秋 隆三のブログ

秋 隆三のブログ

昭和21年 坂口安吾は戦後荒廃のなかで「堕落論」を発表した。混沌とした世情に堕落を見、堕落から人が再生する様を予感した。現代人の思想、精神とは何か。これまで営々と築いてきた思想、精神を振り返りながら考える。

この国の精神 自由という幻想 ―ストア哲学の自由・エピクテトス(3)―

秋 隆三

 

<イラン戦争の終結と株価の高騰>

 

  イラン戦争もどうやら終わりそうであるが、イスラエルの出方次第ではどうなるかはわからない。株価が7万円に達した。と言っても、半導体関連株が異常とも言える高騰を続けている影響だが。日本の企業は、総じて、円安の影響から業績は好調である。にも関わらず、半導体関連株を除いてそれほど株価は上がっていない。この現象はすでに2年近く続いている。

  ところで、米国株価の指標には、ダウ工業株平均、S&P500等があるが、日本株と比べて桁違いに大きい。ちなみに、S&P500の時価総額は約1京円であるが、日経225の時価総額は約1000兆円であり、企業数を同じにするため仮に日経225を2倍にして時価総額2000兆円にしたとしても、米国株の時価総額は日本企業の5倍もある。

  米国は、人口が日本の3倍、国土面積は26倍、GDPは5倍から6倍である。米国の製造業が少なくなったとは言え、それでも日本よりは多いだろう。米国株の時価総額を引き上げているのは、GAFAMの2400兆円、スペースXの400兆円、Nビデアの800兆円の合計3600兆円によるものである。

  これらの企業が何か製造しているかと言えば、まあ少しは製造しているが(研究・開発・試作等)、大部分は外部企業への委託製造である。実態は、ソフト産業・サービス産業なのだ。日本の主要産業の大半は、製造業となっているため、米国の時価総額3600兆円にのぼる8社と比べて、生産性は極めて悪くなるのは当然だ。日本の生産性が低いというが、当たり前である。

 

  ちなみに、1990年1月のNYダウは2,810ドルであり30年後の2020年10月には28,586ドルと10倍に増加している一方、日経平均株価は、1989年12月には38,915円だったが2020年には25,000円を下回っている。この30年間の年間平均所得は、米国で2.5倍、日本は430万円前後と変わらない。

 

  円安もうなずける結果ではないか。確実に日本は貧乏になっているのだ。だれがこの国を貧乏にしたのだ。

 

 

<貧乏国日本?>

 

  それにしても、我国の賃金・年金の上がり方が遅すぎる。調べたわけではないが、ヨーロッパのガソリン価格は、デンマークが400円、フランス・ドイツで300円というから、およそ2倍である。

  平均年収をみると、軒並み1000万円かそれ以上になっているではないか。日本は、まだ500万円に達していないという。勿論、円安のため単純な比較は難しいが、それにしても日本は低すぎる。ヨーロッパの物価も高いが年収も高い。これが世界なのだ。このままでは、日本は潰れる。

  円安が続いているが、ドル高、ユーロ高なのだからもはや円安とは言えない。経済学的に日本と欧米の現在の為替状況を説明することは難しいが、既に、円安状況が3年以上続き、さらに進むとなると、欧米の物価・賃金水準と日本との間に、実質的格差が生じたと考えることが妥当である。つまり、欧米ではコストプッシュを実態経済に適合させたということである。日本の場合、コロナ以後、種々の補助金政策を継続させたために、市場におけるコストプッシュ対応が遅れてしまった。つまり、賃金上昇、年金額上昇への対応が遅れてしまったのである。この市場対応遅延状況は今も続いている。欧米の貧乏と日本の貧乏とでは、質が違うのである。

  さて、こういった状況を改善するための経済財政政策はあるだろうか。ある! 今の消費経済に影響を与えるのは、人口の3割に達する高齢者の年金額と消費動向である。平均年金額を5年間で現在の1.7倍に上げる。それも、低年金部分に高く、高年金部分を低くする傾斜型の年金支給額増額政策である。高齢者が多くの年金をもらえれば、貯金などに向かうはずはない。明日死ぬかもしれない高齢者だ。できるだけ使って死ぬ方がましというものだ。年間どれぐらい財政出動するかというと、毎年年平均12万円増額すると高齢者3千万人(70歳以上)で3兆6千億円、5年間で約54兆円である。その後は、賃金上昇により社会保険料収入も増加する。さらに、社会保険料負担上限額を段階的に上げ、最終的に撤廃すれば良い。その代わり、相続税は廃止する。

  さらに、75歳以上の高齢者のホスピスの整備である。毎年10万人10年間で100万人(収入額一定額以下で認知症・要介護等)に対して、年間一人当たり200万円程度の無料サービスを実施するとして総額10兆円の財政負担を行う。全国、山村に1万カ所以上のホスピス施設を整備する。都市部には絶対作ってはならない。施設への入居は全て無料である。施設整備は、公共事業を増額し、既存廃棄・未利用施設の再利用が原則である。この施策によって介護保険を廃止する。これだけで、個人の税負担額は平均10%以上低減となるはずである。

  この両方を合わせても10年間で総額66兆円の財政出動である。安定財源が必要だと言うだろうが、当面(3年程度)は、国債費(償還部)と外為特会で十分対応可能である。その後は、5年間で賃金が現在の倍になるので社会保険税・所得税収入が増える。しかし、5年後から確実に高齢者人口が減少するので、財政支出は年々減少し、10数年後には再整理が必要になる。といっても、賃金上昇・インフレの進行速度が速いので5年を待たずに税収は急激に増加し、円高にはならないから財政的にはかなり潤沢な状況となる。

頭の良い、官僚諸君ならばこのぐらいの計算はお手のものだろう。この程度の改革を断行しなければ、日本の再生は望めない。

 

<消費経済とは何か?>

 

  いずれにしても、消費経済システムへなかなか移行できず、旧来の供給型経済システムから抜けきれない日本の経済システムの状況が浮き彫りにされていると言えよう。

  何故か?日本には、市場そのものの中に経済システムの暴走に対するブレーキ機構が備わっていないのである。「市場が暴走したときには、国家が介入する」というのが日本の、否、日本の経営者・政治家・官僚・経済学者の常識となっているからである。欧米は、リーマンショックで学んだ。コストプッシュ型のインフレが加速したときには、物価上昇と同時に、あるいは先立って賃金を上げるという経済ブレーキだ。つまり賃金全体を底上げすれば、インフレは自然に治まる。それもできるだけ速く底上げすればそれだけ速く安定に向かう。そのためには、物価上昇と同時に賃金も上げれば良い。企業の資金不足には融資・債券・株式で対応すれば良いので、信用創造が起こり金融も拡大する。政策金利や財政出動等は、経済手法としては下の下なのである。

 

  ところで、「もしも月給が上がったら」という昭和歌謡をご存じだろうか。昭和12年、サトーハチローの作詞である。この歌詞の中で、「いつ頃上がるの、いつ頃よ」という部分がある。この時代、春闘なるものは存在しない。厳しい世界不況の中、いつ給料が上がるかという見通しのない時代であった。春闘という年1回の賃金闘争は、1955年に始まったとされる。まさに、自民党の誕生と同時期に始まった日本型社会主義体制である。

 

  もはや、仕事を天職と考え、分配を美徳(Stewardship:ルカ伝)とする道徳・倫理は、現代金融資本主義システムのブレーキ機構とはなり得ない。年1回の賃金交渉等では、変化の速い金融資本主義には対応できないのだ。経済変化に対応するには、賃金上昇を優先することが不可欠である。企業がこれを実施出来なければ、市場から撤退せざるを得ない。日本は今この崖っぷちにあるとも言える。600兆円を超える内部留保を有しながら、バブル経済崩壊の呪縛から抜け出せないまま、中国投資という安易な投資に踏みだし、新たな経済システムへの挑戦を怠ったツケを精算する時代を迎えた。

  年1回の賃金改定などは止めて、企業が独自に、いつでも必要に応じて賃金を改訂するシステムに変更する必要がある。企業のこの迅速性の如何によって人材獲得・市場獲得に優劣が出る。今、多くの上場企業は業績が上向いている。痛みは伴うが、中小企業を再編成する時代を迎えた。これが消費型経済システムへの転換ということだろう。

 

 

  とてもこんなこと無理だと思う人もいるだろう。しかし、思い出してもらいたい。1960年、時の総理大臣池田勇人は、「所得倍増計画 10年計画」をぶち上げ、7年で達成した。

 

         令和の所得倍増計画が必要だ。

 

 

 

<語録・要録(人生談義 上下 國方栄二訳 岩波文庫より)>

 

  この間、テレビを見ていたら、NHKのストリートピアノというか駅ピアノというか、の放送があり、アフリカ系の若者がピアノを弾いていた。あまりうまくはないが、弾き終わった後、彼は、「ピアノを弾いていると全てから解放され自由になれる」というようなことを言った。ピアノを弾く行為の時だけ、彼は「自由」であり、それ以外は「自由」ではないのだろうか。彼の言う「自由」とは何なのだ。エピクテトスの言う「自由」と同じ概念なのか?

 

  「語録」は、全4巻95章で構成され、講義禄と言われている。道徳倫理を説いたものというよりは、理性、精神、自由といった人間の本性や哲学的手法・論法について書かれたものである。参考までに目次の一部を挙げておこう。

第1巻 

 第1章 われわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの

 第2章 どのようにして人はあらゆる場合に人格にかなったことを保持することができるのか

 第3章 神が人間の父であるということから、どのようなことが結果するのか

 第4章 進歩について

 ・・・・・・・

 第7章 転換論法、仮定論法、及び同類のものの使用について

 ・・・・・・・

第2巻

 第1章 大胆であることと用心することは矛盾しないこと

 第2章 心の平静について

 第3章 哲学者を推薦する人びとに対して

 ・・・・

 第8章 善の本質について

 ・・・・

 第11章 哲学の始めは何であるか

 ・・・・

第3巻

 第1章 おしゃれについて

 第2章 進歩しようとする人は何について訓練しなければならないか、および、われわれは最

     も大事なことをおろそかにしていること

 第3章 優れた人の対照となるものは何であり、とりわけ何を目的として訓練せねばならない

     か

   ・・・・

 第13章 孤独とは何か、どのような人が孤独なのか

 ・・・・

 第24章 われわれの力が及ばないものに執着してはならないことについて

 ・・・・

 第26章 困窮を恐れる人びとに対して

第4巻

 第1章 自由について

 第2章 交際について

 ・・・・

 第10章 何を軽蔑すべきか、何において優れているべきか

 ・・・・

 

  目次からもわかるように体系的な解説書・教科書ではない。道徳倫理学、例えばアリストテレスのニコマコス倫理学では比較的体系的に記述されているが、人の本性を究明するには、近代の科学的進歩、学問的蓄積、近代哲学までまたなければならない。哲学的論理体系を作るために、人類は、気の遠くなるほどの時間を思考実験にかけた。

 

  「論語」も同様に、論理的・体系的な構成にはなっていない。しかし、論語は、冒頭の第1編学而において基本となる知の本質である学習思想を単純であるが難解な表現で示し、以後全20編500文を超える短文を学習思想の教科書としている。

 

  一方、「語録」では、第1巻第1章で「われわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの」というテーマを掲げ、これから展開される人の精神(魂、心)を構成する要素である理性意志心像について示した。

 

  それでは、エピクテトスは「理性」をどのようなものと考えたのだろうか。彼は、まず「理性」以外の能力について例をいくつか挙げて説明する。「読み書きの能力には、どの程度まで考察する力があるのか。書かれた文字を識別するところまでである。音楽の能力はどうか。旋律を識別するところまでである」。こういった能力には自分自身を考察する能力があるのかと言えば、「けっしてないのだ」と彼は言う。友人に手紙を書こうとして書くべき言葉に困るような場合には、読み書きの能力が教えてくれるが、友人に手紙を書くかどうかについては、読み書きの能力は教えてくれないのだ。

  それでは、どんな能力が友人に手紙を書くかどうかを教えてくれるのか? それは、「理性」なのだと。この「理性」という能力はわれわれに備わっているものだと、そして、この能力は様々な「心像」を用いる能力だとも言う。「心像」(パンタシアー、ファンタジーの語源)とは、心で描くイメージのことである。例えば、「黄金が美しい」とは我々の心が言っているのであって、黄金自体は何も言ってはいない。

  そして神々はあらゆることのうちで最も優れた最も大切なこととして、心像の正しい使用だけをわれわれの力の及ぶところに置いたのだと説明する。つまり我々に理性が備わっているのは神によってなされたと言うのだ。さらに、「意志」はゼウスであろうと支配することはできないと。

  ここでエピクテトスは、「意志」とは何かを説明してはいない。「意志」については、「語録」「要録」のかなりの部分に登場する。

  「意志」とは、ギリシャ語でプロアイレシスと言い、「他に先んじて取る」という意味である。つまり選択すると訳される場合が多い。

  ところで、日本語ではこの「意志」以外に「意思」も用いられる。「意思」は行為を伴わない思考、思い、考えを意味し、「意志」は行為を伴う考えである。例えば、洋服を買うかどうかと迷っているときは、洋服を買う意思はあるといい、値段は張るがあるブランドの洋服を買うことに決めた場合には「意志」である。英語では、「意思」をintention や mind、「意志」は will や determinationと訳す。最近の報道をみるとどうもここら辺はかなり曖昧となっており、どちらの場合も「意思」を用いている。

  経済学に支払意志(WTP willingness to pay)という用語がある。英語をそのまま訳すと「意志」であるが、なぜか日本では「意思」、つまり支払意思と訳している。昔は支払意志としていたのが変わったのである。支払意志とは、仮にある商品を買うとした場合、あなたならいくらで買いますかと問われたとき、○○円なら買うという決断のことである。この場合、商品の価値をあれやこれやと比較考量し、さらに買いたいという衝動と収入の関係も勘案して買うことに決めたことなので、「意志」が相当である。これが「支払意思」となると、思い悩んでいることになり、どんな価格であっても必要がなく買わないこともあり、ほとんど考えずに決めるという意味も含まれる。従って、支払意思額を経済学的手法で測定し評価したということは、「意志」のない人も含めていることになるからほとんど当てにならない評価だということになる。

 

  横道にそれてしまったが、エピクテトスが言う「意志」とは、行動を伴う思考であり、感情とそれに伴う行動の説明として用いられた。

  エピクテトスは、この意志と自由とについて考えた。「われわれの力の及ぶもの」とは、欲望、嫌悪、忌避、衝動、判断などである。つまるところ、脳が反応し、想像し、思考していることだけが「力の及ぶもの」だと考えた。それでは「力の及ばないもの」とは何か。肉体、富、財産、評判、地位、名声などは、脳内の思考ではどうにもできないので「力の及ばないもの」となる。この「力の及ばないもの」に自己の肉体がある。病気になれば何とかしようとしても自分の力では何ともならない。心と体は別なのである。つまりデカルトにつながる心身二元論は、エピクテトスに始まり、デカルトまでの1500年間にわたり西洋思想、宗教思想の中核をなし、「力の及ぶもの」の能力の鍛錬が必要と説き、カントのコペルニクス的転回まで面々と続くことになる。

  「力の及ぶもの」だけが、われわれの自由になるものである。「意志」だけが「妨げられず強制されることもなく」、「ゼウスであろうと支配することはできない」のであり、これこそが人間の自由なのだと。従って、精神の自由とは、「自分のものでないものをなにひとつ求めない」ことであるという論理展開となる。自我の存在とその確立である。

 

<耐え忍び、我慢せよ>

 

  「心像」とは、イメージのことである。自分の心に浮かんでくる全てのことである。金が欲しいと思うのは、金そのものではない。金に対する思い、例えば思い切り贅沢ができるとか、金があればうまいものが食えるとかといった思い、イメージであり、これを心像と呼ぶ。こういった心像、つまり欲望とどのように向き合えば良いのか。エピクテトスは、鍛錬だと言う。

  この鍛錬を行うには三つの段階を踏まなければならない。この段階のことをトポス(領域)と呼んだ。これは感情(パトス)の発現段階に呼応しているという。

  第一段階は、目の前の対象に対して欲求か忌避かであると。人が欲しているのに得られない場合、逆に、欲していないものを得る場合という論法で説明する。欲しいものが得られた場合には関係ないのである。こういう状態が生じると、例えば、自分が欲しているものを得られず他人が得た場合には妬みが生ずる。この第一段階の感情には、不安、嫉妬、混乱等があるという。こういった感情を生じないようにするためには、自分の力の及ばないものを望まないようにすることだと。

  第二段階は、衝動と反発である。第一段階の感情が発現すると自分以外の人あるいは社会との関係においてしかるべき行動が求められる。「語録」では、「神を敬うものとして、息子として、兄弟として、父として、市民として、生まれながらの関係と生まれた後に得た関係を保つのでなければならない」と書かれている。自己と自己以外の人との関係をうまくやれということである。つまり、人との関係には果たさなければならない義務があり、その義務が何かを理性的に考えよというのである。

  第三段階は、欺かれないように性急な判断しないことである。理性的に評価判断した心像(イメージ)、例えば酩酊したときの心像などによってだまされることのないようにしろと言う。

 

  感情の発現に対して以上の訓練を行うことで、人は平常心(ものに動じない心、アパティア)を得ることができる。そして、これこそが哲学の求める境地であると。

 

  意志の強さは、限りなき自由を人にもたらし、それは最終的に自死をも容認することとなる。自死を容認するか否認するかという議論は、キリスト教におけるパウロの意志の無力や、後世のキリスト教における批判等々、多数見られる。最近では、安楽死がフランスで容認され自死を人の意志、尊厳として考えられるようになったことを考えると、エピクテトスが人類史上、初めて唱えた精神の自由についての議論は現代にも通ずるものである。

 

  さて、こういった感情は、人が他人と接し、社会と接したときに発現するが、とかくこの世は住みにくいのは日本だけではなく、2千年前のローマでも同じであった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、「自省録」の中で次のように述べている。

  「その時がくるまで(死を迎えるまで)、どうすれば足るのか(罪過なく平穏な日々をおくれるのか)。神々をうやまい讃え、人間に善事を施し、彼らを「耐え忍び、我慢すること」以外の何であろう。またすべて君の哀れな肉体と小さな息の及ぶところにあるものは、君のものでもなければ君の自由になるものでもないのをおぼえていることだ。」

  「耐え忍び、我慢する」とは、人間関係・社会環境が自己にもたらす様々な困難に耐え忍び、自己の内から生ずる様々な欲求を抑制するということである。英語では、sustain and abstain と言う。忍耐と我慢、これこそが自由への道でありエピクテトスの根本思想であると言えよう。

  

  ちょっと話はそれるが、SDGsのS(sustainable)はこのsustain(耐え忍ぶ)が語源である。転じて、構造物を下から支えるとなり、さらに転じて持続可能と意訳した。サステイナブルを持続可能と訳し、SDGs(Sustainable Development Goals)を持続可能な開発目標とすると、何となく災禍なく発展的なイメージとなるが、この言葉には「耐え忍べ」という意味が内包されている。さらにストア派哲学の素養があれば(ヨーロッパの知識階級など)、「我慢しろ」という意味と連動していることも理解できる。つまり、欲望を抑えた開発目標なのである。現代の金融資本主義システムの状況下において、こんなことは到底不可能である。欲望の資本主義に対する余りにも安易で古典回帰的発想だと言わざるを得ない。新たなブレーキ機構をどのように創造し、欲望の資本主義に組み入れるかは現代人及び未来人に課せられた大きな課題である。

 

<脳科学からみた若干の考察>

 

  エピクテトスの精神の自由とは、自我の確立と、感情の制御であった。

  「自我」の存在は、このエピクテトス以後、キリスト教思想を通じて、神から譲り受けた理性とともに現代に至るまで西欧社会では確固たるものであった。しかし、近年の脳科学の進歩からも、「自我」に関する機能はないことがわかりつつある(トーマス・メッツィンガー 「エゴトンネル」)。自我の意識は、錯覚なのである。社会との関係性の認識によって相対的に自我を意識するように捏造されるのだ。仏教思想では、古代仏教においても「無我」である。孔子においても、自我に関する論究はない。学習、知の極みによる徳(感情の抑制と発現)の向上にある。基本的な徳(孟子の四端)は、生まれながらにして人に備わっているのである。

