今日は
陸績
を取り上げます。
陸績 字は公紀 呉郡呉県出身
193年、6歳のときに、父陸康につれられて、袁術に会いました。
袁術はそのとき来た客に、みかんを振舞いました。
陸績はそのうちの3つを懐に入れましたが、
退出するさいに、お辞儀をしたときに、
それが床に落ちてしまいました。
すると袁術苦笑いしながら、
「陸家のお坊ちゃんは、人に招かれた席で、みかんを懐にするのか」
と問いました。
陸績はひざまづいて、
「帰って母に贈ろうと思いまて」
と答えました。
袁術は並みの子とことなる陸績に大きな感銘を受けたといいます。
このエピソードから陸績は、のちに「二十四孝」の一人に数えられることになります。
196年、孫策は会稽郡に拠り、張昭・張紘らを上賓として迎えて、
彼らと、武力で四方を平定しなければいけないと論じていたとき、
末席にいた少年・陸績は大声で、
「孔子は遠くのものが服さない時は、自分が文徳を修めて、
彼らを招き寄せよ、と申されています。
只今の議論は徳を用いようとせず、武力を重んじるものでございます。
私は年端もゆかず、物事もわかりませんが、
賛同しかねます。」
といいました。
張昭たちは、彼の非凡さを高くかいました。
陸績は雄才な風貌をそなえ、博学多識で、天文暦法や、
数学まで読まない書物はなかったといいます。
200年に、孫権により奏曹エンに任ぜられましたが、
直言を憚らなかったために中央から出され、
交州の鬱林太守となり、偏将軍を加えられて兵2千を与えられました。
学者志望で志とは異なる任務ではありましたが、
著述はやめず、「渾天図」を著し、「易経」に注釈をつけ、
「太玄経」に解釈を施しました。
219年32歳で死去しました。
およそ60年後に天下が統一されるだろうという言葉を残して亡くなり、
61年後の280年に晋により天下が統一され、
その予言は、当たることになりました。