風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -75ページ目

「作戦?」
「そ」
「なにを……するの」

「んーとね」
美裕は、膝の上に乗せたランドセルの中から赤い液体の入った小瓶を取り出した。それも二つも。
「ほら、万年筆のインク」

彼女の企てた作戦は、僕をすごく躊躇させた。

「中学生ならいざ知らず、相手はたかが小学三年生よ」
初めて出会ったころから、美裕は時々、大人みたいなものの言い方をした。

「知らんぷりして靴箱に近づいて、そっと扉を開けて、シャッと引く」
うんうん、凄い早さでシャッと引く。美裕はしぐさを交えた。

「そのあと、どうすればいいか、教えてあげるからね」
そしてまた、空を見上げた。



「高橋、どうした」担任の先生が、廊下側の席に驚いて歩み寄った。
「いえ、なんでもないです」
「血じゃないよな」
「違います」
その顔は、今にも泣きだしそうにゆがんでいた。
「インクかこれ」

「靴が盗まれたんです」窓際に座る僕の声にクラスが静かになった。
「僕の靴が、盗まれたんです」
「え、いつの話だ」
「昨日です。靴箱から消えたんです」
「勘違いじゃないのか?」
「いえ、そのための犯人捜しです」僕は高橋を指差した。


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何かを置き去りにしながら、季節は巡る。

忘れてしまったものや、思い出したくないもの。
忘れてしまいたいものや、思い出せないものたち。

人は思い出に励まされたりもするけれど、嫌なものを忘れるからこそ生きていける。
忘却が人を正常たらしめる。

ところが、水底に沈めたはずの記憶がぷくりと浮上して、心を乱すことがある。

「消えなよ」
僕の苦悶のつぶやきは、闇に吸い込まれて同化する。
切ない思いも、苦い思いも黒になる。

黒は喪の色、宇宙の色、始まりと終わりの色。

痛みが去るまで、ゆらりゆらりと、黒に漂う。


ボビー・コールドウェル 風のシルエット
Bobby Caldwell/What You Won't Do for Love



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平和をかき乱す怪物は、あるとき突如出現する。
腹を震わすような咆哮(ほうこう)とともに、辺りに腐臭をまき散らしながら現れる。

気づかれないように身を潜め、そっと息をする。
ドクンドクンと、鼓動がうるさく耳を打つ。その音さえ聞かれてしまいそうで、心臓が喉元までせり上がる。

恐る恐る顔を上げると目が合ってしまう。
な、なんてことだ!

思考が空転する。立ちすくみ、後ずさる。

怪物がこちらに一歩踏み出してきた。
すぐさま背を向け一目散に走りだす。けれど膝に力が入らない。足がもつれる。自らの荒い呼吸が世界中にこだまする。

その怪物は、醜悪な匂いを振りまきながら、背後に迫ってくる。
バッサバッサと、地を踏むのか宙を舞うのか判別できない音が聞こえる。

今にも首筋に噛みつかれそうで、叫び声をあげ、突っ伏し、耳をふさぎたくなる。

足が動かない。
誰か助けて!
君はしゃがみ込み、耳をふさぐ。



その誰かなんて、都合よくは現れないことを君は何度も学んできた。

逃げるから、転がる雪の塊がどんどん大きくなるように怪物が追ってくるのだ。

解決策はひとつしかない。
勇気を振り絞って、立ち止まって、振り向いて、近づけば、それは思ったほどの怪物ではなく、すぐさま消えるのだ。

少し微笑んで近づけば跡形もなく消え去る幻なのだ。

あと少し、もう少しだけ、君に勇気がわきますように。
あと少し、もう少しだけ、君が自信を持てますように。

君が君らしくありますように。


ライディーン/YMO


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「あ、ところで足のサイズは?」
美裕は突き出した手提げのビニール袋を、ちょっと引っ込めた。

「21センチだけど」
「ちょうどいい!」

再び突き出された手提げ袋を僕は受け取った。
中を見ると、シューズが2足入っていた。そのうちの1足は明らかに僕の盗まれたものと同じだった。というか、どこかに捨てられたのだろうけど。

