いつのまにか、客将として出ていたので、



陳武


を取り上げます。




陳武  字は子烈  ロ江郡の松滋出身


孫策が寿春にいたときに、出かけていって拝謁しました。


このとき、年が18で、身長は185cmほどあったようです。


三国志演義では、目が赤い化け物じみた容貌に書かれています。


そのまま孫策のもとに留まり、一緒に長江を渡って、


各地の討伐で手柄をあげて、別部司馬に任ぜられました。


孫策が劉勲を破ると、捕虜の中から精鋭を選りすぐって、


軍団を作って、それを陳武に指揮させました。


この軍団は、向かうところ敵なしだったといいます。


孫権が君主になると、五校尉(首都防衛の機動隊)の目付けに転じました。


彼は、他人に対する思いやりが深く、気前もよかったため、


同郷のものや遠方から流離してきた人たちが、


多数、彼の元に身を寄せました。


また孫権から特別な寵遇を受け、孫権は何度も彼の家を訪れました。


215年に合肥の合戦に参加して、命をまとに奮戦するなかで戦死しました。


孫権はその死を哀惜し、親しくその葬儀に臨席したといいます。


今日は



蒋欽


を取り上げます。



蒋欽  字は公エキ 九江郡の寿春出身


194年に孫策に仕えて、孫策に従って3つの郡を平定して、


会稽の賊、呂合・秦狼を捕らえました。


その功によって、討越中郎将に任ぜられました。


勇猛ではありましたが、知略にとぼしいイノシシ武者でしたが、


呂蒙とともに、孫権にから勉学に励むように諭され、


必死に書物を読んで勉学に励み、大きく成長しました。


217年に曹操が、濡須へ軍を進めてくると、


呂蒙とともに、総指揮にあたりました。


そのさいに、過去に蒋欽の留守を預かっていた役人を、


徐盛が捕らえて、罪を糺し上訴して、


斬刑に処そうとしたことがあり、徐盛は報復を恐れていましたが、


蒋欽は徐盛の長所を取り上げて、称賛しました。


徐盛は彼の徳に心服しました。


219年の関羽討伐にも、水軍を率いて参加しましたが、


その帰還途中で病死しました。


功績を挙げても奢ることなく、実直な人物だったため、


孫権や同僚、配下の将兵に厚く信頼された人でした。




今日は



凌統


を取り上げます。


凌統  字は公績 呉郡の余コウの出身


父親は凌操で、凌操は孫策の配下として、つねに征伐に加わり、


いつも先頭に立って戦いました。


孫権が、呉の軍の総指揮にあたるようになると、孫権の配下として、


江夏の討伐にむかいました。


敵の先鋒を破りましたが、そのとき黄祖に従っていた甘寧によって殺されます。


凌統は、このとき15歳でしたが、


孫権の側近で、凌統をほめて口をきくものがあり、


孫権も父親が国事に死んだことを思い、凌統を別部司馬に任じ、


父親の兵をそのまま指揮させました。


のちに麻屯・保屯の山越族の不服従民の討伐に参加したときのこと、


孫権は保屯を落とすと、先に軍を返し、


麻屯の敵が残されました。


凌統は張異らとともに、これを包囲、期日を決めて総攻撃をすることにしました。


攻略の前に行われた酒宴で、督の陳勤が好き勝手をしたことを真っ向から咎め、


陳勤が怒って凌統や父・凌操を侮辱するのに対し初めは黙って耐えていたましが、


侮辱が酒宴の帰り道にまで及んで、ついに陳勤を斬りつけ負傷させました。


その傷がもとで、陳勤は数日後になくなりました。


凌統は死んで罪を詫びるしかないと思い、


自ら先頭に立って、屯を落とし、


帰還すると自ら、目付けのもとに出頭してなわめを受けました。


孫権は彼の剛毅さを立派だとして、直接に罰することはせず、


手柄を立てて罪をあがなえるようにしました。


再び孫権は江夏に軍を進めると、凌統に先鋒を命じました。


凌統は、つねに目をかけている兵士数十人と一つの船に乗り、


常に本隊から数十里をおいて先行しました。


そのようにして軍を進めた凌統は、黄祖の部将の張碩をきり、


城を攻撃するときも、先頭にたって攻撃し、


大勝利をおさめました。


凌統は、軍旅にあっても、有能な人物と接触することに努めて、


財貨を軽んじ、信義を重んじて、一国を背負ってたつ国士の風があったといいます。


しかし父親が、甘寧に殺されたことを、恨んでいて、


孫権も、凌統に遺恨をはらそうなどとしてはいけないと命じていました。


あるとき呂蒙が武将を集めて宴会を開いたとき、


凌統が剣舞を舞うことになり、凌統の父の仇である甘寧も戟をとったが、


呂蒙がその場に割って入り、大事には至りませんでした。


のちに孫権は凌統の気持ちの強さを知ると、以後甘寧と任地を同じにすることはありませんでした。


孫権が合肥を攻めたときには、右部督に任じられました。


このとき、孫権が撤退を命じて、先発隊がすでに出発したあとで、


魏の武将、張遼らが急襲をかけてきました。


凌統は腹心の部下300人を率いて包囲を崩して、孫権を守りながら、


脱出させました。


敵はすでに橋を壊しており、2枚の板だけでつながっている状態でした。


孫権が馬に鞭をくれて橋を渡ると、再び戦場に戻って戦い、


