風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -26ページ目

今日は無性に洋楽が聴きたい。それも、ディスコミュージック。

何を上げよう。この一曲となると相当悩む。
うん、とりあえずの一曲目としよう。ならば気が楽だ。ドナサマーも欠かせないし、ブラジョンだって、アースだって、アニタワードだって。

「○○さん、ワンパターン」
スタッフにそしられた。
「うるさい。俺は好きな曲だけ掛ける」

僕の登場曲にも等しかったのがこれだ。
六本木の夜は熱かった。

あちっ!
大昔に火傷した心が今も痛いのはなぜだろう。

君は……みんなは、元気だろうか。 
うむ、この恋模様はシリーズ化できそうだ。

誰だってみんな、壊れやすいハートを両手でそっとさすって生きているんだから。



ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村

   ─御前会議─

1941年(昭和16年)10月12日、戦争の決断を迫られた近衛文麿は、外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。
いわゆる「荻外荘会談」である。

同年10月16日、近衛は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信のある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月18日に内閣総辞職した。

近衞と東條は、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこ)を次期首相に推すことで一致したが、日米開戦に至れば皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの懸念で実現せず、陸軍主戦派の首魁、東條が次期首相となった。

同年年12月1日、対米英蘭戦を決定する最後の御前会議が開かれた。11月5日決定の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉がついに不成立に終わったからであった。


御前会議

最後の御前会議が終了すると、昭和天皇が『此の様になることは已むを得ぬことである。どうか陸海軍はよく協調してやれ』という指示を出して、日米開戦の最終決定が下されることになった。

黒船の来航でアメリカに武力で開国をせまられて以来、欧米列強の中にあり日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあった。そこで突然「全てを放棄しろ」と言う無謀な通告だった。

これに対して東京裁判のパール判事は、のちにこのように語っている。

「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」

くわえて、アメリカの行った資源封鎖及び経済封鎖は戦時国際法違反であり、戦争行為に当たる。


   ─Z旗上がる─

1941年(昭和16年)11月26日、日本海軍機動部隊は択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を発進して一路太平洋を東航中だった。

12月2日夜、その機動部隊に向けて「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」という隠語電報が発信された。

12月7日午前10時半(日本時間)、連合艦隊司令長官山本五十六はハワイ北に展開する日本連合艦隊機動部隊に電報を送った。

「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨砕身各員その任を完(まっと)うせよ」

五十六の訓示は、直ちに全機動部隊員に達せられ、各艦のマストにはZ旗が翻った。




もともと、海上において船舶間での意思疎通に利用される国際信号旗の一つであるZ旗自体に、戦闘に関する特別な意味はまったくない。

「引き船(タグボート)を求める」、漁場では「投網中である」の意を示す信号にすぎない。

しかし、日露戦争時の明治38年(1905年)5月27日、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将率いる日本連合艦隊が、ロシアバルチック艦隊を日本海で迎え撃った日本海海戦で重要な意味を持つようになった。

旗艦の戦艦「三笠」上で、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の訓示とともにZ旗を掲げたからだ。

その戦いは大勝利を収め、それ以降、日本海軍ではZ旗は重要な意味を有するようになり、以後の日本海軍の海戦ではZ旗を掲揚することが慣例化されていった。

かの名文は連合艦隊参謀秋山真之の草案とされている。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村


─源田 実─

戦艦からの対空砲火を避けて雷撃をするためには、目標までの距離千メートルから魚雷を落とさなければならない。

高度100メートルで飛ぶ飛行機から落とされた魚雷は、着水後60メートルは沈む。
その沈んだときの衝撃で機械が作動し、魚雷に付いたスクリューが回りだして海面近くにまで浮上する。

そののちは深度6メートルを保って敵艦に向かって進む。雷撃には水深が必要なのだ。

しかし、真珠湾は浅い湾で水深は12メートルしかなかった。魚雷は必ず海底に突き刺さる。



「前田(幕僚前田孝成)に訊いてみたが技術的に不可能だということだ。まあ仔細は伏せてだが。真珠湾は浅いからな……お前はどうだ」

大西が鹿屋司令部に呼び出した源田は、手紙から顔を上げて答えた。

「雷撃は専門ではないから分かりかねるが……研究さえすれば困難であっても不可能とまでは言えないだろう。
たとえやれなくても致命傷を与えることを考えるべきでしょうな。空母に絞れば急降下爆撃で十分だろうし……問題はいかに接近できるかにあるでしょう」

