エホバと聖書と誕生日① | 元J民の色々考察ノート

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エホバの証人と誕生日について

 

今回は誕生日についての話です。

 

ヘロデの誕生祝いが開かれた席で(中略)ヨハネは、獄中で首を切られ(中略)た。

 

マタイ14章6節-10節(リビングバイブル)

 

エホバの証人が誕生日を祝わないことは有名です。

私自身、幼少期に親がエホバの証人と研究するようになってからは

家で誕生日を祝ってもらったり、誕生日プレゼントをもらったことはありません。

エホバの証人は「誕生日を祝うべきだ」と批判する気はありません。

これはクリスチャン一人一人が個人な良心に基づいて決定すべきことなので、

一部の人間が自分で決めた良心上の基準を、他の人にも守るよう要求するのは

クリスチャンとして間違っていると考えています。

 

そう考えるに至った根拠として、新約聖書からいくつかの聖句を取り上げます。

 

また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、

ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。

 

ローマ人への手紙14章5節、6節(1955 口語訳)

 

特定の日を特別視することについては個人の良心により決めるべきだと明記されています。

であれば、生まれてきた日を記念して祝うということを

どのように考えるかは個人の自由だと思います。

 

ただ、このローマ人への手紙14章の論点は、祝祭日に関するものではなく

「肉」を食べることの是非を問うものでした。

 

ここで言われている「肉」は、「偶像に供えられた肉」であるとみなす解釈が多いです。

当時の市場で売られていた「肉」は、一度異教の偶像に供えられたものが混じっており、

それを見分けて類別することは難しかったため、

そのような「肉」を食することに抵抗を覚えたクリスチャンがいたと考えられています。

(旧約聖書も新約聖書も一貫して偶像への崇拝、異教の神への崇拝は禁じているため)

 

 

ここでパウロは、二つの明確な指針を示しています。

 

ひとつめは、各々の基準や決定を尊重するべきである

ふたつめは、自分の行いにより仲間をつまずかせてはならない、です。

 

信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。

ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。

食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。

神は彼を受けいれて下さったのであるから。

 

ローマ人への手紙14章1節-3節(1955 口語訳)

 

パウロはまず、信者間で意見の相違がある場合に

互いの考えを否定せず、寛容に受け入れるように説いています。

これは「自分の良心の基準を他人に押し付けてはならない」と言い換えることができます。

世の中の多くの争い事は、相反する意見の衝突からはじまります。

自分の思想を他者に押し付けなければ、自分も相手も、余計な苦悩を味わわずに済みます。

 

一方でパウロは「弱い人」への気遣いも示しました。

 

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。

むしろ、あなたがたは、

妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。

わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。

それ自体、汚れているものは一つもない。

ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、

あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。

あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。

キリストは彼のためにも、死なれたのである。

 

食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。

すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。

肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

 

ローマ人への手紙14章13-15節、20-21節(1955 口語訳)

 

パウロは、たかが食べ物のことでも、

他者をつまずかせることがあってはならないと警告しています。

 

パウロ自身は、肉と言う「モノ」そのものを

偶像や異教の要素という「汚れ」と結びつけてはいません。

 

ただ、問題となる「肉」を避ける「弱い人」が、

他の人間の影響で、汚れていると思っている肉を食べてしまい

良心が傷んだり、歪んでしまうことを避けるために、

「弱い人」の前で「肉」を食べることについて注意を促しているのです。

 

こうした考え方は、誕生日のような祝祭日や、謹賀新年の挨拶や、乾杯などにも

当てはめて考えることができると思います。

これらはすべて、聖書の中で直接的に禁じられていませんが、

「異教に由来する可能性があるなら避けるべきである」と考える人達がいるため

意見が分かれてしまいます。

 

食前に乾杯したり、「あけましておめでとう」と言ったり、年賀状を送ることは

日常的な慣習、時節の挨拶としての性質だけが残存しており

ほとんどの場合は異教の偶像の崇拝を目的として行われるものではありませんし

ほとんどの人がそのような認識すら持っていません。

誕生日については、その起源や祝いの儀式的な要素はともかく

少なくとも「生まれた日」にプレゼントを贈ったり受け取ったりすること自体に

異教の崇拝行為という要素は一切ありませんし、

個人間の「贈り物」は「偶像に供えられたもの」ですらありません。

 

それでも、聖書の教えを広義に当てはめて考えるクリスチャンの中には、

少しでも異教に由来する要素がある可能性がある行為には一切関わりたくない、

と思う人たちもいるかもしれません。

彼らの前でこれ見よがしに祝い事を見せつけたり、参加することを強要したり、

考え方が狭量すぎると嘲笑したら、傷つけたり、辛い思いをさせてしまいます。

だからパウロは、そのような人たちに対しても気を使いなさい、と教えました。

 

エホバの証人の世界本部は、

「少しでも異教に由来する要素がある可能性がある行為には一切かかわらない」

ということにこだわっているので、

パウロの教えの中で言えば、どちらかと言えば間違いなく「弱い人」に該当します。

 

だからエホバの証人の信者達のほとんどは、寛大にも

「弱い人」たちの良心にたちの合わせてあげてきました。

王国会館でも、ベテルでも、神権家族の家庭内でも、

「弱い人」がイヤがる、祝い事に関わるすべてのことを避けてきました。

・・・そこまでなら良い。

 

ただその「弱い人」たちが、幼い子供や信仰の道を歩み始めたばかりの人にまで

自分達と同じ決定をするように求めるルールを課して、実質的に強要する行為は、

他者の良心を尊重しているとは言えません。

こうしたルールを作る側は、そのルールを守ることによるデメリットを受けません。

問題は、そのルールを押し付けられる人々の多くが、

学校や職場など社会のコミュニティに属していることです。

特に学校に通う子供にとって、祝祭日の行事は身近なものでしょう。

それら一概に「参加するな」と命令されては、学校生活に支障がでてしまいます。

クリスチャンであるがゆえに子供たちが色々な形で傷ついて疲弊してしまったり、

キリスト教そのものが偏見を持たれるようなことになれば、

ルールを作って、課して、自己満足している人達以外、誰も幸せになれません。

これはパウロの望むところでも無いはずです。

 

特定の禁則事項が正しいと信じる人達が、自分達にその制約を課すのは構わない。

「宗教組織として」一切かかわらない姿勢を示すのも構いません。

ただ、パウロは自分の良心の基準を他人に押し付けてはならないとも説きました。

個人的な決定に関しては(他の信者には一切の影響を与えないからこそ)

個人の自由意志に委ねるべきです。

本人の信仰心に基づく良心上の決定は、

選択の余地がある上で、自分の意思によるものでなければ意味がないのです。

特にバプテスマも受けていない子供には絶対に強要するべきではありません。

それによって子供が嫌な思いをして、傷つく可能性があるのならなおさらです。

本人が望んでもいないことを無理やり従わせて苦しめるのは、

ただ聖書を使って殴りつける行為でしかありません。

 

しかし、たとえ嫌な思いをしたり傷ついたとしても、

誕生日の祝いにかかわってはいけない、と取れるようなメッセージを

子供に向けて発信している教材を、エホバの証人は利用しています。

 

それについてはこちらで