大群衆が地上で永遠に生きるという教理の問題点③ 大群衆 | 元J民の色々考察ノート

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エホバの証人が「エホバの証人」を名乗るようになる前までは、

一般のキリスト教徒と同じように、天国に行くことを期待していました。

同じ仲間である人々を「天国行き」と「それ以外」に切り分けたのは、

ものみの塔協会二代目会長ジョセフ・フランクリン・ラザフォードの時代です。

 

 ラザフォード兄弟が次のように言った時,この大会のクライマックスが訪れました。

「地上で永遠に生きる希望を抱いておられる皆さんは,ご起立いただけますか」。

その場にいた人によると,約2万人の出席者のうち,半分以上が立ち上がったのです。

その時,ラザフォード兄弟は,「ご覧ください! 大いなる群衆です!」と言いました。

すると,聴衆から大きな歓声が湧き起こりました。

起立した人たちは,自分が天で生きるよう選ばれてはいないことを理解しました。

自分が神の聖なる力で選ばれてはいないことを理解したのです。

次の日,840人がバプテスマを受け,エホバの証人になりました。

そのほとんどは,ほかの羊の人たちでした。

(ものみの塔2021年1月号 研究記事3 3節)

 

ラザフォードが当時の地上で永遠に生きる希望を持つ人々を「大いなる群衆」

と明言したのは1935年に米国ワシントンDCで開催された大会でした。

 

聖書によると「大群衆」は「大患難」を通過する人達を指します(啓示7章14節)

 

現在のエホバの証人がこれを疑問に思わないのが不思議なのですが私が知らないだけで公に調整か補正がされているのでしょうか…?

 

ラザフォードが「大いなる群衆」の定義を発表し、

その時に自分が「大群衆」という自覚を持った人々は

今どこにいるのでしょうか。

 

ラザフォードが「大いなる群衆」だと言ったグループは

ほとんど大患難を経験することなく亡くなっているので

大群衆ではありません。

 

ラザフォードが定義づけした「大いなる群衆」が

これから大患難を経験する世代のことを指していた」だとか

地上で永遠を生きる希望を持つ一団のことを指し、最後に大患難を生き残るのが大群衆」

みたいに後から訂正するのは、

ラザフォードの誤りと言うか偽りを正当化するためのこじつけにしかなりません。

 

根拠は以下の通り、

 

ラザフォード兄弟が聖書を用いて説明したことによると,

大群衆は天で生きるよう選ばれた人ではなく,キリストのほかの羊のうち,

「大患難」を生き残って,地上で永遠に生きる人たちのことです。

(ものみの塔2021年1月号 研究記事3 2節)

 

ラザフォード自身が、当時「大群衆」と呼んだ人々のことを

「大患難で生き残る」と言っているからです。

 

繰り返しますが

ラザフォードが「大いなる群衆」という言葉を向けた人々は

もはや聖書中の「大群衆」とは言えません。

 

エホバの証人の組織は「大群衆」と言う定義を決定づけた時点で

「大群衆」そのものが誰なのかを根本的に間違えていたのです。

 

 

―――なぜ「聖書研究者時代」つまり最初期の信者達は、

現在とは違って皆が天に召されるという希望を共有していたか。

 

そもそもキリスト教を信仰するクリスチャンは

天国に召される希望を抱くのが当然なのです。

 

 

新約聖書はキリスト以後のクリスチャン天に召されると言う希望を、

幾度も繰り返し提示してます。

 

わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、

すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、

わたしたちは知っている。

コリントの使徒への手紙二 5章1節(1955  口語訳)

 

しかるに、あわれみに富む神は、

わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

罪過によって死んでいたわたしたちを(中略)よみがえらせ、

共に天上で座につかせて下さったのである。

エフェソの使徒への手紙二 2章4節-6節(1955  口語訳)

 

しかし、わたしたちの国籍は天にある

そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、

わたしたちは待ち望んでいる。

彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、

ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう

ピリピ人への手紙 3章20-21節(1955  口語訳)

 

そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。

あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、

思いみるべきである。 

ヘブライ人への手紙 3章1節(1955  口語訳)

 

 

では聖書中の一体どこに、キリスト以後クリスチャンを対象とする

地上の楽園の希望が提示されているのでしょうか。

 

 

「温和な気質な人たちは地を受け継ぐ」?

 

クリスチャン皆が死後に天国に行くとしても

地球上から生身の人間すべてが消滅する事態にでもならない限り

千年統治の期間、地上に善人達がいるはずです。

また、天に召されるクリスチャンはキリストの共同支配者になる資格が与えられるのであれば

(ルカによる福音書12章32節、22章28節ー30節)

天に居ながら「地を受け継ぐ」とも解釈できます。

(英訳は 〝inherit the earth〟 。inherit とは「受け継ぐ」の他に「継承する」「相続する」等の意味がある)

 

 

神は「地上で人間が永遠に生きるように作られた」?

 

アダムとイヴが神に背いた時点でその未来が一旦無くなったからキリストが備えられたのです。

たとえ地上で生身のまま永遠に生きるグループが存在するとしても

そんなクリスチャンがいるなんて新約聖書に書かれていますか?

 

 

「新しい天と地」では「死も嘆きも叫びも苦痛もない」?

