今日は、



丁奉



を取り上げてみたいと思います。



丁奉   字は承淵   ロ江郡の安豊出身


若いころから勇猛であるというので、小さな部隊をあずけられ、


甘寧や陸遜などの指揮下に入り、


しばしば征伐に参加しては、身に大小の傷を負いながら、


きまって敵の大将を斬り、軍旗を奪って、


抜群の手柄を立て、やがて偏将軍に任じられました。


孫亮が即位すると、冠軍将軍となり、都亭侯に封ぜられました。


魏が諸葛誕や胡遵をおくって、東興に攻撃をしかけてくると、


諸葛格が軍の指揮にあたり、これを防ぐことになりました。


部将たちは、諸葛格が出てきたので、敵は動揺しているから、


敵前上陸を行えば、すぐに逃げ出しますといいましたが、


丁奉は、


敵が攻めてこないのを恃みにしてはならぬ、


味方に敵を打ち破れる実力があることを恃みにすべきだといい、


自軍の動きが遅いとみるや、


他の軍には別の道を通らせ、自分は配下の3千の兵を率い、


まっすぐに進みました。


このときちょうど、北風が吹いていたので、


丁奉は船に帆をかけて、2日で戦場につき、


そのまま徐塘に陣営を構えました。


天候が悪く雪も降っていたので、敵の部将たちは、


宴会を開き、兵士は笑いさざめきあって、


なんの備えもしておらず、


それを見た丁奉は配下に向かって、


「領地をいただき、恩賞をてにいれるのは、まさに今日だ」


といい、敵に攻撃をしかけ、敵の前衛の陣地をさんざんに打ち破りました。


ちょうどそのころに、ほかの軍も到着したので、


魏は潰走しました。


やがて滅冠将軍に昇進して、都郷候に進封されました。


255年に、魏の部将・文欽が投降を申し入れてくると、


孫峻に従い、寿春までいって出迎え、


文欽を追ってきた敵の軍に突入して、


数百の首級をあげ、敵の軍器を奪いました。


この功で、安豊侯に封ぜられました。


257年に諸葛誕が、寿春の城にたてこもり、


呉に降りたいと申し入れてきたときには、救援に向かい、


丁奉は突撃隊長として功があり、左将軍に任ぜられました。


孫休が即位すると、当時専横を極めていた、孫綝誅殺に張布とともに、


主動的に関わり、大将軍に昇進しました。


孫皓擁立にも功があり、右大司馬左軍師に昇進しました。


269年に晋の穀陽に攻撃をかけましたが、


事前に攻撃を知った住民たちは、城をさっていたため、


何も得るところはありませんでした。


丁奉は、官位が進むごとに傲慢になり、


271年に死去したあと、孫皓は穀陽での失敗の責任を取り上げ、


丁奉の家族は臨川に強制移住させられました。






今日は



孫皎


を取り上げたいと思います。



孫皎   字は叔朗


孫静の息子で、孫瑜の弟。


はじめ護軍校尉に任じられ、兵2千を預けられました。


曹操がたびたび、濡須・居巣・合肥に繰り出してきたきたときは、


孫皎はそのたびに駆けつけ、曹操につけいる隙を与えず、


精鋭の名を謳われました。


のち征虜将軍となり、程普に代わって、夏口の軍の総指揮に当たり、


215年に黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、


彼らの配下の軍も併せて指揮しました。


孫皎は財を軽んじて、よく施し、


広く交友関係を結び、自分の任命した者に親身に世話をしたので、


それらの者は、よく役目を果たしました。


ある時、酒の席で些細なことから、甘寧と大喧嘩になりました。


ある人が甘寧を諌めましたが、甘寧は、


「臣子一例(臣と子は皆同列)というではないか。


征虜は公子であろうとなかろうと、何で人を侮辱していいものか。


私は明主に会えた以上は、力と命を差し出して恩に報いるまでで、


世間の慣わしにしたがって屈することなど出来ない。」


と息巻きました。


これを聞いた孫権は、孫皎に手紙を送って、


「慎み深く身を処し、細やかなことに拘らなければ、


民の上に立つことが出来るし、また人を愛し、


心を広く持てば、多くの人の支持を得られる。


これを忘れては人々を統率することなどできない。


過ちのない人などいないが、


大切なのは過ちを改めることなのだ。」


