大群衆が地上で永遠に生きるという教理の問題点② ほかの羊 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

前回に引き続き、現在生きているクリスチャンを

「油注がれた144,000人」「それ以外の大群衆」に区分する

エホバの証人の教理についての話です。

 

今回は、この考え方の根拠として挙げられている「ほかの羊」について考察していきます。

 

 

わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。

その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。

こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 

ヨハネによる福音書10章16節 新共同訳

 

エホバの証人は、この「ほかの羊」のことを、

地上で肉体を持って永遠の命を持つ希望を抱いている人だと教えてきました。

現在では大群衆(大患難を生き残ると言われているグループ)が該当することになります。

 

(参照資料:ものみの塔2021年1月号 研究記事3)

 

この考え方の疑問点。

 

キリストは当時のキリストの追随者たちを「羊」と称した上で

「ほかの羊」の存在を提示しているが、

 

キリストの時代に「ほかの羊」に該当する人々は存在したのか。

 

まだキリストが死んで「贖いの犠牲」が供えられる

つまり天への召しという希望すら確定していない段階で、

当時のキリスト教の追随者にとってまったく未知の存在を提示して

あなたたちと一緒になりますよ、と予告する必要性がどこにあるのか。

 

エホバの証人の教えによれば、天に行くグループ地上に残るグループ

事物の体制の終結の時に「分離」して、支配する側される側に分かれる。

であれば、どうして「一つの群れになる」と結論付けただけで終わっているのか。

 

 

キリストの宣教期間中、キリストの追随者たちは原則として皆イスラエル人でした。

(マタイによる福音書15章24節)

しかし、キリストは宣教を開始して間もないころから、近い将来たくさんの外国人が

クリスチャンになることを予告していました。

 

いいですか、皆さん。

やがて、この人のような外国人がたくさん世界中からやって来て、

神の国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに席に着くでしょう。 

ところが、神の国はもともとイスラエル人のために準備されたのに、

多くのイスラエル人が入りそこねて、外の暗闇に放り出され、

泣いてくやしがることになるのです。

 

マタイによる福音書8章11節-12節 (リビングバイブル)

 

キリストの死後「旧約」が「新約」に切り替わり、

イスラエル人は国民としては神に選ばれた「選民」としての特権を失ったと言えますが

最初期のキリスト教徒は皆イスラエル人でした。

しかし彼らの精力的な布教活動により、キリストが予告していた通り

様々な国の人――「異邦人」が改宗してキリストの信奉者になりました。

(使徒行伝15章7節-9節)

ユダヤ人の「割礼」等の習慣をどうするかなど、意見の違いが問題化することもありましたが

その所問題が解決している過程が、「使徒行伝」や「ローマ人への手紙」に書かれています。

やがてユダヤ人異邦人の混合体は、「クリスチャン」として完全にひとつになりました

(エフェソス人への手紙3章6節)

 

キリスト「ほかの羊」のたとえは、数年後に大勢の「異邦人」クリスチャンに改宗することを

前もって予告し、ユダヤ人の追随者たちに心の準備をさせる目的だったと考える方が自然です。

 

そもそも「地上で永遠の命を持つ希望を持つクリスチャンがいる」という

エホバの証人の独特の先入観がなかったら

ほかの羊を「地上での希望を持つ現代人」に当てはめる発想は思いつきようがありません。

キリストは当時生きていた人々に対して、外から仲間が増えることを予告しているからです。

 

・・・・・・

 

これまで輸血について、

 

 

 

祝祭日について、

 

 

 

他の宗教や国家を聖書の中の「邪悪な存在」に当てはめる、組織的な誹謗行為について

 

 

 

エホバの証人の伝統的な教理に対する反対意見を挙げてきました。

 

こうした教理は、信者に辛い思いをさせたり、他者を攻撃するたぐいのものであり

キリストが地上にいたとすれば、このような教えを説くとは到底思えなかったので

福音書の聖句を根拠として提示してきました。

 

ただ、上述した教理においては

エホバの証人の宗教指導者たちも、聖書を使って自分なりの根拠を提示しています。

 

聖書をどのように解釈し、当てはめていくかは人によって異なります。

(だからプロテスタントの宗派は無数に広がっています)

また将来の「予言」については、どれほど信ぴょう性に欠けるものだとしても

真偽を断定しようがありません。

 

パウロは考え方の異なるクリスチャンを裁いてはならないと説いていますし

(ローマ人への手紙14章など)仮にも聖書を根拠も用いる以上

2世問題を除けば、批判はしても完全に断罪するような言い方はなるべく控えてきたつもりです

(断罪の例  カトリックとプロテスタントは雑草大いなるバビロンだから滅ぼされたくなければすぐ出なさい!)

 

 

ただ今生きるクリスチャンのほとんどが天に召されることなく

「大群衆」として地上で永遠に生きる  とみなす教理は別です。

 

これは解釈の仕方の相違の問題ではなく、

聖書中に正当な根拠が存在していません。

 

「神の霊感を受けた」聖書全巻だけで、

この発想に至ることは普通あり得ません

 

この教義の出どころはキリストでもパウロでもありません。

 

「真理に異教の要素を混ぜる」などという些細な問題ではなく、

 

新約聖書の中でキリストや使徒達が説いた

キリスト教の教えから大きく逸脱しており、

実害をもたらすおそれがあります。

 

次回、その理由の一部を解説をします。