─大西瀧次郎─
日本海軍は、日米開戦の戦略でおおきく二つに割れていた。
五十六率いる連合艦隊を中心とした、「ハワイを叩き、合衆国と早期講和をするべきだ」という案と、
軍令部を中心とした「豪州の北東にある島々を占領し、豪州への兵力供給を遮断した上で先ず連合国から脱落させ、その後ドイツの攻撃と呼応し、英米両国と講和を果たすべきだ」という意見だ。
そんな中、五十六が日米決戦の起死回生策、真珠湾攻撃を行うに際し、迷うことなく思い浮かべた顔がある。
海軍航空の生え抜きである大西瀧次郎(おおにしたきじろう)だ。世界史上前例のない奇襲をどう仕掛けるか、あの男に尋ねるのが一番確実だ。
五十六は軍政畑の軍人であり、作戦を得意としたわけではなかったからだ。

大西が前例にとらわれない発想の持ち主であり、なによりも大西に全幅の信頼を置いていた。
1941年(昭和16年)1月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将は届いた手紙を読んでいた。差出人は山本五十六連合艦隊司令長官。
尖らせた口元から、ふぅと息を吐いた大西少将は宙を睨んだ。
ハワイを飛行機で、か……。
その手紙の内容は、ハワイの米太平洋艦隊へ空襲を仕掛けるならば、いかなる方法で実行すればよいかの検討を依頼するものだった。
「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。
大西瀧次郎は、のちの神風特別攻撃隊の創始者の一人であり、組織的な体当たり攻撃である特別攻撃隊の編成、出撃命令を初めて発した人物である。
「特攻は統帥の外道である」とは常々の持論だったが、戦局の悪化でむしろ特攻を推進する立場となった。
しかしながら、飛び立った若き彼らも、死しても国を、故郷を、父母を姉妹を護りたいという純粋な気持ちがあったことを忘れてはならない。

大西は日本の未来を見ていた。自分たち先祖の捨て身の戦いぶりを示すことにより、破れてもなお、滅亡の縁から立ち上がる大和民族の奮起に期待したのだ。
「もはや内地の生産力をあてにして、戦争をすることはできない。戦争は負けるかもしれない。しかしながら後世において、われわれの子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶するかぎりは、大和民族は断じて滅亡することはないであろう。われわれはここに全軍捨て身、敗れて悔いなき戦いを決行する」
1945年(昭和20年5月)、大西中将は、軍令部次長として内地に帰還したが、我が家へは帰らず渋谷南平台の官舎に独居した。
「週に一度ぐらいは帰宅して、奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧める者に大西は苦し気に顔を歪めた。
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだよ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と、目に涙をためて唇を震わせた。
そもそも飛行機乗りは並外れて優秀な人間である。彼らは国内最難関の海軍兵学校を卒業した若者であり、勉学優秀で、しかも運動神経抜群で、視力もよい日本の将来を担うべき宝だった。
将来のある優秀な若者を、爆弾を抱えた死の操縦者にしたことへの責任を、その重さを、大西中将は誰よりも深く抱いていた。
一人一人の目をじっと見つめて強く手を握り、若き特攻隊員を送り出してきた大西は、その年の8月16日(敗戦の日の翌日)に、自らの重たい軍刀を手に取り、腹を十字に切り裂き、自決した。
特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯無しの割腹だった。
翌朝発見された大西中将は、血まみれではらわたを飛び出させながらも、医師の手当てを拒み長時間苦しんで死亡した。
特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。
「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書には、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。
特攻隊の英霊に曰す(マオス=もうす)。
善く戦いたり、深謝す。
最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れ共(しかれども)其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い、聖旨に副い奉り自重忍苦するの戒とならば幸なり。
隠忍するとも日本人たるの矜持を失うなかれ。諸子は国の宝なり。平時に処し、猶を克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。
1941年(昭和16年)2月、大西は腹心である第十一航空艦隊参謀長・源田実を呼び出し、連合艦隊司令長官・山本五十六からの手紙を見せた。真珠湾における雷撃、いわゆる航空機による魚雷攻撃の可能性を尋ねるためだ。
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