  精神の自由においては、感情の抑制による平穏こそが必要だと説く。「思考停止社会」でも説明したように、情動は、自動装置である。考える前に作動している。快不快等の情動からの信号は、感情に至る事前の情報として自動的に反応し、結果として前頭葉でマッピングされ感情として発現し、行為へとアウトプットされる。感情の発現は、事前に捏造して記憶した内容によって様々に異なるが、「耐え忍び、我慢する」という経験による過去の反応(アウトプット)の記憶と思考記憶が感情の発現に影響することは間違いない。王陽明が言う「事情磨錬」(実践を通して(事にあたって発現する心(情))知識・精神を磨く)である。理性、つまり思考のみによって感情を抑制することは不可能なのである。エピクテトスの言う「力の及ぶもの」=理性の鍛錬のためには「力の及ばないもの」との関係が不可欠なのであり、脳科学的にはエピクテトスの心身二元論は間違いなのである。

 

  このように脳科学は、カントに至る西洋哲学の前提となる脳の働き、対象の認識、感情の発動について明瞭な結論を与えている。例えば、デカルトの認識哲学に対してコペルニクス的転回と言ったカント哲学とは、脳科学的な対象認識で言えばどちらも変わりはないのである。コペルニクス的転回でも何でもない。この後の哲学的論理展開に違いがあるのである。デカルトは認識が間違っているのではないかという仮説から始め、論理を積み上げる(理性的推論)ことで絶対的真理に至ると考えた。一方、カントは、感性・悟性というフィルターを通して物事を認識しているのであって、理性には限界があると論じた。脳の認識という機能が同じであっても論理的展開の仕方によっては行き着く先は違うのである。これは私見ではあるが、デカルトには神の存在は自明であり、信じ込んでいたのではないかと思われる。つまり、神の存在に関する頑迷な偏見である。カントは、神の存在に関する偏見がなかった。デカルトと同時代のスピノザは神を否定することで新たな哲学を開いた。

 

  知的生命体である人間には思い込み、偏見という特性が備わっている。この罠にはまると一朝一夕には罠から逃れることはできない。ローマ時代のエピクテトスも、1600年後のデカルトも罠にはまったまま哲学的論理展開を進めた。西洋哲学の主たるテーマである「精神の自由」は、我々の理性が生み出した幻想なのである。妄想といった方が適切かもしれない。「自我」がないのだから「精神の自由」があるわけがない。

 

  現代においても、「自由」という幻想を求めて戦争し、経済は暴走している。

 

2026/07/26

この国の精神 自由という幻想 ―ストア哲学の自由・エピクテトス(2)―

秋 隆三

 

<イラン戦争>

 

  また新たな戦争が始まった。イラン戦争だ。パキスタンとアフガニスタンでも戦争が発生している。かつて、このブログに書いたように、第三次世界大戦は始まっているのだ。

この中東地域というのは、古代ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、第一次世界大戦時のアラビアのローレンス、第二次世界大戦、第一次から第四次中東戦争と、歴史上戦争のない歴史を探すのに苦労する地域である。

 

  この地域の紛争のたびに言われるのが、「イスラム教だから」という文句である。ところでイスラム教というのはどんな宗教なのだ。恐らく、ほとんどの日本人は、高校の歴史教科書にでてくる1ページ程度の解説知識だと思われる。正直、私にもそれほどの知識があるわけではない。そもそもイランという国についての知識もほとんどないに等しい。

 

  NHKもやたら洞窟探検だ、野生動物だ、登山だ、火山だ、温泉だと、そっちの趣味のある連中が、それこそ勝手気ままに(自由に)番組を作っているが、こういった世界の紛争が発生したら、少しは真面目に歴史を考察する番組ぐらい作ったらどうなのだ。後世に残せるような番組がほとんどないという国営放送も珍しいと思うが。

 

  チグリス・ユーフラテスの両河川の中流部から上流域に最初の王朝が誕生したのが、BC2800年頃である。BC1800年頃にバビロン王朝が起こり、その後世界最初の法典と言われるハムラビ法典が作られた。その石柱も発見されている。地球上最も古い文明の一つである。この一帯は現在のイラクであるが、その後、BC1000年頃にイラン高原の北東部でゾロアスターが生まれたと言われている。アケメネス朝ペルシャ(BC550年頃)時代という説もあり定かではない。

このゾロアスター教は、サーサーン朝ペルシャの滅亡(651年)まで、ゾロアスター系新興宗教のマニ教に取って代わられる時代(紀元3世紀)もあったが、継続した。ペルシャの滅亡後イスラム帝国となりイスラム教の時代を迎えている。

  世界最古の宗教、ゾロアスター教はアフラ・マズダーを最高神とし、人間の守護神である善神7神と悪神7神で構成される(一週間7日の起源?)。一神教というよりは多神教ではないかと思うが。善悪二元論、1万2千年後に現れるという終末思想、祖霊信仰が特徴であり、中でも、終末思想は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通に見られる思想である。

 

  さてイスラム教は、預言者ムハンマドが神から託された言葉を記述したコーランと言行(スンナ)を記録した言行録(ハディース)を経典としている。六信五行の戒律を守ることとされ、ユダヤ教やキリスト教に比べるとかなり単純化されている。特徴は、僧がいない。つまり聖職者がいない。聖職者がいないので、日本で言うお布施などは不要である。それでは寺を誰が守るのかということになるが、それは自治体や任意組織により運営される。つまり、イスラム教に関連する組織は、政治組織かまたはNPOということになる。イランの神学者及び学校、革命防衛軍という組織は、我々が常識としている国家組織とは異なり、イスラム教団の組織ということである。イランという国家は、国家組織とイスラム教組織との二つの組織群で構成され、国家の権力機構は何ともあやふやなものなのである。

  こういう国家との外交交渉は複雑になり、交渉手段も極めてあやふやなものとなる。現代国際政治において、こんな国を国家と認めることさえ問題ではなかろうか。勿論、国連の原加盟国だから、世界は国家として認めたことになるが。原加盟の時には確かパフラヴィー朝(王政)であり、イラン革命で現行体制となったはずである。

 

  国家の国際的認定というものを改めて検討する時代を迎えたとも言えないか。つまり、国連構成の基本的あり方そのものを考え直す時代なのだ。

 

  仮に、共産主義、専制国家、独裁国家等々、自由主義的民主主義以外の体制による国家は国家とは認めないとすれば、イラン等は、単なるイスラム教の集団社会であり、国家ではなくなる。中国、ロシア、北朝鮮、中南米・アフリカ諸国、東南アジアの一部等は、テロ集団でしかない。古代ローマ帝国における属州・同盟国かそれ以外の蛮族集団かの区分と同じ状況となるのである。現実の国際状況をみると、古代ローマ帝国は、現代国際政治の単純モデルのようである。

 

  イスラエルが言うように、こんな国を国家と認めることはできないから、新たな国家体制を作り国際的に認められるようにしない限り徹底的に破壊するという態度(本当にそうなのかはわからないが、そう見える)も少しは頷ける。

 

  いずれにしても、「国家とは何か?」に対する答えは、ギリシャ・ローマの時代から現代に至るまで何ともあやふやなものらしい。グローバリズムを声高に唱える以前に、答えを出しておく必要がありそうである。

 

 

<古代ギリシャの哲学とは?>

 

  エピクテトスの「語録」に迫ろうと思うが、これは、弟子のアリアノスが講義内容を記録したものであると言われている。それにしてはかなりの記録量である。速記術などがない時代に、エピクテトスの講義内容の詳細を聞き書きするなどは、どう考えても不可能だ(これはソクラテスの語録といわれるプラトンの著作も同様である)。

 

  例えば、プラトンに「饗宴」という著作がある。これは、塩野師匠に言わせれば、プラトンの著作の中でも抜きん出た超一級の作品だそうである。内容は、アガトン(ソクラテス時代の悲劇作家)の作品が演劇祭で優勝したことから、アガトンの家での夕食会(紀元前461年のシンポジウムと言われている))に招かれたソクラテスと知識人達が、「愛(エロス)」について互いに意見を交わすというものである。この内容を見ると、とても聞き書きではなく明らかに創作だと思われる。つまり、文芸作品なのだ。

  それはさておいて、少し横道にそれるが、この「饗宴」でプラトンが創作しソクラテスが語ったという「愛」についての論考は、ソクラテスの論法、つまりギリシャ哲学なるものの本質に迫るものであり、ちょっと眺めてみる価値はある。古代ギリシャから近代カントに至る哲学なる学問がどういう学問であるかを理解する上で重要な文献だからである。

 

  この「饗宴」については、塩野師匠の「ギリシャ人の物語Ⅱ p229前後」で少し解説されているが、詳細は「饗宴」をお勧めする。

  さて、「饗宴」の始まりは、ソクラテスがアガトンの招きに応じて、ソクラテスとしては珍しく身だしなみを整えて出かける途中でアリストデモスと出会う場面である。このアリストデモスという人物はソクラテスの熱烈な信奉者であり、この饗宴の内容を後世に語り継いだと言われており、プラトンはこのアリストデモスの記憶内容を元にこの物語を創作したと思われる。

 

  ソクラテスがアリストデモスと一緒にアガトンの家に向かっていると、突如としてソクラテスが没我の状態に陥った。誰が話しかけようと何が起ころうと、一切から隔絶した状態となったのである。脳科学では、瞑想状態、フロー状態(ゾーン)と言われる状態である。ドーパミン系が深く関わっている現象だ。ドーパミン系は報酬系とも呼ばれ、人のやる気・欲望に関わる重要な脳内物質である。ソクラテスは、この時、シンポジウムの課題の「愛」についての思考をめぐらしていたと思われるが、思考をめぐらすだけでは没我状態には入らない。思考を重ねることでドーパミンが少しずつ放出されて、いよいよこれでよしという最終段階に至って報酬系が働きだし没我にいたったのではないだろうか。ソクラテスは、度々、この没我状態に陥ったと言われている。どうもソクラテスという人は、ドーパミン系の反応の激しい体質(性質)だったのではないだろうか。それも、思考において発揮される性質である。思考力の高い人間では、このドーパミンが強く発現するらしい。没我状態だけでなく、好奇心、野心・野望、金・性・地位・名誉等に対する欲望等々もこのドーパミン系である。

 

  シンポジウムでは、6人のパネリストがいた。美男同士のカップル(アガトンとパウサニアス、同性愛者)、悲劇作家のエウリピデス、喜劇作家のアリストファーネス、それに医者が二人である。これにソクラテスとアリストデモスが加わった合計8人であるが、途中で泥酔したアルキビアデス(ソクラテスの弟子、波瀾万丈の生涯をおくる政治家・軍人)がちょっと加わるという人物構成になっている。

 

  前半部分は、塩野師匠も「シンポジウムというものはどうしてこうも退屈なのか」と言っているように、少年愛・同性愛とその精神性について、ああでもないこうでもないと語り合う。塩野師匠でなくともいい加減にしてくれと言いたくなる内容である。この少年愛(美少年を好む同性愛)というのは、世界共通に見られる性癖である。古代、ギリシャ・ローマでは公然と行われていた。かの皇帝ハドリアヌスの少年愛は有名な話である。わが日本においても戦国時代の小姓等に対する男色は知られており、かの信長と蘭丸などもそうではないかという説もある。

 

  「饗宴」こそが、プラトニックラブを語った傑作だと賞賛する研究者もいるが、プラトニックラブとは「愛」の何を意味しているのかの定義があやふやなままで、プラトニックラブはすばらしいなどはとんでもない話である。「愛」とは何かということを一言で説明することは難しい。

  孔子は、「仁」とは何かと弟子に尋ねられ、「愛すればよい」と答えた。この答えを聞いた弟子は、「それでは愛とは何か」とは尋ねなかった。

  

  「愛」の話はさておいて、この夜のソクラテスの講話の内容を論法の観点から概観してみよう。実は、エピクテトスの哲学においても「デーモン(ダイモーン:鬼神)」が度々登場し、古代ギリシャの哲学論法が見られるからである。

 

  ソクラテスは、自分の知識をひけらかすということを嫌い、自分が如何に無知であるかということから話を進める。そこで、マンティネイア(地名)出身のディオティーマという女性の哲学者から教えてもらった「愛について」の話をすることにした。実際は、どうも架空の女性哲学者のようだ。

 

  ソクラテスは、教えてもらった「愛の神(エロス)」について話を始める。ディオティーマは、「愛の神」は、偉大なる神ではなく、偉大な神と死すべきもの(人間)との中間にあり、それはデーモン(ダイモーン、鬼神)なのだと言うのである。つまり、人間と神との交信の役割をし、神官の業(わざ)(予言、呪術、魔術、占い等々)などはその代表的な業であると。世の中には、ダイモーンの数は多く、種類も様々であり、「愛の神(エロス)」もそのダイモーンの一つなのだと言う。

 

  ギリシャ哲学は、ソクラテスを始めストア派哲学も、人間の本性は、神々からその一部をもらっているのだということを前提として論理が展開される。簡単に言えば、全ての生き物の中で何故人間だけが理性・知性・感情を有しているかはわからないから、それは全て神からの授かりものだとしてしまえということだ。近代脳科学の発達まで、西洋哲学は、何とも秘密めいたというか、混迷というか、複雑怪奇というか、難解というか、退屈というか、所謂、「哲学」という学問的権威形成に明け暮れていたとも言えなくはない。しかし、一方では、こういった繰り返される議論を通して、哲学は、論理的手法の様々な可能性を追求するという、学問における独自的分野を形成した。

 

  他方、古代儒教では、人間の本性に対する追求は、わからないのだから止めておけということになる。例えば、論語の中で、弟子の季路が、孔子に神霊について質問をすると、孔子は、「人に仕えることもできないのにどうして神霊に仕えることができようか」と答え、死とは何かという質問に対しては、「生もわからないのに、どうして死がわかるのか」と答える。何かを知るということは、知るための論理的な順序、つまり論理的エビデンスを少しずつ積み重ねる必要があり、それが知るということの本質なのである。従って、人間の本性に迫ろうとすれば、脳の中で何が起きているかを順序だてて、様々な感情や思考課題について、論理的な説明ができなければならない。しかし、現代科学でさえ困難なこの問題に、古代において迫ることなど不可能である。それでも、人間の本性に触れない訳にはいかない。そして、後世、孟子は四端に人間の本性を見、朱子は太極図説・易経の陰陽五行説・性即理に人間の本性を見、王陽明は事情磨錬(自らの心を正しくするのはその場において訓練する)・心即理に人間の本性を見ることになる。

 

  一方、ギリシャ哲学では、人間の本性、つまり形而上的問題を論じるとき、その根拠をギリシャ神話の神々に依拠する。ギリシャ哲学に限らず、近代までの西洋哲学では、こういった神々の存在と思考を根源とするため、話がややこしく、冗長となり、退屈なものとなるのである。

 

  さて、ディオティーマは、「愛」の本質について解説を始める。まず、前述のようにエロスはデーモンであり神ではないと言う。それは、神は美しく善であり幸福な存在であるが、エロスは善美なものを身に欠くから善美を欲するため、神ではないのだと。ここらへんの説明に至る過程は、古代ギリシャ特有のソフイスト(詐欺師まがい)的においがプンプンするところだが。その上で、エロス誕生の物語を語る。エロス(愛の神、デーモン)は、策知の神ポロスと貧窮の女神ペニアーの間に生まれた息子であると説明する。ポロスとは半人半馬の神であり、半人半獣のケンタウロス族である。ペニアーは、欠乏と欲望のデーモンとされている。ポロスは、知・美を求める豊かさの神とも言われ、両者の間に生まれた息子エロスは、当然、美を欲するデーモンということになる。というのが、ソクラテスの論である。

 

  ここからしばらくは、ギリシャ神話のエロスが何故美しいものを愛するかについて、あれやこれやと説明する場面となる。そして、幸福とは、善きものを所有していることだという結論に至る。さらに、愛するということの抽象性を論じることになるが、この部分は舌足らずで(無理もない、言葉の抽象性についての科学的知識に乏しいのだ。本来は一言で説明できるが)論理性にはやや無理がある。

  ディオティーマは、ここで「愛」の定義をする。「愛とは、善きものが、永久にわが身のものになることを目的としている」と。そして、「それでは愛と呼ばれうる行為とは何か」と問題を掘り下げていく。この問のプロセスが哲学なのだが。

 

  そうこうするうちに、話は一気に、男女の愛の説明に転換する。論理の転換である。ディオティーマは、人は一定の年頃になると、出産への欲望を持つことになり、それが愛の行為だと言う。何故かと言えば、「出産とは、死すべきものにあって、いわば永久なるもの、不死なるもの」であるためだと。全ての動物にも見られる行為だと。それこそ、永遠に不死たらんと欲するためだと。生き物は、身体のいたるところが常に入れ替わっており、このことは肉体に留まらず魂においても同じだと。身体的に懐妊するのは女性で、子供をつくることにより、不死、思い出、幸福を、未来永久に我がものにしようという考えなのだと。

  性欲による結果として懐妊し出産し、新しいものを残すという作用は、人間の一生においてもその身体において同様のことが起こっているという。肉、骨、血など様々な消滅を受けながらも再生する。細胞の死・再生は、現代では常識である。それが生命体というものであるが、懐妊・出産とは別物である。

 

  ところが、話はここで知識に転換される。またも転換である。知識もひとたびたりとも同じ状態にはないという。暗記は、知識が逃げ出す、つまり忘却があって成り立つというのである。逃げ去った古い記憶のかわりに、新しい知識を植えつけ、あたかも同一の知識と思われるように保持するのだと。記憶機構は現代でも解明されていないが、記憶そのものは必ずしも正しくはなく、主として、情動、感情等によって捏造されることはわかっている。

  性欲・肉欲といういわば情動による快不快・欲求作用と、知的記憶・思考・知識欲という理性的欲求作用が混同し始めるというか、ここでも論点が、身体から知性へと転換する。。

そして、肉欲と知識欲、つまり肉体に宿る美と、魂に宿る美を比較すれば魂に宿る美の方が尊いのだと結論づける。

 

  哲学には転換論法という推論手法がある。例えば、人間は動物である。だから動物は人間であるという論法である。これは間違いであることは明らかだ。しかし、人間は動物の一種であると言えば、動物の一種は人間であるということも間違いではない。また、人間は動物である、それゆえ動物ではないものは人間ではないということも間違いではない。主語と述語を入れ換え(転換)たり、主語を否定して述語を肯定したり、否定して入れ換えたりして、自らの主張の正当性や相手の主張の否定など、現代で言えばディベートの手法として用いられた。ギリシャ哲学では、定言命題(主語と述語とで構成される文)の転換手法が様々に考案されており、現代からみれば詭弁ではないかというものも少なくないのである。

 

  このソクラテスの話の最初に登場したエロスというダイモーンは、途中からどこにも出てこない。ダイモーンはどこへ行ったのだ。

  善美を愛し欲望するエロス(ダイモーン)が存在し、神と人間の中間に存在する。生命は、懐妊と出産という永遠に不死たる愛の行為を欲する。人間の身体そのものもひとときとして一定ではなく再生している。知識も身体と全く同じように常に再生されており、知識は魂であり、魂の美こそ尊いのだと、ソクラテスは「愛」を論ずる。

 

  もうおわかりだろう。命題について主語と述語を操作し、その正当性を主張する。そして対照を入れ換えても命題が正しいことを解説するために様々な例示を行う。そして主語、述語の対照を入れ換えつつ知を愛する尊さへと転換し結論づける。ソクラテスという哲学者は、相当に危険な人物であると思えてきた。

 

  さて、最初に登場したエロス(ダイモーン)は、人間の美に対する欲望、つまり愛すると言う欲望を司るダイモーンであり、人間と神の中間に存在する。人間の欲望、つまり、様々なものに対する愛というものの根源には、このエロスのようないろいろなダイモーンの存在が関与しているというのである。このダイモーンを前提条件として、論理が展開される。しかし、ソクラテスはどうすればダイモーンの働き、欲望を制御できるかについては、何も語ってはいない。

 

  エピクテトスは、ソクラテスの饗宴から500年後に登場し、人間の精神と欲望について悩み続けた。エピクテトスは欲望について、「耐え忍び、我慢せよ(Sustain)」と言う。ソクラテス以来、実に500年にわたって、ダイモーン、欲望、魂、精神について哲学者達は考え続けることになる。

 

  「饗宴」に長い時間がかかった。エピクテトスはまた次回に。

 

2026/06/15

この国の精神 自由という幻想 ―ストア哲学の自由・エピクテトス(1)―

秋 隆三

 

<自民党の歴史的大勝>

 

  衆議院が冒頭解散となり、歴史的な選挙が行われた。歴史的とは大げさと思われるかもしれないが、かつて世界第二位の経済大国が、30年以上にわたるデフレ状況から脱却し、経済成長時代に転換できるかどうかの瀬戸際にあるからである。どこの国も、短期間であるがデフレ状況を少しは経験したが、戦争によって回避した。戦争は、戦費という大量の消費とそれにともなう大規模な供給力を必要とするためである。30年以上にわたるデフレ経済から脱却したとすれば、世界史において、日本が初めてとなる。

  欧米の経済学者は、100年もの間、インフレーションという恐怖に対する論理構築に終始した。日本には何の役にも立たないばかりか、無駄だった。否、役に立たないということを証明したのだ。

  今回も安全保障という想定される戦争に対する対応が、デフレ脱却の糸口となっていることは確かであろう。この意味では、プーチンに謝意を表するが?

