明日、課金しようか

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三ONから離れ、ブログも長らく放置していましたが、


三国志オンラインがサービス終了


というのを聞き、


長く遊んだゲームだし、最後を見届けようかなと。


課金しなくても、無料期間があるらしいけれど、


最後だしね。


課金して、復帰してみよう。


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今日は山越族を倒すのクエ依頼NPCの、



孫河


を取り上げます。




孫河   字は伯海


孫堅の族子(同族内の子供の世代にあたる者)で、


姑の愈氏の養子となり、のちにまた孫氏の姓に戻りました。


孫河は、実直な性格で、


議論よりも行動を尊び、積極性をもって自分の職務に努めました。


若いときから孫堅に従って征伐に参加し、つねに先鋒をつとめました。


のちには孫堅の近衛兵を指揮し、宮中のことを取り仕切るなど、


腹心として信任を受けました。


また孫策のもとでは、呉郡、会稽の平定に従事し、


孫権のもとでは、李術討伐に従い、


李術が敗れると、孫河は威寇中郎将に任ぜられ、


ロ江太守の職務にあたりました。


孫権が呉郡太守の盛憲を殺害したとき、


盛憲がかつて孝廉に推挙したギランと載員は、


山中に逃げましたが、孫ヨクが丹楊太守となると、


礼をもって招き、兵の指揮などを任せましたが、


二人は辺鴻を使って、孫ヨクを殺害し、


辺鴻にすべての罪を着せ殺害しました。


孫ヨクが殺されると、孫河はすぐにかけつけ、


二人が職務を果たさないから変事が起こったと、強い口調で責めました。


二人は相談して、孫権がくることになれば、


自分たちの一族が根絶やしされてしまうと思い、


孫河を殺害しました。


のちにギランと載員は、一計を案じた孫ヨクの夫人徐氏と、


配下の孫高・博嬰らに殺されました。

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今日は




孫桓


を取り上げます。




孫桓    字は叔武 


孫河の息子で、風貌が端正で、有能で聡明な頭脳をそなえ、


博学で多くのことをしっていて、人との議論や応対に巧みであったといいます。


武衛都尉に抜擢されて、関羽の討伐にも参加。


関羽の余党を説得し、5千人を呉に帰属させ、


馬や牛、軍用機械などおびただしい数を鹵獲しました。


25歳のとき安東将軍の職を授けられ、


陸遜とともに、劉備の侵攻の防御にあたりました。


劉備の軍勢は圧倒的な勢いを示し、


山にみち谷を埋めましたが、


孫桓は、武器をふるい命を惜しまず、陸遜と力を一つに合わせて戦ったので、


劉備は何もできぬままに敗走しました。


孫桓は、敗走する劉備を追って、キ城に通じる道を断ち、


要所要所で封鎖しました。


劉備は山中の険害をのりこえて、やっとのことで脱出すると、


いきおどり嘆息していいました。


「私がむかし京城に行ったときには、孫桓はまだ小児であったのに、


いま私をこんなにも追いつめよった。」


孫桓は功績を認められ、建武将軍を授けられ、丹徒候に封ぜられました。


長江を下って、牛渚の督となり、


横江の砦を築いているときに、思いがけなく急に死去していまいました。


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今日は



朱拠


を取り上げます。




朱拠  字は子範  呉郡の呉出身


風采があがり体力があって、そのうえ人と議論をするのが巧みであったといいます。


222年にめしだされて、五官郎中の官を授かり、


侍御史に補せられました。


孫権は、当時の軍の指揮者たちのだらしなさを、


腹を立てたり、嘆息したりしながら、


呂蒙や張温のことをなつかしく思っていましたが、


朱拠が文武の才を兼ねており、呂蒙らの後を継がせることができると考え、


