実際日々公共の福祉判決の下でストレス生活を、まるでなんのストレスもないはずでしょだって違法行為じゃないんだから、という、無関心という名の便利で強いられますと、さすがに 人権 という言葉は使わざるを得なくなります。つまりストレスをあたえる側としては違法行為でない認識だろうけど、ストレスをこうむる側としては違法行為以前に違憲行為、人権無視なんだ、と言わざるを得なくなるのです。


公共の福祉判決であきらかな有意差をつけられると、そこには人権屋が存在する意義が生じてしまいます。ただこの人権屋。きちんと劣勢の者たちが何なら優勢にまわれるまで可能性を奪わない、本物の人権屋でなくてはなりません。劣勢の者たちが焼け石に水の劣勢返上をするくらいでは、ただの徳のないビジねスになるくらいならむしろ邪魔なので要りません。偽物の人権屋は要りません。


これくらい普通だよね?

という感性は、おおまかにいうと所得、細かく謂うと生まれや育ち、もっと厳密には人間関係によって人それぞれずいぶん違ってきます。

家に日本刀がなくては安心できないひともいれば、逆に家に日本刀があるといつ家族の誰が発狂してそれで家族を斬り殺すかわからないと、不安になるひともいるわけです。


そういうとき、人権、という考え方は比較を冷静に行うために使えます。

誰もに公平な理想郷と言わないまでも、どこか落とし所があるはずだ、という考え方です。それなくして、ストレス多きひとたちの自殺はくい止められません。


人権という言葉に即拒絶反応をおこす教師にも、義務教育で対しました。

フランス革命の経緯なんかを知るにつれ、たしかにその胡散臭さが分かるようにもなってきました。


しかし、加害者というものは得てして、加害した記憶は忘れてしまうもので、被害者が嘘によって被害を盛らない限りは、加害を忘れてしまう加害者は糾弾される必要があり、そのためには 人権 という言葉はリアリティーをちゃんと持っています。



結局のところ、寿命三十年などの時代からすれば、ながくながくのびたこのげんだいにおいて、同じ言葉も頻度や経緯、もっといえば経費を考え合うことは必要です。


表立った活躍、時代の寵児といった待遇を受けられるひとほど身綺麗でいてほしいのは、これまたじつはリアルで。

ただし安心と不安はどちらも底なし青天井とするにはこの世界はいろいろと有限なので、人権 を継続的な商売道具につかうのも、その言葉を毛嫌いするのもリアルじゃないと、私は云います。


ストレスに耐えたひとに、そのぶん人権ポイントを加算してはいかがでしょうか。


中国の信用スコアは、公共の福祉判決により継続的にストレスに耐えて生きたぶんの信用を数値化する、ところまでやっていますか??徳という見えないオカネを評価するときに、そういう考え方ができるくらいの数学、算数の勉強はしてきましたか?


そういった、すでにデキるはずのそういった人道主義とテクノロジーの融合が進まない限りは、私は 人権 という言葉をたまにつかうことをやめないでしょうね。







こんにちは🙂


人権は大事な考え方。

看板にしていい文字でも、

毛嫌いしていい音でも

ないです。