 

  毎日、朝日、東京等の新聞社とその関連メディアは、解散総選挙の大義なるものを掲げた。

  アホか! 

 

  我国は、議会制民主主義の国家である。総理総裁が替われば政策も変わる。誰が信任したのだ。9年前、このブログ(堕落論2017)でも書いた。勿論、今考えればいくつかの間違いはご容赦願いたいが、総理総裁が替わって選挙をし直すということ以上の大義はない。

  米国の大統領制のように国民による直接選挙で元首を選ぶという制度ではない我国では、民意を直接反映させる方法はこれ以外に方法がないではないか。2024年の総選挙では自民党の過半数割れという結果となっても前総理は辞めなかった。やっとまともになったのだ。

 

  自民党単独での過半数越えができるかによってこの国の精神が変わる。つまり、未来の形が変わるのである。

 

  さらに世論調査によれば、解散選挙の必要がないという意見が50%を超えていたというから驚きである。思考停止した馬鹿者が国民の半数以上いるということだ。民主主義という極めて危うく、あやふやな政治手法は、大衆の思考力によってその成否が分かれる。第一次世界大戦後の浮かれた大衆社会は、ほぼ完璧に思考停止社会へと変貌した。オルテガは、この思考停止社会に警鐘を鳴らし続けた。思考停止社会が第二次世界大戦の要因となったとも言える。

 

  ドナルド・トランプがエクアドルの大統領夫婦を武力によりわずか2時間で捕縛した。韓国に対しては、投資の約束を守れと関税をちらつかせる。これに対して、評論家なるものが、相も変わらず独裁とか、民主主義に反するとか、国際法とか言っている。

 

  「そもそも現代における国家とは何ぞや」という本質的問題に言及した学者も評論家もほとんどお目にかかったことがない。こういった本質論こそ政治哲学であり、思考社会において重要である。この問題は、もう少し後から論究しよう。

 

  高市政権には、国家とは何かという本質的課題を思考しつつ、現実的問題に果敢に挑戦し行動するという政治姿勢を貫くことを期待したい。政治においては、政治哲学を一方に置きつつも、それはさておいて政治的リアリズムに徹するという、二面性が必要だということだ。哲学的思考のみが、現実的課題への対処方法を評価しうる唯一の手段である。

 

 

<エピクテトスという哲学者>

 

  これから展開するのはエピクテトスというギリシャ・ストア派の哲学者が考えた「自由」という概念についてである。

 

  エピクテトスは、西暦55年頃、現トルコの南西岸のエペソス(現エフェス)から真東の奥地にヒエラポリス遺跡があるが、ここで生まれた。アテネからはエーゲ海を挟んだ東対岸に位置する。この頃に生まれたとされているが正確にはわからない。エピクテトスは奴隷の身分として生まれ、リューマチのため足が不自由であったと言われる(リューマチかどうかは不明)。

  エーゲ海東岸の一帯には古代ギリシャ遺跡が沢山あるが、中でも初期キリスト教におけるパウロ教会の遺跡が多い。パウロの生誕地は、エピクテトスの生誕地より南東の、キプロス島のトルコ側対岸である。パウロは、ユダヤ人でありローマ市民権を持った家で生まれた。パウロはエピクテトスより50歳ほど年上なので、エピクテトスが生まれた頃にはエペソス周辺で布教活動を行っていた可能性はある。

 

  この時代、ギリシャ・ローマ時代を通して、身分制に関する法律はかなり厳格に適用されている。一方、日本では、大宝律令(701年)に身分制が登場し、奴碑制度が示されている。資産価値が認められており売買の対象となっている。公奴碑、私奴碑がいたようだ。しかし、800年代後半には律令制度が実質的に崩壊し、奴碑制度も崩壊する。しかし、その後、時の政権は、度々、禁止令を出すが、実態として人身売買は江戸時代まで続く。森鴎外の小説「山椒大夫」は、平安末期を舞台に奴隷となった姉弟の境遇とその復讐の物語りである。

  日本では鎌倉時代以後、奴隷制度、特に農業奴隷についてはほとんど姿を消している。勿論、小作制度はあるが、資産としての奴隷ではない。

ところが、西欧では、古代エジプトからギリシャ・ローマ時代、中世、近代まで奴隷制度は永遠と続いていた。

 

  何故、こんな醜く、残酷な制度が近代まで続いたのであろうか。エピクテトスが生きたローマ時代には、農業は全て奴隷制度によって成り立っていた。農業マニュアルとして、作付け種類別に単位面積あたりの適切な奴隷人数さえ研究されている。

  さらに、知的労働に従事する奴隷ほど取引価格は高くなっていたようである。また、度々の戦役で、例えばガリア(現フランス)の戦争で勝てば、大量のガリア人を奴隷としてローマに送っており、奴隷の取引価格が低下している。

 

  生まれた時から人の身分が決まるという制度とは何なのか。この時代の人々にとって、このことは自然のことだったのだろうか。エピクテトス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの語録、著作には少しの疑問も書かれていない。

  しかし、ローマ時代の紀元前70年頃にはかの有名なスパルタクスの乱が発生しており、奴隷による反乱は大小含めて度々発生している。19世紀ヨーロッパにおける共産主義思想は、このスパルタクスの反乱を正しい戦争として喧伝する。

 

  奴隷として生まれた人々が何故逃げなかったのか? 現代よりも遙かに人口が少なく(紀元15年頃の国勢調査では、ローマ市民権を有する市民は500万人程度としている)、ローマであれば、アルプスを越えるなりして未開の地へと逃げることもできたのではないかとも思うが。

  恐らく、逃亡を防止する様々な手段が講じられていたに違いない。例えば、連帯責任、相互監視、内通報酬、監視・拷問等々である。それでも逃げようとすればそれほど難しいことではなかったはずである。

  一方、逃亡しながら旅を続けることが相当難しかったとも考えられる。食物を手に入れることの困難さである。農業文明が定着しており、野生動物だけでは生き延びることが困難であったのではないか、等々と考えるが、それでも生きようとすれば、野生動物も現代に比べれば比較にならないぐらい多いはずであり、食い物にはそれほど困らなかったはずである。

 

  奴隷に対する保護命令が度々出ていることを考えれば、懐柔策が功を奏したということだろう。過酷な労働でなければ、食い物には困らず、金ももらえて、解放奴隷の道もあるとなれば人間は置かれている境遇でまあ善しとするのだ。

 

<自己家畜化現象とは?>

 

  20世紀初頭には、こういった集団の隷属状況について研究されており、牛、馬、羊、猫、犬等、哺乳動物全般にみられる家畜化現象が、人間にも転用できるという研究が始まっていた(江原昭善 哺乳類科学 27巻 1987年 「「家畜化」概念はホミニゼーションにどこまで適用できるか」に概念転用の是非が論じられている)。

  人間が階級社会を是として選択したのは、脳が進化したというのである。つまり、社会階級の下層階級、例えば奴隷という階級であっても生存に支障がなく、ほどほどに生きていけるのであれば抵抗して殺されよりは、あるいは、逃走して苦労するよりはその階級を選択するというように。

 

  人間の家畜化現象は、自己家畜化仮説として、小原秀雄(『ペット化する現代人』NHKブックス(1995年) 『教育は人間を作れるか』農文協(1989年) 『自己家畜化論』群羊社(1984年))が有名であるが、現代脳科学によってもかなりの程度解明されつつある。

 

  令和2年には、東北大学大学院生命科学研究科の佐藤大気(博士後期課程学生)が野生・家畜ウサギのあいだで脳内発現量が変化している遺伝子群を特定した。つまり、家畜化の進行により脳容量が減少することは20世紀初頭の研究でもわかってはいたが、原因究明にはいたらなかった。しかし、この発見により、遺伝子群の発現低下が動物の家畜化に伴う行動進化に影響あたえているという遺伝的基盤にかなりせまったのである。

 

  「思考停止社会」では人間の感情、中でも情動について追ってみた。情動は快不快をつかさどる自動装置であり主に脳の扁桃体が関与している。自己家畜化は、この扁桃体の進化によるものという仮説がほぼ実証されつつある。

  人間が、集団化し、社会を形成し、階級社会を作りあげ、奴隷制度がごく当たり前の社会システムとして19世紀まで、つまりほんの150年前まで継続したという驚きの事実は、この自己家畜化という仮説でしか説明不可能ではないかと思われる。

  森岡正博は、この自己家畜化仮説を基に現代社会を無痛文明論としてまとめている(無痛文明論 トランスビュー ‎ 2003、『仏教』44号 1998年、生物進化の哲学 と無痛文明 『現代生命哲学研究』第11 号 2022年)。

 

  「情動」における快不快という自動装置は、無条件に快を選択する。これに、大脳皮質前頭葉のマッピング、つまり狭義の情動とさらに複雑な感情が重なることで、利害感情が働き現状肯定・受容という行動が定着する。一端、定着するとよほどの情動変化、例えば飢餓、死等の極限の恐怖がなければ情動による闘争行動は起こらない。通常の不快程度であれば逃走に向かう。さらに厄介なのは、遺伝子の変化が遺伝するということである。奴隷の身分から生まれた子供は、この遺伝子変化を受け継ぐので自己家畜化という情動は、自由民の情動よりもより強く発現することになる。

 

  どうもここら辺が、身分制度、階級制度という社会制度、奴隷制度という隷従のシステムが数千年にわたって定着した要因のようである。つまり、社会の進歩は、情動という人間の自動装置が遺伝子レベルで変化した結果であると言えそうなのである。これが、人間の進化である。

 

<エピクテトスの生きたローマ時代>

 

  エピクテトスは、現トルコで奴隷の子として生まれたが、ある時期にローマに連れてこられ、かの有名な悪帝ネロに仕えた解放奴隷の奴隷となった。西暦68年にネロが自害するが、エピクテトスの主人がこの自殺を幇助したと言われている。エピクテトスはかなり頭の良い子供であったようで、奴隷の身分でありながら、当時有名であったストア派の哲学者ルフスに師事することになる。紀元68年から80年代のことだと思われるが確かではない。エピクテトスは、80歳頃まで生きたので、多分、紀元136年頃が没年(誕生が紀元55年頃)だと推定される。

  紀元14年、かのアウグストゥスが死に、その後の皇帝、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの時代を4悪帝時代と言う。エピクテトスは、この悪帝時代を子供時代で過ごし、五賢帝時代(紀元96年~紀元180年、ネルバ、トライアヌス、ハドリアヌス、ピウス、マルクス・アウレリウス)の半ばで死ぬという、時代の運にも恵まれていた。また、ロー時代を代表する歴史家タキトゥスは、同い年であり、「ゲルマニア」・「年代記」等を執筆している。

 

  時代には、何らかの転換点が存在する。カエサルの後、アウグストゥスが帝国主義を築き、その後のどうにもならない悪帝達と評価のしようのない皇帝達による治世が70年程度続くと転換点が現れる。こういった現象は、現代政治までの歴史においてほとんどかわることがない現象である。時代の転換点となる治世の終了から70年~80年経過すると新たな転換点が現れる。この転換点を主導するのは、必ず言って良いほど支配層の中の下級階層である。これも、自己家畜化現象の一つの形態と言えるかもしれない。

 

  ローマ時代ほど面白い時代はない。同年代の中国史も劣らず面白いが、歴史記録の正確さ、現代に通ずる政治哲学から言えば、ローマ時代が断トツである。ローマを語らせるとなると、塩野七生師匠の出番だ。

 

  エピクテトスが生きた時代は、ローマ時代の最盛期であった。エピクテトス26歳から41歳まではドミティアヌスという皇帝の時代である。この時代に多分、奴隷の身分から解放されている。記録がないので推測であるが、ルフスの薫陶を受けたのは短期であり、その後は独学であったと思われる。

  エピクテトスが生きた時代と、ローマによるキリスト教迫害の時代は重なっている。勿論、キリスト教に対する迫害は、紀元313年のコンスタンティヌス帝ミラノ勅令による公認、紀元392年のテオドシウス帝による国教化まで続くことになるが。この時代で有名なのは、皇帝ネロによるローマの大火である。この時代、キリスト教はユダヤ教の一派と考えられていたようだ。ユダヤ教の選民思想に対して、キリスト教は、神の前では人間平等という思想である。ただし、キリスト教の前ではという条件がつくが。ここら辺は、塩野師匠の「悪名高き皇帝たち ローマ人の物語Ⅷ 新潮社」を参照されたい。

  前述のタキトゥスもそうであるが、エピクテトスもキリスト教についてほとんどその記録はない。これも推測であるが、ローマの30万もの神々、古来からのギリシャの神々、ユダヤ教といったメジャーな宗教以外にも、ガリア、ゲルマニア、ダキア、さらにエジプト、ペルシャ等々、それこそそこら辺にやたらと地の宗教、マイナーな宗教があるのだから、キリスト教もそこら辺にごろごろしている宗教と見ていたと考えてることもできる。

 

  キリスト教に対する迫害と同様に哲学者に対する迫害も行われていた。ドミティアヌスの死の直前、エピクテトス40歳の時にローマからニコポリスに追放となる。ニコポリスというのは、イタリア南部の靴底から真東に位置するギリシャ本土の街である。ここで、哲学の学校を開き、半生を過ごすことになる。エピクテトス後半生の40年間は、トライアヌス、ハドリアヌスの2賢帝の時代に相当する。

 

  トライアヌスは、全時代を通して最大の領土を獲得した。東は、黒海全域、現トルコ、シリア、南はイスラエル、エジプトを含むアフリカ大陸北岸、西はイギリス、フランス、スペイン、モロッコ北部、北はライン川、ドナウ川の南部全域までがローマ帝国となったのだから、現代に置き換えて考えても、とてもじゃないが、軍事力はとうに限界を超えている。五賢帝のうち、ネルバは2年で死んでいるので、他の4賢帝のうちピアスだけがローマに居続けたが、その他3賢帝は、領土の巡行と戦闘に明け暮れ、ローマにはほとんどいなかった。

  なぜ、ローマ人はこれほどまでに領土拡大にこだわったのか? どうも拡大しようというよりは領土防衛にあったのではないかと推測される。塩野師匠は、ローマの戦記を基に多くの資料によってローマの戦役をめぐる物語を構成した。

  初代皇帝アウグストゥスは、領土拡大を禁止している。しかし、ガリアにしろゲルマニアにしろ、トライアヌスのダキア(現ルーマニア)にしろ、ローマに対抗して度々侵略戦争を仕掛けている。かれらからすれば、元来は彼らの領土なのだからローマは出て行けというところだろうが、ローマからみれば領土防衛である。

  ダキア戦記(トライアヌスの戦勝記)によれば、トライアヌスの盛大な凱旋状況が描かれている。ローマ市民が歓喜で迎えるのである。5万人の捕虜・奴隷を連れてローマに凱旋するのだから、それこそ宝の山を持って帰ってきたようなものだ。

  労働力こそが、ローマ経済の源泉である。ローマが周辺農業人口も含めて恐らく100万人程度と考えられ、そのうち貴族・商人(市民)など支配層の人口はせいぜい30万人程度であろうか。恐らく、トライアヌスが持ち帰った奴隷人口は、ローマの奴隷人口の1割に相当したに違いない。単純に言えば、経済供給力が1割増加することになる。あるいは、供給継続力が10%伸びることを意味し、ローマの税収は10%増加し、ローマ経済の成長力が維持されることになる。それに、戦勝を記念して貨幣が鋳造されて配られるし、様々なベーシックインカムが市民に与えられる。まさに、戦争こそがローマにとって最大のビジネスだったとも言えよう。戦争の利益は、第一次世界大戦まで続く。

  こういったギリシャ・ローマの歴史を覗き見ると、マルクスがごく自然に唱えた労働価値説についても納得がいくではないか。

 

  このトライアヌスの最後は、パルティア戦役の最中であった。パルティア王国(現在のイランあたり、ペルシャ帝国がアレキサンダー大王により滅ぼされた後の小国連合)との戦いで特に苦労したのはユダヤ人とギリシャ人との紛争であった。ユダヤ人が非ユダヤ人を徹底的に殺しまくるのである。これも何となく今のイスラエルみたいだが。

 

  皇帝トライアヌス亡き後、皇帝ハドリアヌスが登場する。ハドリアヌスという人もローマ帝国の領地をライン川からアフリカ、中東とほとんど隈無く視察している。目的は、かなり明確であり相当頭の良い人であったようだ。ローマ領の無駄をやめて合理化を図っている。単に軍備縮小というような程度ではなく、かなり具体的、詳細にかつ容赦なくリストラ・経費削減をやったようだ。

  ハドリアヌスの業績と言えば、「ローマ法大全」の編纂であろう。この中で、奴隷に対する処遇に関して相当に緩和している。また、ローマのパンテオンの再建もある。

  ハドリアヌスの戦役としては、ユダヤの反乱である。どうもこの時代、トライアヌスの晩年以来、中東の反乱が頻発していたようである。この時代も、ユダヤ人とギリシャ人は殺し合いをしているが、紀元130年頃には、ユダヤ教徒とキリスト教徒が決定的に不仲になった。紀元131年、ユダヤの過激派がローマに反抗しイスラエル独立の戦争を引き起こす。ハドリアヌスは、待ってましたと言わんばかりにイェルサレムを完全に破壊し、イェルサレムからユダヤ教徒の全面追放を命ずる。これが、ディアスポラ(離散、散在)をもたらした。勿論、紀元前600年頃にもバビロンの捕囚など強制移住はあったが、数百年を経てまたも起こったのである。このディアスポラは、第二次世界大戦後のイスラエル建国まで続いた。しかし、イェルサレム以外に住むユダヤ人(例えばパレスティナ)は対象外だった。この時の戦争で殺されたユダヤ人は50万人以上と言われ、捕虜は全て奴隷となり売買されたが、売れ残った奴隷は現在のガザ地区に送られ再建労働につかされた。

 

  ここまでが、エピクテトスがギリシャで哲学の学校を開いて後半生を過ごした時代の話である。アウグストゥス、ハドリアヌスの様々な事件は、エピクテトスの耳にも入っていたはずである。さらに、ユダヤ教徒の反乱等は、ギリシャの対岸で起こっていた事件である。また、ハドリアヌスとエピクテトスは、かなり懇意な間柄であったと言われている。しかし、エピクテトスの「語録」には、こういったことは何も書かれていない。ひたすら、哲学にふけっていたのである。

 

2026/03/01

この国の精神 自由という幻想 ―自由の歴史(2)―

秋 隆三

 

<いい女だね!>

 

  1979年、資生堂のCMソングに採用された「燃えろいい女」(作詞・作曲 世良公則)という曲をご存じだろうか。世良公則&ツイストが歌い大ヒットした。歌詞の一部は次のとおりである。

https://www.youtube.com/watch?v=XjGl33uaigI

 

・・・・・・

おびえた男心を、さらってふりむきもしない女

・・・・・・

燃えろいい女

・・・・

 

・・・・・・

飛び交ううわさの中を、自由にかけぬけて行く女

・・・

燃えろいい女

・・・・・・

 

  高市総理大臣、片山財務大臣と女性両重要大臣もどうやら落ち着いてきたが、この両女性を見ていると就任前と就任後でこうも違うかというほど変化した。

  まず、目つきである。以前は、両者ともどことなく目が落ち着いていなかった。何か、周りを気遣ってキョロキョロしているという印象であった。このキョロキョロが、最近全く見られない。相手をじっと見る。色っぽいとは言えないが、いい女が慈愛と寛容で見る目つきである。これはすごい。

  高市総理は、細面で目がつり上がっているから、怒ると般若の面相となるが最近の人相からこの形相が消えている。女性が尻をまくったのだ。女性と言う生き物はじつにすごい。自信という言葉では説明できないエネルギーである。

  一方、片山財務大臣も同様である。以前は、まだ女性を引きずっていたが、最近はいい女に変身した。人間のいい女である。

  女性は、ある年齢を超えるといい女に変身する。それに比べると、男は駄目だ。せいぜいくそじじいぐらいがいいところだろう。

  バブル崩壊以後30年以上続いた失敗政策を転換する重要な時期である。両大臣の活躍に期待しよう。

 

<働く自由と働かない制度>

 

  働き方改革なるものが2018年安倍政権下で制定された。「働き方改革関連法」という法律である。原則、最大残業時間の限度を月間45時間とするものである。さらに、企業に社員の有給休暇取得を義務づけるというのもある。また、副業に関する社内規定を緩和するというのもある。これが、我が国産業の労働生産性を高める切り札だとされた。本当か?

