RUN、病気、仕事、旅行。いろいろな日々の出来事。
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日記代わりのブログです。良かったら読んでくださいね。
大学を卒業して20年。当時少ない社会人学生として出会った同級生達。いつも会えると、自然に話が弾む。働きながら、通った夜間。みんな本業があったけど、夜になるとただの学生になってノートの貸し借りや、講義の話をした。正直机上論での講義は、社会人には物足りない分野もあったけど勉強をするという姿勢は、培われた。私の人生の一場面。それでも大切な時期であった。このあとも続く関係性であってほしい。
12月31日によせて2024年は元旦から地震に見舞われ一夜を避難所で過ごした。母が精神的に不安定になり父の入院もあり、私はコロナになった2月。3月にフルを一本走り、4月に脚を故障し、暑い夏を迎えたマラソンは一度はやめようと思ったけどやはりやめきれす、10月にウルトラに出たがDNF11月にフルマラソンを一本走った。11月から転職活動を始めた。そして、今日12月31日をもって23年勤めた会社を退職となった。経営不振による会社都合退職。色々とあったけど成長もしたと思う。でも未練もない。来年は、休み明けから新しい仕事に就く。初めての業界でこの年齢で不安しかない。でも、私を採用してくれた方に感謝しまずは頑張ってみようと思う。さようなら2024年 23年勤めた会社。私は、まだまだ頑張れるはず。来る2025年 宜しくお願いします。
病気の記事ばかりブログに書いていた2009年から2010年の頃私のブログを偶然見つけてくれてそっと励ましてくれた人がいた。もう13年ぐらい前に。その人とはそれこそ10年近く話すこともなく、お会いすることもなく。それなのに、ようやく本腰をすえて? 走り始めた先日久しぶりにお会いした。そして、本日お話することができた。当時 ブログが縁で思いがけず声をかけてくれて励ましてくれて、私にとってどれだけ嬉しかったことか。そして今日まだ走っていたこと、元気にやっていること、そんな姿をみせることができた。その人も会えて嬉しかったと言ってくれた。それが心にとても染みた。私もすごく嬉しかった。人との縁は、どこで繋がるかなんてわからない。色々な人に支えられて今があるけれど。時に取捨選択して人の繋がりは変わっていくのだと思う。この年齢になり、色々なしがらみや新しい人間関係など関わる人も増えてきた。今年は色々と新しい組織に入りこみ自ら毎回疲れを感じてきた。人に気をつかうことは大変だし新しく出会う人と話すのは神経を使う。でも振り返ると皆優しいのだ。話かけてくれたり、さりげなく気を回してくれたり。そんな人達との繋がりをこれからも大事にしたい。そんな風に思った今夜だった。
某イベントに参加したら10年くらい前に一緒に走っていた今は70代の女性に久しぶりにお会いした。友人が先に気づいて、喋ってきたと言う。友人は誰とでもすぐに打ち解ける方だから躊躇しないのだろうけど私は、話しかけるか否か少し悩んだ。悩んだのは話しかけても私のことを覚えて居ないはずと思い、声をかけても誰?と反応されたら嫌だなと考えたから‥大抵は、これらを考えて気づかないようにスルーしてきたことが多い。でも、せっかくだからと勇気を出して話しかけた。「私、〇〇で一緒でしたeiakoです。お久しぶりです」向こうは一瞬戸惑いやはり覚えてないような顔をした 気がするのだが、「覚えていてくれて嬉しいわ」と言葉を返してくれた。普通、忘れていたら、「ごめんなさい、お名前聞かせてください」と言う人もいるし、何気に濁したりする人が多い中、こんな風に「覚えていてくれて嬉しいわ」と言われてこちらまで嬉しくなった。 ここで、私のことを覚えているか否かを聞くほど愚かなことはない。この会話で、その時間は心地よいものになった。私も、こんな風に相手を和ませれる返し方ができるようになりたい。
