今日は


駱統


を取り上げます。



駱統  字は公緒  会稽郡鳥傷県の出身


駱統の父・駱俊は袁術に殺され、母は8歳のときに華歆の側室となりました。


駱統が、母と別れる際に、母は駱統の姿が見えなくなるまで見送っていましたが、


駱統は決して振り向かず、周りのものに何故振り向かないのかと聞かれると、


「今振り向けば、母上にも未練が残り別れずらくなってしまう。


だから振り向かないんだ。」


といいました。


213年、20歳のときに孫権によって烏程国の相に抜擢されます。


駱統の恵み深く、道理をわきまえた統治を人々は称賛しました。


孫権はこれを喜び、騎都尉の官を与え、


従兄の孫輔の娘を嫁がせました。


駱統は孫権の施策に、誤りがあれば正すことをこころがけ、


何か見聞するところがあれば、夜中でも言上したといいます。


また臣下が提案をしやすい状況を作り出すべしと説き、


孫権はすぐに彼の言葉に従いました。


軍事にも通じていて、兵3千を率い、凌統が死去すると、


その配下の兵もあわせて率いました。


陸遜の元で、蜀軍を破った功で、偏将軍に昇進し、


翌223年に濡須に、曹仁が攻撃を仕掛けてきた際には、


別将・常彫らを破り、曹仁を撃退し、


新陽亭候に封じられ、後に濡須の督になりましたが、


228年、36歳で病死しました。




続きです。


諸葛亮という人は、後世に多大な影響を与えた人物なので、


虚像が作り上げられている部分があります。


しかし、虚の部分を除いた諸葛亮が、


だめな人物ではありません。


諸葛亮は、220年に劉備が皇帝になると、


丞相に就任します。


蜀の宰相となった諸葛亮の政治姿勢は、


公正


でした。


多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、


嘘偽りは歯牙にもかけなかったと。


なので諸葛亮に処罰された人々も恨むことはなく、


みな諸葛亮を愛していたといいます。


夷陵の戦いに敗れ失意の劉備が223年に亡くなると、

彼は亡き主君の遺志を継ぎ、


魏に対し5回にわたり、北伐を行います。


第一次北伐の際にだした上奏文「出師の表」は、


これを読んで泣かぬものは忠義の士ではない、と言われるほどの名文で、


後世の多くの人に影響をあたえました。


また毎年のように、大軍を動かしても、


蜀の国力は衰えず、人々も厭戦気分にならずにいたことは、


諸葛亮が、優れた政治家であったということをあらわしています。


5回の北伐も、強大な魏を倒すことはならず、


第五次北伐のさなかに、過労のため陣中に没します。


蜀軍が撤退したあとの陣地を見た、敵将司馬懿は、


天下の奇才と評しました。


劉備が今わの際に、


「もし劉禅が補佐するにたる器量なら、補佐してやってほしい。


しかしそうでないなら、君自ら取れ」


といわれながら、あくまで補佐に徹した諸葛亮。


その死は、諸葛亮によって処罰された、


李平や廖立らも嘆かせ、


蜀の民衆は、諸葛亮の廟をつくりその死を悼みました。





続きです。


劉備に仕えるようになった諸葛亮ですが、


三国志演義のように、軍勢の指揮を任されたかというと、


そうではありません。


諸葛亮が本格的に、軍勢の指揮をするのは、


劉備の死後、南蛮征伐のときからです。


では、それまで諸葛亮が何をしていたかということになりますが、


まずしてのけたことは、


赤壁の戦いのおりの、呉との同盟。


208年に劉表が死去すると、劉綜が跡を継ぎます。


諸葛亮は劉備に、荊州を奪うよう薦めますが、


劉備は難色をしめします。


やがて曹操の軍勢が南下してくると、劉綜は降伏し、


劉備は南に逃れますが、当陽で追いつかれ敗戦し、


夏口に逃れます。


ちなみに徐庶は、この敗戦まで劉備陣営にいて、


敗戦したときに、母親が曹操の軍勢に捕まり、


劉備の元をさったので、


三国志演義のように、諸葛亮がくる以前にいなくなったわけではありません。


このとき、孫権は情勢視察のために、


魯粛を荊州に派遣していました。


諸葛亮は、魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、


これに成功します。


そして劉備・孫権連合は赤壁において、曹操の軍勢を破ります。


その後、劉備は隙をついて、荊州南部の四郡を占領します。


このころ龐統が、劉備陣営に加わります。


諸葛亮は軍師中郎将となり、四郡の内の三郡の統治にあたり、


税収を軍事費にあてるなど、内政を担当し、


劉備が軍事行動をしている間の、留守を守り、兵站を支える役割をになっていくようになります。


三国志演義のように、軍勢の指揮をしたわけではありません。


その役割は、龐統がし、その死後は法政がしていました。


