この国の精神 自由という幻想 ―ストア哲学の自由・エピクテトス(3)―
秋 隆三
<イラン戦争の終結と株価の高騰>
イラン戦争もどうやら終わりそうであるが、イスラエルの出方次第ではどうなるかはわからない。株価が7万円に達した。と言っても、半導体関連株が異常とも言える高騰を続けている影響だが。日本の企業は、総じて、円安の影響から業績は好調である。にも関わらず、半導体関連株を除いてそれほど株価は上がっていない。この現象はすでに2年近く続いている。
ところで、米国株価の指標には、ダウ工業株平均、S&P500等があるが、日本株と比べて桁違いに大きい。ちなみに、S&P500の時価総額は約1京円であるが、日経225の時価総額は約1000兆円であり、企業数を同じにするため仮に日経225を2倍にして時価総額2000兆円にしたとしても、米国株の時価総額は日本企業の5倍もある。
米国は、人口が日本の3倍、国土面積は26倍、GDPは5倍から6倍である。米国の製造業が少なくなったとは言え、それでも日本よりは多いだろう。米国株の時価総額を引き上げているのは、GAFAMの2400兆円、スペースXの400兆円、Nビデアの800兆円の合計3600兆円によるものである。
これらの企業が何か製造しているかと言えば、まあ少しは製造しているが(研究・開発・試作等)、大部分は外部企業への委託製造である。実態は、ソフト産業・サービス産業なのだ。日本の主要産業の大半は、製造業となっているため、米国の時価総額3600兆円にのぼる8社と比べて、生産性は極めて悪くなるのは当然だ。日本の生産性が低いというが、当たり前である。
ちなみに、1990年1月のNYダウは2,810ドルであり30年後の2020年10月には28,586ドルと10倍に増加している一方、日経平均株価は、1989年12月には38,915円だったが2020年には25,000円を下回っている。この30年間の年間平均所得は、米国で2.5倍、日本は430万円前後と変わらない。
円安もうなずける結果ではないか。確実に日本は貧乏になっているのだ。だれがこの国を貧乏にしたのだ。
<貧乏国日本?>
それにしても、我国の賃金・年金の上がり方が遅すぎる。調べたわけではないが、ヨーロッパのガソリン価格は、デンマークが400円、フランス・ドイツで300円というから、およそ2倍である。
平均年収をみると、軒並み1000万円かそれ以上になっているではないか。日本は、まだ500万円に達していないという。勿論、円安のため単純な比較は難しいが、それにしても日本は低すぎる。ヨーロッパの物価も高いが年収も高い。これが世界なのだ。このままでは、日本は潰れる。
円安が続いているが、ドル高、ユーロ高なのだからもはや円安とは言えない。経済学的に日本と欧米の現在の為替状況を説明することは難しいが、既に、円安状況が3年以上続き、さらに進むとなると、欧米の物価・賃金水準と日本との間に、実質的格差が生じたと考えることが妥当である。つまり、欧米ではコストプッシュを実態経済に適合させたということである。日本の場合、コロナ以後、種々の補助金政策を継続させたために、市場におけるコストプッシュ対応が遅れてしまった。つまり、賃金上昇、年金額上昇への対応が遅れてしまったのである。この市場対応遅延状況は今も続いている。欧米の貧乏と日本の貧乏とでは、質が違うのである。
さて、こういった状況を改善するための経済財政政策はあるだろうか。ある! 今の消費経済に影響を与えるのは、人口の3割に達する高齢者の年金額と消費動向である。平均年金額を5年間で現在の1.7倍に上げる。それも、低年金部分に高く、高年金部分を低くする傾斜型の年金支給額増額政策である。高齢者が多くの年金をもらえれば、貯金などに向かうはずはない。明日死ぬかもしれない高齢者だ。できるだけ使って死ぬ方がましというものだ。年間どれぐらい財政出動するかというと、毎年年平均12万円増額すると高齢者3千万人(70歳以上)で3兆6千億円、5年間で約54兆円である。その後は、賃金上昇により社会保険料収入も増加する。さらに、社会保険料負担上限額を段階的に上げ、最終的に撤廃すれば良い。その代わり、相続税は廃止する。