「なにこれ」
「弟がね」
ランドセルを下ろして隣に座った美裕は、ん? と言って、僕の頬から何かを摘み取った。そしてそれを、ふっと吹いた。枯れた芝だろうか、それとも髪の毛だろうか。

「もういらないからって、あたしの友達の弟にって」
「もらっちゃっていいの?」
「あげるって友達に言ったわけじゃないから、いいんだ」

取り出したアシックスのシューズは僕のものよりちょっと新しそうだった。
「ほんとにいいの?」
「いいんだよ。嬉しい?」
「すごくうれしい」



「あたしもうれしい! 初めて自分で自分をほめたいと思いますッ」
それは、マラソン選手の誰だかが言った言葉だった。
「有森裕子だよ」
僕の心を読んだかのように、美裕が口にした。

「ヒロ君のお役に立ててうれしい。うん」
きっぱり、といった感じで空を見上げて、ベンチに座ったままシューズのかかとで地面を交互に叩いた。

「もう一足ももらっていいの」
「それも必要なんだ」

「なんで?」
「ヒロ君のシューズはランドセルにしまって、それを靴箱に入れておくの」
「また盗まれちゃうよ」
「それでいいの。それがいいの。作戦があるの」


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空っぽの靴箱の前で、僕は茫然と立ち尽くした。
間違いなく仕舞った。確かにここに靴を入れた。

視線の端で動く影に、僕はぎろっと目玉を動かして、それを見た。
あのグループだ。僕をいじめるあのグループ。その中に、僕が幼稚園のころから知る近所の男子が混じっていることが、何とも悲しいことだった。

「お靴がにゃーい!」
一人の女子の声でそのグループは大笑いを始めた。

僕は靴箱を閉じて、上履きのままで歩き出した。
靴が一足なくなったことを、母さんは絶対気づく。よりによって一番新しい靴。
なんて言おう。

失くしちゃった。
失くしたって、どこで失くしたのよ。
外で靴を脱いで何をしていたのよ。

盗まれちゃった。
学校で?
先生に言わなきゃダメよ! 学校に泥棒がいたらだめよ!
あたしが学校に電話するわ!

ダメだ、どれもだめだ。親が騒いだら、余計にひどいことになる。
僕はベンチに座り、頭を抱えた。
どうしよう。



「上履きでどうしたの」
声に顔を上げると、いつも通り、ピンクのランドセルを背負った美裕だった。

「靴を、盗まれちゃった」
「盗まれたって、どこで?」
「学校」
「ひょっとして、靴箱からなくなったの」
「そう」
「ふうん」

そのふうんは、興味なさげというより、ほら見ろと言わんばかりのものだった。

「でもそれは困るね」
「困る」
「いじめを受けていることを知られるのが?」
「え?……」
「違ったの?」
「いや……」

「いいんだよ。あたしはね、ヒロ君を守ると決めたんだから。何を言ってもいいの」
「いや……うん、いじめかなあ、あれは」

「弱気だなあ。まあ、いいや。じゃじゃーん」
美裕は、手に持った手提げのビニール袋を突き出した。 


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小学三年生の夏休み明けの頃だった。
それまでなんてこともなく話をしていた級友たちの中から、僕をいじめるグループが現れたのだ。

他のみんなにも聞こえるように悪口を言われたときは、とても信じられなくて、僕は夢の中にでもいるような気分になった。
「ダサい」だの「臭い」だの「気持ち悪い」だの「消えてなくなればいい」だの。

見る人から見ればダサいのかもしれないし、気持ち悪いのかもしれないけれど、小学生のくせに、おじいちゃん並みにお風呂大好きだった僕は、臭くはなかった。

それはもちろん、とても傷つくことだけれど、あくまで一部の人たちだった。
けれどある日突然、クラスのみんなの態度が一変したのだ。

僕に話しかけられるのを、明らかに迷惑がっているようだった。

無視。
これほどきついものはない。
これまで普通にしゃべっていた友達に、僕はすがるように話しかけた。
でも、声が返ってくることはなくなった。

それなりに楽しかった僕の学校生活は、地獄のようなありさまに変わった。



そんなある日のことだった。靴箱から僕のスニーカーが忽然と消えたのだ。
お気に入りだったアシックスの紺地のシューズ。たぶん、父か母に買ってもらったもの。


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星の数ほどにも思えた選択肢。
右にも左にも、それどころか上や下にさえも道がありそうに見えた未来。