「練ってみてはくれんか」
「やってみましょう」源田は頷いた。
「すまんができるだけ早く」源田は再び頷いた。

作戦計画案を源田は2週間ほどで仕上げた。 源田によれば素案の素案程度のものであったという。それに大西が手を加え、3月初旬ごろ山本に提出された。

源田実は終戦後、自衛隊で初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した航空自衛隊の育ての親である。政治家としては参議院議員を4期24年務め、赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務めた。

1941年(昭和16年)4月10日、南雲忠一を司令長官、草鹿龍之介を参謀長とする第一航空艦隊が編成され、源田は甲航空参謀に任命された。

その源田の希望により、統率力、戦術眼ともに優れた源田の同期生である淵田美津雄中佐が空中指揮官に抜擢された。オアフ島上空で「トラトラトラ」の発信を命じた人物である。

日本の海軍航空隊は、真珠湾と地形の似た鹿児島の錦江湾で休みなく魚雷の投下訓練を続けた。もちろん訓練だけでなく、魚雷そのものも改良し、約3カ月で実践で使用可能な状態にした。

その命中率の高さは驚異的で海軍航空隊の練度の高さと日本の技術力は世界を圧していた。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、その戦術を使用して15発以上の魚雷を命中させた。


九一式航空魚雷改2 1941年11月真珠湾攻撃直前、空母赤城の飛行甲板上

だが、大西少将はのちに真珠湾攻撃に反対するようになる。1941年(昭和16年)10月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。

大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。

米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒られば彼らは最後まで戦う決意をするであろう。
日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない。

これは言われるまでもないことであった。戦うとなれば最も効果的なやり方でなければ勝機を逸する。戦いに勝つために軍人は存在するのだから。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村

─大西瀧次郎─

日本海軍は、日米開戦の戦略でおおきく二つに割れていた。

五十六率いる連合艦隊を中心とした、「ハワイを叩き、合衆国と早期講和をするべきだ」という案と、

軍令部を中心とした「豪州の北東にある島々を占領し、豪州への兵力供給を遮断した上で先ず連合国から脱落させ、その後ドイツの攻撃と呼応し、英米両国と講和を果たすべきだ」という意見だ。

そんな中、五十六が日米決戦の起死回生策、真珠湾攻撃を行うに際し、迷うことなく思い浮かべた顔がある。

海軍航空の生え抜きである大西瀧次郎(おおにしたきじろう)だ。世界史上前例のない奇襲をどう仕掛けるか、あの男に尋ねるのが一番確実だ。

五十六は軍政畑の軍人であり、作戦を得意としたわけではなかったからだ。



大西が前例にとらわれない発想の持ち主であり、なによりも大西に全幅の信頼を置いていた。

1941年(昭和16年)1月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将は届いた手紙を読んでいた。差出人は山本五十六連合艦隊司令長官。

尖らせた口元から、ふぅと息を吐いた大西少将は宙を睨んだ。
ハワイを飛行機で、か……。

その手紙の内容は、ハワイの米太平洋艦隊へ空襲を仕掛けるならば、いかなる方法で実行すればよいかの検討を依頼するものだった。
「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。

大西瀧次郎は、のちの神風特別攻撃隊の創始者の一人であり、組織的な体当たり攻撃である特別攻撃隊の編成、出撃命令を初めて発した人物である。

「特攻は統帥の外道である」とは常々の持論だったが、戦局の悪化でむしろ特攻を推進する立場となった。

しかしながら、飛び立った若き彼らも、死しても国を、故郷を、父母を姉妹を護りたいという純粋な気持ちがあったことを忘れてはならない。



大西は日本の未来を見ていた。自分たち先祖の捨て身の戦いぶりを示すことにより、破れてもなお、滅亡の縁から立ち上がる大和民族の奮起に期待したのだ。

「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもしれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」