さらに、75歳以上の高齢者のホスピスの整備である。毎年10万人10年間で100万人(収入額一定額以下で認知症・要介護等)に対して、年間一人当たり200万円程度の無料サービスを実施するとして総額10兆円の財政負担を行う。全国、山村に1万カ所以上のホスピス施設を整備する。都市部には絶対作ってはならない。施設への入居は全て無料である。施設整備は、公共事業を増額し、既存廃棄・未利用施設の再利用が原則である。この施策によって介護保険を廃止する。これだけで、個人の税負担額は平均10%以上低減となるはずである。
この両方を合わせても10年間で総額66兆円の財政出動である。安定財源が必要だと言うだろうが、当面(3年程度)は、国債費(償還部)と外為特会で十分対応可能である。その後は、5年間で賃金が現在の倍になるので社会保険税・所得税収入が増える。しかし、5年後から確実に高齢者人口が減少するので、財政支出は年々減少し、10数年後には再整理が必要になる。といっても、賃金上昇・インフレの進行速度が速いので5年を待たずに税収は急激に増加し、円高にはならないから財政的にはかなり潤沢な状況となる。
頭の良い、官僚諸君ならばこのぐらいの計算はお手のものだろう。この程度の改革を断行しなければ、日本の再生は望めない。
<消費経済とは何か?>
いずれにしても、消費経済システムへなかなか移行できず、旧来の供給型経済システムから抜けきれない日本の経済システムの状況が浮き彫りにされていると言えよう。
何故か?日本には、市場そのものの中に経済システムの暴走に対するブレーキ機構が備わっていないのである。「市場が暴走したときには、国家が介入する」というのが日本の、否、日本の経営者・政治家・官僚・経済学者の常識となっているからである。欧米は、リーマンショックで学んだ。コストプッシュ型のインフレが加速したときには、物価上昇と同時に、あるいは先立って賃金を上げるという経済ブレーキだ。つまり賃金全体を底上げすれば、インフレは自然に治まる。それもできるだけ速く底上げすればそれだけ速く安定に向かう。そのためには、物価上昇と同時に賃金も上げれば良い。企業の資金不足には融資・債券・株式で対応すれば良いので、信用創造が起こり金融も拡大する。政策金利や財政出動等は、経済手法としては下の下なのである。
ところで、「もしも月給が上がったら」という昭和歌謡をご存じだろうか。昭和12年、サトーハチローの作詞である。この歌詞の中で、「いつ頃上がるの、いつ頃よ」という部分がある。この時代、春闘なるものは存在しない。厳しい世界不況の中、いつ給料が上がるかという見通しのない時代であった。春闘という年1回の賃金闘争は、1955年に始まったとされる。まさに、自民党の誕生と同時期に始まった日本型社会主義体制である。
もはや、仕事を天職と考え、分配を美徳(Stewardship:ルカ伝)とする道徳・倫理は、現代金融資本主義システムのブレーキ機構とはなり得ない。年1回の賃金交渉等では、変化の速い金融資本主義には対応できないのだ。経済変化に対応するには、賃金上昇を優先することが不可欠である。企業がこれを実施出来なければ、市場から撤退せざるを得ない。日本は今この崖っぷちにあるとも言える。600兆円を超える内部留保を有しながら、バブル経済崩壊の呪縛から抜け出せないまま、中国投資という安易な投資に踏みだし、新たな経済システムへの挑戦を怠ったツケを精算する時代を迎えた。
年1回の賃金改定などは止めて、企業が独自に、いつでも必要に応じて賃金を改訂するシステムに変更する必要がある。企業のこの迅速性の如何によって人材獲得・市場獲得に優劣が出る。今、多くの上場企業は業績が上向いている。痛みは伴うが、中小企業を再編成する時代を迎えた。これが消費型経済システムへの転換ということだろう。
とてもこんなこと無理だと思う人もいるだろう。しかし、思い出してもらいたい。1960年、時の総理大臣池田勇人は、「所得倍増計画 10年計画」をぶち上げ、7年で達成した。
令和の所得倍増計画が必要だ。
<語録・要録(人生談義 上下 國方栄二訳 岩波文庫より)>
この間、テレビを見ていたら、NHKのストリートピアノというか駅ピアノというか、の放送があり、アフリカ系の若者がピアノを弾いていた。あまりうまくはないが、弾き終わった後、彼は、「ピアノを弾いていると全てから解放され自由になれる」というようなことを言った。ピアノを弾く行為の時だけ、彼は「自由」であり、それ以外は「自由」ではないのだろうか。彼の言う「自由」とは何なのだ。エピクテトスの言う「自由」と同じ概念なのか?