 

クリスチャンが天に召されることなく地上で永遠を生きる証明になっていません。

 

 

エホバの証人が「真のクリスチャン」のほとんどが「地上で生き続ける」

根拠として挙げている聖句はいずれも

「天に召されない」クリスチャンの存在を証明するものではありません。

 

 

そもそも大群衆について言えば、聖書中でこのように書かれています。

 

神の王座の前にいて,神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をしています。

そして,王座に座っておられる方は,この人たちをご自分の天幕で覆います。 

王座の前にいる子羊が,この人たちを世話し,命の水の泉に導くからです。

また,神はこの人たちの目から全ての涙を拭い去られます。

 

ヨハネへの啓示の書7章14節、16節  新世界訳

 

普通の知能と読解力がある人間がこれを読めば

神の王座や子羊の前の神殿地上にあるとは決して考えないでしょう。

 

しかしエホバの証人はこれが「今」「比喩的に」「地上で」実現しているという

謎めいた解釈をしています。(ものみの塔2021年1月号 研究記事3 9節に該当記述有)

 

「聖書による洞察」の「大群衆」の項目には、啓示の書7章9節の「立っている」という表現についての説明書きがあります。

 

このことから一つの疑問が生じます。つまり,もし「大群衆」が救いを得て地上にとどまる人々であるなら,どうして『神のみ座の前と子羊の前に立っている』と言うことができるのでしょうか聖書の中で,『立っている』姿勢は,ある者の前に立つ個人やグループが,その者の目に好意や是認を受けた立場を有していることを暗示するものとして時折使われています。事実,「啓示」の書のその前の章では,「地の王たち,高位の者たち,軍司令官たち,富んだ者,強い者,すべての奴隷また自由人」が,「み座に座っておられる方の顔から,また子羊の憤りから」身を隠そうとする様子が描かれています。『彼らの憤りの大いなる日が来たからです。だれが立ちえるでしょうか』。ですから「大群衆」は,その憤りの時に保護され,しかも神と子羊に是認された者として『立つ』ことのできた人々で構成されるようです。

 

これについては、ヨハネへの啓示の書7章11節で

「天使たちは皆,王座と長老たちと4つの生き物の周りに立っていた

とあり、9節のすぐそばの聖句の中でで天使達が立っているとされる場所が間違いなく地上ではないので

「暗示」だと押し切るのは無理があります。

 

 

聖書によると「大群衆」は「大患難」を通過する人達を指します(啓示7章14節)

キリストの予告によると「大患難」の際にキリストに選ばれた者たちが集められます。

 

その期間の患難のすぐ後に,太陽は暗くなり,

月は光らず,星は天から落ち,天の力は揺り動かされます。 

その時,人の子のしるしが天に現れます。そして,地上の全ての民族は胸をたたいて悲しみ,

人の子が力と大きな栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見ます。 

そして人の子は,大きなラッパの音と共に天使たちを遣わし,天使たちは,四方から

天の果てから果てまで,選ばれた者たちを集めます

 

マタイによる福音書24章29節-31節 新世界訳

 

ここでに召集される人達が大群衆と考える方が自然ではないでしょうか。

 

 

 

繰り返しますがキリストの教えを信仰するクリスチャンは

天国に召される希望を持っていなければおかしいのです。

 

 

じゃあ何故ラザフォードの時代に天に召される自覚を持たない人々が現れたのかというと

単純な話で、少し前から「クリスチャンは二分される」と教えられていたからです。

 

 

私がこの教理だけは完全否定している理由は、

 

聖書の中にクリスチャン「支配階級」「その他の下僕ども

区分する予言など存在しないだとか

 

宗教指導者が「支配階級」を名乗り「その他の下僕ども」との間に

上下関係を作るのは聖書の悪用「人が人を支配する」行為だとか

 

そういうレベルの話では無くて

 

聖書中でクリスチャンが

地上で生身のまま永遠に生きると言う

希望が明記されていないのであれば

将来の希望が聖書中で保障されていない

グループの人々が一体どこにいくのか

わからないままになってしまうからです

 

もっとも最大級の問題点はココじゃないんですが、それはまたいずれ。

 

 

現役バリバリの敬虔な信者の方に閲覧いただいているとは想定していませんが念のため・・・

 

「統治体」を信仰されているのであればこんな話など一笑に付していただいてかまいません

 

しかし「キリスト」を信仰されているのであれば

「地上での永遠の命」について教えられた教理が本当に聖書の教えと一致しているかどうか

真剣に研究されることを推奨したいと思います

自分の信じる希望を保証する根拠が存在するかどうか、というのは非常に大切なことです

外部の情報が信用できないなら、「聖書」と「組織が公式に刊行している書籍」の該当箇所だけを調べて、

参照聖句がちゃんと教義の根拠として成立しているかどうか確認するだけでも意義はあると思いますよ?

 

「マタイによる福音書からの聖句紹介」は本投稿をもって終了します。

 

 

 

余談

 

「大群衆」が地上で永遠に生きるとする教義が採択されるに至るまでの詳細な経緯については

「エホバの証人—ふれ告げる人々―」第2部 12章「大群衆—天で生きるのか、地上で生きるのか」に

詳しく書かれています。

率直な感想としては回りくどい言い回しばかりで何を言おうとしてるのかもよく分からないとしか言えないんですが

1935年以前は「大群衆」は選ばれた「144,000人」ほど熱心でないグループを指す、という教えが説かれていて

当時のエホバの証人(聖書研究者)に追従しながらも他のキリスト教会に籍を残している人々が対象と見られていた

ようなので、彼らを引っ張り込む目的で教義を変えたのかなぁ・・・?となんとなく思わせるような内容でした。

てかヨナダブに予言的な要素を当てはめる発想がよくわからん