211年に、劉備の元に益州の劉ショウから、張魯から国を守ってほしいという要請がきました。


龐統の強いすすめもあり、劉備は蜀を奪うことを決意し、入蜀を開始。


214年には蜀を平定し、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となり、


李厳や伊籍らとともに、蜀の法律である蜀科を制定しました。


というところで、今日のところはここまでです。



日本では諸葛孔明として有名な



諸葛亮


あまりにも有名で、最近では孔明の罠なんて言葉もあるくらいで、


紹介するまでもないところですが、


それでも知らないひともいると思うので、


取り上げておきます。



諸葛亮  字は孔明  琅邪郡陽都県の出身


幼いころに、父親 諸葛珪をなくして、


叔父の諸葛玄に弟の均とともに引き取られ、


劉表のもとに身をよせることになります。


叔父の死後は、荊州で弟と共に、


晴耕雨読の日々を送ります。


このころは自分自身を、管仲(斉の桓公を覇者に導いた宰相)や、


楽毅(燕の名将)になぞらえていて、


周囲の人はこれを認めていませんでしたが、


徐庶と崔州平だけは認めていました。


やがて劉備が荊州にやってくると、


徐庶が劉備の配下となり、徐庶が諸葛亮を推薦しました。


劉備が徐庶に、諸葛亮を呼び寄せるようにいうと、徐庶は、


自分が呼び寄せたぐらいで、やってくる人物ではない、


といい、そこで劉備は諸葛亮のもとに3度訪れ、


やっと迎えることになりました。


このことを 三顧の礼といいます。


そしてその際に諸葛亮がしめした、


呉と同盟して、荊州と益州をとり、華北の曹操に対抗する、


という戦略を 天下三分の計といいます。


諸葛亮の見識に惚れ込んだ劉備は、日々諸葛亮と共に過ごしましたが、


そのさまを見た、関羽と張飛は不機嫌になりました。


ですが劉備は二人に、


諸葛亮を得たのは、魚が水えたのと同じことだと説明して、


以後二人も機嫌を直しました。


このことを 水魚の交わりといいます。


というところで今回はここまでです。



今日は



董襲


を取り上げます。



董襲  字は元代   会稽郡の余ヨウ出身


身長は190cmほどあり、人並みはずれた武力があったといいます。


孫策が会稽郡にやってきたときに、董襲はそれを高遷亭で迎えました。


孫策は、彼に会ってその人物の立派さに感心して、


役所に入ると、彼を門下賊曹に任じました。


当時、山陰ではそこに巣くう賊徒の、黄龍羅と周勃とが徒党千人あまりを集めていました。


孫策はみずからその討伐に乗り出し、董襲はその手で黄龍羅と周勃の首を斬りました。


凱旋した後、別部司馬に任ぜられ、兵士数千人をあずかりました。


やがて揚武都尉に昇進しました。


孫策が逝去したあと、孫権があとをついでゆくことになりましたが、


年若く、太妃(孫堅の夫人)は心配し、


張昭や董襲らを呼び、江東の地を守っていけるだろうかと尋ねました。


董襲は、


江東の地勢は山や川の固めがある上に、孫策から引き継いだ基盤があり、


臣下たちは、身分の高低を問わず役に立とうとしており、


張昭が諸事を取りまとめ、自分たちが軍を率いてことにあたっており、


地の利と人の和を得ているので心配ないといい、


人々は董襲のいうことの、気宇壮大さに感心しました。


208年の黄祖討伐のおりには、黄祖側が、


2隻の船を横に並べて、しゅろの太いロープに石を結んで碇とし、


船を固定し、船の上に千人の兵士を配置して、


そこから弓を乱射していて、呉の軍は進むことができずにいました。


凌統とともに先鋒になっていた董襲は、


しゃにむに進んで、みずから刀でもって2本のロープを切りました。


船は勝手に流れ出してしまい、それに乗じて呉の軍は大挙攻め込んで、


黄祖を斬りました。


祝宴が開かれると、孫権はさかずきを挙げると董襲にいいました。


「今日こうした宴会が開けるのは、碇のロープを切った手柄があったればこそだ」


曹操が濡須に攻め寄せてくると、董襲は孫権にしたがって急遽、


濡須におもむきました。


孫権は董襲に命じて、大型船で濡須口を固めさせました。


夜に暴風雨となり、董襲の大型船は転覆しそうになりました。


側近のものは、快速艇を切り離すと、董襲もこれに乗って脱出してくださいといいましたが、


董襲は腹を立てていいました。


「将軍の任を受けて、賊軍に備えているのに、


どうしてそれを放棄して逃げることができよう。


重ねてそのことを、いうものがあれば斬る」


こういったので、彼の強い意志には逆らおうとするものはいませんでした。


その夜のうちに、船は壊れ、董襲は死亡しました。


孫権は喪服をつけて、彼の葬儀に臨席し、


遺族には手厚い経済援助を行いました。