この国の精神 自由という幻想 ―自由意志=選択という思想―
秋 隆三
<ギリシャ神話の神々の自由奔放>
最近、娘とギリシャ神話の話しをした。「ギリシャ神話の最高神ゼウスには欲望がなく幸福だった」と私が言うと、娘が「そんなことはないわよ。ゼウスは浮気のし放題でしょ」と言った。その通りだ。反論の余地がない。しかし、待てよ、ギリシャ・ローマ人が何百年も信じていた最高神ゼウス、神をそこら辺にゴロゴロしている女好きな男達と同じと考えたのだろうか。ホメロスも、ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、ずっと後の時代のエピクテトスも、ゼウスを単なるエロじじいと考えていたのだろうか。
2~3日考えていると、フッと気がついた。二回前に書いたプラトンの「饗宴」で説明されていた。ソクラテスは、女性哲学者ディオティーマからの知識として次のように神について説明した。
「ソクラテスは、教えてもらった「愛の神(エロス)」について話を始める。ディオティーマは、「愛の神」は、偉大なる神ではなく、偉大な神と死すべきもの(人間)との中間にあり、それはデーモン(ダイモーン、鬼神)なのだと言うのである。つまり、人間と神との交信の役割をし、神官の業(わざ)(予言、呪術、魔術、占い等々)などはその代表的な業であると。世の中には、ダイモーンの数は多く、種類も様々であり、「愛の神(エロス)」もそのダイモーンの一つなのだと言う。」
偉大なる神々と偉大ではない神々とは異なるのだ。偉大なる神々には欲望という概念は存在しない。しかし、欲求はある。つまり、人が持つ、食欲、性欲、嫉妬、怒り、快不快、美醜といった欲求(情動)は、偉大なる神々からの授かりものなのである。欲望は、欲求によって発現された人間の能が生み出す人間の特性なのだ。ドーパミン神経系である。ダイモーンはさしずめドーパミン神経系ということにもなろうか。欲求だけであれば、欲望とは言えない。
偉大なる神々には欲望がない。しかし、欲求があるから浮気もすれば子供も作る。当然、嫉妬もあれば怒りもある。それでも神々の世界は幸福なのだ。つまり、人間社会の道徳・倫理、善と悪なるものは、神々の世界には存在しない。偉大なる神々は幸せに満ちているのである。
神の概念は、古代ギリシャ神話から徐々に成長することになる。
<日本国債が大量に売られていた?>
長期金利が3%に上昇したそうである。長期金利が上昇したということは、長期国債の売りがあったということだ。そこで、ここ2年程度の日銀保有の長期国債残高を調べてみると、2024年3月末で590兆円だったのが2026年3月末には約500兆円となっている。2年間で90兆円もの国債が売られていた。長期金利が上昇するのも当たり前である。長期金利が上がれば、借換債(長期国債の60年借り換え)の固定金利も上がる。つまり、国債を買う方からすれば、借換時期が到来する旧国債(低金利)を日銀から買って、借換債の高い金利の国債で保有した方が有利である。
一方で、日本の対外経常益は、年間でおよそ35兆円、企業の海外投資もほぼ同じ35兆円規模である。この数年続いた円安を生み出している要因として、こういった状況も考えられるが、最大の要因は、年金機構の資金運用だろう。約300兆円の資金の50%、150兆円が海外で運用されている。次いでNISAであるが、海外買い付け額の累計が70兆円を超えているそうである。この二つの海外資産買い付けによって円安に拍車がかかったとするのがどうも妥当なところである。日本長期国債の固定金利が3%台になれば、年金機構の資金を国債に振り向けた方が資金運用は安定化する。
日銀の国債放出額が多すぎたのだ。二年間でせいぜい50兆円程度に抑えながら長期金利の様子をみるというのが妥当なところだろう。年金機構については、短期的には年金額引き上げ助成を、少子化対策を半分に削ってでも実施すべきである。
年金機構資金の海外運用についてはかなり厳しい運用制限が必要だと思われる。さらに、企業の内部留保資金については、安易な海外投資、海外資金運用に対するブレーキと賃金・国内投資に対するアクセルという経済誘導施策が本格的に必要となっている。何せ、日本の企業は、独自に行動できないのだから。
<トレードオフと自由>
最近、トレードオフについて考える機会があった。トレードオフとは、「あちらを立てればこちらが立たず」、「コストと品質」など、「一得一失」、「二律背反」、「二者択一」などと訳される。つまるところ、二つの物事が矛盾している状態のことである。
こういった関係は、古くから物語や文学・演劇の題材となってきた。日本であれば、歌舞伎の題材である近松の心中ものや、浪曲・講談の義理と人情ものなどである。現代では、マイケル・サンデルの「これからの正義の話をしよう」でも取り上げられている、「線路上の一人をひき殺すか、5人を殺すか(5人だったか3人だったかは忘れた)」という倫理問題などである。
このトレードオフという思想がはやり出すのは、それほど古いことではなく、戦後の経済成長期からだそうである。経済学には「機会費用(Opportunity cost)」という言葉がある。二つのうち一方を選択した場合、片方を選択したとしたときに発生する費用のことを言う。経済活動が活発化し、投資機会が増えたことが要因であろう。さらに、環境問題が浮上すると、経済成長か環境保護かという問題も生じた。
しかし、考えてみるとトレードオフという状態は本当に存在するのかという疑問が湧いてくる。例えば、前述のサンデルの線路上のどちらを選択するかという問題も、電車の方で線路の方向を切り替えることなど不可能である。路面電車であれば、電車側で切り替える方法もあるが、路面電車が急ブレーキをかけても短距離で止まれない程のスピードを出すことはないからこういった事態にはなり得ない。現実に起きえないモデルをいくら考えても倫理的思考の訓練にはならない。
任侠映画で見られる義理と人情の板挟み等もその代表的な例であろう。親分子分の関係(義理)と友人関係という人情との板挟みである。義理と人情のどちらを選ぶか?
