新高山登レ1208「6」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

   ─御前会議─

1941年(昭和16年)10月12日、戦争の決断を迫られた近衛文麿は、外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。
いわゆる「荻外荘会談」である。

同年10月16日、近衛は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。戦争に私は自信はない。自信のある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月18日に内閣総辞職した。

近衞と東條は、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこ)を次期首相に推すことで一致したが、日米開戦に至れば皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの懸念で実現せず、陸軍主戦派の首魁、東條が次期首相となった。

同年年12月1日、対米英蘭戦を決定する最後の御前会議が開かれた。11月5日決定の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉がついに不成立に終わったからであった。


御前会議

最後の御前会議が終了すると、昭和天皇が『此の様になることは已むを得ぬことである。どうか陸海軍はよく協調してやれ』という指示を出して、日米開戦の最終決定が下されることになった。

黒船の来航でアメリカに武力で開国をせまられて以来、欧米列強の中にあり日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあった。そこで突然「全てを放棄しろ」と言う無謀な通告だった。

これに対して東京裁判のパール判事は、のちにこのように語っている。

「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」

くわえて、アメリカの行った資源封鎖及び経済封鎖は戦時国際法違反であり、戦争行為に当たる。


   ─Z旗上がる─

1941年(昭和16年)11月26日、日本海軍機動部隊は択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾を発進して一路太平洋を東航中だった。

12月2日夜、その機動部隊に向けて「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」という隠語電報が発信された。

12月7日午前10時半(日本時間)、連合艦隊司令長官山本五十六はハワイ北に展開する日本連合艦隊機動部隊に電報を送った。

「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨砕身各員その任を完(まっと)うせよ」

五十六の訓示は、直ちに全機動部隊員に達せられ、各艦のマストにはZ旗が翻った。




もともと、海上において船舶間での意思疎通に利用される国際信号旗の一つであるZ旗自体に、戦闘に関する特別な意味はまったくない。

「引き船(タグボート)を求める」、漁場では「投網中である」の意を示す信号にすぎない。

しかし、日露戦争時の明治38年(1905年)5月27日、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将率いる日本連合艦隊が、ロシアバルチック艦隊を日本海で迎え撃った日本海海戦で重要な意味を持つようになった。

旗艦の戦艦「三笠」上で、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の訓示とともにZ旗を掲げたからだ。

その戦いは大勝利を収め、それ以降、日本海軍ではZ旗は重要な意味を有するようになり、以後の日本海軍の海戦ではZ旗を掲揚することが慣例化されていった。

かの名文は連合艦隊参謀秋山真之の草案とされている。


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