今日は
朱拠
を取り上げます。
朱拠 字は子範 呉郡の呉出身
風采があがり体力があって、そのうえ人と議論をするのが巧みであったといいます。
222年にめしだされて、五官郎中の官を授かり、
侍御史に補せられました。
孫権は、当時の軍の指揮者たちのだらしなさを、
腹を立てたり、嘆息したりしながら、
呂蒙や張温のことをなつかしく思っていましたが、
朱拠が文武の才を兼ねており、呂蒙らの後を継がせることができると考え、
そこで彼を建義校尉に任じ、兵を率いて湖ジュクに駐屯させました。
229年に孫権は都を建業に移すと、朱拠を都に呼び寄せて、
公主を娶らせて、左将軍に任じ、雲陽候に封じました。
朱拠は、謙虚な態度で有能な人材に接して、
財貨をおしみなく用いて人々を援助したため、
豊かな俸禄や賜りものがあったにもかかわらず、
生活は切りつめたものだったといいます。
246年にはヒョウ騎将軍に昇進しました。
孫和と孫覇の、二人の公子の間で確執が起きると、
朱拠は太子の孫和の擁護にあたり、その意見は心のこもったのもで、
正しい道を守ろうとする気概は顔色に表れ、
死をも賭して太子を守り通そうとしました。
こうしたことのために、彼は新都郡の丞に左遷されることになりました。
まだ新都郡につくまえに、中書令の孫弘が讒言を繰り返し、
孫権が病気の床にあることをいいことに、
孫弘自身で詔書をでっちあげ、追手を遣わして自殺を命じました。
このとき朱拠は57歳でした。