4月1日世の中的に入社式が行われておりテレビでも色々な会社が紹介されていた。中には親を呼んで執り行う某金融機関などもあり時代も変わったなと。今年は新卒初任給がとんでもない金額で見合うような仕事をしたいとコメントしていた新社会人もいたがまあ、見合うお仕事ってそうそう出来るわけもなく。入社3年以内の退社を食い止めたい企業側にしてみれば、高い先行投資だろうなと。いつもこの時期に思い出すのは二つ目の会社に入社したとき。当時の部長が、5年は頑張れと。3年は会社は貴方に投資します。4年目、5年目から貴方からやっと返してもらえるようになると。まあ、3年は役に立たないというわけで実際そう感じたし仕事がわかるようになり楽しくなったのは3年が過ぎてから。平成の時代、バブル前夜の頃の話かもしれないけど。
1月末に職場から一番近い書店が閉店した。いつも仕事帰りに寄っていたし豊富な本の量に満足していたしよく購入もしていたが、寄るたびに客足が少なくなってるのは薄々感じていた。先日、病院帰りに本を探したいと思い立ち某書店Aに向かうと‥2月末に閉店とあった。そこからほど近い書店Bも1月末に閉店していた。結局売り場面積が少なくなった某書店Cに寄ったが探す本に出会えなかった。確かに本はネットで買うことも多くなったが、それは目当ての本がはっきりしているとき。書店は、知らない本に出会える素敵な場所だ。全国的に閉店ラッシュが続いているといわれてるが、身近で三軒も無くなるとこのあとどれだけが撤退するのだろうと不安になる。
今日は、一年に一度の外科診察日マンモとエコー検査。すでに10年以上経過してるのだけど、経過観察をして頂いている。10年前の写真を見せてもらえたり今日の写真の説明をしていただいたり。最初の主治医はすでに転出され診てもらうことはないのだけれど今の先生も丁寧でとてもありがたい。結果は問題なし。また来年。病院内ドトールは、一番ひどい時期に、通院のたびにお世話になった。3月末に閉店との貼り紙をみて思わず入った。とても残念。コーヒー☕️飲んだりケーキ食べたりちょっとした息抜きができた病院内のオアシスだったのに。どんどん変わっていくのだよね。
Facebookをやっていると友人達の様々なイベント事の報告がイヤでも目に入る。読まなきゃいいけど、直接の知り合いともなると目をとおす。大概は楽しい報告。書く人は、どんどん記事をアップする。まあ、本人の備忘録を兼ねているんだろうけど。私も病気治療中は、毎日のようにブログをアップしてた。備忘録であり、孤独を癒してもらえる場だった。ただ、最近は友人、他人の記事を目にすると少しイヤな気分になることが多くなった。毎週のように出かける、県外まで出かける飲みに行く、習い事‥私もコロナ禍の前までは、出かけることも多かったけど、毎週のように家を空けることもなかった。お金の問題ではなく、家族のこと、自分の仕事のこと自分の時間、家のこと色々絡み合うと、自分の事だけに時間を割くのはあまりに身勝手だと思ってる。目に余るのは、そんな自分の時間ばかりの人達。いやはや、そんなに出かけて疲れないの?家の中は?家族は?みなさん完璧なのでしょう。私が出かけてたころは、埃高き女になってたくらい家のことはほったらかしだった。正直、高齢の両親を尻目に毎週出かけるのは忍びないし、出費も気になる。みんな時間もあるけどお金もあるのね。何よりその生活を許してもらえる環境があるのね。羨ましいのかと問うとそうでもない。遊びたいわけでもない。多分、そんな生活をしてももう満足できなくて。そんなに出かけても、自分の「居場所」かと思えるわけもなく。お金と時間があれば解決するのかそれも違う。最近は湯水のようにお金を使って?(出かければそれなりにお金は出て行く)遊んでる人たちをみて「遊びすぎでしょ」と思ってる自分がいる。なんだろう、この違和感。
自分には無関係というか、寄ってこないだろうと思って他のに流行り病 にかかってしまった。すでに発症日から5日目。発熱は3日間もあり、まだ油断すると微熱程度になるけど頭はしっかりしてきた。どこでうつったんだろうと思い巡らすが、なんとも決定打はない。ただ、一月中旬から父の病気と母の心療に振り回され、病院に通いまくり。自分のしたいことはそっちのけでようやく何もない休日だと安心したところでこんな状況になった。検査結果を見せられて、あー、高齢の親にはうつせないと部屋に籠りだが気になる親は、何度も部屋にやってくる。頼むから寄るなと何度言ったか。うつらないから という母の言葉を聞きながらもしかして、私に菌を持ってきたのは両親かもしれないと思いつつ‥でもまあ、こんなにしんどい症状、両親ともに発症されたらかなわない。無事に乗り切りたい。
