今日は、



徐盛


を取り上げます。


徐盛 字は文キョウ 瑯耶郡キョの出身


世の中が乱れてきたおりに、呉郡に移り住んで、


度胸と義気があることで知られました。


孫権が呉を取り纏めていくようになると、招かれて配下になりました。


孫権は兵士500人をあずけて、柴桑県の長に任じて、


黄祖を食い止めさせました。


あるとき、黄祖の息子の黄射が、


兵数千人を率いて、長江を下って徐盛に攻撃を仕掛けてきたことがありました。


そのとき徐盛の手元には200人に満たないほどしか、


人数がいませんでしたが、これを迎えて一歩も引かず、


黄射の軍は1000人ほどの死傷者を出しました。


そのあと城門を開いて打って出て、敵を徹底的に打ち破りました。


このことがあってから、黄射は二度と侵攻してくることがありませんでした。


孫権は功績を評価して校尉に任じました。


曹操が濡須に攻め寄せたときには、、ほかの将とともに、


蒙衝(駆逐艦)に乗って戦ましたが、激しい横風にあい、


敵方の岸辺に座礁してしまいました。


味方の誰もが、敵に取り囲まれたことを知って恐怖を感じ震え上がりましたが、


それに対して徐盛はひとり兵を率いて、岸に上がり突撃をかけました。


敵はばらばらになって逃げ、おおくの死傷者をだしました。


221年に、孫権が魏に臣従したとき、呉に訪れた魏の使者刑貞は威張っていて、


張昭が怒り、また徐盛も怒り、


「我等が御国のために尽くし、許や洛の地を兼併し、


巴蜀を併呑できなかったため、わが君は刑貞ごときと盟約を結ぶ事となってしまった。


恥ずかしいことではないか」


といって涙を滂沱と流して泣きました。


224年に魏の曹ヒが大軍を率いて長江から南下してきました。


徐盛は献策をして、長江沿岸数百里にわたって偽の城壁を建造し、


長江に、敵に近づかれないよう船を浮かべるよう意見を述べました。


諸将は無意味だと反対しましたが、


徐盛は強硬に主張して、実行に移しました。


曹ヒは城壁を見て、びっくりし、


「魏には武装した騎兵の部隊が、千もあるがこれでは用いるところがない」


といい、攻めるところがないので、そのまま軍を纏めて退却しました。


反対していた諸将も、ここにいたって、


彼の計の正しさを認めました。


黄武年間(222年~229年)に亡くなったとされます。