仄暗い海の中に、身を委(ゆだ)ねる生命があった。暖かな海に揺蕩(たゆた)う萌芽は、恐れという言葉の存在しない世界で、とろとろと眠った。
風が吹き、雨が降り、日が昇り日が沈み、やがて時が満ち、命は産声を上げた。
海の中で聴いていた父母の声を、あなたは初めて間近で耳にした。それは懐かしく恋しく、あなたは魂を震わせた。

あなたが生まれた時、世界は光に満ちていた。
その眩しさに怯(ひる)まぬように、生まれたてのあなたの目は明暗しか見分けられなかった。
一点を見ることなく眼球を動かすだけのあなたが、やがて見つめる、という人らしい仕草をするようになった。そのとき、あなたの父や母は不思議に思った。なぜこの目を見ないで、額のあたりを見ているのだろうと。
それはもうわかるだろう。モノクロームの世界では、髪の黒と肌の白がコントラストを描く境目、そう、髪の生え際は認識しやすかったためだ。
そうやってあなたは、確かな視力と色を得、やがて両手をぺたりと前について、座るということを覚えた。
その日も、あなたが生まれた日と変わらぬぐらいに喜ぶふたりに、優しく陽は降り注いだ。
言葉を得たときもそうだ。ふたりは手を叩いた。つかまり立ちをしたとき、歩いた日もそうだ。今を見てごらん。あなたはそのふたりに、感謝をしているだろうか。
もしもそうできない何かがあったとしても、それをゆるそうと試みただろうか。
ゆるしなさい。開放しなさい。すべては、あなたたちの計画なのだ。その母のもとに生まれたいと希求したのは、あなたなのだから。
あなたは咀嚼し、味わい、飲み込み、知識を得てきた。そう、その舞台の上で。
海に身を任せる前、あなたは見ていた。かつて自分が立っていたその場所と、そこで繰り広げられる物語を。そしてこう望んだ。もう一度そこに立ちたいと。
あなたは今、その舞台に立つ演者であることを忘れてしまっている。その中で、さらに劇中劇を演じていることさえ、うっかりと忘れてしまうあなた方には、むべなるかな。
あなた方は、実に様々な役割を演じている。ものを作る人、それを売る人、さらに買う人。送る人、届ける人、それを受け取る人。頭を下げる人、お金を払う人。上に立つ人、仕える人。雇う人雇われる人。
その役に没頭しすぎて、人として何ひとつ変わりのない相手を軽んじたり、必要以上に恐れたり、媚びへつらったりする。
忘れてはいけない。今のあなたは舞台に立つ役者のひとりだということを。そして、それを望んだのはあなた自身にほかならないということを。
そこには役不足も力不足もない。あなたは何者にもなれる千両役者なのだから。だからこそ今、それを選んだのだから。
出番が終われば舞台袖に引っ込む。あなたのいない劇はまだつづく。一抹の寂しさ。けれどもう、あなたは知っている。死が終わりではなかったことを。
栄光のライトを浴びる人生も、一敗地に塗れる人生も、それぞれに意味があり、それぞれに素晴らしい。
ただ忘れてはならないことは、そのいずれも演じているのだということだ。
苦しくとも音を上げてはいけない。悲しくても立ち上がりなさい。それはあなたが決めたこと。あなたが決めたのだから乗り越えられることなのだ。
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