やがて、夢見るころは過ぎて、選択肢がひとつふたつと消えてゆき、ときとして絶望で黒く塗りつぶされた明日。

来るはずもなさそうに思えた遥か彼方の未来はここにある。
けれど、そこに立ったのも束の間、良かれ悪しかれ、その未来という名の現実は、足早に過去へと過ぎ去ってゆく。

時は幻、時間は妖(あやかし)。

戻れないOne way ticketを握りしめて、揺れて揺られて泡沫(うたかた)の夢。
それさえもおそらくは、まぼろし。

それが生まれてきた意味だとしたら。
誰かが嗤(わら)うだろうか。

嗤わば嗤え。
誰の上にも、陽はまた昇る。

諦めない限り、陽はまた昇るのだから。

Grover Washington Jr/Winelight


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「なんかあった?」
美裕はピンクのランドセルの背を、ピアノでも弾くように、トトトンと叩いた。

「ほら、風」秋のさわやかな風が彼女の前髪を揺らした。



「別に。……なんにもないよ」

「そ」
美裕は腿の下に両手を入れて空に視線を移した。小さな顎が、どこか不満げに見えた。

「じゃあさ、好きな女の子はいるの?」
美裕の問いかけにクラスの女子たちの何人かを思い浮かべた。
そう、僕の中のベストスリー。

「いるけど、ただ、いるだけ」
「じゃあ、嫌いな人は?」
僕はすぐに、クラスにいる、とある女子たちを思い浮かべた。そしてその周りにいる男子たち。それはとても気分を暗くさせた。

「ヒロ君は嫌われ者? それとも人気者?」
「わからない」
ううん、わかっている。僕はクラスで一番の嫌われ者。


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「母さんに訊けって」
「何を?」
「なんで美裕が写っているのかってこと」

「あんたたちはね」言葉を切った母が、ふぅっと息を吐いた隣で、祖母がすっと目を閉じた。
「双子なのよ」

繋がった。美裕が僕の母を、お母さんと呼んだ意味。
だけど、僕には姉や妹などいなかった。美裕が母や祖母に見えない理由は、ただひとつ。美裕がこの世の人ではないからだ。



けれど、今確かに、隣に座っている。
やっぱり少し、困った顔をして。

「ヒロちゃん、美裕ちゃんに最初に会ったのはいつなの」祖母がちょっと首を曲げた。
「小学校の三年生の時だよ」

「その時さ、何かなかった」
「何かって?」
「ヒロちゃんの身に、何か変わったことはなかったの」僕はテーブルに視線を落とした。
「ううん、ヒロちゃんだけじゃなくても、周りとか誰かとか、何か困ったことはなかったの」

僕は目を閉じて、ソファの背もたれに背中を預けた。
「んーん……」

「あったのね」
「うーん……まあ、確かにそうだね」
「何があったの?」
言いたくはなかった。けれど、励ますように美裕がトントンと肩口を叩いた。

「もう、過ぎたことでしょ」
「うん」僕は美裕の言葉に頷いた。
母と祖母を交互に見た。そして口を開いた。なんでもないことを話すように。

「いじめにあってた。うん……とてもひどかったな」


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ためらいがちにテーブルに置いた母を励ますかのように、祖母がそれをグッとこちらに押した。

それを手に取り、ページをめくった。それは、1ページに写真が3枚入る小さなアルバムだった。

「どう?」

質問が速すぎる。
それはいくつかの商品をレジ台に乗せたとたんに、いくら? と訊く老人の性急さを思わせた。

そこに写っている写真たちは僕が見たことのないものだった。だから、懐かしいというのとはもちろん違うのだけれど、僕や母や父が映るフレームの中に、常に女の子がいる。

「これ……美裕だ。ほら、見てごらん。これ、美裕だよね」
手にした美裕はゆっくりとページをめくり、「懐かしい」と呟いた。

「でも、なんで美裕が写ってるの」
「それは、お母さんに教えてもらった方がいいわ」
美裕は、ちょっと困ったように薄く笑った。


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