と反省を促しました。


孫皎はこれを読んで上疏して、陳謝し、


それから甘寧と厚い交わりを結びました。


219年の、荊州争奪戦では呂蒙に従い、


関羽討伐に一役買うも、年内に急死しました。






三国志の赤壁の戦いを、題材にした映画



レッドクリフ


パート1を見てきました。


なかなか見ごたえがあってよかったと思います。











こっから先はネタばれを含んでいるので、


ネタばれがいやな方は回避しといてください。






日本人俳優で、中村獅童さんが、甘寧役ででてますが、


(役名は甘興となっていますが)


ふてぶてしい面構えで、甘寧を演じていてなかなかよいですね。


ジョン・ウー作品だけに、アクションもよいです。


でも、周瑜役のトニーレオンの名前が、


オープニングやエンドロールの一番最初にくるから、


呉の他の武将も、もっとでてくるのかと思ったけど、


そんなに出てこない。


甘寧や孫権、尚香は見せ場もあるけど、


黄蓋とかは、ちらっとしか出てこなかった。


パート2には出てくるのかな?


曹操は映画の宣伝用ポスターなんかでは、ものすごい暴君てきな記載だったけど、


そんなに暴君てきではないような感じには描かれてはいないように思った。


まあ孔融をいきなり処刑したりしてるけど。


今回は前哨戦までの、お話ですね。


パート2ではいよいよ決戦。


来年の4月公開予定らしいので、来年が楽しみです。




今日は



陸績


を取り上げます。



陸績   字は公紀  呉郡呉県出身


193年、6歳のときに、父陸康につれられて、袁術に会いました。


袁術はそのとき来た客に、みかんを振舞いました。


陸績はそのうちの3つを懐に入れましたが、


退出するさいに、お辞儀をしたときに、


それが床に落ちてしまいました。


すると袁術苦笑いしながら、


「陸家のお坊ちゃんは、人に招かれた席で、みかんを懐にするのか」


と問いました。


陸績はひざまづいて、


「帰って母に贈ろうと思いまて」


と答えました。


袁術は並みの子とことなる陸績に大きな感銘を受けたといいます。


このエピソードから陸績は、のちに「二十四孝」の一人に数えられることになります。


196年、孫策は会稽郡に拠り、張昭・張紘らを上賓として迎えて、


彼らと、武力で四方を平定しなければいけないと論じていたとき、


末席にいた少年・陸績は大声で、


「孔子は遠くのものが服さない時は、自分が文徳を修めて、


彼らを招き寄せよ、と申されています。


只今の議論は徳を用いようとせず、武力を重んじるものでございます。


私は年端もゆかず、物事もわかりませんが、


賛同しかねます。」


といいました。


張昭たちは、彼の非凡さを高くかいました。


陸績は雄才な風貌をそなえ、博学多識で、天文暦法や、


数学まで読まない書物はなかったといいます。


200年に、孫権により奏曹エンに任ぜられましたが、


直言を憚らなかったために中央から出され、


交州の鬱林太守となり、偏将軍を加えられて兵2千を与えられました。


学者志望で志とは異なる任務ではありましたが、


著述はやめず、「渾天図」を著し、「易経」に注釈をつけ、


「太玄経」に解釈を施しました。


219年32歳で死去しました。


およそ60年後に天下が統一されるだろうという言葉を残して亡くなり、


61年後の280年に晋により天下が統一され、


その予言は、当たることになりました。




今日は、



孫瑜


を取り上げます。



孫瑜   字は仲異


父は孫堅の弟の孫静。


204年に丹楊太守に任命されました。


そのとき彼を慕って、1万人ほどの人が彼の元に集まったといいます。


206年には周瑜と協力して麻と保の砦を落としています。


曹操が濡須に攻め寄せてきた際には、


孫権は積極的に打って出ようとしました。


孫瑜は孫権に自重するようにいいましたが、


孫権は聞き入れず出撃し、なんの成果も上げられませんでした。


当時は武芸一辺倒の武将が多い中で、


孫瑜は常に書に親しみ、古典に通じ、


彼の陣中からは、いつも書物を誦する声が聞こえたといいます。


そんな孫瑜ですが、39歳という若さで亡くなりました。