「シュミットさん」
プロバンスロケの時に、
ホテルレストランのメートルデーのシュミットさんにとても良くしてもらいました。
シュミットという名前からしても、彼はドイツ系なのでしょう。
ノルマンディー地方でなく、南仏の片田舎に、なんでドイツ系の人がいるのか
とても不思議になりました。
そういえば、トスカーナにロケに行ったときに、農園主の奥さんはドイツ系でした。
なんで、ドイツ系なのに南仏にいるのか、
聞いてみようとも思いましたが、
シュミットさんの、ドイツ人らしからぬ謙虚さと、物腰の柔らかさ、
それに彼の目に何か物悲しいものを見たので、
聞かないことにしました。
それでよかったと思っています。
時期的に、私は、父を亡くした直後だったので、
シュミットさんのやさしさが、とてもうれしくて、
救いになりました。
「自分の撮った写真は」
言葉で説明できないと意味がないと思います。
ニューヨークでは、ギャラリーや、出版社に売り込むために写真を見せると、
必ず写真の説明を求められました。
これはフランスも同じ。
聖書の国ですから。「はじめに言葉ありき」です。
まず言葉があってそれから写真を撮るという習慣ができてしまいました。
自分の写真を説明すると、
さらに質問が来ます。
そうすると、さらに説明が求められるわけです。
こちらは、段々と観念的に武装していきます。
特に英語で考えると、日本語的な曖昧さは許されません。
こういった作業の上に、次第に自分のスタイルとか強さがでてきます。
このプロセスを写真教育に用いた有名なアートディレクターがいます。
彼は、
その方法でリチャード・アベドンやヒロといった巨匠を育てました。
私がニューヨークで得た最も大きな収穫です。