1945年(昭和20年5月)、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還したが、我が家へは帰らず渋谷南平台の官舎に独居した。

「週に一度ぐらいは帰宅して、奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧める者に大西は苦し気に顔を歪めた。

「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだよ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と、目に涙をためて唇を震わせた。

そもそも飛行機乗りは並外れて優秀な人間である。彼らは国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、勉学優秀で、しかも運動神経抜群で、視力もよい日本の将来を担うべき宝だった。

将来のある優秀な若者を、爆弾を抱えた死の操縦者にしたことへの責任を、その重さを、大西中将は誰よりも深く抱いていた。

一人一人の目をじっと見つめて強く手を握り、若き特攻隊員を送り出してきた大西は、その年の8月16日(敗戦の日の翌日)に、自らの重たい軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、自決した。

特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯無しの割腹だった。

翌朝発見された大西中将は、血まみれではらわたを飛び出させながらも、医師の手当てを拒み長時間苦しんで死亡した。

特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。

「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書には、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。

特攻隊の英霊に曰す(マオス=もうす)。
善く戦いたり、深謝す。
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れ共(しかれども)其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り自重忍苦するの戒とならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶を克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。


1941年(昭和16年)2月、大西は腹心である第十一航空艦隊参謀長・源田実を呼び出し、連合艦隊司令長官・山本五十六からの手紙を見せた。真珠湾における雷撃、いわゆる航空機による魚雷攻撃の可能性を尋ねるためだ。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村






───公序良俗を乱し人権を侵害する表現を取り締まる法律として『メディア良化法』が成立・施行された現代。
超法規的検閲に対抗するため、立てよ図書館!狩られる本を、明日を守れ!
敵は合法国家機関。
相手にとって不足なし。
正義の味方、図書館を駆ける!


コンビニで "WONDA極微糖" を買い公園へ。
うす曇りで汗をだらだらかく陽気でもないのでブラックではなくこれを選択。




お約束の展開、どんな物語であっても有川浩流ラブロマンス。
やはりなるほど、そうだったか。うん、それしかないよな。

登場人物の多さにちょっと戸惑ったが、キャラ設定がはっきりしているのでやがて苦も無く読めるようになった。

これでいい。もう面倒くさい推理とかホラーとかクライムノベルは読みたくない。楽しくなければ読書じゃない。

文庫本をベンチに置き、眼鏡をはずし煙草に火を付ける。そしてふと耳をそばだてる。例年より蝉しぐれが弱いように感じるのは気のせいだろうかと。

子供の頃「幸せの王子」でいたく感動した。
中学の頃に松本清張で小説に目覚めた。
大人になって、逢坂剛の「百舌シリーズ」に心躍らせた。

あの頃に有川浩が存在し、この物語を書いていたら僕は受け入れただろうか?
何とも言えない。

あ、そうだ、筒井康隆の『時をかける少女』を面白く読み、『家族八景』に考えさせられた僕は、きっと受け入れたんだろうな。

読み終えた僕はためらわず「図書館戦争②」を買った。
ん? 安くなっている。ウルトラセールか?
でもいい。他に買ってもしようがない。中だるみしないことを願いつつ、まずは図書館戦争シリーズを読破しよう。

怪しくなってきた空模様を気にして再度の読書をあきらめ西友に行った。

買い物を終えて外に出ると、陽が射していた。
しまった! と思ったけど、部屋に帰ってから再び出かけるほどの時間もない。「新高山登レ1208」も進めなければならない。でも歴史を拾っていくと横道ばかりにそれる。

