今日は、



諸葛カク


を取り上げます。


本来ならカテゴリーを、呉にすべきなのでしょうが、


三ONでは、期間限定のイベントNPCで、いる場所が中立地帯の荊州の伏龍村で、


まだ子供の姿なので、その他という扱いにしました。



諸葛カク  字は元遜


呉の諸葛キンの長男で、身長は約180cmで、


鬚や眉毛が薄く、鉤鼻で口が大きく、声が高かったといいます。


若いころから才知にあふれた言葉遣いと、臨機応変の弁論に、


うまく応酬できる相手はいなかったとされています。


父の瑾は、面長の顔で、驢馬に似ていました。


ある日、孫権は大勢の臣下の集まった席上で、


驢馬を引き出し、長い札に「諸葛子ユ(子ユは諸葛瑾の字)」と書き記しました。


諸葛カクは「どうか2文字だけ加えさせていただきたい」といい、


「之驢」と書いた。


驢馬にされた父親が、2文字で持ち主に変わり、


一座の人々はどっと笑い、驢馬は瑾に下賜されました。


その後、再び諸葛カクが孫権に目通りしたときに、孫権は、


「そなたの父と叔父(諸葛亮)とでは、どちらが賢いか」と質問しました。


「私の父が勝ります」と答えて、理由を聞かれると、


「私の父は、仕えるべきところを知っているのに、叔父は知らないからです」


といい孫権は大笑いしました。


こうした才気煥発なところを見て、諸葛瑾は常に、


「わが家を大いに盛んにするのもこの子なら、根絶やしにするのもこの子だろう」


と心配していました。


また叔父の諸葛亮も、諸葛カクが呉の兵糧の管理役になったとき、


陸遜に手紙を送り、


「カクは大雑把な性格なので、兵糧管理にはむかない」


と注意し、陸遜も、


「その人を人と思わない性格をどうにかしろ」とたしなめています。


252年に孫権が死去しました。


死ぬ前に、孫権は太子の補佐を誰にしたらよいかを、


臣下に問いました。


多くの者が諸葛カクを推し、特に孫峻は強く推挙しました。


孫権はカクの才能は愛していましたが、


他人の意見を聞かず、自分の意見を押し通そうとする性格を危ぶんでいました。


しかし、他にめぼしいものも見当たらないので、


結局、諸葛カクに後事を託すことになりました。


すでに245年に死去した陸遜に変わって、大将軍になっていた諸葛カクは、


さらに太フとなって、内外の権を一手に掌握しました。


未納の税金を帳消しにしたり、関税を撤廃するなどの施策は、


人々に好意をもって迎えられました。


252年10月には、東興堤に押し寄せてきた、


魏の諸葛誕らを破り、大勝しました。


それに気をよくした諸葛カクは、翌年の春、軍を動かしたいと願い出ました。


朝臣たちは、兵が疲れていることなどから反対しましたが、


聞き入れずに、合肥新城を攻撃、包囲しましたが、


兵士たちには疲れが見え、さらには疫病の蔓延なども起こり、攻略に失敗。


さらに退却中にも損害を出し、兵士たちの怨嗟の声は大きく人望を失いましたが、


諸葛カクは、そのようなことを気に留めることなどなく、


次なる軍事行動を準備していました。


253年10月、呉主孫亮と謀った孫峻により、酒宴の席で、


斬殺され、諸葛カクの子供たちも誅殺され、


諸葛瑾の心配していたとおり、一族皆殺しということになりました。


続きです。


のちにカン城の攻略に参加し、城攻めの突撃隊長に任ぜられました。


甘寧は自ら城壁をよじ登って、士卒たちの先頭をきり、


ついに敵を破って、朱光を捕らえました。


この手柄で、折衝将軍に任ぜられました。


また曹操が濡須に、軍を進めてきたときには、


わずか百人での夜襲に成功し、ますます重んじられ、


配下の兵士も2千人を加えられました。


215年の合肥の戦いにおいては、張遼が急襲をかけてきたとき、


リョウ統らとともに、命をまとに戦いました。


そのさい甘寧は大声で、茫然自失の軍楽隊に、


なぜ音楽を鳴らさぬのかと叱りつけ、


その雄々しさは、何ものも犯せぬようであったといいます。


孫権はこの働きをことのほか喜びました。


甘寧は粗暴ですぐ人を殺しましたが、あけっぴろげな性格で、


将来への見通しがたち、物惜しみせず有能な人物を礼遇し、


勇敢な兵士を養い育てることにつとめたので、


彼のために兵士たちも喜んで働きました。


甘寧が死去すると、孫権はその死を痛惜しました。


前回の続きです。


呉にやってきた甘寧は、献策をして、


曹操よりさきに、荊州を攻略すべしといい、


まずは黄祖の軍破り、西に向かえば巴蜀の地も奪取可能だと、


孫権に説きました。


このとき同席していた張昭は、


人心がいまだ安定しておらず、軍が西に向かえば反乱がおこるとして、


反対しましたが、それに対して甘寧は、


「陛下はあなたに、ショウ何(漢の高祖 劉邦の配下で漢の初宰相)の任を付託しているのに、


留守を任されながら、反乱の心配をされるようでは、


古人と同様の勲功を立てたいと、望んでいるのと矛盾しているではありませんか。」


といい孫権は甘寧に、