側近のものはすべて死に、凌統も負傷しながら数十人の敵を討ち取り、


孫権が安全な場所に逃れた頃を見計らって退却しました。


橋は既に壊されており、革の鎧を着たまま川を泳いでわたり、


孫権は彼が、帰ってきたことに驚喜しました。


凌統は近習のものが、誰も戻ってこなかったのを痛み、


悲しみに沈んでいました。


孫権は、自らの袖で涙を拭いてやると、


「死んだものは帰ってこない。あなたさえ健在なら、


他に有能なものがいないなどと、どうして心配したりしよう」


といって偏将軍の官を授け、今までに倍する兵士を与えられました。


凌統は「山越にはまだ勇猛な人が多く、威恩をもって味方にすることができる」


と進言し、討伐を行った。事を片付けまさに帰還しようという時、病死しました。


孫権はこの知らせを聞くと、ベッドから飛び起きて座りなおし、


哀しみを抑えかねたといいます。






今日は、三国志オンラインの世界と、


史実の違う点をあげてみたいと思います。


コーエーの三国志オンラインは、三国鼎立の形になった、


劉備が蜀入りした以降の時代が、舞台となっていますね。


しかし、ゲームとして面白くするためのものかどうか、


史実的なものを変えてあるようです。


まず人物についていうと、


歴史的に見るとその時点で、死んでいるはずの人が生きている。


蜀や魏については、あまり見かけられませんが、


呉に関しては、孫策や周瑜、太史慈が生きています。


にもかかわらず、君主は孫権です。


史実では孫権が君主になるのは、孫策の死後、


そのあとを引き継いで君主になっているので、ここは大きく違っています。


そしてなんと、


この世界では董卓は生きているかもしれない。


ということになっています。


董卓というひとは、後漢王朝末期の混乱に乗じて、


一時は政権を掌握し、


やりたい放題をやったあげく、


王允と呂布によって殺された人です。


そして董卓を殺した呂布も、のちに曹操によって倒されているのですが、


2008年8月のアップデートの情報を見ると、


三国志最強の武将が出てくるとなっています。


コーエーの三国志のゲームで、つねに最強の位置にいる人物。


それは、


呂布 奉先が出てくるということ!


人に関しては、なんでもありということですね。


人以外でいえば、


荊州の一部は中立地帯となっていて、


三国のいずれの領土にもなっていません。


これは初心者ゾーンとしているためですね。


本来、魏の領土である長安も中立地帯となっていて、


許昌にいるはずの、後漢の最後の皇帝・献帝がいます。


大きな点でいえばこんなところでしょうか。


今日はこんなところです。


今日は、



徐盛


を取り上げます。


徐盛 字は文キョウ 瑯耶郡キョの出身


世の中が乱れてきたおりに、呉郡に移り住んで、


度胸と義気があることで知られました。


孫権が呉を取り纏めていくようになると、招かれて配下になりました。


孫権は兵士500人をあずけて、柴桑県の長に任じて、


黄祖を食い止めさせました。


あるとき、黄祖の息子の黄射が、


兵数千人を率いて、長江を下って徐盛に攻撃を仕掛けてきたことがありました。


そのとき徐盛の手元には200人に満たないほどしか、


人数がいませんでしたが、これを迎えて一歩も引かず、


黄射の軍は1000人ほどの死傷者を出しました。


そのあと城門を開いて打って出て、敵を徹底的に打ち破りました。


このことがあってから、黄射は二度と侵攻してくることがありませんでした。


孫権は功績を評価して校尉に任じました。


曹操が濡須に攻め寄せたときには、、ほかの将とともに、


蒙衝(駆逐艦)に乗って戦ましたが、激しい横風にあい、


敵方の岸辺に座礁してしまいました。


味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知って恐怖を感じ震え上がりましたが、


それに対して徐盛はひとり兵を率いて、岸に上がり突撃をかけました。


敵はばらばらになって逃げ、おおくの死傷者をだしました。


221年に、孫権が魏に臣従したとき、呉に訪れた魏の使者刑貞は威張っていて、


張昭が怒り、また徐盛も怒り、


「我等が御国のために尽くし、許や洛の地を兼併し、


巴蜀を併呑できなかったため、わが君は刑貞ごときと盟約を結ぶ事となってしまった。


恥ずかしいことではないか」


といって涙を滂沱と流して泣きました。


224年に魏の曹ヒが大軍を率いて長江から南下してきました。


徐盛は献策をして、長江沿岸数百里にわたって偽の城壁を建造し、


長江に、敵に近づかれないよう船を浮かべるよう意見を述べました。


諸将は無意味だと反対しましたが、


徐盛は強硬に主張して、実行に移しました。


曹ヒは城壁を見て、びっくりし、


「魏には武装した騎兵の部隊が、千もあるがこれでは用いるところがない」


といい、攻めるところがないので、そのまま軍を纏めて退却しました。


反対していた諸将も、ここにいたって、


彼の計の正しさを認めました。


黄武年間(222年~229年)に亡くなったとされます。