前回の続きです。
呉にやってきた甘寧は、献策をして、
曹操よりさきに、荊州を攻略すべしといい、
まずは黄祖の軍破り、西に向かえば巴蜀の地も奪取可能だと、
孫権に説きました。
このとき同席していた張昭は、
人心がいまだ安定しておらず、軍が西に向かえば反乱がおこるとして、
反対しましたが、それに対して甘寧は、
「陛下はあなたに、ショウ何(漢の高祖 劉邦の配下で漢の初宰相)の任を付託しているのに、
留守を任されながら、反乱の心配をされるようでは、
古人と同様の勲功を立てたいと、望んでいるのと矛盾しているではありませんか。」
といい孫権は甘寧に、
本年の軍事行動は甘寧に任せるので、張昭の言葉など気にすることはないといいました。
孫権はこのようにして、軍を西に進め、
黄祖をとりこにして、その配下の軍勢を手に入れることができました。
そこで甘寧に軍を授けて、当口に軍をとどめて守りに当たらせました。
赤壁では周ユの指揮下のもとで戦い、引き続き曹仁を南郡に攻めて、まだそれを落とせなかったとき、
甘寧は夷陵を先に奪取すべきだと献策して、みずから軍を進めて城を奪い、
城内に入って守りを固めました。
このときに配下にいたのは、投降してきた者も含めても、
やっと千人になるほどでした。
そうしたことを曹仁が知ると、5千人ほどをやって甘寧を包囲させました。
甘寧の軍は長期間にわたって攻撃を受け、
敵方は高い櫓をたて、そこから雨のように城内に矢を射掛けてきました。
兵士たちは恐れおののきましたが、甘寧だけは楽しげに談笑し、
いささかも気にかける様子はなかったといいます。
やがて呂蒙の計に従い、周ユが部将たちを率いて包囲軍を蹴散らしました。
のちに魯粛の指揮下で、当陽の守備にあたり、
関羽が侵攻してきて、夜のうちに浅瀬を渡ってくるという情報が入ると、
甘寧は3百人の配下を持っていましたが、発言をして、
「もしあと5百人を私の配下に加えていただけるのであれば、これに対処しましょう。
必ずや関羽は私の咳払いを聞いただけで、よう川を渡りますまい。
もし川を渡れば彼は私の囚なのですから。」
魯粛が千人を選び、甘寧につけてやると、
甘寧は夜をついて軍を進めました。
関羽はこれを聞くと、あえて渡渉はしませんでした。
孫権は甘寧の手柄を高く評価して、西陵太守に任じて、
陽新と下雉の2つの県を授けました。
というところでまた次回です。