19時過ぎにベランダのサッシを占める時、僕の頭はまだ薄明るい景色を思い浮かべていた。けれど見えたのは暗い夜だった。

19時ごろまではかろうじて外で本が読める。それが僕の夏の認識だった。夏だ、暑い、とか言っているうちにお盆だ。

やがて夏もすぎてゆく。平成最後の夏が。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村

対英米開戦が決まった以上、日本を救う道はひとつしか残されていない。

疾風のように攻め込み、痛烈な打撃を与えて戦意を削ぎ、講和に持ち込む。まさに乾坤一擲の大勝負を仕掛ける以外にない。

しかし、日米開戦を止められなかった自分もまた、小地谷談判を潰した岩井精一郎並のバカ者である。五十六は眉をぎゅっと険しくした。

一家そろっての最後の夕餉となった翌朝、学校へ行く息子を父五十六は珍しく玄関まで見送った。

「行ってまいります」
「うん、行ってきなさい」
この短い会話が山本五十六と長男義正が交わした最後の言葉になった。

連合艦隊司令長官山本五十六率いる日本海軍が、ハワイの真珠湾で米太平洋艦隊に奇襲を仕掛けたのは、その3日後、昭和16年12月8日のことである。


真珠湾

真珠湾攻撃とは、ハワイオアフ島・真珠湾(パールハーバー)に駐留するアメリカ海軍太平洋艦隊に対し、連合艦隊が宣戦布告と同時に仕掛けた奇襲攻撃である。

真珠湾は、アメリカ合衆国が太平洋に保持する最強の軍事基地であったが、いきなり中枢に奇襲を受けたアメリカ軍は驚愕した。大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)は、この真珠湾攻撃から始まった。

空母機動部隊を編成し、米太平洋艦隊の本拠地を航空戦力でたたくというハワイ攻撃作戦は、五十六の発案だった。

軍艦は飛行機には勝てない。浮かんだものは必ず沈む。大艦巨砲主義の只中、誰の理解も得られなかった五十六の主張は、やがて現実のものとなっていった。

ほとんど闘うことなく、群がる戦闘機の標的になって沈んでいった戦艦大和の悲劇がそれを物語っている。

飛行機による艦船攻撃、それをいち早くやってのけたのが”真珠湾攻撃”だった。まさに世界が驚く画期的な作戦だった。

─────────────────────────────

日本がドイツ・イタリアのファシズム国家と軍事同盟を締結することについては、第2次近衛文麿内閣の外相松岡洋右(親ドイツ派・対米強硬派)が推進役であったが、それはアメリカとの全面戦争を不可避とすることであり、その場合日本の国力から言って勝利は困難である、したがって日独伊三国同盟には反対するという議論は多かった。

海軍の山本五十六元帥はこう言った。
実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。

……結局自分はもうこうなった以上、最善を尽くして奮闘する。そうして、「長門」の艦上で討ち死にするだろう。

その間に、東京あたりは三度くらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。

結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八つ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえまい。

参考文献
<黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』2004 講談社学術文庫>
(分かりやすくなるように、一部手を加えてあります)
─────────────────────────────




荻外荘

1941年(昭和16年)9月末、荻外荘(てきがいそう)「現東京都杉並区荻窪」の近衛邸でふたりは向かい合っていた。

「もしも、だが」やや前かがみになった首相近衛文麿は、耳をそばだてる者とていないのに声をひそめた。


近衛文麿

「もしも日米が戦うとなればどうなるだろう。海軍としての見通しはどうか?」

五十六をじっと見つめて口を開いた。近衛としても開戦は避けたいが、流れはもう止めようもなく日米開戦へと動いている。

陸軍の大言壮語は聞き飽きた。

腕を組み背もたれに背中を預けた五十六はしばし宙を見て、ふぅと息を吐き口を開いた。

「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、暴れてごらんにいれます。
しかし二年、三年となっては、まったく確信は持てません」
五十六は大きく息を吐き、身を乗り出した。

「三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います」

近衛は首相である。ではその首相の一存で開戦は避けられたのだろうか?

答えは、否である。

国家統治の大権を持つのは天皇だった。たとえ首相といえどもその権力は所轄大臣と同列であり、ゆえに各大臣を統率する権力はなかったのである。

しかも陸海軍の統帥は内閣の権限外であった。陸軍大臣、海軍大臣が首相の言うことを聞くはずもない。首相と所轄大臣は同列であるから、首相の意に沿わない大臣を罷免する権限もなかった。