本年の軍事行動は甘寧に任せるので、張昭の言葉など気にすることはないといいました。


孫権はこのようにして、軍を西に進め、


黄祖をとりこにして、その配下の軍勢を手に入れることができました。


そこで甘寧に軍を授けて、当口に軍をとどめて守りに当たらせました。


赤壁では周ユの指揮下のもとで戦い、引き続き曹仁を南郡に攻めて、まだそれを落とせなかったとき、


甘寧は夷陵を先に奪取すべきだと献策して、みずから軍を進めて城を奪い、


城内に入って守りを固めました。


このときに配下にいたのは、投降してきた者も含めても、


やっと千人になるほどでした。


そうしたことを曹仁が知ると、5千人ほどをやって甘寧を包囲させました。


甘寧の軍は長期間にわたって攻撃を受け、


敵方は高い櫓をたて、そこから雨のように城内に矢を射掛けてきました。


兵士たちは恐れおののきましたが、甘寧だけは楽しげに談笑し、


いささかも気にかける様子はなかったといいます。


やがて呂蒙の計に従い、周ユが部将たちを率いて包囲軍を蹴散らしました。


のちに魯粛の指揮下で、当陽の守備にあたり、


関羽が侵攻してきて、夜のうちに浅瀬を渡ってくるという情報が入ると、


甘寧は3百人の配下を持っていましたが、発言をして、


「もしあと5百人を私の配下に加えていただけるのであれば、これに対処しましょう。


必ずや関羽は私の咳払いを聞いただけで、よう川を渡りますまい。


もし川を渡れば彼は私の囚なのですから。」


魯粛が千人を選び、甘寧につけてやると、


甘寧は夜をついて軍を進めました。


関羽はこれを聞くと、あえて渡渉はしませんでした。


孫権は甘寧の手柄を高く評価して、西陵太守に任じて、


陽新と下雉の2つの県を授けました。


というところでまた次回です。



今日は、



甘寧


を取り上げます。


甘寧 字は興覇  巴郡の臨江の出身


若いときから気概を持って、遊侠を好んで、


無頼の若者たちを集めて、その頭領になっていました。


仲間は大勢で集団をなし、弓などをたばさみ、


水牛の尻尾の旗指物を背につけ、腰には鈴を帯びていました。


人々は鈴の音が聞こえると、すぐに甘寧一味がのし歩いているのがわかりました。


人とであった場合、たとえそれが地方の長官であろうと、


盛んにもてなしたものとは、一緒に楽しみましたが、


そうしないときには、配下のものをやって、財産を奪わせました。


彼の属する地方長官の管轄内で、強盗傷害事件が起こると、


彼がその摘発と、制裁にあたるなど傍若無人に振る舞い、


20年あまりも、それを続けました。


のちに暴力沙汰はやめて、いささか先賢たちの書物を読むと、


劉表のもとに身を寄せて、そのまま南陽に住みました。


しかし取り立てられることもなく、


劉表のやることを、じっくり観察した結果、


やがて失敗することを察知して、


劉表の勢力が消滅したら、自分も巻き添えになると思い、


呉に向かおうとしましたが、


夏口に黄祖がいるので、軍を率いたままでは通過できないので、


やむをえず黄祖に身を寄せましたが、


黄祖は彼を礼遇しようとはせず、手柄をあげても、


待遇は変わりませんでした。


蘇飛を取り上げたときに、説明したように、


蘇飛の助けをえて、チュ県の長に任命されたときに、


黄祖のもとを離れ、呉に身を寄せました。


呉に身を寄せると、周ュや呂蒙がそろって、


甘寧を重く用いるように推挙して、


孫権は甘寧に特別の待遇をして、


もとからの臣下と変わりなくあつかいました。


とここで、話は次回に続きます。



今日は



孫静


です。


三ONの中では、人食いワニ退治のクエストの依頼人です。



孫静  字は幼タイ


孫堅の弟で、189年に孫堅が董卓討伐の兵を挙げると、


同郷人や同族の者、五・六百人を糾合して、


後の守りを固め、人々はよく彼の指示に従ったといいます。


196年に孫策が、会稽の攻略に向かうと、


孫静は呼ばれて、一家眷属を引き連れて、銭唐で合流しました。


会稽太守の王朗は、長江対岸の固陵を堅守し、


孫策も攻めあぐねました。


孫静は、敵の備えがない査トクに足場を築くのが先決だと言い、


先鋒を買って出ました。


孫静は、


「連日の雨で水が濁り、兵はそれを飲んで腹痛を起こす者が多い。


急いで甕を集めて、水を澄ます用意をせよ」


と命じて、数百の甕を集めました。


そして日が暮れると、甕に油を入れて火をつけました。


それを遠望した王朗は、敵襲かと目を奪われ、


その隙に一軍を率いて査トクをめざし、途中、高遷にある敵陣を破り、


救援に駆けつけた、敵将の周キンらを斬って、


会稽を定めました。


孫策は喜んで、奮武校尉に任じて、


重任を授けようとしましたが、


孫静は軍務につくことを望まず、


祖先の墳墓を守りました。


200年に孫権がことを統べるようになると、


昭義中郎将に昇任しましたが、


官を退いたあと、家で亡くなりました。


生没年は不明です。