「語録」は、全4巻95章で構成され、講義禄と言われている。道徳倫理を説いたものというよりは、理性、精神、自由といった人間の本性や哲学的手法・論法について書かれたものである。参考までに目次の一部を挙げておこう。
第1巻
第1章 われわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの
第2章 どのようにして人はあらゆる場合に人格にかなったことを保持することができるのか
第3章 神が人間の父であるということから、どのようなことが結果するのか
第4章 進歩について
・・・・・・・
第7章 転換論法、仮定論法、及び同類のものの使用について
・・・・・・・
第2巻
第1章 大胆であることと用心することは矛盾しないこと
第2章 心の平静について
第3章 哲学者を推薦する人びとに対して
・・・・
第8章 善の本質について
・・・・
第11章 哲学の始めは何であるか
・・・・
第3巻
第1章 おしゃれについて
第2章 進歩しようとする人は何について訓練しなければならないか、および、われわれは最
も大事なことをおろそかにしていること
第3章 優れた人の対照となるものは何であり、とりわけ何を目的として訓練せねばならない
か
・・・・
第13章 孤独とは何か、どのような人が孤独なのか
・・・・
第24章 われわれの力が及ばないものに執着してはならないことについて
・・・・
第26章 困窮を恐れる人びとに対して
第4巻
第1章 自由について
第2章 交際について
・・・・
第10章 何を軽蔑すべきか、何において優れているべきか
・・・・
目次からもわかるように体系的な解説書・教科書ではない。道徳倫理学、例えばアリストテレスのニコマコス倫理学では比較的体系的に記述されているが、人の本性を究明するには、近代の科学的進歩、学問的蓄積、近代哲学までまたなければならない。哲学的論理体系を作るために、人類は、気の遠くなるほどの時間を思考実験にかけた。
「論語」も同様に、論理的・体系的な構成にはなっていない。しかし、論語は、冒頭の第1編学而において基本となる知の本質である学習思想を単純であるが難解な表現で示し、以後全20編500文を超える短文を学習思想の教科書としている。
一方、「語録」では、第1巻第1章で「われわれの力の及ぶものとわれわれの力の及ばないもの」というテーマを掲げ、これから展開される人の精神(魂、心)を構成する要素である理性、意志、心像について示した。
それでは、エピクテトスは「理性」をどのようなものと考えたのだろうか。彼は、まず「理性」以外の能力について例をいくつか挙げて説明する。「読み書きの能力には、どの程度まで考察する力があるのか。書かれた文字を識別するところまでである。音楽の能力はどうか。旋律を識別するところまでである」。こういった能力には自分自身を考察する能力があるのかと言えば、「けっしてないのだ」と彼は言う。友人に手紙を書こうとして書くべき言葉に困るような場合には、読み書きの能力が教えてくれるが、友人に手紙を書くかどうかについては、読み書きの能力は教えてくれないのだ。
それでは、どんな能力が友人に手紙を書くかどうかを教えてくれるのか? それは、「理性」なのだと。この「理性」という能力はわれわれに備わっているものだと、そして、この能力は様々な「心像」を用いる能力だとも言う。「心像」(パンタシアー、ファンタジーの語源)とは、心で描くイメージのことである。例えば、「黄金が美しい」とは我々の心が言っているのであって、黄金自体は何も言ってはいない。
そして神々はあらゆることのうちで最も優れた最も大切なこととして、心像の正しい使用だけをわれわれの力の及ぶところに置いたのだと説明する。つまり我々に理性が備わっているのは神によってなされたと言うのだ。さらに、「意志」はゼウスであろうと支配することはできないと。
ここでエピクテトスは、「意志」とは何かを説明してはいない。「意志」については、「語録」「要録」のかなりの部分に登場する。
「意志」とは、ギリシャ語でプロアイレシスと言い、「他に先んじて取る」という意味である。つまり選択すると訳される場合が多い。
ところで、日本語ではこの「意志」以外に「意思」も用いられる。「意思」は行為を伴わない思考、思い、考えを意味し、「意志」は行為を伴う考えである。例えば、洋服を買うかどうかと迷っているときは、洋服を買う意思はあるといい、値段は張るがあるブランドの洋服を買うことに決めた場合には「意志」である。英語では、「意思」をintention や mind、「意志」は will や determinationと訳す。最近の報道をみるとどうもここら辺はかなり曖昧となっており、どちらの場合も「意思」を用いている。