 

  土日祭日の休みを取らずに働くと、月間45時間の時間制限等すぐに突破する。GDPの年間成長率がゼロであれば、労働生産性(時間当たりあるいは労働日数当たり)を上げるためには、労働日数を少なくすればよい。しかし、こんなことが本質的な生産性向上になるなどと考える方がどうかしている。おかしいのだ。狂ってる。

 

  さらにおかしいのが、残業時間制限を設ける一方で副業を勧めていることだ。もっと働いて収入を上げたくても、時間制限があるためパートとして他に働きに行くとは、どうなっているのだ。

 

  高市政権では「働く自由」を掲げた。当たり前ではないか。働くということは、ある意味、スキル向上につながるのである。単純に技術だけではなく、経験の深さをとおして直感が鍛えられ、仕事に対する感ともいうべき能力が向上する。優れた実務能力とは、知識や技術よりも形に表せないこの仕事感なのである。この感は、ちょっとやそっとでは身につけることはできない。

  人の何倍も働くこと、つまり経験知を積まなければ獲得できない能力なのである。脳科学で言えば、情動の五感とやる気の鍛錬である。仕事が好きか嫌いかといった単純な情動だけではろくな成果はだせない。好きになるように情動を向かわせることが重要なのである。優秀な経営者や技術者、職人、営業マンとなるためには、損得抜きで身を粉にして働いてこそ可能となる。洋の東西を問わず世界共通であり、科学技術の進歩とは無関係である。仕事が好きか嫌いかではない。仕事に自分を合わせるのだ。それが仕事感である。

  生産性を高めるということは、優れた仕事感を獲得した仕事人を多く育てるということでもある。仕事人の多い企業ほどイノベーションが起こる。遊びほうけている企業からイノベーションは起こらない。

 

  過剰労働を強制、強要するようなことはあってはならない。特に安全性が求められるような職場においては当然であろう。国は、そういった企業・職場については監視・監督するための先端のシステムを開発する必要がある。だからといって現行のような「働かない制度」を作るなどは、もっての他としか言い様がない。企業の労働環境を監視・監督するためのシステム等は、難しくも何ともない。監視のための第三者機関を制度化する(例えば認定弁護士とその報酬補助・企業保険制度など)などは、すぐにでも可能である。

 

  「働く自由」を確保しなければ、イノベーションなどは夢の又夢に終わる。当然、我が国の生産性の向上などは絶対といっていいほど望めないだろう。

 

     亡国の根源は、ここにもあった。

 

<西欧における自由の歴史>

 

  日本における自由の概念は、明治以降、西欧からの近代思想の輸入から始まったと考えても良さそうである。

  先日、あるTV番組で北方謙三がクビライ記の一部について解説していた。クビライは、かのジンギスカンの孫にあたり元寇の時代の皇帝である。元寇の時、クビライは日本人の五島出身の一人の漁夫を捕虜にする。この漁夫にクビライは、「お前の国はどこだ」と尋ねる。漁夫は、「五島というところのある島だ」という。すると、クビライは、剣を抜いて漁夫の首にあてて再度尋ねる。漁夫は、国のことはわからないが故郷が国だと言う。クビライは剣を納めて、「俺もそうだ」と言う。

 

  これは物語であり、北方謙三が言わせているが、恐らく、13世紀頃の世界において「国」という概念は極めて曖昧なものであったと思われる。漁夫にとって国とは、生まれ育った土地であり、せいぜい半径30km以内の一日歩いていける程度の領域であったに違いない。この「故郷」=「国」の中では、この漁夫は「自由」の何たるかを知らなくても生きることに「不自由」はなかった。クビライの故郷は、モンゴル平原であるから馬で行き来する。となると日本とは比べものにならない広さとなるが。

 

  さて、ヨーロッパにおける自由概念の形成とはどのようなものだったのだろうか。英語で自由は、Liberty、Freedomというが、語源がそれぞれ異なるようである。

 

<自由の語源>

 

  語源を調べる上で、古代ギリシャと哲学に触れてみる必要があるが、実は、古代ギリシャ語にはこの二つの英語に該当する言葉はない。

 

  紀元前500年頃の古代ギリシャでは、eleutheríaが自由の概念を指しているそうである。現代ギリシャ語ではエレフテリアと言う。政治的な自由や奴隷からの解放といった概念を意味している。一説では、古代ゲルマン語に由来するのではないかとも言われているが定かではない。古代ゲルマンは、紀元前1000年頃から始まるので、どこかで混じり合ったかもしれない。いずれにしても、上述の二つの英語とはちょっと別物と考えた方が良さそうである。

 

  ラテン語ではlibertas(リーベルタース)と言うそうである。これが英語のLibertyの語源となっている。ラテン人は、共和制ローマ人であるから紀元前500年頃から始まる。自由や解放を意味している。

  

  それでは、Freedomはどうかというとゲルマン祖語のfrijazに由来し、「愛されている、親愛な」といった意味であり、「愛されている人」=「家族、一族の一員」=「奴隷ではない自由な人」というように変化したものと考えられるそうである。英語のFriendなどもこの単語を起源としているそうだ。Friday(金曜日)は、北欧神話の愛の女神に由来し、このゲルマン祖語から派生したと言われている。

 

  このように語源をみると、古代ギリシャ、古代ローマでは、奴隷からの解放というLibertyが自由の概念であり、政治的な意味合いで用いられていたと考えた方が良さそうである。

  

  一方、古代ゲルマンにおけるFreedom(自由)の概念は、「一族の一員」つまり仲間という意味あいが強くなる。仲間として認められたことにより得られる自由である。仲間以外の場合には、様々な制約を受けることになるが、どんな制約があるかはその一族によって異なるので、その違いが制約となる場合もあり、仲間うちで認められる個人的な自由も含まれる。例えば、一人にしてくれ等の主張も仲間うちでは許されるが、仲間以外では許されないとか、言いたいことを言えるのは仲間うちだけとかである。

 

  Libertyが、奴隷からの解放という社会的政治的意味合いであるのに対して、Freedomは、個人の自由という概念の意味合いが強くなる。つまり、自由の概念によって単語の使用方法が異なることになる。

 

<自由という概念の形成>

 

  話は横道にそれるが、今から20年以上前に公開された『キャスト・アウェイ』(Cast Away)という映画をご存じだろうか。トム・ハンクス演じる主人公が飛行機事故に遭い、太平洋の無人島に漂着し、4年間無人島で生き抜くという映画だ。大半をトム・ハンクスだけが登場するのだから、まあこれ以上低コストな映画はないとも言える。それは、さておき、主人公は無人島で一人で生きていくのだから、全ての制約から解き放たれ、自由そのものであるが、孤独という制約は、逆に死ぬほどの苦しみとなってしまう。人間とは実に面倒な生き物である。自由が欲しいと望むかと思えば、自由はなくとも仲間が欲しいと願う。

 

   自由という概念は、社会の進歩、複雑さの度合いと深く関わっているようである。

 

  ギリシャ文明に始まる西欧文明と、黄河・長江文明に始まるアジア文明とでは、この自由に関する概念形成に大きな違いがありそうである。

 

  ギリシャ文明における自由の概念とはどういうものであったか。一般的には、「奴隷からの解放」という意味であると言われている。西欧における奴隷制度は、19世紀に廃止されるまで何の疑問もなく続けられてきた。勿論、ギリシャ時代においても奴隷制度であったし、かのソクラテスもアリストテレスも何の疑いもなくこの奴隷制度を受け入れている。

 

  プラトンの著作である「ソクラテスの弁明」、「国家」についてGeminiでは、ソクラテス→プラトンと継承されるギリシャ哲学においては、奴隷からの解放という政治的な意味と、精神的自由、個人の内面の自由という概念との二つの概念があるという。一般的な解説では、「無知の知」(知らないということを知っている)という認識こそが精神の自由だとされている。これはAIの解釈のしすぎであり、とんでもない解釈である。。

  自由という言葉は、「ソクラテスの弁明」において1カ所だけ「この世の自称審判官たちから自由となり」という部分を除いてでてこないのである。

 

  つまり、「無知」や「欲望」に捕らわれている限り真の自由はないということを直接的に表現している箇所はどこにもないのである。知らないことを知っていることこそが知の探求の重要性であるという。その通りだが、これが精神の自由と結びつく論理性はどこにもない。ましてソクラテスは、知識についてのみ語っている。これは、孔子が言う知不知とは異なる。ソクラテスは新しい知識、インテリジェンスを言っているが、孔子の思想は学習思想である。思考を重ねることを意味し、無意識下における感得である。情動により起動された記憶のマッピングが作り出す知的創造である。

 

  古典と言われる文献を後世の学者が都合良く意訳し、持論展開の道具として使っている例は山ほどある。Geminiが、検索の過程で「ソクラテスの弁明」の解説・評論文を拾い読みし、自由概念の意訳として採用した可能性が高い。

 

  ソクラテスは、裁判からの解放、つまり、何らかの制約からの解放を自由とし、個人の精神的自由あるいは人の内面性については自由とは言っていない。

  どうもこの時代のギリシャにおいても自由という言葉は、「解放」という概念だけであったと思われる。つまり、大衆は、「奴隷からの解放」が自由であったのである。

 

  アリストテレスの「ニコマコス倫理学」においても「自由」という言葉は出てこない。エレウテリアという古代ギリシャ語における自由という言葉は、奴隷からの解放や政治的解放という意味以外にはなかったのである。

 

  生成型AI(Gemini)、あるいはLLM等の最新のAIは、こういった言葉の抽象性と言葉の意味する適格性が欠如しており、近代人文系学問の最悪の手法を踏襲したままである。

 

       AIの回答をそのまま信用することは極めて危険だ。

 

  さて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが苦しんだ時代は、紀元前400年頃のことであるが、この時代からくだること400年を経てエピクテトスが現れる。もはや古代ギリシャとは言えず、時代は帝政ローマ時代を迎えている。この時代のローマの言語は、ラテン語である。エピクテトス(ギリシャ人)は、奴隷としてローマに売られ、解放奴隷となってローマで哲学を学んだ。

 

  古代ラテン語における自由とは、前述のようにlibertas(リーベルタース)であり、主に奴隷からの解放を意味していたが、共和制ローマの末期には、古代ゲルマンにおけるFreedom(自由)の概念、「一族の一員」つまり仲間という概念が加わったと考えられる。

 

  エピクテトスは自分自身奴隷であったこともあり、奴隷としての服従に対して内面の自由について考えた。エピクテトスは、当時はやっていたストア派哲学を学んだとされている。ストア派哲学を説明することは、これも難しいが、現代でもストイックな生き方という意味で使われる。あいつはストイックな奴だ等々。どちらかというと、冷徹なという意味に使われる。元来は禁欲的で感情に流されず理性的な様ということであるが、現代脳科学で言えば、情動を理性でコントロールするなどは到底不可能であるが。

 

  エピクテトスも語録としか残っていないが、「人生談義」(「語録」・「要録」(弟子のアッリアノスが書き残した))の中では、「精神の自由」・「自由意志」が論じられる。つまり、奴隷などの社会的地位や富などの自分の力を超えた運命、外的な力に対してどのように「精神の自由」を得れば良いのかという問題である。

 

  エピクテトスは、「自分のものでないものを何一つ求めない」ことを精神の自由とした。自分のものとは、欲求、快不快等々であり、ダマシオが解説した脳科学における情動そのものである。エピクテトスが主張する意志の強さによる無制限の自由の帰結は自殺に至る。

  エピクテトスの思想、この後に現れるマルクス・アウレリウスについて、次回以後に考えるとしよう。しかし、面白いのエピクテトスが考えた「意志」の概念なるものは、エピクテトス以前のギリシャ哲学においては存在しないのである。考えたこともなかったのだ。一説によれば、キリスト教初期に、キリスト教の中で発見されたとある。キリスト教とストア派哲学とは密接に関連している。キリストは、ストア派の哲学者ではなかったのかという説もあるが。

 

  マルクス・アウレリウスの自省録まで、紀元1世紀~2世紀において自由及び自由意志という概念がようやく形成され始めた。この後は、キリスト教において哲学教育としてこれらの論究が行われ、アウグスティヌスらがギリシャ哲学を掘り起こす。近世にいたる1千数百年にわたりヨーロッパは、キリスト教哲学に翻弄されることなる。この間、絶対的神によって人に与えられた「自由意志」に関する論争が続き、スピノザによって終止符が打たれることになる。

  

  宗教というものは、人間社会において必要不可欠なものであるが、何とも悩ましい存在であることは間違いない。現代脳科学は、情動、感情、意志、意識の科学的解明によって、如何に人間が気の遠くなる年月をかけて不毛の議論をしてきたかを見せつけてくれる。

 

  次回からは、精神の自由とは何か、自由意志、意志とは何かにせまってみよう。

 

2025/11/17

この国の精神 自由という幻想 ―自由の歴史(1)―

秋 隆三

 

<高市総理誕生なるか?>

 

  自民党総裁選挙で高市氏が総裁に選出された。巷間、私の周りでも高市氏を推す声しかなかった。自民党議員内の勢力圏というのは一体全体何を基に形成されているか。権力掌握のための派閥構造である。派閥が解消されたとしてもすぐに再編される。派閥、グループ、集団は人間のあらゆる社会的行動において不可欠なのだ。集めた人数の多寡こそが権力構造において重要なのである。これを民主主義という。暴力で決定しても、投票で決定すると同じ結果となる。人数の多い方が勝つに決まっているからだ。人数の多寡は暴力の抑止力となり、投票という形式手順で納得するだけである。

  重要なのは、国民の意向がどれだけ反映されたかにある。しかし、国民の意向というものに価値基準ともいうべき思想の一端があるかについて問わなければならない。オルテガは、大衆の思想なるものは、あるように見えて装飾だらけの言葉にすぎないと言った。今回の総裁選挙において、高市氏を支持する国民にもある程度の思想らしきものが見え隠れしている可能性はあるが確固たるものではない。オルテガが言う真理に王手をかける思想ではなく、言葉で飾られた国民感情の変化である。

 

  インバウンド人口が4千万人に達し、観光地のどこもここも外人であふれ、中国人が我が物顔で闊歩し、中国製の太陽光パネルが都市部の屋根から山までも覆いつくし、都市部のマンションから北海道の土地までも買い占める。否が応でも、ナショナリズムが掻き立てられる。

  失われた30年は、政策の失敗だった。国民はそれに気づいていなかった。「バブルがはじけたのだからしょうがない」と諦めたのだ。

  こういった変化は、日本だけではない。米国ではトランプが気付いた。次いで、ヨーロッパの各国でも気付き始めた。イギリスのブレグジット等は、その端緒である。

  これらを単純にナショナリズムだ、右傾化だ、極右だ、保守だ、と言って片付けることは出来ない。国家とは何かから問い直さなければならないからだ。

 

  高市自民党が維新と連携するらしい。これで高市総理大臣が誕生することになる。維新は元々大阪が舞台であり、かの堺屋太一が応援した。日本も、欧米先進国のように、政府都市と経済都市との分離が必要な時代に入った。戦後、我が国では、かの通産省が東京一極集中を旗印に、大阪に本社のある企業を東京に移転させる強権政策を実施した。経済成長優先時代には、護送船団の効率化が最も重要であったからである。しかし、バブル経済後のデフレ経済は、この一極集中が仇となった。経済低迷の影響が極端に現れるのである。経済だけではなく、国民の人心そのものが一気に萎縮した。

  副首都構想を実現するためには、大阪の経済基盤そのものを見直されなければならない。自立しうる大阪経済圏構想である。まず、副都心としてのインフラの見直し。単なる交通網だけではない。住宅、産業等を含めた都市構想とそのための公共投資である。国土交通省の役割は極めて重要である。かつて、若い頃、大阪南港の埋め立て地や、六甲の陸上埋め立て地を見たが、東京圏に比べて、廃棄物処理の許容量は極めて少ない。つまり、人口密度が高い割には平地が少ないのである。人口減少を見据えた都市構想・計画が求められる。まさに、新たなる公共事業の枠組みを作る上で好機到来ではないか。公共投資なき資本主義、自由主義的民主主義はあり得ないのである。

 

  維新は、自民党に企業団体からの献金規制を求めている。自民党は、戦後、山間僻地までも支持基盤を広げ、山村の個人商店から零細企業の浄財を集めた地方組織を築き、ボトムアップ政党としての確かな地盤を構築してきた。田中角栄などはその代表的総理大臣である。しかしだ、今や、若手の二世、三世議員となるとこうした地盤さえ維持することができない状況にある。さらに、高齢化と人口減少は末端組織の弱体化を招いている。地方組織の再編と浄財寄付の方法を再構築し、地方地盤を改革する絶好の機会到来である。高市政権は、発想を転換し、新たな政治システムを構築する願ってもないチャンスを手に入れた。金はかかるがそこは何とかしろ。

 

  それにしても、国民民主党なるもののうかれぶりは、政治ドラマの脇役を見ているようである。物事の判断の価値基準とは、千変万化する世間の考え方から最も優れた常識(Well balance)を見つけ出すことである。頭がいいからこれを発見できる訳ではない。並優れた感性(情動)を持ち、経験によって磨かれた感性(感情)を有すること、哲学的思考力が優れていることの二つの能力が必要である。官僚制が優れていたのは、勿論、頭がいいことではあったが、前者の情動・感情が優れていたことが挙げられる。しかし、これもバブル経済崩壊とともに崩壊していった。日本だけではない世界がそうであった。論理的思考、知性で世界は動かせないのである。

 

<自由とは何かという問>

 

  いよいよ難しい課題に挑戦してみよう。現代社会において、我々は、自由とは何かを問うようなことはほとんどない。自由について十分知っていると錯覚しているのではないか。

  「近代以前の政治は徳を基本とし、近代以後は自由を基本とした」とかつて誰かが言った。何となく納得のいく言葉だが、ちょっと考えて見るとおかしな表現である。徳による統治あるいは政治とは、慣習法を尊重し、統治者側に相応の裁量権があることを意味する。自由を基本とする政治は社会契約論であるが、これとても自由を制約する条件を全て列挙するなどは到底不可能である。

 

