エホバと聖書と誕生日① 「教材」は製作者の主張のためではなく受け取る人のために作られるべきでは… | 元J民の色々考察ノート

元J民の色々考察ノート

思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

エホバの証人の組織は、

「エホバの証人は誕生日を祝わない」と断言することで

信者達に誕生日の祝いに携わることを実質的に禁じてきたため、

前回は「ローマ人への手紙」から一部の聖句を引用して、異論を唱えてみました。

 

 

今回は「誕生日が異教に由来するから避けるべきだ」という考え方ではなく

信者に配布されている教材の方に焦点を当てたいと思います。

 

ここからは、

エホバの証人はああ言ってるけど、聖書にはこう書いてあるから~

みたいな話ではなく

エホバの証人の制作物に対する個人的な感想です。

 

 

 

エホバの証人が公開しているショートドラマについてのお話。

 

主人公はエホバの証人の男の子。

 

ある朝、学校のクラスで、

癌の闘病中で学校に来ることができない子に、

クラスのみんなで誕生日カードに寄せ書きをして、プレゼントすることが決まる。

 

主人公は、先生に「エホバの証人は、誕生日はしません」と言って参加を拒む。

クラスメートたち皆が「なんで?」「ひどい!」と非難する(あたりまえだ)

先生は「(病気の子は)もう学校に来ることができないかもしれないから、

もう一度よく考えて答えを出してほしい」と言う。

 

主人公の男の子は、ひどく落ち込んで帰宅する。

闘病中の子を心から心配しているから、

本心では、自分も寄せ書きに参加したいと思っていた。

カードにメッセージを書くぐらいなら、良いんじゃないか?

誕生日に参加するわけじゃないのだから、と思い悩む。

 

ハゲ父親に経緯すべてを伝えて相談した。

誕生日の祝いはエホバが喜ばれないって聖書が教えてることは知ってるけど

(※聖書はそんなことは言っていない※)カードに書くこともダメなの?

みたいな疑問を口にした。

 

父親は、サタンに騙されて悪い事をしてしまった例として、アロンの話をした。

 

アロンはイスラエル人に偶像を作るように言われたので、金の子牛を作り、

神への崇拝に使ったけど、それで神を怒らせてしまったのだ。

 

この話を聞いた男の子は、

アロンみたいに真の崇拝と偽りの崇拝を混ぜたらダメだ、と決心をかためる。

翌日、先生には、誕生日カードに寄せ書きはしないけど

代わりに別のことをしてあげるつもりだ、と答えた。

お見舞いに行き、エホバの証人の本をつかってエホバの証人の教えを教えてあげました

 

おしまい ♪

 

よくこの内容を世に出そうと思えたな

 

 

この動画はエホバの証人の「聖書レッスン」、

つまりエホバの証人への入信を望む人に向けた教育プログラムで用いられる

正式な教本の中で、視聴するように推奨されている映像資料です。

なので、これは正規の教材として利用されているという前提で話を進めます。

 

自分がエホバの証人の信者で、聖書レッスン用の教材として

これを使うように指示されたら・・・という視点で見た時に、

この教材には少なくとも3つの問題点があると感じました。

 

 

一つ目。

エホバとエホバの証人に対して悪印象を抱かせる可能性があります。

劇中で主人公が誕生日カードの寄せ書きに参加しない、と言ったとき、

クラスメートたちは「なんで?」「ひどい!」と非難ごうごうでした。

これは普通の感性を持つ一般の人の感覚であり

当然予想される反応として描写されています。

「エホバの証人」だから、「病気で苦しんでいる子」に贈るための、

「クラスのみんなで作った誕生日カードの寄せ書き」に「わざと何も書かない」。

これでは、冷たく、愛のない、独善的なイメージを持たれてもしかたありません。

(独善的‐他人のことはかまわないで、自分だけが正しいと考える傾向のあるさま)

 

しかも「病気で苦しんでいる子」に贈るための

「クラスのみんなで作った誕生日カードの寄せ書き」にメッセージを書くことは

「エホバ」が「喜ばない」と実質的に言っています。

 

日本人の多くはキリスト教の宗教観・文化に馴染みがありませんので、

「エホバ」という神は、一般には「キリスト教 又は エホバの証人という宗教の神」

ぐらいにしか認識されていないでしょう。

一般の人がこの教材を見て(教材として使われる場合は未信者も視聴するわけで)

冷たく、愛のない、独善的と思われるような選択を「エホバ」神が求めている、

と知ったら、「エホバ」に対して一体どんな印象を抱くでしょうか。

 

劇中には「なにかするまえに いつも エホバのきもちをかんがえよう」

という台詞回しが出てきますが、

まずは製作者側がエホバの気持ちを考えるべきだと思います。

 

 

第二の問題は、ここが一番ダメな点ですが、

信者一人一人が各々の良心に基づいて決定する選択肢を全て潰しています

言い換えれば、製作者が決めた具体的な基準を一方的に押し付けています

 

まず主人公自身の気持ちが、

「病気のクラスメイトのため自分も寄せ書きに加わりたい」というものでした。

また、誕生日会に参加するのではなく、カードにメッセージを書いて贈るだけなら

悪いことではないのではないか?