経済学に支払意志(WTP willingness to pay)という用語がある。英語をそのまま訳すと「意志」であるが、なぜか日本では「意思」、つまり支払意思と訳している。昔は支払意志としていたのが変わったのである。支払意志とは、仮にある商品を買うとした場合、あなたならいくらで買いますかと問われたとき、○○円なら買うという決断のことである。この場合、商品の価値をあれやこれやと比較考量し、さらに買いたいという衝動と収入の関係も勘案して買うことに決めたことなので、「意志」が相当である。これが「支払意思」となると、思い悩んでいることになり、どんな価格であっても必要がなく買わないこともあり、ほとんど考えずに決めるという意味も含まれる。従って、支払意思額を経済学的手法で測定し評価したということは、「意志」のない人も含めていることになるからほとんど当てにならない評価だということになる。
横道にそれてしまったが、エピクテトスが言う「意志」とは、行動を伴う思考であり、感情とそれに伴う行動の説明として用いられた。
エピクテトスは、この意志と自由とについて考えた。「われわれの力の及ぶもの」とは、欲望、嫌悪、忌避、衝動、判断などである。つまるところ、脳が反応し、想像し、思考していることだけが「力の及ぶもの」だと考えた。それでは「力の及ばないもの」とは何か。肉体、富、財産、評判、地位、名声などは、脳内の思考ではどうにもできないので「力の及ばないもの」となる。この「力の及ばないもの」に自己の肉体がある。病気になれば何とかしようとしても自分の力では何ともならない。心と体は別なのである。つまりデカルトにつながる心身二元論は、エピクテトスに始まり、デカルトまでの1500年間にわたり西洋思想、宗教思想の中核をなし、「力の及ぶもの」の能力の鍛錬が必要と説き、カントのコペルニクス的転回まで面々と続くことになる。
「力の及ぶもの」だけが、われわれの自由になるものである。「意志」だけが「妨げられず強制されることもなく」、「ゼウスであろうと支配することはできない」のであり、これこそが人間の自由なのだと。従って、精神の自由とは、「自分のものでないものをなにひとつ求めない」ことであるという論理展開となる。自我の存在とその確立である。
<耐え忍び、我慢せよ>
「心像」とは、イメージのことである。自分の心に浮かんでくる全てのことである。金が欲しいと思うのは、金そのものではない。金に対する思い、例えば思い切り贅沢ができるとか、金があればうまいものが食えるとかといった思い、イメージであり、これを心像と呼ぶ。こういった心像、つまり欲望とどのように向き合えば良いのか。エピクテトスは、鍛錬だと言う。
この鍛錬を行うには三つの段階を踏まなければならない。この段階のことをトポス(領域)と呼んだ。これは感情(パトス)の発現段階に呼応しているという。
第一段階は、目の前の対象に対して欲求か忌避かであると。人が欲しているのに得られない場合、逆に、欲していないものを得る場合という論法で説明する。欲しいものが得られた場合には関係ないのである。こういう状態が生じると、例えば、自分が欲しているものを得られず他人が得た場合には妬みが生ずる。この第一段階の感情には、不安、嫉妬、混乱等があるという。こういった感情を生じないようにするためには、自分の力の及ばないものを望まないようにすることだと。
第二段階は、衝動と反発である。第一段階の感情が発現すると自分以外の人あるいは社会との関係においてしかるべき行動が求められる。「語録」では、「神を敬うものとして、息子として、兄弟として、父として、市民として、生まれながらの関係と生まれた後に得た関係を保つのでなければならない」と書かれている。自己と自己以外の人との関係をうまくやれということである。つまり、人との関係には果たさなければならない義務があり、その義務が何かを理性的に考えよというのである。
第三段階は、欺かれないように性急な判断しないことである。理性的に評価判断した心像(イメージ)、例えば酩酊したときの心像などによってだまされることのないようにしろと言う。
感情の発現に対して以上の訓練を行うことで、人は平常心(ものに動じない心、アパティア)を得ることができる。そして、これこそが哲学の求める境地であると。
意志の強さは、限りなき自由を人にもたらし、それは最終的に自死をも容認することとなる。自死を容認するか否認するかという議論は、キリスト教におけるパウロの意志の無力や、後世のキリスト教における批判等々、多数見られる。最近では、安楽死がフランスで容認され自死を人の意志、尊厳として考えられるようになったことを考えると、エピクテトスが人類史上、初めて唱えた精神の自由についての議論は現代にも通ずるものである。
さて、こういった感情は、人が他人と接し、社会と接したときに発現するが、とかくこの世は住みにくいのは日本だけではなく、2千年前のローマでも同じであった。ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、「自省録」の中で次のように述べている。