  自由を定義することはこの例だけでも如何に難しいかが想像される。ルソーのように、少し頭のいかれた奴が徹底的に考えてもたどり着くのは容易ではない。私のような凡人で頭の弱い人間では、とても無理とは思うがそれでも一度は真剣に考えてみる価値はある。

 

  このブログの「堕落論2017 選挙で何が変わるか(2017年10月)」において取り上げているように、日本国憲法では、国民の権利として個人の自由権を次のように挙げている。

第19条 思想及び良心の自由

第20条 信教の自由

第21条 表現の自由

第22条 居住・移転・職業選択の自由

第23条 学問の自由

 

  これらの自由権以外の個人の自由については何らかの制約があり、かつ、公序良俗、社会常識の解釈によっては上記の自由にも制約が加わる可能性は高い。つまり、かなりいい加減であり、伝統・慣習によるところが多いということでもある。

 

  しかし、自由なるものが社会において如何に重要な概念であるかを大衆が認識したのは、それほど昔のことではない。せいぜい200年~300年程度昔のことだと思われる。

 

<日本における自由とは>

 

  人が長い歴史の中で自由という概念をどのように獲得してきたかは、ほとんどわかっていない。我々が接するのは、僅かに、ルネサンス以後、あるいは17世紀に始まるヨーロッパの近代哲学、政治哲学においてである。

 

  そもそも、日本においては近代まで、自由という言葉さえ使用されることは希であったと思われる。まず、日本における自由の歴史をみてみよう。

 

  奈良時代の続日本紀(宝亀8年(777年)9月丙寅の条)にみられるそうである。それにしてもAIの進化スピードはすごいものである。

 

  以前にも解説したように、ディープラーニングという手法は、いたって単純な最適化のお化けであるが、問題は、教師データをどのように揃え評価するかという人的作業の膨大さにある。この人的作業にどうやら莫大な資金が投入されているようだ。とても、日本企業ではかなわない。

 

  これからの課題の展開にGoogle GeminiというAIを活用してみることにした。

 

  この続日本紀に現れる自由とは、称徳天皇の時代に権力を振るった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、帝の意思を無視して「専政得志、升降自由(専ら政を得て志を為し、升降すること自由なり)」と評された記述のことである。升降とは上がったり下がったりということで、家臣の昇格降格を勝手気ままに行うとい意味である。

  中国語での自由とは勝手気ままを意味しているので、中国語の意味と同じである。中国は既に唐代になっており、仏教思想が輸入されていてもおかしくないが、続日本紀では少なくとも自由という概念については影響を受けていない。勝手気ままなことである。

 

  それでは、仏教思想の自由とは何かということになる。仏教思想で言う自由とは、「去住自由」(こじゅうじゆう)のことを指すらしい。この言葉は、臨済宗の「臨済録」という文献に登場する。臨済録が編集されたのが9世紀後半ということだが、現存しているのは12世紀前半のものであり、所謂宋五禅の時代にあたる。生も死も、つまりあの世へ行くもこの世に留まるも自由自在という悟りの境地である。ものに捕らわれない心の解放こそが自由ということなのだ。

 

  仏教思想というのは、釈迦に始まる古代仏教以来、数々の経典を元に中国唐代から宋代にかけて完成された。こういった悟りの思想の完成も宋五禅によるものと言えよう。

 

  Geminiは、「華厳経」を取り上げているが、この経典にも自由という言葉は出てこない。つまり、仏教でいう自由の概念は、「去住自由」であるとし、この概念に相当する経典を探索した結果、「華厳経」にたどりついた。

 

  中国思想には、これまでも度々取り上げた孔孟思想、老荘思想がある。論語の中に自由という言葉は現れない。老子、孟子、荘氏にしても同様である。これをGemini では次のように答えている。論語の中に、自由という言葉はないが、自由の概念はあるというのである。それが、「為政(いせい)第二」の第四章に登場する有名な、「三十にして立つ。四十にして惑わず・・・」である。この文章の「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」が論語の言う自由の概念だとGeminiは答えている。本当か? 70歳になったら、人としての道を外れていなければ心のままに生きるとでも訳せる

  これを自由の概念とするのには、いささか問題がある。確かに心の欲するままに振る舞うことも自由と言えなくはないが、個人の思い通りに行動するとなると人の道を外れていなくともかなり奇異な行動もありうる。

 

  Geminiは、探索したデータを元に自由という概念はこういうものだということを学習しているようである。つまりものごとに捕らわれない、心が解放された状態のことである。AIが何を教師としてこの自由という概念を形成したかは定かではないが、参考までに広辞苑を見ると次のように説明している。第一は、「後漢書」から引用して心のまま、勝手気ままとしている。どうもこれがGeminiの第一の教科書であり強く影響を受けている。第二は、「責任をもって何かをすることに障害がないこと」である。種々の条件の基に成立する自由ということである。この第二の自由の概念は、近代以後に現れた概念なので、近代(あるいは近世)以前の自由の概念をGeminiに問うと、基本的には勝手気まま、心の解放という概念でひとくくりにされてしまう。果たしてそうであるのかについては疑問が残るが。

 

  さて、この続日本紀以後、自由という言葉が登場するのは、鎌倉時代の二条落書である。

 

  二条落書の中でも、「建武年間記」(建武記)に収録されている「自由出家」「自由狼藉」という言葉である。この「建武年間記」は、後醍醐天皇による建武の新政(1333-1336年)の政策や当時の混乱した世相を鋭く批判・風刺したものである。この意味も勝手気ままである。心の解放などという高邁な意味ではない。

 

  この後、江戸時代にも貝原益軒の「養生訓」に現れると言うが、これは意味が違う。手足を自由に動かすという程度のものだ。中国語の自由とは、その字のとおり自らに由るのであり、勝手気ままなことである。

 

  自由が、現代でいう個人が種々の社会的制約から解放されること、あるいは自由権の一部を社会に委ねるという意味で用いられるようになるのは、明治に入ってからである。

  一説には福沢諭吉が西洋のliberty やfreedom の概念と重ね合わせ、近代的な「権利としての自由」を表現する訳語としたと言われているが、これも確かなことはわからない。「社会契約論」を最初に翻訳した中江兆民(民約訳解)が広めたという言説もある。

 

  いずれにしても自由という概念は、明治維新からわずか20年たらずの間に、政治運動、民権運動、女性解放、労働運動として我が国の社会運動の旗頭となり、現代につながるのである。

 

  日本における「自由」の概念の歴史を、大雑把にみてきたが、大雑把も何も、明治以前には、現代でいう自由という概念は存在しなかったのである。明治以前の人間にとって自由という概念は不要な概念だった。何とも幸せな国民である。それが、西洋思想が流入され、所謂、近代化とともに自由という概念が日本国民の生において最も重要な概念となった。何故か?

 

  次回は、西洋における「自由」の歴史を探ってみよう。この解答が潜んでいそうだが、相当に面倒臭いことになりそうだ。

 

                                2025/10/17

この国の精神   現代日本の世相

秋 隆三

 

  最近何となく世の中の様相が少し変わり始めたのではないかと感じる。感じるということは、何が変わったかを具体的に説明することは、困難だということである。報道番組の浅薄さ、ネットニュースの偏り、何も決められない政治、過激化するドラマ(日本ドラマはほとんどないが!)、殺人事件の多発、米価の高騰、参議院選挙結果にみる右派保守党の圧勝等々、若い人達の感情が変化しているのではないかと。

 

<参議院選挙と政治思想>

 

  参議院選挙が終わった。誰もが予想したとおり、自民党が大敗した。本当に自民党が大敗したのか。それとも、石破政権に対する国民の評価であったのか。石破総理の続投に関する世論調査の結果は、続投容認が多いそうである。国民は何を考えているのか? そうだ、社会は理性では動いていないのであった。感情で動いているのだ。

  「自民党」と聞くと、社会は「悪い奴」、「いい加減な奴」、「信用できない」、「ズレている」等々、今やかなり「悪い」印象である。石破総理の面相、態度、発言等、国民に与える印象が自民党の印象と重なるのである。

 

  論語に「行蔵」(こうぞう)という言葉がある。かつて安岡正篤のところでも説明した。「ゆくもかくるも」と言う。安岡正篤は、幕末の武士「高橋泥舟」を挙げて組織における出処進退の潔さを言った。高橋泥舟は、勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれる。山岡鉄舟は、義弟にあたる。実直、剛健で槍術の名人であった。

 

  選挙で負けたからといって総理総裁を辞めることが、我が国にとって有益なのかどうかは、全くわからないが、言えることは一つである。我が国では誰が総理になっても何も変わらないということである。米国の大統領のようにトランプが大統領になってから大量の役人の首が飛び、関税率が跳ね上がり、不法移民が激減する等、目に見える社会変化は、この国では起こらない。

 

  なぜ、自由主義的民主主義国家である日本で、目に見えるような社会変動が起こらないのだろうか。この問は極めて難しいが、解答は今しばらく後において、現代世相を少しみることにしよう。

 

  選挙後、何故自民党が大敗したのかについて、評論家なるものがいろいろなことを言っているが、ほぼ共通に見られる見解は以下のようなものである。

 

「保守主義的野党勢力が伸び、自民党の保守勢力の票を奪った結果である」

「自民党が余りにもリベラルになった結果である」(リベラル野党の立憲民主党が伸びなかった)

「欧米に見られる右派政党の勢力拡大と同様の現象が日本でも起きている」

 

  保守主義とリベラリズムとの対立図式として解説している。保守主義といい、リベラリズムといい、政治思想を単純に定義することは極めて困難である。「思考停止社会」で書いたように、人の感情は全て異なり、生きていくことのほとんどが感情によって左右される社会にあって、理性的な統治社会なるものは幻想にすぎないのである。それでも、保守的考え方、リベラルな考え方といった大まかな概念でくくることは可能だ。しかし、こういった抽象的概念で共感しうるほど、現代社会は単純ではない。米国共和党内の大統領支持勢力、伝統的保守勢力、福音派と呼ばれる宗教勢力等々を見れば、これだけでも現代社会における政治思想の複雑さは推測可能である。

 

  しかし、これだけは言えそうである。バブル経済以後(あえてバブル経済時代も含めた)、若者の思考は変化した。思考が変化したのではなく感情が変化したのである。自己中心的、ニヒリスティック、ヒステリック、無関心へと。人間は、自動情動装置の働きで過去の記憶(錯覚あるいは捏造された記憶)をマッピング(連結)することで感情が形成される。バブル崩壊という社会現象の記憶は、当時の若者達の記憶の中に様々な形態で捏造され記憶された。これが、今、50代の人たちの若い頃のことである。1990年代後半には、立花隆が若者の「知」(教養)の欠如を嘆き、2010年代には堺屋太一が、「欲ない、夢ない、やる気ない」の「3Yない社会」を唱える。「欲」、「夢」、「やる気」のいずれも感情の問題である。人間が本来、自動的に起動される「欲望」、「希望」、「好奇心」といった情動が、過去の記憶や捏造された記憶によって矮小化されたのである。バブル経済崩壊後の政治・政策の失敗である。このとき政治・政策は、「コストダウン」、「ワークシェアリング」、「社会による救済」、「緊縮財政」へと大きく転換した。全て失敗である。次世代を担う人材に対して勇気をもって立ち向かう社会の構築に対する投資を一切しなかった。第二次世界大戦へと落ちていく時代と同じことをしていたのである。つまり、間違った目先のことにしか関心を示さなかったのは、若者だけではなく、政治・政策がそうだった。政治の責任は重い。

  今、経済がインフレ方向へと向かい始め、金利のある経済へと動きはじめたが、日本人の精神も少しは変化し始めた。金利がかかる社会とは何かと言えば、それはほったらかしておくと全てのもの、全ての形が劣化するということである。劣化した形は、精神を劣化させる。

 

<関税問題>

 

  トランプ大統領の関税ディールは、日本が15%で決着といったところだろう。ロシア産ガスの輸入を止めなければならないが。

  米国が関税を問題にしたのは、単純明快である。米国の財政バランスをとるためには、歳入を増やさなければならない。かつて、といっても今から50年ほど昔の話であるが、関税があるのは当たり前であった。それが、1970年代後半から経済のグローバル化によりGATT(WTOの前身)を中心に、関税撤廃・自由貿易が進められた。ところで、現在、WTOは何をしているのだ。米国がこれだけ勝手に相互関税の名目で関税をかけているのに、WTOはダンマリである。国際機関などというものは、国連も含めていざとなれば何の役にも立たない。中国のレアアース貿易等はその典型的な例である。

  今や、大国が自国の都合・利益だけで輸出入に規制をかける。勿論、痛みを伴うのは覚悟の上のことだろうが。米国がこれだけ関税を振り回すのは、今が好機と考えていることもあるだろう。ロシアの石油輸出規制はウクライナ戦争で、イランの石油はガザ紛争で押さえ込まれ、短期的な回復はない。中国は、不良債権問題で長期的経済低迷は避けられない。インド経済は、根の深い社会問題を抱えており中国の経済成長のような単純成長過程とはなり得ない。とすれば、米国が世界経済の中で再浮上する絶好のチャンス到来である。それにしても、金がない。そうだ関税だ。シナリオが単純明快であればあるほど将来の成功確率は高い。あとは、それを実行する勇気と失敗を恐れない行動力である。トランプが最適な人物であることは間違いない。これは、リベラルでも保守でもなく、まして民主党や共和党なる政治的イデオロギーでもない。

この2~3年以内に、米国へ数千兆円の投資が実現すれば米国は世界経済の中で圧倒的に強くなる。このことは、米国の金利を下げなければドル高はさらに進むことを意味している。米国への投資が本格化すれば、米国の株価は上がる。物価も上がるが、賃金も上がる。注意すべきは、これ以上ドル高にならないための金利政策・減税策と、移民人口の適切なコントロールの2点である。

 

  さて、我が国の経済はどうなるかだが、何度も言うように、円安によるインフレ、輸出企業(自動車など)の為替差益のぼろ儲けが続く限り問題はない。ただし、国内投資はやや減速する。やや原則とは、米国への投資額が増える分だけ減速という意味だ。ところで、自動車産業の輸出が減少し、純益が減少するから問題だと言うが、値上げをすれば良いだけなので、後はうまくやるだけだ。

  輸出産業の為替水準は、1ドル130円程度としているらしいが、現在は148円なので10%丸儲けとなっている。15%の関税がかかれば、5%値上げして計画通りということだ。ところで、この130円も問題で、2019年の年平均為替レートは、1ドル110円だから、2019年ベースでみれば30%丸儲けの勘定になるのではないか。輸出企業が設定している基準為替レートの130円は余りにも盛り過ぎの感がある。勿論、石油、原材料、半導体等の部品を輸入していればこの分の影響を考慮しなくてはならないが、コストなので、2019年ベースでみれば現在でも15%は為替で儲けている。ということは、15%の関税であればほとんど影響はなく、むしろ値上げ戦略がうまくいけば儲けはまた増えることになる。さらに、米国への投資を行った企業に、個別に関税免除を米国が行えば利益はさらに拡大する。

  いずれにしても、報道や評論家なる者が言うような単純な話ではない。良いことは言わず、こういった変動があると危機になるとやたら騒ぐのが金融界・経済界である。

  政界も実にだらしがない。何とかいう担当大臣は、米国へ日参である。トランプを持ち上げて、関税政策は大いに結構、日本は米国経済が強くなることを大いに歓迎するとかなんとか言って、米国への投資をどんどんぶち上げるぐらいの頭を使ったらどうなんだ。いくらでも投資案件はある。米国への投資と同時に、米国と協力して国内強化投資を図るといった戦略ぐらいできそうなものだが、何もない。ひたすら、関税率の引き下げをお願いするだけである。こんなことは誰にだってできる。ただ、頭をさげれば良い。WTOが何も言えない今がチャンスではないか。

  政治家、官僚、経済人、学者等々、リーダーたる少数の人間(大衆以外)の思考力が完璧なまでに低下したのである。グローバル化とは無関係である。見たくない問題を見る精神、問題の本質を究明する精神の欠如である。つまり、問題を統合的に捉えるという思考の欠如である。大衆は、こういった少数の者達の思考力が低下していることに気づき始めた。自民党のボロ負けは、リベラル・保守といった思想的問題ではない。哲学的思考力の問題である。

 

<世界の映画・ドラマの残虐性>

 

  ネットで配信される映画、ドラマの残虐性はますますエスカレートしている。デンゼル・ワシントンのイコライザーという映画がヒットした。最近、イコライザー4がリリースされたらしい。世の中の悪に対して鉄槌を下すというストーリーは単純なものであるが、実に痛快である。しかし、シリーズを重ねるにつれて殺人の仕方が変化する。単純に銃で殺すのではなく、ナイフ、薬物等、目には目を、歯には歯をと殺人の形態が変化する。

  お隣の韓国の映画もものすごい。片っ端から殺す。それも超能力の女の子が登場し、いとも簡単に殺すのである。

  考えて見れば、日本のチャンバラ映画もすごかった。36人斬りなどは序の口で、斬って斬って斬りまくる。

  人間の感情、直感に何かを訴えかける上で、この「人を殺す」という材料ほどいい材料はない。悪い奴はぶっ殺して一件落着というのがウケる。現実社会では起こりえないことが動画の中で展開される。VR(バーチャルリアリティ)だ。

  昔の日本のチャンバラや西部劇等の勧善懲悪ものであれば、見る側も納得して見るが、現代映画では、殺しが実にリアルだ。そりゃそうだ。腹に一発食らったぐらいでは、そう簡単には死なない。

  こんな映画が、それこそ山と作られている。精神病者が、これを毎日見たとすれば動画と現実の区別がつかなくなるのもうなずける。最近、無差別殺人が米国だけではなく、世界的に発生しているが、何らかの関連性があるのではないかと思うのだが。

  米国の人口は戦後3倍に増加し、日本も1.5倍、さらに近年の外国人労働者が230万人まで増加。ヨーロッパも移民が増加している。潜在的精神異常者も人口増加に比例して増加していることは間違いない。これは、ひょっとするとテロどころの話ではないかもしれない。

  我が国に精神病者が何人いるかを調べてみたがよくわからないようだ。昭和29年の実態調査では130万人となっている。ベット数を8万ベットに増やす政策目標なども見られるが、現在は3万ベット以下らしい。医薬・治療法の進歩で寛解率が向上したのだろうか。本当なのか。精神病者の人権を守るという制度が生み出した社会現象である。精神異常者ではないかと思えるような人間が多くなったと感じるのだが、誰も問題だとは考えていないようだ。町内を見回せば、一人や二人は必ずいる。家にこもって、ひたすら危険な動画を見て幻想を抱くとなると、背筋が寒くなるが、こういう社会をどうすればいいのだ。そう言う私自身も少し異常かもしれないが。

 

<善い社会と悪い社会>

 

  最近、半年ぶりに小学校6年生になる孫娘と社会について話をした。孫娘曰く。「おじいちゃん、良い社会とか悪い社会とかは決められないんだよね」。その通りである。社会の善し悪しをどのような基準で決めるかは、その社会の価値判断、つまり統治思想(政治思想)で決まる。

  しかし、社会を構成する基本単位は個人である。個人の思考と行動が社会規範を形成する。社会学、政治学の基本問題なのだ。18世紀以後、西欧ではミル、ロック、ルソー等々、様々に論じられた。2300年前には、アリストテレスが「善きこと」を究明し「ニコマコス倫理学」を著した。仏教、キリスト教、ユダヤ教と言った宗教も善き生き方を求めて古代宗教から近代宗教へと変化した。しかし、その基本はほぼ同じである。殺すな、盗むな、だますなである。

  それにしても、何故戦争を起こし、大量の殺人を繰り返すのだ。これは、明らかに悪である。戦争で攻められたら黙って殺されるのが善なのか。ガンジーの無抵抗主義、キリスト教の殉教等々。

  我が国は、憲法9条により戦争を放棄した。放棄するとは攻められたら何もせずみんな死ぬということだ。まあ、世界でこういう国もあっていいかもしれないが。国民の全てが納得しているのだろうか。勿論、自衛権の行使は正しいとして、軍隊を装備しているが、とても中国には勝てそうにないから、いずれ殺される。それでも抵抗して相手に相応の傷を負わせることは出来るかもしれないが、せいぜいその程度のものである。