戦争に関する方針は天皇に対する事前の上奏や御下問を経て御前会議で決定されたが、その結果についての責任は天皇にはない。

事実上陸海軍を統治する者がいないという信じ難い体制だったのである。



ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村





─長岡城燃ゆ─

陸軍がドイツ、イタリアと接近したことにより、太平洋上において日本海軍とアメリカが衝突する事態は避けられないこととなっていった。

「あんなもの結んだらアメリカと戦争になる。そうなったら東京なんか三度くらい丸焼けにされて日本は惨めな目にあうだろう」

ボストンのハーバード大学に留学し、米国駐在武官も務めた滞米経験も豊富な五十六は、アメリカの力を知る数少ない海軍軍人として、当然のことながら三国同盟に反対した。

しかし海軍内部でも三国同盟に賛成する者も出てくる始末だった。



海軍屈指の知米派であり、対米開戦に最後まで反対し続けた米内光政(よない みつまさ)海軍大臣。
海軍省軍務局の井上成美(いのうえ しげよし/せいび)。
そして海軍次官だった山本五十六。

この三人は「(海軍)左派トリオ」もしくは「海軍三羽烏」と呼ばれた。

五十六を、中央の海軍次官から現場である連合艦隊司令長官へと移動したのは、盟友である海軍大臣米内光政だ。親米派と言われていた五十六が暗殺される事を恐れたからだ。

五十六は歯がゆく思う。陸軍が先導した日独伊三国同盟も潰せなかった。日米開戦もだ。中央の場を追われ連合艦隊司令長官という現場に押し戻された。

継之助のように勇ましくも高潔でもなかったが、最後はまさに腰抜け武士だと。

五十六が敬愛する河合継之助は、その当時日本に3台しか存在しなかったガトリング砲(連射式の銃)のうち2台を手に入れ、アームストロング砲(大砲)・エンフィールド銃やスナイドル銃・シャープス銃などの元込めライフルを装備した。


ガトリング砲

その継之助が、長岡藩の命運をかけて臨んだ小千谷談判は、長岡にほど近い小千谷の慈眼寺において行われた。

しかし、薩長を中心とした京都政権(西軍)と奥羽越列藩同盟や旧幕府軍である東軍との仲裁を申し出た会談は決裂した。

継之助はまず長岡藩への新政府軍への侵攻の猶予を願い、
「あなた方が真の官軍であるならば、恭順してもよい」と口火を切った。

対した岩村はたかが小藩の家老と見くびり、高飛車に敵か味方かと迫った。 継之助は、それならば何のための討幕かと語気を強くした。


河合継之助

「官軍の名のもとに会津藩や旧幕府軍を討つというが、その内実は私的な制裁と権力への野望ではないか」
継之助の追及に岩村は詰まり、激昂した。

「我等は勅を奉じ長岡を討つ。論を争うのならば、兵馬の間に決すべし」
談判は決裂した。その間わずか30分。

武装中立の道を捨て奥羽列藩同盟へ参加した継之助。やがて戊辰戦争中最大の戦い北越戦争が勃発する。長岡藩の兵力1300人に対し新政府軍は5000人とおよそ4倍。

それでも、長岡藩の激烈な抵抗により西軍は想定外の大損害を被り、一度陥落させた城を奪われるという大失態を起こすことになる。一度は奪われた長岡城を、長岡藩は奪還したのだ。

しかし、その奇襲作戦の最中に河合継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負った。

指揮官を失ったその4日後に長岡城は再び陥落した。継之助は戸板に乗せられ、会津へ落ち延びる。その継之助が八十里峠を越えたあたりで詠んだとされる句が、「八十里腰抜け武士の越す峠」である。

越後長岡の風雲児河合継之助は、破傷風とみられる傷の悪化により、塩沢村において42年の短い生涯を終えた。

もしもあのとき、と五十六は思う。継之助の希望が叶い西郷隆盛の腹心である薩摩の黒田清隆、もしくは長州の山形有朋との面会が叶っていたら、北越戦争は避けられたのかもしれない。いや、必ずや回避されただろう。

戦争をするもしないも、決するのは上に立つ人間だ。国を憂い、民を思い、その先を見つめて舵を切る人だ。これほど火急の日本には、運悪くひとが少ない。極東の小国日本丸は取り返しのつかない方へと舵を切った。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村




