らしい。このちあきなおみと言う人は、美空ひばりがいなければ、恐らく昭和歌謡最高の歌手ではないかと思われる。演歌からムード歌謡まで、際立っている。歌手のうまさの条件は、音楽的技術は当たり前であり、耳がよくなくてはとても高度な技術は発揮できない。これ以外に天性の条件がある。声の質である。品が良く、艶があること。低音部の響きが抜きんでていなければならない。高音部は、美空ひばりのような裏声もあるが、裏声は聞きにくい。裏声でなくピアニッシモで発声できること。情景に逢わせた多様なビブラートが使い分けできること。声質が変えられるか。語りかけが自然にできるか。正確な日本語の発音ができるか。等々である。ちあきなおみはほぼ全てを揃えていると言えよう。ちあきなおみ版を掲載する。

   https://www.youtube.com/watch?v=pOtU2M9ZeQU

 

(23)水色のワルツ(昭和25年)

  藤浦洸作詞、高木東六作曲の歌謡曲。二葉あき子が歌った。現代まで歌いつながれる日本歌曲とも言えよう。倍賞千恵子版を掲載した。

   https://www.youtube.com/watch?v=XurckOX8XvY

 

(24)あの丘越えて(昭和26年)

  菊田一夫作詞、万城目正作曲であり、美空ひばりが歌った。

   https://www.youtube.com/watch?v=-cFW5Lb8lUw

 

(24)高原の駅よさようなら(昭和26年)

  佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲であり、小畑実が歌った。これまた恋病の歌であり、内容は少し複雑な関係の男女のもつれ合いであり、別れを題材にしているがたいしたことはなさそうな物語である。

   https://www.youtube.com/watch?v=n1zi1rYSScI

 

(25)上海帰りのリル(昭和26年)

  東條寿三郎作詞、渡久地政信作曲であり、津村謙が歌っている。戦前のアメリカ映画の主題歌から一部借用したとされている。アンサーソングといって「リル」をテーマにした曲も出ている。

   https://www.youtube.com/watch?v=myYFBcmLJcU

 

(26)私は街の子(昭和26年)

  藤浦洸作詩、上原げんと作曲であり、美空ひばりが歌った。何故この曲がヒットしたのかは、ほとんど意味のない詩なので不明である。曲調が、歌手の年齢と合致し、天才歌手の名声もきいたのかもしれない。どんな曲がヒットするかは、全く解らないのである。

   https://www.youtube.com/watch?v=-1mIEE8IU60

 

 

 <占領統制下の大衆>

 

  レコード、ラジオ、映画等の全ての情報は、GHQの統制下にあり検閲を受けていた時代である。それも、戦争、原爆、占領等の言葉、悲惨さや鎮魂、慰霊のイメージはことごとく禁止された。アメリカ風の曲調、例えばジャズや行進曲が推奨された。おそらく、日本調の、この時代の後に爆発的に出てくる演歌についても、民族性を誇張することからかなり厳しかったに違いない。その中で、田端義夫の「玄海ブルース」は、演歌であるが内容は明るく(しかし曲調は日本人には響く)、ほぼこの1曲といってよい(菅原都々子が歌った「連絡船の歌」があるが、昭和演歌とは少し違う気がする)。

 

  私が挙げた26曲を通して、アメリカ風・洋風の曲調、日本歌曲とも言える叙情歌、今後出てくる演歌の走りとも言える恋病の歌、鎮魂歌、ただただ明るい行進曲といったような分類ができよう。

  しかし、明らかに戦前の詩・曲調とは変わってきた。食べるものさえない時代にレコードを買うのである。「花より団子」というが、この時代、「団子より花」を選択する大衆が多く存在した。精神の乾きなのである。世の中は殺伐とし、大衆は貧困にあった。積み上げてきた歴史的生活水準が一挙に崩壊した。まさに、貧困では圧倒的平均人と化した大衆の乾ききった感情に歌謡曲は何の抵抗もなくしみ通っていったに違いない。声を出して、みんなで歌うことが、厳しい状況における共感であったことも事実である。

  この時代を前後して、うたごえ運動が起こる。ロシア民謡、ラジオ歌謡等を取り上げ、労働歌、大衆歌等として学生、労働者を中心に広まっていく。

  大衆は、したたかである。政治的意図よりも遙かに複雑にかつ多様な歌謡曲を求める。求めるというよりも、歌謡曲市場が片っ端から作り出した歌謡曲を大衆が選択するのである。

 

 

  次回は、昭和27年から昭和32年までを見ていこう。

                                                       2023/05/11