  現代社会、恐らく1980年代以後、世界の社会思想は大きく変化した。拡大成長する経済、人口増加と統治システムの劣化が、人が生きていくための基本的考え方に変化をもたらしたのである。それが、現在の50代以下の人々の感情と思考を変えたのである。孫娘の話ではないが、人が社会を形成するために、文化、宗教を超えてなくてはならない基本的考え方がある。殺すな、盗むな、だますな、人様に迷惑をかけるな、我が儘を言うな等々の「何々するな」の基本である。「何々するな」は、さらに社会の拡大や地域文化によってブレークダウンされる。しかし、この基本的な「何々するな」という考え方は、それ自体、深く考察し、論考しなくてはならない。そう、哲学をするのだ。これを子供の頃から、出来れば3歳、4歳から始め、思春期までに何度も繰り返し考える。年齢に応じて事例とすべき社会問題を変えていくのである。確かに、世の中の問題について何が善で何が悪であるかを決めることは難しいが、どうすれば決めることができるかは、思考力の問題なのである。

 

 

  現代人(主に50歳代以前の人々)の精神が少し変化しているのは、グローバル社会、脱炭素、ウクライナ戦争、イスラエル紛争が生活実態に影響し始め、考えざるを得ない状況を生み出しつつあるとも言えるのではないだろうか。

 

2025/08/14

この国の精神  思考停止社会 ―エピローグ―

秋 隆三

 

<米問題はどうなる>

 

  米価が高止まりして安くならない。農相が更迭(事実上)となり、小泉が新しい農相となった。前農相の江藤と言う奴はひどかったが、小泉もひどい。さらにその親分が石破ときたもんだ。日本の政治家の劣化は、世界の先進国の中でも群を抜いている。二世議員が、ろくな人生経験も知的訓練もせずに親の七光りで国会議員になると、こういう事態を招くという典型的な事例である。思考するとは何かという経験知がなく、かつ民主主義の基本である集合知に対する観念(イデア)を危機的状況の中で感知する能力(感情)が完璧に欠如している。

 

  江戸時代の話になるが、一人が1年で消費する米の量は、ほぼ一石(10斗=2俵2斗=150kg)であった。貨幣1両は、この一石が単位となる。銀で言えば60匁である。米の価格の安定化には、江戸幕府は相当苦労したようだ。何せ、米相場は、江戸から遠く離れた上方の堂島市場で決まるからである。市場経済には、江戸幕府の権力もなかなか及ばない。米価格が安くなると、幕藩体制の財政が逼迫する。米価格が安くなるということ自体不思議な現象と言えるが。徳川幕藩体制は、新田開発に地道あげた。その結果、安定した気候(江戸時代は小氷期にあたるが安定した温暖期もあった)では、豊作になり米余り状態になる。これが、米価が安くなった原因である。一石、銀30匁ぐらいまで下がったというから半額ぐらいまで下がったことになる。庶民にとっては大いに結構であるが、幕府諸藩の財政は逼迫することになる。税金は米で現物納入だから、貨幣経済の恩恵をあまり受けていない自給自足的農民には、米価の変動は余り影響ないが、武士は米を換金しなくてはならないので大変なことになる。

一方、不作が続くとたちどころに米価は高騰する。これが、江戸の打ちこわしである。打ちこわしが発生すると、体制そのものが崩壊しかねない。江戸幕府は、備蓄米を直ちに放出して人心の安定を図った。

 

  今回の米価の高騰と備蓄米の放出と似ているではないか。主食の価格安定は、洋の東西を問わず人心安定(大衆の安心感)にとって最も重要な施策なのである。ちなみに、1両の現代価値であるが、いろいろあるが、およそ12万円程度であろう。つまり、一人1ヶ月の米代は、江戸時代の相場で約1万円である。これは、一人1ヶ月12.5kg消費する勘定となり、1kg当たり800円となる。今、米の価格は1kgあたりほぼ千円だから、江戸時代では打ちこわしの要因となる価格である。現代では、一人1ヶ月12.5kgも消費することはなく、半分程度の6kgぐらいだろうが。それにしても、江戸時代の米の価格は高かった。武士階級の財源確保のために高価格を維持せざるを得なかったのである。ふりかえって、現代の米価格は安いのか高いのかという議論は、今のところ見当たらない。

 

  1kg千円は高いのか? 安いのか?

 

  安いという人はまずいまい。輸入パスタが1kg500円程度、小麦粉強力粉で1kg300円程度だから、米はかなり高い。主食穀物として明らかに米は高いのである。とすれば、米生産に関する施策は決まっている。安い米を作り供給することである。生産農家に対しては生産効率化のための強力な支援策が必要となる。国は、こういった施策のために何をしてきたかが問われる。今までの施策は余りにも稚拙だったと言えよう。

  今 必要な農業改革は、農協という重大な組織を守りつつ、どうやって日本の農業改革を実現するかではないのか。イノベーションである。技術も組織もだ。

 

<思考とは何か?>

 

  「社会は考えて動いているのか」という疑問に対する回答は、これまでの考察からも概ね得られたと言えるだろう。日常生活、仕事、商売等々は、一見、考えているように見えて、実は過去の知識・学習から獲得した習慣と術によるものにしか過ぎない。今、ここで思考しているわけではない。つまり、獲得した「術」を使っているにすぎないのである。脳は、かなりエコな装置なのだ。エネルギー消費を最低限にして、それでいて、社会生活に支障がなく、個人の幸せ感も満足させ、将来への不安を少なく、可能なだけ期待感を膨らませ、生きる意欲を減退させないように働く。そのためには、過去の記憶のうち不安な部分へのネットをはらないように整理し、うまくいった術にだけネットワークを張るように調整している。個人個人の脳がそのように機能するのだから、社会、例えば企業、地域等はこういった傾向に同調することになる。

 

  こういった脳の状態は、到底、「思考している」状態とは言いがたい。思考とは「意識」そのものの問題だから定義は極めて難しい。少なくとも「狭義の情動」と呼ばれる情動の最上層に位置する情動には下記の3つの情動があった。

  ①背景的情動:やる気、熱意、なんとなくエネルギーに満ちているといった自己の状態、あるいは自己の存在を示す状態

         ・・   ほとんどわかっていない。

  ②基本的情動:恐れ、怒り、嫌悪、驚き、悲しみ、喜び

  ③社会的情動:共感、当惑、恥、罪悪感、プライド、嫉妬、羨望、感謝、賞賛、憤り、軽蔑等

 

  これらの情動装置は自動的に働いている。感情は、これらの情動によって起動された脳神経が、大脳皮質の過去の記憶(推測を含む捏造された記憶)とネットワークを形成して発せられる。我々が生きるために、あるいは生活し仕事をするために必要とするあらゆる「術」は、この記憶の中にある。「仕事をしていれば思考している」とは限らないのである。ほとんどは感情によって処理されている。

 

  思考するとは、簡単に言えば、脳内で新たな「問」を作りだすことである。例えば、何かの問題にぶち当たり、これまでの獲得した術ではうまくいかないことが生じた時、何故うまくいかないかと自問する。そう、思考し始めたのである。うまくいかないから止めたとなると思考は停止する。何故うまくいかないか原因を考える。これが思考の第一歩である。原因からあらたな方法を考案する。第二歩である。新たな方法を試してみる。第3歩である。うまく行けばここで思考は停止する。もっとうまい方法はないかと考えれば思考は第4段階に進む。ここから本格的思考が始まる。

 

  さて、この思考過程を孔子の論語に当てはめてみる。論語の学而第一である。学而第一は、次のようなものであった。

子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。

子いわく、学びて時に之を習う、亦説(よろこばし)からずや。朋(とも)有(あり)遠方より来たる、亦(また)楽しからずや。人知らずして慍(いきどお)らず、亦(また)君子ならずや

 

  知識を習得し深めることは実に楽しい。しかし、知っていると思っていても本当に知っているとは限らない。学習をしていると、あるとき、ふとあの知識の本当の意味はこういうことだったかと気づくことがある、このときの喜びほど大きいものはない。人はほとんどの場合、物事を知っていると思っていても本当の意味を知らないことの方が多いものだ。知るとは何かを追い求めることこそ君子ではないか。

 

  とでも訳せようか(安富を参考に)。

 

  人は、勉強していると思っていても、それは日常の感情による生活を送っているに過ぎない。問題に直面したり、感情(好奇心)にゆりうごかされて新たな知識を求めることによって思考が開始されるが、それでも思考の初期段階に過ぎない。自問し学習を深めることによってこれまでの知識の中からはっと気づかされる新たな発見をすることがある。思考の第四段階である。 ・・・と孔子は言っているのではないか。

 

<感情で動く社会>

 

  マニュアル社会は、良く聞かれる言葉である。行政組織、企業、クレーム処理、医療、福祉、教育等々、社会のあらゆる組織活動においてマニュアルは必需品である。複雑な機能組織社会において、マニュアルは必須である。しかし、ここに共同体としての最大の問題が潜んでいる。マニュアルどおりにやっていれば、後ろ指をさされることはなく、行動の正当性が保証されるのである。思考してはならないのである。問題を見つけてはならないのだ。マニュアルは、人の感情に逆らうような内容を極端に嫌う。つまり平均的感情のレベルを維持するように作られている。そうでなければ、マニュアルどおりに行動することができなくなるからだ。

 

  マニフェスト政治も一時期はやった。政治目標を、目標年次、数値目標、予算額、財源確保等々、細かく設定して選挙公約とするのである。こんなものを挙げられると、国民は実現可能と信じ込んでしまう。できるかどうかを検証する術さえもたない国民は、それこそ直感という感情で選択しなくてはならない。今、そこにある問題とは何かさえわからないのだから社会的議論にさえなり得ない。マニフェストとは正反対の公約がトランプである。今、そこにある問題を解決するという公約である。これは、国民の感情を揺さぶる。社会問題化した問題の多くは、極めて複雑に要因が絡み合っている。移民問題などはその典型である。不法移民によって経済が回っている米国が、そう簡単に移民問題を解決できるわけがない。そこそこの不法移民としておきたいが、近年それが急激に増加したことが問題なのである。

  

  我が国の少子化問題などもその典型的な社会問題である。数十兆円を投下しても少子化は止まらないどころか、昨年度は新生児数が70万人を下回ったとか。少子化対策などは無理に決まっている。こんなことに金をかけるぐらいなら、人口減少でもやっていける社会経済づくりに金をかけた方がましである。人口8千万になってもGDPが減少しない社会である。簡単だ、所得を上げれば良い。人口減少対策は、人口減少という恐怖感情を煽る政策である。

 

  まだSDGsを叫んでいる企業がある。農機具メーカが太陽光発電と農業を同時に実施する事業を開始すると言っているそうだ。アホか! サステイナブルという用語は、1990年代初頭に環境リベラリストが使い始めた。重い構造物を下から支えるという意味である。誰が支えるんだ? 社会で支えるのだそうだ。社会が面倒をみるということである。そんなことができるわけがない。同じ頃から、日本では、福祉政策のスローガンとして社会で面倒をみる国作りを言い始めた。そんなことができるわけがない。空想論だ。欧米では、生活保障対象者の80%が生活保障を受けているが、日本では80%が生活保障を受けていない。それどころか、不正に受け取っている者がいるから規制強化しろと野党が言い始める。

 

  自力で生きろ、他人を頼るな、社会で面倒みろ・・・・全て根拠のない、感情だけで人を動かそうとしている。

 

  少子化対策などは止めて、公務員給与、公的事業の人件費を上げ、企業の利益配分に関する一定の税制誘導策(人件費への配分率に対応した税制)、農業を含めた産業全般の生産性向上目標に対する助成策等々、10年間を目処に数百兆円の公共事業を計画しなくてはなるまい。しかし、どうも国の資金繰りに問題がありそうだという噂がある。国内での国債の引き受け手がいないという情報もあるが、そんなはずはあるまい。何せ、日銀が民間所有の国債を600兆円も買い込んだのだから民間にはその分だけ余裕資金があるはずだ(国債費には積み立てられている分もある)。またまた財務省のプロパガンダだろう。何故、この国は、官僚機構がプロパガンダをするのだろうか。中国やロシアのプロパガンダを云々することはできまい。我が国の官僚組織の民度は、同程度なのだ。明治維新以来、何も変わっていない。トランプの政治行動は、思いつきで何をするかわからないというが、トランプ改革の一つは、米国官僚機構の勝手なプロパガンダは許さないというものである。民主主義政治において、これはかなり重要である。プロパガンダは、まさに国民感情をコントロールするものである。

 

  こうやって社会、政治、経済の活動をみると、国家が感情だけで国民をコントロールしようとしているように見えてくる。まるで士農工商だ。武士が一番で百姓が2番。今や、政治家が一番で国民は2番か。

 

<思考する社会とは何か>

 

  「昭和歌謡と大衆の精神」において、オルテガの「大衆の反逆」に迫った。オルテガは、「大衆である平均人は、自分の中に「思想」を見出しはするが、考える能力をもたないとし、大衆の「思想」が「真の思想ではなく、恋愛詩曲のように言葉に身をつつんだ欲望に他ならない」とする理由は、「意見は主張するが、あらゆる意見の主張のための条件と前提を認めようとはしない」ことであると言う。現代日本社会のことではない、1930年代のヨーロッパ社会を言ったものであるが、まさに現代日本社会そのものではないか。例えば、人と地球温暖化問題などの話をすると、「私はそうは思わない。地球温暖化は必要だ」と主張する人が必ずいる。他の人の主張する地球温暖化の前提条件などには一切触れず完全に無視する。つまり、思考していないのである。もはや井戸端会議もなく、茶飲み話のできるカフェもなく、ただ無言でスポーツ器具と格闘し、一人でウオーキングするしかない日本社会ではこういった議論さえできない。

 

  茶飲み話としての政治的話題、社会問題等々、口にする者さえいなくなった日本社会とは一体何なのだ。学生時代、3畳一間のアパートに友人達が集まっては、毛沢東はどうした、ベトナムは等語り合ったが、今や、そんなことをする学生さえいない。

  終戦をもって価値観が180度転換し自己中心主義へと向かった日本人。日本人だけではなかったかもしれないとも思える。ウクライナ戦争を見ていると、傭兵のロシアと脱走兵の多いウクライナが、本気で戦争をしているのかと疑いたくなる。ごく一部の国のリーダー層が国盗りゲームをやっているように見えてくる。負ければ、リーダー達は生きていけないのである。本気で戦争をするということは、家族のため、国のために死ぬということだ。自分の命を他の人のために犠牲にすることでなければ国を救うことは不可能である。戦前の日本は、それでも勝てなかった。負けた途端に利己主義に180度転換したが。

 

  直近のニュースでイスラエルがイランを空爆したとか。イランの被害状況がわからないが、放射性物質が検知されていないらしい。核施設の周りを脅しで空爆した程度のようだ。だとしたら、これもどこまで本気なのかわからない。脅しぐらいで、核開発を止めるわけがないだろう。バカじゃないのか。

 

  国家のリーダーがゲーム感覚と利己主義によって、高度な脳科学を利用して国民感情をコントロールし戦争をするとなると、だれが戦争を止めることができるのか。国民の思考能力の欠如がもたらした、自由主義的民主主義の悪い部分の典型ではないか。人間は、思想・思考において明らかに退化・後退している。

 

  思考する社会とは、他の人のために死ぬことができる人間がどれほど存在するかで決まる。裏返せば、人のために生きることができるかということである。社会とは、人のために生きる人々によって構成された集団のことである。

                                               2025/06/14

この国の精神  思考停止社会(6) ―感情が動かす社会②―

秋 隆三

 

<トランプ関税ショック>

 

  株、為替、債券市場等々、金融市場が大混乱である。関税により米国の物価が上がり、インフレとなって景気が悪化するのだそうだが、関税の効果は、それほど単純なものではない。関税による直接的効果は、国家財政への影響である。国内税収入に影響がないと仮定すれば、関税分だけ国家財政は好転する。

 

 しかし、関税の引き上げは、インフレを引き起こすので、物価上昇、賃金上昇、名目売り上げ増加となり、名目税収は増加する。ある程度のインフレは国家負債の軽減効果となり、分配と返済の良好な循環を生み出す。米国は、既に3%を超えるインフレ状態が続いており、できれば2%程度に抑えたいがなかなかうまくいかない。当然である。コロナ給付金を3回に分けて総額9000億ドルに近い支給を行った。日本円にして120兆円、日本の国家予算1年分を支給したのである。これが何に使われたかというと、一番はローン返済、2番が貯蓄、3番が消費だそうだ。ローン返済と貯蓄は、将来の消費への準備資金といったところだから、コロナの終焉とともに消費が拡大する。つまり2022年頃から消費は拡大傾向になりインフレ率は低下しなかった。

 

 関税の引き上げによる米国のインフレは、やや高めで続くと考えた方が良さそうだ。インフレ率が5%を超えるようであれば、関税の調整が必要になる。中国からの輸入品が、米国輸入総額の15%程度を占めるから問題だというが、15%程度しかなかったのかとも言える。

 

 一方、日本はどうかと言えば、自動車の輸出に影響が出るというが、これもそれほど単純ではない。米国輸出分の占める割合はそれほど多いものではない。過去3年間の円安により自動車産業が得た不労所得(濡れ手に粟で儲けたのだから)で、これからの数年発生するであろう関税による利益減少分とちょうど相殺される勘定程度である。むしろ、円高となっているので、輸入依存度の高い企業(石油関連等)は一息つけそうである。円安で儲けた企業が、今回は利益を吐き出し、円高で輸入企業が儲けるという、我が国も隅に置けないしたたかさではないか。勿論、意図したものではなさそうだが。

 

 トランプが大統領に就任してから90日が過ぎた。トランプ支持者に対する選挙公約の2つ、不法移民の強化と国内企業再興のための関税政策は、着実に実施された。これから、90日は、この迅速な公約実行の評価を行うことになる。うまくいかなくてもいいのだ。うまくいけば施策をさらに進める。うまくいかなければ、支持者の皆さんのご要望を実現するためには施策を改善して「次の手を打つ」と謝罪宣言して実行すれば良い。米国の民主政治とはこういうものだということを見せてもらっている。民主主義という政治制度は、常に変化しておりこれが最先端なのである。

 

 米国の次の手は、減税だろう。関税により国家財政は、少しは潤った。分配は減税で行うということだ。やや低下気味の経済は、FRBの金利引き下げで当面対処し、減税で景気上昇を図り、インフレを前述の5%以下程度で推移させる。これで、今年後半からの株式市場は、空前の活況を呈し始める。来年の中間選挙に向けた対策は成功すると言えそうだ。

 

 AIや情報関連投資が一段落し、期待したほどの経済効果がないことがばれている。金融業界は、次の投資先が当面ない状態に陥った。トランプはこれを知っている。中国封鎖により、世界の資本を米国内投資へと向けさせれば成功なのだ。投資先は何でも良く、製造業復興などは、どうでもいいのである。さらに、言えば、中国経済は既に崩壊している。共産党政権は強権を発動しなければならない一歩手前まで来た。今のうちに世界経済にブレーキをかけなければ中国の経済破綻が世界に波及する。少しは、痛みを伴うが、今のうちに外科手術をしておく必要がある。中国が報復関税だと叫んでいるが、「国内向けの政治的アピール」だ。中国経済が低迷したのはトランプ関税によるものだとして、共産党政府の無能さを隠し、大型の経済対策(中国元の大量印刷等々)を行って内需拡大へと転換する。これでどうやら世界同時不況は避けられる。急激、極端な元安もありうるかもしれない。

 

 一方、ウクライナ戦争はなかなか終わりそうにない。何度も言うように、ここまで戦争が拡大してくると、行き着くところまで行かなければ終わらない。トランプが交渉を止めると言うと、プーチンは、少しは対応するが、ほとんど嘘である。トランプはなめられている。トランプもそれをわかり始めたようだ。トランプ流ならば、プーチンに罠を仕掛けることになる。どんな罠かわからない。どうやら、トランプ交渉の間に、ウクライナ側の武器弾薬の生産体制が整い始めた。ヨーロッパの本気度も高くなってきた。二次関税の実現も想定され始めた。トランプの罠であろうか。

