エホバと聖書と誕生日② 宗教指導者が主観や感情論を根拠に宗教指導するのはどうなのかって話 | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

日本人は欧州やアメリカ大陸の国々とは違ってキリスト教の文化の影響が薄いので、

聖書に対する一般大衆の評価、価値観も当然おおきく異なります。

そもそも聖書にどんなことが書かれているか、ほとんど知らない方が多くを占めるでしょう。

 

そんな日本に住む人の多くにとって、

誕生日は生まれた日をお祝いしたり、贈り物をあげたりもらったりする、おめでたい日です。

 

エホバの証人は誕生日の祝いに関わらないようにしているため、

どうして誕生日を悪いものと考えるのか、と聞かれる場面は容易に想像できます。そこで、

 

「聖書の中には誕生日の祝いが二回だけ出てきます」

その二回とも、人の首が斬られました

「だから私たちクリスチャンは誕生日を祝いません

などという答えが返ってきたら、

聖書ってヤバい本なんだな・・・」と不信感や悪印象を持たれてしまうかもしれません。

 

しかし私は「偉大な教え手に聴き従う」という子供向けのテキストを使った家族研究で

聖書に出てくる誕生日の祝いで人の首が斬られたから誕生日を祝ってはいけないのだ。

と教わりました。

 

同テキストの一文を抜粋して紹介します。

 

たしか​に​今日,人びと​は​誕生​日​の​パーティー​の​とき​に,だれ​か​の​首​を​切りおとす​こと​は​し​ませ​ん。でも,誕生​日​を​祝う​と​いう​考え​は​すべて,その​よう​な​こと​を​し​た​人びと​から​はじまり​まし​た。(中略)

わたしたち​は​その​よう​な​人​に​なり​たい​と​思い​ます​か。(第30章)

 

エホバの証人はこういう教え方をしてきたのだから、

たとえば学校などで信者の子どもが誕生日について自分の信条を他の人に伝える際に、

「聖書で人の首が斬られてるから」というとんでもない回答をしてしまう可能性は十分に

ありえるのです。

エホバの証人は誕生日のような祝祭日のみならず

政治への関与、輸血を伴う治療など、あらゆる禁則事項を設けてきました。

 

(近年の刊行物で『わたしたち/エホバの証人/クリスチャン』は〇〇〇〇を『しません/

避けます』というような書き方がされているもの全ては組織が信者に禁じているという前提で

話を進めます)

 

それらについて思うこと。

多くの禁止事項が、指導者の主観的な根拠に基づいています。

単なる感情論や、そもそも理由として成立していない理由付けが多すぎるのです。

 

いくつか例を挙げます。

現在、組織が聖書レッスンの公式テキストとして使用して言える教本では、

血に関する考え方として

 

医者からアルコールを飲むことを禁止されているとしたら、

アルコールを血管に注入することも避けるはずですよね?

 

みたいなことが書かれているのですが

 

命に係わる状況下でやむを得ず輸血を伴う施術を受けること

わざわざ血管に直接アルコールをぶち込むようなバカ

一緒くたに考えるような奴がいたら知性を疑います。

本当に危なすぎるから良い大人のみんなは絶対にやっちゃだめだぞ!

※念のために言っておくと「血管アルコール注入」と「医療目的の血の利用」の文脈は

 直接つながっているわけではありません。

 ただわざわざ「血管に注射」という言い回しが使われているあたり輸血のことも意識

 していると推測できますし、

 信者の中にはこの例えを輸血を避ける理由として挙げてしまう人が必ずいるでしょう)

 

 

エホバの証人はいかなる場合においても政治的に完全な中立を保つように命じられています。

その理由に関連付けて

キリストは王になってほしいと頼まれたけど拒否した

という話は、JWの組織に長い期間おられた方であれば、幾度かは見聞きしているでしょう。

 

聖書によれば、キリストは地上で活動できる期間が限られており

処刑されるリミットまで過密なスケジュールを完遂する必要があったため

悠長に地上の王座に座るような猶予などありませんでした。

 

キリストが地上で王にならなかったことを理由に

現代人の行動に制限を課すのは思慮が欠けていると言わざるを得ません。

 

「キリストの王国はこの世のものではない」としても

今の私達はみな地上に生きており、自分の国に所属している立場です。

さらに、政治家として政治活動に関わるのと

国民・市民として然るべき権利を行使するのはまったく意味が違います。

 

政治的に中立を保つようにと命令されているために、膨大な数の信者達が迫害を受けました。

信者の身を危険に晒すような指示の理由付けとして

「キリストは地上で王にならなかった」というこじつけを使うのは不適切極まりありません。

 

 

十字架を所持することについては、

あなたは大切な人間の処刑に使用された道具を大切にしたいと思いますか?