と、自分自身の良心の基準に基づいて、色々と考えていました。

作中で父親がそれを直接的に禁止したわけではありません。

しかし動画全体の顛末を見る限り、

製作者側が「誕生日カードの寄せ書きにメッセージを書くことは許されない」

と結論付けているのは、ほぼ間違いないと言えます。

 

日本のエホバの証人の信者達の、

祝祭日にかかわる「どこまでが許されて、どこからが許されないのか」という基準は

人それぞれ多少の差があったのではないでしょうか。

 

たとえば、動画の題材と似たようなシチュエーションで、

学校で先生が主導してクラスの「お楽しみ会」の一環として誰かの誕生日を祝う場合

上位の権威に服しなさい。神によらない権威はないからです」

という聖句を適用して、先生の意向に従うことを選んだ子供がいたかもしれません。

 

親族や知人から誕生日の贈り物を差し出された際に、

「エホバの証人であることを理由に受け取りを拒否したら好意を裏切ることになるし、

嫌な思いをさせるだけでなく『エホバ』に不快なイメージを持たれるかもしれない

と考えたり、

「それ自体が汚れているものはなにもありません」という聖句を適用して、

「モノに罪は無い」という良心上の判断により、受け取る人がいたかもしれません。

 

仕事上「クリスマス」や「正月」に関わらなければならない状況は想定されます。

列王記 第二 5章で、ナアマンはイスラエル人の宗教に改宗しましたが、

自分の主君が異教の偶像へ礼拝する際に、そのサポートをして

自分も偶像に身をかがめることについては許してほしいと言いました。

あくまでナアマンの自己都合にすぎませんが、預言者エリシャは許可しています。

自主的に祝いを催すのではなく、業務として最低限関わるだけなら、

異教の行事の参加には当てはまらないとする考え方もあるでしょう。

 

エホバの証人の組織が、

「『誕生日』等の祝祭日に、ほんの少しでも関わる行為に携わること

(―――カードの寄せ書きにメッセージを書くことですら―――)は、

エホバを不快にさせる」

というニュアンスの宣言を公に提示したら、

上に書いたような自主的な判断をしていた人達は、良心が傷つけられます。

 

それ自体、汚れているものは一つもない。

ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。

(ローマ人への手紙14章14節 1955 口語訳)

ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、

ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

(ローマ人への手紙14章5節 1955 口語訳)

わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。

それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。

(ローマ人への手紙14章12節-13節 1955 口語訳)

 

パウロが「自分の良心の基準を他人に押し付けてはならない」と命じたのは、

そういうことをすると誰かが傷つく可能性があるからです。

個人の良心上の判断(他の信者に迷惑をかけたり影響を与えない範囲なら)

誰かが具体的な基準を決めて、他者に従わせるようなものではありません。

自分が決めて、自分が責任を負うべきものであり、

その決定に際しては選択の余地があるべきです。

 

 

第三の問題は、動画内でアロンの名前が使われていること。

動画内ではアロンと金の子牛イメージ映像まで用意されています。

また、この動画の視聴を推奨している聖書レッスン用の正規テキストにも

出エジプト記の金の子牛についての記述を参照するように、と書かれています。

 

誕生日カードにメッセージを書くこと

アロンが金の子牛を作ったこと一切関係がありません

引き合いに出す例としてまったく成立していないのです

 

出エジプト記の金の子牛についての話の流れは以下の通りです。

 

「偶像を使った崇拝を行ってはならない」というのは、

モーセの十戒の二番目の掟であり(出エジプト記20章4節-5節)、

神はそれをイスラエル人に伝えるよう、モーセに指示していました。

(出エジプト記20章22節、23節)。

イスラエル人は「神の指示に従います」と宣言し、契約がかわされました。

(出エジプト記24章3節、7節、8節)

 

しかし、指導者であるモーセが山に入ったまま戻ってこないことで

不安になったイスラエル人はアロンに偶像を作るように頼みました。

聖書的に言えば、これは契約した直後に違反する行為です。

エジプトで偶像崇拝が一般的に行われている環境下にいたために、

見慣れたやり方に戻ろうと思ったのかもしれません。

 

