新高山登レ1208「2」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

─長岡城燃ゆ─

陸軍がドイツ、イタリアと接近したことにより、太平洋上において日本海軍とアメリカが衝突する事態は避けられないこととなっていった。

「あんなもの結んだらアメリカと戦争になる。そうなったら東京なんか三度くらい丸焼けにされて日本は惨めな目にあうだろう」

ボストンのハーバード大学に留学し、米国駐在武官も務めた滞米経験も豊富な五十六は、アメリカの力を知る数少ない海軍軍人として、当然のことながら三国同盟に反対した。

しかし海軍内部でも三国同盟に賛成する者も出てくる始末だった。



海軍屈指の知米派であり、対米開戦に最後まで反対し続けた米内光政(よない みつまさ)海軍大臣。
海軍省軍務局の井上成美(いのうえ しげよし/せいび)。
そして海軍次官だった山本五十六。

この三人は「(海軍)左派トリオ」もしくは「海軍三羽烏」と呼ばれた。

五十六を、中央の海軍次官から現場である連合艦隊司令長官へと移動したのは、盟友である海軍大臣米内光政だ。親米派と言われていた五十六が暗殺される事を恐れたからだ。

五十六は歯がゆく思う。陸軍が先導した日独伊三国同盟も潰せなかった。日米開戦もだ。中央の場を追われ連合艦隊司令長官という現場に押し戻された。

継之助のように勇ましくも高潔でもなかったが、最後はまさに腰抜け武士だと。

五十六が敬愛する河合継之助は、その当時日本に3台しか存在しなかったガトリング砲(連射式の銃)のうち2台を手に入れ、アームストロング砲(大砲)・エンフィールド銃やスナイドル銃・シャープス銃などの元込めライフルを装備した。


ガトリング砲

その継之助が、長岡藩の命運をかけて臨んだ小千谷談判は、長岡にほど近い小千谷の慈眼寺において行われた。

しかし、薩長を中心とした京都政権(西軍)と奥羽越列藩同盟や旧幕府軍である東軍との仲裁を申し出た会談は決裂した。

継之助はまず長岡藩への新政府軍への侵攻の猶予を願い、
「あなた方が真の官軍であるならば、恭順してもよい」と口火を切った。

対した岩村はたかが小藩の家老と見くびり、高飛車に敵か味方かと迫った。 継之助は、それならば何のための討幕かと語気を強くした。


河合継之助

「官軍の名のもとに会津藩や旧幕府軍を討つというが、その内実は私的な制裁と権力への野望ではないか」
継之助の追及に岩村は詰まり、激昂した。

「我等は勅を奉じ長岡を討つ。論を争うのならば、兵馬の間に決すべし」
談判は決裂した。その間わずか30分。

武装中立の道を捨て奥羽列藩同盟へ参加した継之助。やがて戊辰戦争中最大の戦い北越戦争が勃発する。長岡藩の兵力1300人に対し新政府軍は5000人とおよそ4倍。

それでも、長岡藩の激烈な抵抗により西軍は想定外の大損害を被り、一度陥落させた城を奪われるという大失態を起こすことになる。一度は奪われた長岡城を、長岡藩は奪還したのだ。

しかし、その奇襲作戦の最中に河合継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負った。

指揮官を失ったその4日後に長岡城は再び陥落した。継之助は戸板に乗せられ、会津へ落ち延びる。その継之助が八十里峠を越えたあたりで詠んだとされる句が、「八十里腰抜け武士の越す峠」である。

越後長岡の風雲児河合継之助は、破傷風とみられる傷の悪化により、塩沢村において42年の短い生涯を終えた。

もしもあのとき、と五十六は思う。継之助の希望が叶い西郷隆盛の腹心である薩摩の黒田清隆、もしくは長州の山形有朋との面会が叶っていたら、北越戦争は避けられたのかもしれない。いや、必ずや回避されただろう。

戦争をするもしないも、決するのは上に立つ人間だ。国を憂い、民を思い、その先を見つめて舵を切る人だ。これほど火急の日本には、運悪くひとが少ない。極東の小国日本丸は取り返しのつかない方へと舵を切った。


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