 

<スマホ社会>

 

 米国大統領選挙では、トランプがSNSをフル活用し、我が国では、兵庫県知事選挙をめぐるネット配信がすさまじかった。ネットでは旧来のメディアで報道されない内容、報道の裏にある情報が発信されている。ネット配信の内容の信憑性はと言えば、何ともいえないといったところだろう。

 

 スマホを持っていない国民はいないのではないかと思われる。私は、持っていない。何せ、我が家はスマホの電波が届きにくいからである。それに、パソコンがあれば何も不自由はない。外出して、スマホを使う必要もない。何故、スマホが必要なのかさえ疑問に思っている人間だから。

 

 一方、中国、インド、東南アジア、アフリカ、中南米等々のTVニュースを見ると、誰もがスマホを持っている。スマホの価格は、中古のスマホはかなり安いが、新品だと2万円から20万円まで様々である。こんな高価なものを、発展途上国の人々が何故買えるのか不思議な現象だ。それほど、スマホというものは魅力的なのだろうか。電話線工事の必要がないから、発展途上国では電話の普及としては極めて有効ではあるが。

 

 スマホの普及が本格的になるのは、この10年間、つまり2010年以後のことである。情報通信の普及は、まずインフラ整備(ネット回線、無線局、サーバー)から始まる。世界全体の情報通信インフラへの投資額がどのくらいになるかといった統計がないのでわからないが、膨大な額に達する。次いで、スマホ、通信機器等の生産設備への投資である。これもすごいものだ。さらにすごいのが、スマホの消費額である。これらの投資、消費は、全て金融によって成り立っている。設備投資の資金は、社債等の債券市場により調達し、スマホの購入は、カード、ローンによってなされる。月間利用料という名目の割賦販売が、急速な普及の要因である。

 

 思い出してもらいたい。昭和40年代の我が国の家電品の猛烈な普及時代を。カラーテレビ、クーラーなどが割賦販売で売れに売れた。保証人などは不要で、簡単な契約書一枚にハンコさえ押せば、すぐに手に入った。この割賦販売の背後には、販売会社と結びついた銀行・ローン会社があった。このシステムが、不動産にまで発展したのがバブル経済である。家電品の次は自動車であった。これが一巡すると、不動産へと向かい、ついにバブル崩壊となって現在に至るのである。

 

 スマホという情報通信機器市場は、世界市場それも発展途上国を含めた全ての人類社会が対象であり、世帯が対象ではなく個人が対象となる。こんなおいしいビジネスを金融業界が見逃すはずがない。

 

 何故、スマホ市場が2010年以後に急成長したかである。2008年のリーマンショック後である。特に、成長が著しかったのが中国だ。リーマンショックで行き場のなくなった資金が、一気に中国の情報通信市場に流れ込んだ。さらに、BRICS全体に広がった。これが、現代スマホ社会出現の最大の要因かもしれない。余りにも早すぎる。ものすごいスピードだ。グローバル経済が叫ばれるのと見事に一致する。

 

<スマホ脳>

 

 スウェーデンの脳科学者、アンデシュ・ハンセン(スマホ脳 久山葉子訳 新潮新書 2020年)のスマホ脳という本がある。出版と同時に、ヨーロッパでベストセラーとなり、日本でも売れた本である。

 

 簡単に言えば、スマホを使い過ぎると依存症になり、所謂スマホ中毒になるというものである。特に、子供が使うと依存症のリスクが高くなる。依存症を引き起こす原因は、中脳のドーパミンシステムにある。ドーパミン神経は、中脳から大脳皮質前頭葉に直接伸びている長い神経系であるが、ドーパミン神経が発火してドーパミンを放出(放出の機構は複雑)するのは僅かに1秒から2秒程度と言われている。このドーパミンというホルモンを放出するためには、情動・感情の快感を刺激しなくてはならない。前回にも説明したように、例えば「思い込み」部分を刺激するような魅力的な言葉等は、まさにこれに相当する。このドーパミンホルモンが放出されると、やる気が起きたり期待感が増したりする。ドーパミン報酬系と呼ばれ、薬物依存症などはこれである。

 

 スマホを長時間利用するようになると、常時手元になくては不安になり、頻繁にスマホを見るようになる。これが継続すると物事に対する集中力が著しく低下する。さらに、自分で考えずに、スマホの検索で済ませるようになると思考能力がさらに低下する。また、すぐにスマホに頼ることにより、ドーパミン報酬を得ることを先延ばしできず、上達に時間がかかるようなことの学習意欲が湧かなくなり、学習できない状態に陥る(子供達の習い事が激減、ピアノ等)。

 

 過去の時代に比べ現代の方がIQ(知能指数)は高くなるという「フリン効果」が知られているが、スマホの登場によって現代人のIQが毎年低下しているらしい(北欧の調査結果。スウェーデンでは小学生のPC(タブレット)利用を中止したという情報もある)。

 

 また、大学生の調査結果から、80年代以後、共感的配慮(辛い状況の人に共感できる能力)が低下し続けているらしい。80年代にはスマホがないので、スマホが要因とは必ずしも言えないが、ドーパミン報酬系を刺激する社会的要因が増え続けていることは確かだ。例えば、音楽、娯楽(映画、イベント)、スポーツ、嗜好性食品、ファッション等々、サブカルチャーが急速に多様化し情報化した。これに、スマホという究極のドーパミンシステムが加わった。共感的配慮の低下は、ナルシズムへと向かうことになる。つまり、自分のことしか考えず、他人には無関心という新人類の誕生である。

 

 アンデシュ・ハンセンは、このスマホ脳という本の中で、「人間は現代社会に適応するようには進化していない」と書いている。人間の感情というものは、ダマシオの理論で言えば、感覚器官、免疫機構、代謝機構という生命維持のための独立した装置と、勝手に作動する情動という自動装置の両方がなければ存在しえないし作動しないのである。

 

<AIが人間を支配するか?>

 

 最近、欧米の高名な学者が、「将来、AIは人間を支配する」と叫んでいるようだが、この学者はバカである。現在のAIの基本理論は、人間の感情システムなどとは無関係なしろものだからだ。意識をコンピュータに置き換えることさえ現行理論では困難である。なぜなら現行のAI理論は、単純な最適化理論(最小自乗法のお化け)にしかすぎないからである。人間の記憶のメカニズムさえ未だ解明されていないのに、大脳皮質へのマッピングのメカニズムなどわかろうはずがない。感情は意識の一部である。

 

 AIが文章を要約した、AIが質問に答えた、AIが画像を生成した等々は、実に単純な最適化作業にしか過ぎない。大量の既存の知識(文章、動画、音声等々)から最適な答えを見つけ出しただけのことである。勿論、これまでこんなことはコンピュータではできなかった。コンピュータの超高速処理、大記憶容量、高速通信が、これを可能にした。

 

 しかしだ、コンピュータの回答は、本当に正しいと言えるのか。コンピュータに記憶されている知識に間違いはないのか。例えば、これまでの百科事典や辞書に間違いはなかったか。さらに言えば、通り一遍の回答ではないのか。百科事典や辞書の内容は、かなり要約、ないしは、はしょったものである。知識とは、この程度のものなのか。

 

 一つの疑問は、いくつもの疑問につながる。それが知識であり、論理であり、学習である。一つの問に対して相反する回答についてAIはどちらが正解かの判断はつかない。まして、大まかな概念を元に問を作り出すことさえ不可能である。

 

 こんなしろものは、せいぜい種々の生産制御、事典代わり、画像生成のお遊び程度がいいところである。勿論、ディープラーニング(最適化理論の一種)を研究手法として位置づけたことには一定の評価ができるが、この手法が本当に正しいかどうかは依然として解明されていないのである。

 

 昨年から始まったAIバブルの底が見えてきた。これもグローバル金融経済が引き起こしたバブルである。これで、当面、膨大な金融資本の目先の投資先が全てなくなったことになる。

 

 1980年代初頭に始まった株主資本主義は、1990年代のパソコン、200年代の光通信、2010年代のスマホ、2020年代のコロナワクチンとAIで終焉となりそうである。トランプは、果たしてこれを見越して関税を掲げたのか。そうだとすれば天才的政治家と言えるが。

 

 未来のエネルギー開発にこういった金融資本が動くとは到底思えない。目先の利益だけである。何せ株主資本主義だから致し方ないと言えばそれまでだが。金融経済をどのような方向に持って行くかが、これからの資本主義の最大の課題であるが、果たしてそのようなことが可能だろうか。そもそも、資本主義経済ステムの進化とは何かさえわからないのだから、予想すら困難であり、設計さえ無意味なのである。

 

2025/05/09

この国の精神  思考停止社会(5) ―感情が動かす社会①―

秋 隆三

 

<見ざる、聞かざる、言わざる>

 

  日光東照宮に、左甚五郎作と言われる「さんざる」(見猿、聞か猿、言は猿)の木彫がある。突然、「さんざる」を持ち出したが、「思考停止社会とは何か」を考えていてふと頭に浮かんできたので、少し考えてみることにした。

  この「さんざる」は、論語の顔淵第十二にある。実際は4つあるので「よんざる」だが、なぜか4つ目は一般に伝わらなかった。

  原文は以下のとおりである。

  「顏淵問仁。子曰、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己。而由人乎哉。顏淵曰、請問其目。子曰、非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。顏淵曰、回雖不敏、請事斯語矣。

 

  「論語に学ぶ会」に掲載されている訳は、下記のようになっている。

「顔淵が仁とはどういうことかを問うた。孔子は、「私心に打ち克って真(まこと)の道(礼)に立ち返ることが仁と云うものである。上に立つ者がもし一日でも私心に打ち克って真の道に立ち返るなら、天下の万民はこれを見習って仁に回帰することになるだろう。仁を実践するかどうかは本人の自由意志に由るのであって、他人の力でどうこうできるものではない」と答えた。顔淵は、「どうか実践の目当てをお教え下さい」と云った。孔子は、「真の道に悖(もと)ることを見ていてはならん!真の道に悖ることに耳を傾けてはならん!真の道に悖ることを言ってはならん!真の道に悖ることを行なってはならん!」と答えた。顔淵は、「私に出来るかどうか分かりませんが、今の先生のお言葉を終生の自戒としたいと思います」と云った。」

 

  論語は、極めて難解であることはこれまでも幾度となく説明してきた。言葉についての定義がないため解釈が難しいのである。

  孔子の弟子の顔淵が孔子に「仁」を行うとは何をすれば良いかという問の答えとしてこの「よんざる」を挙げた。

  上記の訳では、「非礼」を「真の道に悖(もと)る」と訳した。一般的には、「礼にあらざれば」と訳している。「真の道に悖る」と訳すには少々飛躍があるとも考えられる。この、「よんざる」もそうであるが、そのまま訳すと論理性がなくなるのである。「礼」は、「真の道」ではなくやはり「社会的規範・規律・常識」の意味と考えた方が良い。所謂、礼である。しかし、その後の意味がおかしくなる。「礼に外れたことを見てはならぬ」とはどんな意味なのだ。見ていなければ、それが礼に外れているかどうかはわからないではないか。

  ここで、「勿視」を見ずと訳している。「勿」は「ない」という意味であるが、漢字の解字をみると、元来の意味は「祓い清める」という意味らしい。礼に外れたことを見てしまったが、見なかったことにする(厄介なことを払い清めて元に戻す)と訳すとすんなりと理解できる。つまり、こういう訳である。

  「礼に外れたことを見ても見なかったことにしなさい。礼に外れたことを聞いても聞かなかったことにしなさい。見たり聞いたりした「礼に外れた」些末なことをいちいち取り上げて人に言ってはならない。そうすれば礼に外れたことに向かっても動ずることはない(心は平静となる)」「これが仁にいたる実践の心がけである」と、孔子は言ったのではないか。

 

  世の中は、矛盾に満ちていて、それこそいろんな人がいる。日々の生活の中ではいやでも、詐欺まがいの金儲け話、性欲をそそる色話、出世欲をくすぐるうそ話、人の悪口や夫婦げんか等を目にするが、それをいちいち取り上げて人に言ってはならぬということである。

 

  人の感情を如何に平静に保つかによって、社会秩序の状態は変化する。法治思想、民主政治思想の本質はここら辺にあるらしい。人の感情こそが社会無秩序の本質なのである。現代においても何ら変わることはない。

 

  下村湖人という作家がいたが、この人もこの文章の難解性に気がついたのかもしれない。下記のように極めてわかりやすく訳した。

  「非礼なことに眼をひかれないがいい。非礼なことに耳を傾けないがいい。非礼なことを口にしないがいい。非礼なことを行わぬがいい。」

 

  しかし、これでは余りにも単純すぎる。つまり、前段の「勿視」、「勿聽」の「勿」と後段の「勿言」、「勿動」の「勿」では解釈が異なると考えられるからである。かつて、論語を取り上げたとき、安富は「知」と言っても使い方により意味が異なると言っていた。例えば、知不知である。「知識」ということと「学習」では意味が違う。

  ここでも「勿」は二つの意味を指すと考えられる。つまり、「なかったことにする」と「ならぬ」ということである。

  論語の解釈は、漢字の使い方が実に絶妙なのである。恐らく、中国人でもこれを理解するためには相当の知識と教養を必要としたに違いない。それでなくては、儒学の裾野はこれほど広くはならなかった。

 

  さて、このように考えると、この「さんざる」をさらに意訳することができる。

  「世の中の欲望をかき立てることには目を向けず、耳を傾けず、仮に見たり聞いたりしたとしても見なかった、聞かなかったことにしなさい。人の欲望をそそるような話を言ってはならず、人の欲望に火をつけてはならない。自分の欲望を押さえることで、心は平静を保てるのである」このことを実践していれば、自ずから「仁」への道が開かれていくものだと孔子は言っている。

 

  いずれにしても、悪事・欲望という人の感情は、社会生活、経済行動、政治においてもっとも厄介なものであるが、これが人間社会において不可欠であり問題の本質であると孔子は今から2500年前に喝破した。

 

<社会は感情で動いているか>

 

  欲望は、人間の意識的知的活動なのか、それとも無意識の情動が生み出す感情なのか。勿論、後者である。

 

  イタリア人のマッテオ・モッテルリーニは、経済学的知識を基に「世界は感情で動く」(紀伊國屋書店、2009年、泉典子訳)という本を書いた。モッテルリーニは、行動経済学者である。行動経済学とは聞き慣れない学問分野であるが、昔は経済心理学と呼ばれていた。心理学は、自然科学というよりは統計学を主体とした人文系の学問であったが、脳科学の登場によって従来の学問体系が一新された典型的な学問である。

  昔、少し経済学も勉強した。行動経済学の領域は、大まかに言えば、消費や投資といった経済活動に占める合理的選択の割合はかなり低く、感情が大きく影響することを発見した学問と言って良い。

 

  この行動経済学が示す分析手法・法則は、ダマシオが論じた情動と感情の脳科学を発展させたものであるが、これを社会全般に適応して考察すると社会とは何かが少し見えてくるというのが、モッテルリーニの主張するところだ。つまり、社会は知性的・理性的に動いているのではなく、感情で動いているというのである。

 

  ところで、人は、感覚諸器官・免疫・過去の記憶等からインプットされた信号により情動という自動装置が常に稼働している状態にある。この自動装置である複数の情動は、勝手に動き、勝手に脳をマッピングする。情動の働きは、人によって全て異なると言っても良い。そのためマッピングも全ての人間で異なることになる。例えば、外部からの刺激、見る、聞く、匂い等が仮に同じレベルであっても、臓器からの信号や免疫からの信号、過去の記憶は、全ての人間で異なるため、脳内マッピングもそれぞれ違う形態となる。

  つまり、外部からの刺激が同じレベルであっても、人によって知覚つまり感情は異なったものとなるということである。地球上の全人類80億人は全て異なる感情を持っている。しかし、これでは、感情の衝突は避けられず、安定した社会を維持することは難しい。そのため、情動に共感という自動装置が組み込まれた。この装置のおかげで何とか共同体や社会といったものが維持されるが、不確実性は極めて高い。ホモサピエンスが言語を獲得した約3万5千年前頃から、多分、出産、教育、狩猟、埋葬等という社会状況に関して、人と人との関係に記憶の共通化(同一化)が図られ、それが感情という観念を共通化することとなったと考えられる。言語とは、抽象化という知的活動の結果生まれたのである。人を見たとき、明らかに猿とは異なり人の容姿であれば、それは「人」と言う決まり事を共有化するのである。さらに、AさんとBさんは顔かたちが違うが「人」としては「同じ」と考える「同一化」という抽象化である。

 

<直感と脳のトラップ>

 

  「意見を聞かせてください」という場面が時々ある。例えば、社内の新製品開発や処理工程の改善問題、町内会の集まりでのゴミ収集の問題、茶飲み話でのトランプの関税問題、総理大臣が配った10万円の商品券配布問題、等々について「あなたはどう思いますか、ご意見は?」といったことである。この場合の「意見」には、確固たる証拠は必要としないし、また聞く方も期待していない。そもそも「意見」には、証拠などは必要ないのである。

  話す方もそれを承知で話をする。つまり、「直感」でものを言うことになる。「トランプの言うことなどはハチャメチャで、いずれ破綻するに決まっている」という意見を言ったとしよう。確かに、関税の税率等は何を根拠にしているか図りがたいが、ハチャメチャだとする根拠はない。まして破綻するという結論にも根拠はない。直感なのである。こういったことが一日のうちに何度となく行われているとモッテルリーニは言う。つまり、無意識の認知、直感的判断である。ものごとはこうなのだと「決めつけ」て「断定」してしまうのである。脳が、過去の経験記憶を基に判断し、その方が問題解決のためには効率が良いからである。しかし、ここに罠(トラップ)が潜んでいる。

  この脳のトラップを作動させるためには、その人にとって「魅力的な情報」を提供すれば良い。「魅力的な情報」というのは、その人の「思い込み」を強めたり、その人の「自尊心」を満たしたりするものであればいいのだ。これは、詐欺師の手口であるが、ビジネスでは常套手段であり、現代の政治では常識となっている。例えば、陰謀論を信じ込んでいる人を味方につけるには、それを煽るような政治的言動を用いる等である。

  思考停止社会の特徴の一つは、直感の罠があちこちにしかけられていることである。人から「魅力的な情報」をもらって確信を強めるだけではない。人は、好んで罠を欲しがるのである。情動の「快」をくすぐるような刺激を社会に求める。報道、ニュースといった類いは、元来、この直感のトラップを利用したビジネスである。勿論、どこかで戦争をやっているといった事実報道は良しとして、事実報道の次の段階の報道は、戦争をしている当事者のどちらが正義であるかとなる。正邪も情動であるから、一方が正しく片方が悪いとなれば、当然、正しい方の見方をし、そういった思い込みを強めることなる。こうなれば、報道の罠に見事にはまり、報道ビジネスは成功である。

 

<予言というトラップ>

 

  自分だけが思い込むのならば、まあ、他の人には関係ないからある程度は許容できるが、集団や社会となると問題である。

  代表的な例は、臨床治験という新薬の薬効試験である。ある病気に罹患した患者を二つの集団に分けて、一方には新薬を投与し、もう一方には無害な例えば小麦粉を新薬だといって投与する。プラセボ効果と言われる。不思議なことに、小麦粉を投与されたグループのうち一定割合で病気が改善する。この薬で病気がよくなるという予言が実現したわけである。

  

  予言されたことを信じることで、実際に予言通りに実現されることを自己成就と言う。自分の考えていたような結果が出現することである。例えば、コロナが流行し始めた時、サプライチェーンが機能せず、マスクが不足し、紙がなくなる。するとトイレットペーパーがなくなるという噂が流れ、スーパーの店頭から消えた。人々が紙が不足するという情報を信じ込み、その知識を共有した結果である。こういった社会現象は頻繁に発生している。例えば、半導体関連株は上がると信じ込み共有すると、株価は上がる。トランプが自動車関税25%を上乗せさせると、日本車の米国での販売価格が上がり、日本車が売れなくなり自動車メーカの業績が低下するという情報を信じ込み株価は下がる。こんな単純な話になるわけがない。金融アナリストなるものが煽るのである。自動車メーカは、円安で、努力せずに儲けているのだから、まあ、このぐらいの関税であれば、元に戻る程度だからそんなにびっくりする必要はない。