「その時がくるまで(死を迎えるまで)、どうすれば足るのか(罪過なく平穏な日々をおくれるのか)。神々をうやまい讃え、人間に善事を施し、彼らを「耐え忍び、我慢すること」以外の何であろう。またすべて君の哀れな肉体と小さな息の及ぶところにあるものは、君のものでもなければ君の自由になるものでもないのをおぼえていることだ。」
「耐え忍び、我慢する」とは、人間関係・社会環境が自己にもたらす様々な困難に耐え忍び、自己の内から生ずる様々な欲求を抑制するということである。英語では、sustain and abstain と言う。忍耐と我慢、これこそが自由への道でありエピクテトスの根本思想であると言えよう。
ちょっと話はそれるが、SDGsのS(sustainable)はこのsustain(耐え忍ぶ)が語源である。転じて、構造物を下から支えるとなり、さらに転じて持続可能と意訳した。サステイナブルを持続可能と訳し、SDGs(Sustainable Development Goals)を持続可能な開発目標とすると、何となく災禍なく発展的なイメージとなるが、この言葉には「耐え忍べ」という意味が内包されている。さらにストア派哲学の素養があれば(ヨーロッパの知識階級など)、「我慢しろ」という意味と連動していることも理解できる。つまり、欲望を抑えた開発目標なのである。現代の金融資本主義システムの状況下において、こんなことは到底不可能である。欲望の資本主義に対する余りにも安易で古典回帰的発想だと言わざるを得ない。新たなブレーキ機構をどのように創造し、欲望の資本主義に組み入れるかは現代人及び未来人に課せられた大きな課題である。
<脳科学からみた若干の考察>
エピクテトスの精神の自由とは、自我の確立と、感情の制御であった。
「自我」の存在は、このエピクテトス以後、キリスト教思想を通じて、神から譲り受けた理性とともに現代に至るまで西欧社会では確固たるものであった。しかし、近年の脳科学の進歩からも、「自我」に関する機能はないことがわかりつつある(トーマス・メッツィンガー 「エゴトンネル」)。自我の意識は、錯覚なのである。社会との関係性の認識によって相対的に自我を意識するように捏造されるのだ。仏教思想では、古代仏教においても「無我」である。孔子においても、自我に関する論究はない。学習、知の極みによる徳(感情の抑制と発現)の向上にある。基本的な徳(孟子の四端)は、生まれながらにして人に備わっているのである。
精神の自由においては、感情の抑制による平穏こそが必要だと説く。「思考停止社会」でも説明したように、情動は、自動装置である。考える前に作動している。快不快等の情動からの信号は、感情に至る事前の情報として自動的に反応し、結果として前頭葉でマッピングされ感情として発現し、行為へとアウトプットされる。感情の発現は、事前に捏造して記憶した内容によって様々に異なるが、「耐え忍び、我慢する」という経験による過去の反応(アウトプット)の記憶と思考記憶が感情の発現に影響することは間違いない。王陽明が言う「事情磨錬」(実践を通して(事にあたって発現する心(情))知識・精神を磨く)である。理性、つまり思考のみによって感情を抑制することは不可能なのである。エピクテトスの言う「力の及ぶもの」=理性の鍛錬のためには「力の及ばないもの」との関係が不可欠なのであり、脳科学的にはエピクテトスの心身二元論は間違いなのである。
このように脳科学は、カントに至る西洋哲学の前提となる脳の働き、対象の認識、感情の発動について明瞭な結論を与えている。例えば、デカルトの認識哲学に対してコペルニクス的転回と言ったカント哲学とは、脳科学的な対象認識で言えばどちらも変わりはないのである。コペルニクス的転回でも何でもない。この後の哲学的論理展開に違いがあるのである。デカルトは認識が間違っているのではないかという仮説から始め、論理を積み上げる(理性的推論)ことで絶対的真理に至ると考えた。一方、カントは、感性・悟性というフィルターを通して物事を認識しているのであって、理性には限界があると論じた。脳の認識という機能が同じであっても論理的展開の仕方によっては行き着く先は違うのである。これは私見ではあるが、デカルトには神の存在は自明であり、信じ込んでいたのではないかと思われる。つまり、神の存在に関する頑迷な偏見である。カントは、神の存在に関する偏見がなかった。デカルトと同時代のスピノザは神を否定することで新たな哲学を開いた。
知的生命体である人間には思い込み、偏見という特性が備わっている。この罠にはまると一朝一夕には罠から逃れることはできない。ローマ時代のエピクテトスも、1600年後のデカルトも罠にはまったまま哲学的論理展開を進めた。西洋哲学の主たるテーマである「精神の自由」は、我々の理性が生み出した幻想なのである。妄想といった方が適切かもしれない。「自我」がないのだから「精神の自由」があるわけがない。
現代においても、「自由」という幻想を求めて戦争し、経済は暴走している。
2026/07/26