─越後長岡─

1915年(大正5年)、32歳になっていた高野五十六は、山本家を相続することになる。

山本家は代々家老職の家柄という長岡藩の名家で、戊辰戦争において、軍事総督河井継之助とともに戦った次席家老、山本帯刀の家である。

帯刀の戦死後、跡継ぎがなく、そのままとなっていた家名を五十六が相続したのだ。

山本帯刀は、河合継之助の負傷後に藩の総司令官として会津に転戦したが、西軍に捕えられてしまった。

西軍側は山本の人物を惜しみ降伏を勧めたが、山本帯刀は
「藩主、我に戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」と断り、斬られて命を落とした。

          ***

1918年(大正7年)、海軍少佐だった山本五十六は旧会津藩士の娘だった三橋礼子を妻にめとった。
五十六35歳、礼子23歳だった。

夫婦生活14年、五十六と礼子の間には4人の子供が生まれた。

時は移り1941年( 昭和16年)五十六一家はそろっての夕餉(ゆうげ)についていた。

「ほんとにちいさな鯛で……」礼子はひょいと肩をすぼめた。
そのちゃぶ台には7寸にも満たない小ぶりの鯛が置かれていた。

「いや、鯛は鯛だ。ありがたくいただくよ」

五十六は静かにそれに箸を伸ばした。ここで、なるほど小さいな、などと口にしたら、4人の子を産み生来の強情さを増してきた礼子が怒り出すかもしれない。そうなると厄介だ。

「うん、まぎれもなく鯛だ」かみしめた五十六の微笑みに礼子もふっと笑った。

「義正も食べなさい」五十六は息子を促した。
「ほら、礼子も」
「はい、遠慮なくいただきます」
「ほら、おまえたちも」子供たちを促した。

特別な夜だった。一家そろって食べる、おそらく最後であろう夕餉。

「お前にも苦労をかけるな」
「とんでもないです。後顧の憂いなくご出陣くださいませ。武運長久を祈っています」

「長岡に戻る時間もない」
五十六の言葉に礼子は小さく頷いた。

会津戊辰戦争を阻止すべく、新政府軍の無理難題に対し毅然と立ち向かった北越の一藩が存在した。軍事総督河合継之助率いる長岡藩だった。

「八十里腰抜け武士の越す峠」夕餉の箸を止め五十六は呟いた。河合継之助の辞世の句となった自嘲を込めた句だ。

五十六の思いは幕末に飛ぶ。武装中立を目指した長岡の大先輩、河合継之助の生きたころに。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村





8月になってしまった。終戦記念日がやってくる。
書きたい。どうしても書きたい。日本だけが悪者になってしまった「大東亜戦争」に異議を唱えるために。

まったく書き上がってはいませんが、まずは先走りの「枕」です。間が空きながらになると思いますが、辛抱強くお付き合いくださるとうれしいです。


           ***

「寝込みを襲うときでも、枕を蹴っ飛ばしてからやるのが神武以来の武士道のたしなみだ」

騙し打ちを最も嫌い日米開戦に最後まで反対した男、山本五十六の言葉である。

           ***

日本時間の1941(昭和16)年12月2日、日本海軍連合艦隊司令長官の山本五十六は、北太平洋上を航行中の機動部隊に対し暗号電を送信した。

東京近郊の東葛飾郡船橋町周辺にある塚田村行田(現船橋市行田)に設置された海軍の無線電信施設”船橋送信所”が「短波」「中波」を送信。

愛知県碧海郡依佐美村(現在の刈谷市高須町山ノ田)の”依佐美送信所”が潜水艦に向けての「超長波」を送信した。

「-・-・ ・ー -・ ・-・・ ・ーー ー・・ー ・ーー・ ー・・ ・・ーーー」

「新高山登レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」

新高山とは台湾の最高峰である玉山(海抜3952m)の日本統治時代の名前である。

その内容は、同12月8日に米国ハワイの米太平洋艦隊の本拠地を攻撃せよとの命令だった。

これに先立つ1941年11月26日、択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を出発し密かにハワイ北方海域へ向かっていた航空母艦(空母)6隻を含む日本海軍機動部隊は、ただちに攻撃準備を開始した。