そこで彼を建義校尉に任じ、兵を率いて湖ジュクに駐屯させました。


229年に孫権は都を建業に移すと、朱拠を都に呼び寄せて、


公主を娶らせて、左将軍に任じ、雲陽候に封じました。


朱拠は、謙虚な態度で有能な人材に接して、


財貨をおしみなく用いて人々を援助したため、


豊かな俸禄や賜りものがあったにもかかわらず、


生活は切りつめたものだったといいます。


246年にはヒョウ騎将軍に昇進しました。


孫和と孫覇の、二人の公子の間で確執が起きると、


朱拠は太子の孫和の擁護にあたり、その意見は心のこもったのもで、


正しい道を守ろうとする気概は顔色に表れ、


死をも賭して太子を守り通そうとしました。


こうしたことのために、彼は新都郡の丞に左遷されることになりました。


まだ新都郡につくまえに、中書令の孫弘が讒言を繰り返し、


孫権が病気の床にあることをいいことに、


孫弘自身で詔書をでっちあげ、追手を遣わして自殺を命じました。


このとき朱拠は57歳でした。


今日は



朱桓


を取り上げます。



朱桓  字は休穆  呉郡の呉出身


孫権が将軍となったときに、側仕えとして働き、


やがて余ヨウ県の長に任ぜられました。


県に赴任してみると、疫病が流行しており、


飢饉で穀物などが高騰していました。


朱桓は有能な役人たちを選んで、彼らに指示をして、


直接に医薬品の手配をし、炊き出しを何度も行わせたので、


士人や民衆も彼の処置に感激して、


よろこんで彼の命令に従ったといいます。


朱桓はトウ寇校尉に昇進すると、兵2千を授けられて、


呉郡と会稽郡とで軍隊の編成を命じられました。


彼は、ばらばらになっていた兵士たちを集めて、


一年ほどで1万人ほどの兵士を配下に収めました。


丹楊郡などで、山越族の不服従民が反乱を起こすと、


部将たちを指揮して、またたく間に、すべてを平定しました。


のちに周泰のあとを継いで、濡須の督に任ぜられました。


222年に、魏の曹仁が数万の軍勢で攻め寄せたとき、


曹仁は呉をあざむくため、東に軍を進めて、羨渓を攻めるのだと宣伝させました。


朱桓は兵を分けて羨渓に向かわせることにし、


その部隊が出発したあとに、曹仁の軍勢が濡須から、


70里のところまできているとの急報が入りました。


朱桓は使者をやって、羨渓の軍勢を戻させましたが、


その軍が戻らぬうちに、はやくも曹仁が来襲してきました。


朱桓の指揮下にある兵で、その場にいたのは5千人ほどで、


部下たちは恐慌状態に陥りましたが、


朱桓は部将たちを諭し、


「勝敗は部将の手腕のいかんによって決まるのであって、


兵の多寡ではない」


といって、軍旗もたてず戦鼓もならさず、


いかにも弱体であるふうを装い、曹仁を誘い込み、


常チョウを斬り、王双を生け捕りにするなどし、


曹仁の軍を破りました。


孫権は朱桓の手柄を喜んで、嘉興候に任じて、


奮武将軍に昇進させました。


228年に、周魴が偽って魏に降服を申し出て、


曹休をおびきよせたときにも、陸遜、全琮とともに曹休を破りました。


229年には、前将軍に任ぜられ、青州の牧の任務をおびて、


仮節を授けられました。


朱桓は己の過ちを認めようとせず、人に下につくのを嫌う性格で、


敵と対陣して戦いを交える際にも、軍を自分の思うとおり動かせぬことがあると、


つねに腹を立てていたといいます。


しかし一方で彼は、私財を惜しみなく散じ、


他人との道義的関係を大事にしました。


加えて記憶力がずばぬけて良く、一度会っただけで、


その人のことを何十年も忘れず、配下には1万ほどの兵士がいましたが、


彼らの妻や子まで、みなその顔を覚えていたといいます。


軍吏や兵士の生活を大切に考えてやり、


血縁の者たちには、厚い援助を与え、


俸禄や家の財産は、すべて彼らと分かち合いました。


そうしたことから、朱桓が病気になり、


危篤となると、その軍営のものすべてが憂いに沈みました。


62歳で、239年に死去しました。


軍吏や兵士は、男女問わず、その死をなげき彼をなつかしまぬものはなかったといいます。