というような論法が用いられていたことがあります(今はどうか知りません)。

これは完全な感情論にすぎませんので、

十字架の所持を禁ずる理由として言うことは賢明ではありません。

 

使徒パウロは「キリストの十字架を誇る」と言っています。

 

わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、

誇とするものは、断じてあってはならない。

ガラテア人への手紙6章14節(1955 口語訳)

 

しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える

コリント人への第一の手紙 1章23節(1955 口語訳)

 

キリスト教の諸宗派が十字架をシンボルにしているのは聖書的な根拠があるのです。

エ?クルシミノクイ?

 

 

最後に、誕生日について。

 

「エホバを崇拝する人が誕生日を祝った例はない」

「聖書に出てくる二度の誕生日会は、いずれもエホバの崇拝者でない人間が主催した」

「いずれにおいても人の首が斬られた」

 

これらはすべて、

「クリスチャンが誕生日を祝うことは許されない」と結論づけるための理由になっていません。

 

「エホバは誕生日を祝うことについてどう感じていると思うか」

と読者に対する問いが投げかけられていますが、

神様じゃなくて執筆者がイヤがっているだけじゃないか、としか言いようがありません。

 

 

組織として、どうしても信者に禁止令を出したいというこだわりが抑えきれないなら

せめて大抵の人が理解できる程度に、明瞭筋が通っている根拠を提示すべきです。

 

 

たとえば祝祭日なら、

「統治体は異教由来の可能性があるすべての行事を禁止します」だけ言えば済む話です。

エホバの証人が誕生日を禁じる理由として挙げる根拠がこれだけだったのなら、

私は誕生日に関する教え方に、これほど違和感を持つことはありませんでした。

 

輸血については、

「統治体は血を避けることは『体内に取り入れること』と解釈するので輸血を禁止します」

だけで良かった。

 

どちらにしろ「わたしたちは行いません」と明言して禁止する姿勢を貫き続けるか、

自由意思による選択を認めるのかははっきりすべきです。

外部の人間から批判されることをおそれて、個人の意思決定に任せてきたかのような言い訳をするとしたら

「信者として選択の余地がない」という認識を持って真摯に順守してきた人達に対する非常な無礼な裏切りだし

ダブルスタンダードです。

 

十字架については、

『銅の蛇』は後に磔にされるキリストを象徴している(ヨハネ3章14,15節)が、

それを保存していたせいでイスラエル人が偶像として崇拝しはじめたので善王ヒゼキヤが

処分した(列王記第二18章4節)。

たとえキリストの象徴であっても、シンボルとして掲げるのは特定の「物」を崇敬の対象と

思わせてしまう可能性があるので、統治体は他のキリスト教との差別化を図るために一切の

利用を許さない」

とでもいっておけば、表向きのかっこうはつくんじゃないでしょうか?

※もしかすると大昔そういうことを言ってたかもしれませんが、私は聞いたことがありません。

 

政治上の中立の立場については、

近年のエホバの証人の刊行物が提示している参照聖句にちゃんとした根拠と思えるものが見つからなかったので

話せる内容が無いです。

 

こうした禁止事項のほとんどは半世紀以上前から組織内で言われ続けてきたことですが、

何故いけないのか筋道立てて考え抜いた上で多くの人が納得できる理由を提示するのではなく

最初から禁忌だと決めつけてかかった上で その命令を正当化するため屁理屈を積み重ねて無理やりこじつけようとするから

「アルコールを血管に注射する」とか

「誕生日は人の首を切るような人たちがはじめた祝いごと」みたいな暴論を言い出したり

感情論でゴリ押しするようなやり方になってしまうのでしょう。

 

聖書に書いてもいないことを強引に押し通そうとするからこうするほかないわけですが、

聖書研究用の正規テキストを含めてあらゆる刊行物でこうした教え方をしてきたので

信者達が「そういう理由だからダメなんだ・・・」と

物事の考え方をわざわざ世界本部レベルに合わせてしまう事態が生じています。

仮にも大の大人たちが違和感を持たずに受け入れているというのも不可解ではあるのですが。

 

このような宗教指導者の主観に基づいた指示の弊害は、

信者を対象とした禁止事項に限ったことではありません。

 

世界本部は、自分達の考えに基づいて他の宗教や国家に対する強烈な誹謗を公然と行っており

そうした他の組織・団体にたいする悪感情を、数百万人の信者達の間で共有するように仕向け

世界中の人々に広めていくことまでも求めています。

 

それについてはこちらで書きます。

 

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