空母赤城艦上にあった南雲司令長官はこの電信をうけてZ旗を掲げ麾下の艦隊に訓令を発した。



「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」

これは日露戦争での日本海海戦に先立って発令されたものと同じ文面である。

もちろん、開戦は唐突に決定したわけではない。この段階ですでに、日米関係は抜き差しならない状態に陥っていた。

1939年7月、米国は中国での日本の軍事行動が長引いていることを理由に対日経済制裁を発動、鉄鋼や石油など多くの物資を米国からの輸入に依存していた日本経済は大打撃を受けた。

アメリカに対し、なんらの軍事行動も起こさず、不利益も与えていない日本に突如圧力を強め、資源封鎖や経済封鎖を行ったのだ。

これにより数千万人が雇用を失うこととなった。これは日本の国力を極限まで低下させ、資源だけでなく、食糧危機の恐れも生んだ。

1940年になると航空機用ガソリン、くず鉄の禁輸も決定。1941年11月26日には中国からの完全撤退などを求めた事実上の最後通告「ハル・ノート」を突き付けた。

それは、日本に対し大陸における権益を全て放棄し明治維新前に戻れと言い放ったに等しいことだった。

しかし、「ハル・ノート」よりも前の交渉段階で、日本は己の生存を懸けた戦いに身を投じなければならない状況に追い込まれていた。「ハル・ノート」が戦争を引き起こしたわけではない。

日本海軍機動部隊は「ハル・ノート」が届いた同日に択捉島の単冠湾を出発し、ハワイ北方海域へ向かっていたのだから。
そして、真珠湾攻撃の準備はその一年も前から行われていたのだ。

つまるところ、日本はアメリカにしてやられたのだ。ではなぜアメリカは日本を陥れたのか。

当時、イギリスはドイツ帝国の攻撃に連日さらされ追いつめられていた。
そのイギリスの要請に応えて参戦したいアメリカだったが、ルーズベルト大統領は海外で戦争をしないと公約してその座についている上に、アメリカ世論は反戦ムードが強く、参戦は非常に難しかった。

日本が先に攻撃してくれば、日本と戦う大義名分が出来る上にアメリカ世論も賛同すると考えていたルーズベルトは、その画策を繰り返していた。

「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」
予期せぬ奇襲となってしまった真珠湾攻撃に対しアメリカは大義名分を振りかざす。
しかし、知っておかなければならないことがある。

12月7日午後0時10分(現地時間)、アメリカ海軍司令部に一つの暗号電報が入電した。

「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ」

それは米軍艦が、公海上 ──むろん、アメリカの領海外において、日本海軍の潜水艦を攻撃、撃沈した事を報告する暗号電報だった。
(米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75(1945年6月7日)、みすず書房『現代史資料 35巻』)

アメリカは、日本による「真珠湾攻撃」の1時間20分も前に、「宣戦布告」もなしに、日本の潜水艦を撃沈した事になる。日本がその情報をつかんで真珠湾攻撃を仕掛けたわけではないが、これこそ正にアメリカによる「騙し討ち」と言える。

今現在「日米安保条約」が締結されている。
同盟国として、アメリカは信用できる国なのか。

「日米地位協定」に胡坐をかくアメリカ。被害者が浮かばれない国、情けない日本。
これは本当に独立国家なのか。

さて、勝ち目のない戦いに挑んだ男たちの物語が始まります。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村


日大の田中理事長と日本ボクシング連盟の山根明会長。



類は友を呼ぶのか、それにしてもこのふたり人相が悪すぎるわ。

この手のタイプが世の中には履いて捨てるほどいるということは、賢明なみなさまならご存知でしょうが。

おおむね共通していることがあるのです。

すごくケチ=貧乏人根性が抜けない。
賞賛を求める=恥知らずの証明。

人を小ばかにする。すぐ怒る。すぐ怒鳴る=ほとんどが自ら経験してきた悲しい出来事。

でも小心者。

こんな裸の王様が玉座に座る組織は、往々にして”チクリ集団”と化します。

この手の人は、色付きの眼鏡が好きです。
それはまさしく、小心者の証。

おっと、僕の眼鏡にもうっすら色が……。
はい、PC用の眼鏡なもので。


ポチポチッとクリックお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

blogramのブログランキング


にほんブログ村