社会的規範、慣習は時代的倫理となり、個人の価値観を形成し、人は思考の罠に陥る。戦後の経済成長時代には、洋の東西を問わず企業戦略・投資計画、コストパフォーマンス等様々な意志決定モデルが考案され思考方法としてトレードオフが流行した。思考の罠の典型的な例である。現実の経済活動においてこういった二者択一となる事象は存在しない。商品構成、対象市場の転換、技術的互換性等々、視野を広げることで問題の解決策は広がるのである。
トレードオフとは、相矛盾する二つの物事のいずれを選択するかということである。つまり、二者択一の選択問題なのだ。さて、エピクテトスならばこのような二者択一問題にどのような説明をしただろうか。選択とはエピクテトスが言う「意志」つまり自由意志のことだからだ。「義理をとるか人情をとるか」となれば、「義理」は自己と他者との関係の問題、つまり、「力の及ばないもの」であり、自分の自由になるものではない。人情は感情の問題、つまり「力の及ぶもの」であり、自由な精神、自由意志の問題となる。「義理」はとりあえず人間社会では必要なのだから耐え忍べということになり、「人情」は人と人つなぐ感情なのだから我慢しろということになる。例えば、恩ある人を裏切らなければ古い友人の苦境を助けられないとする。恩ある人に対しては、裏切りではないことを理解してもらえるように理性的な説得をし、古い友とは少し感情を抑えて、何とか乗り越えよということになる。つまるところ、一方は理性的に対峙し、一方は感情を抑え、まあうまくやれということになる。これをうまくやるためには、豊かな知識と精神の自由=思考力がなくてはならない。義理も人情も人間社会では必然なのだ。
早稲田大学の第二校歌に「人生劇場」という歌があるが、昭和13年、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲で発表された。歌の元になったのは、昭和8年に発表された尾崎士郎の「人生劇場」である。この歌謡曲の三番最後に、「義理と人情のこの世界」という一節がある。この世では、義理と人情は切り離せないのだ。
二律背反の関係の代表的な例は、「自由と平等」である。両者とも一定の条件下で、かつ一定の水準でこの世界に存在しなければ、民主主義は成立せず、資本主義は崩壊する。完全な自由、完全な平等などは存在しないのである。
トレードオフ、二者択一、二律背反という選択の思想は、この思想を活用することが都合の良い人間達が作り出したものなのだ。二元論的選択思想、あるいは論法であるが、東洋思想、特に日本では近松の心中ものなどで見られ心中が流行する。だが、意志として一方を選択し一方を捨てるという思想ではない。ちなみに、恋は病気である。ドーパミン系が異常に活性化された薬物中毒のようなものなので、選択という知的活動が抑制される病気である。仏教の一切行苦・諸行無常・諸法無我、儒教の徳である「道」に見られるように、精神の自由を磨けば、「道」は自ずから開け、一本の道につながるのである。西洋における「道」は枝分かれしその都度選択しなければならないが、日本の「道」は逆に一本の「道」に行き着く。
トレードオフという選択思想は、第二次世界大戦後、世界が経済成長時代を迎えたことにより生まれた詭弁である。ジャーナリスト、政治家、経済人、学者達が、人間の感情、脳の罠(トラップ)につけ込むことができる都合の良いモデルを作り上げたのである。社会・経済が複雑になればなるほど、本来は、二者択一の選択思想などはなくなるはずである。なぜなら知識が増え精神の自由が羽ばたくからである。そのためには、エピクテトスの言うように、「耐え忍び、我慢」をさらに必要とするのかもしれない。
<近現代の自由>
ローマ時代から一気に近現代の「自由」へと飛ぶ。エピクテトスの「精神の自由(=絶対的自由)」は、その後、キリスト教の広がりとともに「意志の無力」へと変化し、キリスト教が支配する長く暗い中世を迎える。宗教改革、産業革命を経て、カントが意志の自由、ロック、ルソー、ミルが個人の自由を論じる時代を迎えた。18世紀後半から19世紀にかけての近世まで、実に1500年間に亘りヨーロッパはキリストに支配されていたことになる。
次回は、近代の自由思想の原点をジョン・スチュワート・ミルの自由論で迫ってみよう。
2026/09/15