  米不足で、米価が一年前の2倍になっている。実際に、消費者が米価が上がると予測したために、買いだめしてスーパーから米が消えたことも影響している。実際にそうなった。

 

  この予言というトラップは、経済活動と切っても切れない関係にあり、人の直感による判断がなくならない限りなくなることはないから、永久に続くことになる(勿論、直感によらず思考をめぐらして儲ける奴が必ず存在する)。資本主義という自由経済においては必要欠くべからざる仕組みということになろう。

 

  予言の罠の良い利用方法として、モッテルリーニは教育における効果をあげている。心理学者が小学校で偽の心理テストを行い、無作為に4人の子供を選び出し、この子供達は今後数ヶ月で飛躍的に知能が伸びるだろうと予言した。結果は、数ヶ月後ほんとうに成績がよくなった。心理学者の予言を聞いた教師や親たちが熱心に子供達を教育した結果だった。勿論、子供達もその気になったことが大きな要因であるが。

 

  予言のトラップは使い方である。トランプの言動をみると何となくこの予言のトラップではないかと思われるのだが。

 

<終わり良ければ全てよし>

 

  「終わり良ければ全てよし」は、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「All's Well That Ends Well」から来ているらしい。思想論で言えば、結果主義、結末主義であり、仮定、前提条件、途中経過等はどうでも良く、結果が満足できれば全てよしとする考え方である。

  モッテルリーニは、これは、「ピークエンドの法則」だと言う。「ピークエンドの法則」は、ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学者、行動経済学)が1999年に発表した、「あらゆる経験の快苦の記憶は、ほぼ完全にピーク時と終了時の快苦の度合いで決まるという法則」(Wikipediaより)である。

  人間の記憶の働きに関連した法則である。人間の記憶はすべからく捏造されている。かつ、断片的なものである。さらに、過去の記憶の捏造された断片に感情という脳内マップ(知覚)をからませて再構成する。ある出来事に遭遇したとき、人は、その出来事が如何に長い時間がかかったかということには無関係に、最も強烈な印象を受けた時間と、その経験の最後の時間に焦点を当てる。これを「ピークエンドの法則」という。ある商売上の交渉事を行ったとき別れ際の印象が良く、相手が喜んで次回の約束をしたとすれば交渉成功の確率は高くなる。辛い経験でも記憶の錯覚によって幸福な感情を得ることもある。

  

  こういった記憶の錯覚を利用した論法の学問もある。経済学などはその典型であろう。この行動経済学なども見方によってその類いかもしれな。脳科学による○○の法則等は、必ずそうなるという錯覚を人に与えることで成り立つ。情動が感情を形成し、感情が情動を動かすという相互作用は、制御できるのである(とダマシオは言っている)。

  孔子は、この感情と情動の制御は可能であり、それは「知」つまり学習であると2500年も昔に言っている。スピノザに始まる西洋近代哲学は、感性、悟性、理性と重箱の隅をつつくように、脳の働きを分析し、ヘーゲルの正反合で行き詰まった。そして、心理学から脳科学へと進み、どうやら、情動的行動という一般解へ近づいたが、記憶の錯覚に対する感情的反応(意識)の発見にはいたっていない。単純に言えば、自己に対する「問」を生み出す意識とは何かである。

 

<さまざまな法則>

 

  モッテルリーニは、社会が感情で動いていることを論説するために、様々な行動経済学の法則を下記のように挙げて、様々な事例を紹介している。

 

○コンコルドの誤謬:今まで使ったお金が無駄になるという損失回避

○基準値の誤り:確率的判断の基となる基準値に誤りがある

○代表性:ステレオタイプという。いつもニコニコしているからといって「良い人」とは限らな

 い

○確実性効果:確実性の高いものほど重みづけが大きくなる。

○利用可能性:「思い浮かびやすい」事例と特徴を思い出して評価基準にする。直感による

 バイアスという。

○アンカリング効果:最初に印象に残った数字や言葉が、後の判断に影響する。例えば、値札

 についている赤線で消された価格など。

○帰属のエラー:行動の原因を推理・推論することを帰属という。帰属理論は、①目立った

 知覚的情報に左右される、②人の行動については性格・個性などの内面的要因を重視、

 ③自分の行動については一般的であり外的要因だと思い込む、④自分の成功の原因は内面的

  要因、失敗は外的要因。

○自己奉仕的バイアス:成功しても失敗しても自分に都合の良いようにゆがめる

○バーナム効果(フォアラー効果):誰にでもあてはまる一般的なことを自分だけに当てはま

 ることと信じる。占い、性格診断などが代表的。

○フォールス・コンセンサス効果:自分の判断や行動は一般的であり当たり前だと思い込み、

 他人も自分と同じだと考える。自分の考えが常識だと思い込み、他人が違うと異常だと

 感じる。

○集団思考:集団のつながりが強いあるいは観念的共通性が強い場合、不合理で危険な意志

 決定を集団が容認してしまうことがある。ヒットラーのナチス、イスラエルとハマス、

 ロシアとウクライナ等々。

○集団規範:集団が目標達成に向かわせる枠組みとして、集団の同調性が高いと集団が共有

 する規範が作られ、構成員の暗黙の了解がある。会社ぐるみの犯罪等々。

○ハロー効果:後光の効果であり、例えば有名大学卒であれば人格が優れていると評価する

 など。そんなことはない。

○自信過剰:だれでもそうだ。

○願望的思考:そうなってほしいと思うことの発生確率を高く見積もる。

○保有効果:保有しているものの価値を高く見積もり、手放したくないということ。

 愛着である。

○公表バイアス:ポジティブな部分を多く公表し、ネガティブな部分はあまり公表しない。

 政府発表、科学的新発見等であり、信じ込ませやすい。

○損失回避性:人は利益から得る満足より、同額の損失から受ける苦痛の方が大きい。

○後悔の理論:後悔への恐れであり、「後悔回避」の性向を強く持つ。短期的には失敗した

 ことに後悔し、長期的にはしなかったことに後悔する。

 

  以上の様々な法則は、全て情動行動という自動装置の働きである。感情が自動装置を発動させるのは、それが効率的でありエコであるからである。私も全く同じであり、全ての法則が当てはまる。こういった脳のトラップにはまらないためには、道徳・倫理観を高めることが重要なのである。論語、仏教哲学、キリスト教的道徳・倫理といった古典の哲学・思想の重要性は、社会秩序としての倫理規範という単純な規則にあるのではなく、人の感情脳というものの制御が如何に困難であるかを示し、制御への「道」を教えている。

 

  ここまで見てくると、「思考停止社会」は、今に始まったことではないことがわかる。人類の歴史は、全てこの「思考停止社会」によって生み出された。「思考停止社会は問題だと」とのたまう報道、識者こそが問題なのだ。釈迦も「一切行苦」と言っているではないか。「行苦」とは「思考停止社会」の現象・様相のことである。

 

  次回は、現代情報社会における脳のトラップを見てみよう。

2025/03/30

この国の精神  思考停止社会(4) ―情動から感情へ―

秋 隆三

 

<地に落ちた日本のシステム技術>

 

 貧乏を絵に描いたような私だが、一応、僅かながら所得があるため確定申告をしなければならない。昨年までは書面で申告していたが、今年は、e-taxという国税庁の電子申告をすることにした。大枚1500円程で、ICカードリーダーを購入し、マイナンバーカードでログインすることにした。情報システムも、昔、少しは勉強し実務もしたことがあるからこの程度のことは何と言うことはないが、いざ、e-taxをはじめてみると、いやはや、言いようのないほどお粗末なシステムであった。

 

  地に落ちた日本のシステム技術である。

 

 昔(年寄りの常套句)、こんなシステムを作ろうものなら、「お前は首だ」であろう。

 

 「技術立国、日本」などは遙か昔の話のようである。設計、インテグレーションが全くお粗末なのである。以前にも書いたが、技術は物づくりだが、ものを作るための工学の根っこは、設計(デザイン)とインテグレーション(統合)にある。この二つは、概念と思想と言っても良いが、この部分が退化し後退しているのである。ディテールにとらわれて全体を俯瞰する技術者の能力が退化したか、大学・大学院教育がディテールに終始しているかのどちらかであるが、いずれにしても概念設計とそれを裏付ける設計思想、つまり、教養が欠如しているのである。オルテガも言っているではないか、「思想とは教養」であると。

 

 

<トランプ節のオンパレード>

 

  トランプが、プーチンを持ち上げ、ゼレンスキーをぼろくそに言っている。米ロ協議があったようだが、何が話し合われたのか、情報は全くない。

  以前にも書いたが、ロシアもウクライナも、国家経済は、オリガルヒと呼ばれる大富豪達に牛耳られている。汚職は日常茶飯事、下は警察官、下級役人から上は大臣までオショク、おしょくである。ウクライナへの支援金のうちどれほどが汚職で失われたかは全くわからない。何人かの高級官僚が摘発されたという情報がかつてあったが、それにかかわったウクライナオリガルヒの情報は何もない。

  一方、ロシアでは、戦争が始まってから10人を超えるオリガルヒの不審死が公表されている。戦争前から数えれば恐らく20人は超えるのではないかと思われる。それに、公表されていない分を推定すると、恐らくこの数倍が不審死しているかもしれない。プーチンはプーチンなりに、汚職に対する鉄槌を与えている可能性はある。何せ、汚職の大親玉はプーチン自身ではないかと思われるから。

 

  以前にも述べたように、本質論から言えば、ウクライナは戦争すべきではなかった。トランプの言うとおりである。常識だ(Well balance)。ロシアが突然、襲ってくるわけがないので、数ヶ月前から情報はあったはずである。武力侵攻した方が悪いのは当然である。喧嘩だって先に手を出した方が悪い。やられたからやるというのが正当防衛の論理である。しかしだ、戦争である。やるぞやるぞと言っている相手に対して、自力で戦えないのであれば、ウクライナ独立の協定を基にして妥協し、とりあえずはヨーロッパからの監視支援をうけつつ我慢するという方法はあった。勿論、ロシア支配は避けられないだろうが。

  しかし、これは、タラレバの話である。現実の今の状況を見ると、この戦争はいくところまでいかなくては終わりそうにない。かつての日本のように。米国の支援がなくなった時、ウクライナはどうするのか、ヨーロッパはどうするのか。武器、弾薬さえ自前で調達できない国がどうやってロシアという大国と戦争をするのか。フランスやイギリスは、戦争を継続すると粋がっているが、これもヨーロッパ政治特有の「口だけ」政治ではないのか。

  この2ヶ月ぐらいでこの戦争がどうなるのかの分かれ目となりそうだ。戦争を徹底的にやるのか、それともトランプ流のディールをするのか。

  停戦のためのトランプ流のディールは問題だとか、鉱物資源の権利をよこせなどは大国の大統領の言葉とは思えないとか、テレビでは評論家がいろんなことを言っている。ウクライナ戦争で何人の人間が死んでいると思うのだ。この程度のディールで戦争が終わるなら、大いに結構ではないか。

  ロシアが武力侵攻したのだからロシアに責任をとらせるべきだという理屈は、戦争が始まってしまった以上、ロシアが負けて終戦とならない限り成立しないのである。太平洋戦争の日本やドイツと同じなのだ。

  トランプが盛んにディールと叫び、独裁者ゼレンスキーと呼び、プーチンを孤立化させないように発信し、プーチンを対話の席にひきずり出そうとする。言葉だけで効果が発揮できるのであれば、コストゼロで停戦の可能性が生まれる。ゼレンスキーが脇に置かれている。これはおかしいというのは的外れである。なぜなら、戦争を引き起こしたのはプーチンだからだ。こいつを止めなければ戦争は終わらない。

 

  トランプの手腕が問われるが、イデオロギーなき戦争というものが一時の感情で始まりディールというビジネスで終焉となるのか、この行く末は誰にもわからない。

 

  さて、感情とは何かに戻ろう。トランプ、プーチン、ゼレンスキーという孤独なるリーダーの置かれている感情とは一体全体どのようなものだろうか。理性的に、論理的に現実を判断しうるだろうか。戦争で死にいく兵士とその家族、国民感情をどのような感性で受け止めているのだろうか。プーチンとゼレンスキーが理性的に戦争を継続しているとすれば、それは、冷徹に国民に死ねと言っているのと同じである。どちらかが負けた時、負けた側のリーダーは自死をもって責任がとれるのか。人は、理性のみで判断し、決断することはできない。感情が最も重要なのである。

 

<情動と感情>

 

  情動と感情は違うとダマシオは言う。情動とは無意識に、生のために発動される装置であるが、感情は違う。感情という装置は、情動という装置が反応した身体の状態を脳内にマッピング(脳神経のネットワーク)し、心的イメージ(観念)を生み出す装置のことである。

  ダマシオの解説は余りにも文学的(装飾が多い)なので、簡略化して要素だけを取り上げると、生命に影響を及ぼす状況に対して情動は効率重視で反応する。これは無意識に行われている。感情は、この情動の影響を意識的に引き延ばし、最終的には過去の記憶、イメージ、推論の連携によって、将来を予測したり、物語を創造したりという非定型的(決まった方式がない、つまり予測不能という意味)な意識的な反応をもたらす。

  単純化すれば、感情とは情動がもたらした、例えば、情動により発せられた快と不快とかの信号を脳内の信号系(ダマシオは「心の言語」と言っているが、大脳皮質や側頭葉等の脳内神経細胞を連結する神経ネットワーク)に変換したものである。脳内の神経ネットワークに変換されたものを「知覚」とダマシオは言っている。余談であるが、ダマシオの解説の問題点はここらあたりの解説の難解性にある。ダマシオがこの本を書いた時代には、まだ、どのような神経ネットワークが形成されるか発見されていないのである。ダマシオは仮説を論理的に説明しようとしたために、説明が冗長になった。近年の研究ではネットワークの形成が視覚化され確認されたようだ。

 

  偏見という言葉がある。人種差別などはその典型的な例であろう。この偏見は、後天的な影響、例えば家庭内での教育、社会学習などによって人種に対して情動的な反応が刻み込まれ、それが脳内にマッピングされて感情を生み出している。多かれ少なかれ、人間というものは偏見、つまり、偏った感情を持っているものなのだ。「二酸化炭素は温暖化の原因であり地球はいずれ火の玉になる」と叫んでいる北欧の少女(今では大人だが)は、科学的根拠の薄いこの見解を事実として信じ、支持するという観念、つまり感情に捕らわれている。信じたり支持すること(観念)が特定の情動を引き起こすからであるとダマシオは言う。観念として脳内にマッピングされた「知覚」というものは、それがどんなものであれ中立的、つまり、快・不快とか、悲しい・悲しくないとか、軽蔑している・軽蔑していないとか(これらは情動そのもの)の真ん中に位置するということはあり得ないのである。

 

  孔子の徳の順序を振り返ってみよう。仁、忠、恕、道、義、礼、智・・・の順番であった。いずれの徳も、感情の発現のあり方そのものである。仁はちょっとおいて、忠は、こころを真ん中に置くことであり、恕は人に対する優しさである。四書五経の中庸にいう中庸とは、外からの刺激によって感情が発現する前の状態のことであった。近代脳科学では、感情が中立的であることはあり得ないので、心を真ん中に置く等は到底不可能なのである。中庸という状態は実際にはあり得ないということになる。自らの感情の状態をできるだけ平静に保つことができるように学習せよと孔子は説く。

  孔子の徳の中の「道」について、孔子は、学習し続けていれば自ずから道は開かれると言っているが、これも理解に苦しむ概念の一つである。「道」とは何かである。

 

  話はちょっとそれるが、先日、仕事をしながらテレビをつけっぱなしにしていたら、樹木希林の声が聞こえてきた。どうも、こういうタイプの女性には若い頃から弱いので、テレビを見たら、「日々是好日」という映画をやっていた。この映画は、森下典子というエッセイストの本を基に、大森立嗣が脚本・監督・脚本し、主役の典子役を黒木華、典子が通う茶道教室の先生役を樹木希林、典子と一緒に茶道教室へ通う従姉役を多部未華子が演じている。女子大生典子と多部は、茶道を習うことにして、樹木希林の茶道教室に通うことにした。茶道では、服紗(ふくさ)のたたみ方、歩き方、たたみのまたぎ方等々、茶室内の一挙手一投足に厳しい決まり事がある。樹木希林先生が、細かく黒木に注意をする。そんなとき、女子大生多部が、「どうしてそんなことをしなければならないのですか」と樹木希林に質問する。ここでの樹木希林の答えが絶妙である。

 「さーて、理由はわからないわ・・・聞かないで」と答える。理由はないのである。これが、茶道という「道」なのだ。茶道を発明した千利休という男はただものではない。茶室内での人間の行動の一挙手一投足に規則を設ける。茶道の鍛錬を続けると、この規則的な一挙手一投足を意識せずにおこなうことができるようになる。つまり、茶室内では無意識に決まり事の行動ができるまで鍛錬を積むことが重要なのだ。無意識化で行動する、つまり情動的行動にまで自らの行為をもっていくということが「道」なのである。

  千利休は、人間の脳は、当初は意識的な反応であっても繰り返し学習(大脳皮質の知覚的行動ではない情動的学習)することにより、情動的学習(理屈抜きの行動)に還元されて無意識の行為となることを発見した。千利休の時代には、まだ儒教は一般的ではないが、禅宗が既に儒釈不二を説いているので、論語の言う「道」という概念についても相当考えたのではないかと思われる。そして行き着いた。狭い茶室の中でお茶を飲む一時の行為を決まり事づくめの行為にしたとき、人は窮屈と感じるか、あるいは鍛錬することで自然の行為として、それこそ朝起きて挨拶をするように無意識な行為とすることができるのだろうか。やってみたらできるではないか。それこそ至福の時(幸福・平静な感情)を過ごすことができる。これが、「道」なのである。

  この映画の基となったエッセイの作者、森下典子という人物に、現代脳科学の知識があるかどうかは全くわからないが、これほど明確に日本の伝統である「道」(華道、香道等の全て)ということを、樹木希林の一言で説明したのは見事である。

 

  映画自体は、何とも退屈な映画であるが、この場面だけでこの映画の価値は十分である。

 

  情動と感情は、密接に関連しているようである。これまで見てきたように、情動にはいくつかの階層があり、その最上階が狭義の情動であるが、この階層のうち基本的情動、社会的情動は、感情という大脳皮質に構築されたマップの影響を受ける。つまり、経験的に得られた記憶、イメージだけではなく推測した記憶、イメージの影響も受け、結果として、ある条件があれば無意識化の情動的反応となる。

 

  さあ、これまでも何度か登場した、孟子の四端の意味がわかってきた。四端の第一は、「惻隠之心、仁之端也」である。惻隠とは、人の不幸を見過ごせないこと、憐れみといった意味であるが、もう少し踏み込むと人の抱く深い悲しみであり、これは、まさに基本的情動そのものとなる。動物と異なるのは、感情が伴うことである。人の苦しみ、悲しみ、恐怖といった状況を脳内マップに自分の記憶、推測イメージと重ね合わせることで、情動に影響を与え無意識の行為(泣く、抱きしめる、表情が変化する等々)として現れなければならない。孟子は、こういった情動的行動のないものは人ではないと言う。仁とは、以前にも書いたがまさにこのことである。

 

  感情は知覚であるとダマシオは言う。知覚とは、視覚のように見た情景が脳内のマップとして記憶されることであるが、感情も同様に、情動を脳内マップとして記憶する。この情動は、外的・内的な身体影響だけではなく過去の記憶、思考したイメージからも情動が誘発され感情の知覚となる。

  感情とは、実に複雑なのだ。わからないのは女性の気持ちと言うが、女性だけではない。そもそも極めて複雑怪奇なのである。

  次回は、ダマシオから離れてもう少しわかりやすい脳科学を見てみよう。

2025/02/28