イスラエル人は元々エジプトで奴隷として惨く理不尽な扱いを受けていたけど

指導者モーセによりエジプトから救われた、というのがエジプト記の前半です。

「十の災厄」や「紅海が割れる」といった奇跡を目撃した直後にも関わらず

すぐにモーセへの信頼を捨てて、わざわざ律法契約を破ったのであれば、

神の不興を買って神罰を受けたという結末が自業自得という見方はできます。

 

この一件でアロンは主犯といっても過言ではありません。

偶像の製造を望んだのはイスラエル人のほうですが、

それを聞いて自主的に崇拝用の像を作りました。(出エジプト記32章2節-4節)

この像を崇拝できるように準備を整えた上で、「主の祭り」で偶像崇拝が行われる

状況を作り出しました(出エジプト記32章5節-6節)。聖書的に見れば、

教材の中で言われている通り、アロンは真の崇拝と偽りの崇拝を混ぜました。

しかもそのことをモーセに咎められた時、「怒らないで!民が悪いんだ!

と保身に走った上に意味不明な言い訳に走るなど反省の色が見られません

 

子どもが病気の友人に宛てて贈る誕生日カードの寄せ書きに

メッセージを書いて良いか?というテーマで、

民を監督すべき現場責任者の立場でありながら

ほんの少し前に契約した律法を率先して破って神を激怒させて

民をたくさん死なせたアロンの重罪例に持ち出すというのは

あまりにも非論理的です。

 

アロンは故意に偶像を制作し、その偶像を民に崇拝させました

誕生日カードにメッセージを書くことは、

どう考えても故意に異教の神への崇拝を奨励する行為とは関係がありません。

製作者側は「誕生日の祝い」と「偶像崇拝」が同一視していると思われますが、

その根拠となる論理は製作者側の脳内にあるだけで提示すらされていないので

 

アロンは金の子牛を作ったことで神を怒らせた!

真の「崇拝」と偽りの「崇拝」を混ぜてはいけない!

だから誕生日カードにメッセージを書くのはやめるんだ!

 

という支離滅裂な流れになってしまいます。

 

・・・・・・

 

私見ではありますが、

この教材の製作者からは、

視聴者側のことを一切考えていないという印象を受けます。

製作者側が言いたいことをそのまま言っているだけで、

理由や根拠を筋道立てて説明して納得してもらおうという意志が全く感じられないのです。

 

先ほど、本動画の3つの問題点を挙げました。

 

1,一般の人から「酷い」と思わせるようなシチュエーションが用意されている。

2,異教の習慣はおろか誕生日を祝うことそのものとは関係ないような行動でも

  エホバは不快にさせると考えるように仕向ける内容である。

3,その理由としてアロンと金の子牛の例を出す。

 

あえてこういう内容で作られているあたり製作者側が

「誕生日にかかわるどんな些細なことであっても

 それは真の崇拝と偽りの崇拝を混ぜ、神を不快にさせる

だからエホバの証人の信者は、たとえどんなに難しい状況下でも

誕生日に関わる一切のことをしてはならない」

ということを言いたがっているのは理解できます。

そして、その主張以外なにも伝わってこないのです。

 

 

繰り返しになりますが、

 

公式に「こうした状況で何をすべきか」の具体例がはっきり明示されたら、

提示された「具体例」以外の選択肢がすべて潰されてしまい、

子どもが親から望まない選択を否応なく押し付けられる可能性が生じます。

日本の、主人公と同じ年齢層の信者は、

まだバプテスマすら受けていない割合が高いはずです。

 

ドラマでは、わざわざ組織の意向に従うことが難しく思える局面されています。

これは現役の信者だけではなく、若者や聖書レッスンの研究生など

エホバの証人に入信するかもしれない人達にも向けて作られている教材です。

個人的な憶測にすぎませんが、

「病気の友達に宛てた誕生日カードの寄せ書きにメッセージを書くこと」を

「エホバ」は喜ばれない、なんてことを言ったら、一般の99%以上の人は

「エホバ」に対して、良いイメージよりも悪いイメージを持つと思います。

エホバがよろこぶかどうかをよくかんがえよう

 

製作者はそういうところまで意図したのでしょうか。

 

アロンに至っては関連性すらありません。

ただ観る人間に強い恐怖心を与えるためだけに、

人がたくさん死んだ描写を引用しているのではありませんか?

 

製作者側が自分達の脳内の理屈をただそのままぶちまけるだけで、

それを観る側がどのように捉えるか、どのような影響を与えるのか、

そもそも筋が通っているのか、というのを度外視しているようでは

正規の教材として不適切だと思うのです。

 

このような教え方ではエホバの証人への入信を望む人はいないだろうし

というかそもそも良い印象をもつことすらないと思われます。

いやそれはそれで良いんですが

これを聖書レッスンの教材として使用しなければいけない信者さんたちと、

こんな聖書レッスンの教材で指導を受ける子どもたちがかわいそうでは…。