地震が怖くて、いまだ気持ちが落ち着かない。自分のところは大きな被害がなかったにも関わらず家にいるとどこかビクビクしている仕事をしているときだけ目の前のことに集中できるから忘れていられるのだけど、その他の時間は、恐々過ごしている。能登の人はもっと怖い思いをして不自由な時間を過ごしていて自分は何を普通に生活しているんだろう何もできやしないのに申し訳なさが募る。自分が医療関係者とかならやれることがあったかもしれないのにと。毎年食べに行った牡蠣も水族館、温泉街見附島も、青の洞窟も、朝市もトヤマに住んでる人なら毎年のように出かける土地で。1月2日にランニングしていた友人とか練習会とかで走ってる友人とか、見聞きするけどなんで次の日から走れるんだろう。とさえ思ってしまう。私は走る気持ちになれない走るって自分のためだけだからかもしれない。ただとどまってはいられないから少しづつ自分を取り戻していきたいと思う。
今朝の5時半も能登は震度5強富山も揺れました。富山に居てこんなに怖いのに能登や珠洲、穴水、七尾などの方々はどれだけ怖いのだろう。正直なところ怖くて、何もする気になれない。今日はせっかくの三連休なのに家を片付けるわけもなくボーっと過ごしている。母が補聴器をどこに置いたかわからなくなり一緒に探してもみつからない。そんなこんなでもう15時半。仕事に行ってる方がまだマシ。
避難所というのは、寒さとか慣れないとかそれだけではなく眠れない。子供が泣いてるとかに腹もたたないが、多分そこに行くまでのバタバタした時間や頭をフル回転してたことが邪魔してるような気がする。1時間ごとぐらいに時計をみてそれでも少しは眠った気がする。朝5時になり、起き始める人もチラホラ。6時には、朝ごはんのレトルトが配布された。母も帰りたがり、明るくなるまで待ってとなだめた。____________________避難所にきて、沢山の人と連絡を取り合った。父を家に置いてきたこともあり、万一を考えて、近くの親戚、市内の親戚に連絡して、お互いの無事を確認した。親戚は、夜は机の下に布団をひいて寝るという。会社のグループラインにも連絡した。一人暮らしの友人、知人を優先的にラインをおくり無事に過ごしているか確認し合った。県外の友人達も心配してラインを送ってくれた。普段あまり会わない友人達もみんな連絡を取り合った。連絡を取り合える友人達がいることはとてもありがたく、心強く思えた。
避難所は近くの中学校。体育館は寒いということで、暖房のはいる教室を開放してくれた。避難所なるものに来たのは初めてで毛布などはあるだろうと思ったけど通常備蓄してないのか(普通は避難所は小学校が指定)何もない。仕方なく、家を2往復して食料と毛布や敷物を持ち込んだ。いざというときの対策は食料や簡易トイレ、ストーブは車庫にいれてあるが、敷物や毛布がすぐに出る場所になかった。何しろ、余震が恐ろしくて2階の自分の部屋すら長居したくない。なんとか寝るに必要なものを持ち込んだ。毛布が配布されたのは12時近かった。水やレトルトのパウチを配布してもらったが、高齢の母はどちらもいらないといい家から持ってきたお節の残りなどを食べた。避難所そのものは、仕方ないと思ってる私とうらはら、84歳の母には環境の変化がこたえたのか横になって休んでと言ってもなかなか横にならない。トイレに行けば、迷うから何度もついていった。だが、夜中に目を覚まし、私の顔をみて満面の笑顔で「わかった!○○みちゃん なんだね」と私のいとこの名前を言い出した。私だと伝えてもイマイチわからないようで。隣にいるのは、誰だろうとずっと思っていたといいいだす。そんな感じで眠れないまま時間が過ぎていった。
元旦朝から家族とお雑煮とお節料理をたべ、体調ゆえ気が乗らない母が初詣は明日にしようというから、いつものように出かけなかった。お天気が良かったので初ランに出かけて、戻ってきてからシャワーをして、ゆっくりと座っていたときに緊急地震速報が鳴った。みれば石川、大丈夫かと思いきやそのあとすぐに長く横揺れが続く地震が発生した。いつもなら、すぐに収まる筈なのに長い。騒ぎながら、家の中の一番地盤がしっかりしてる建物で座布団を被りながら耐えた。怖かった。家は築53年。当時流行った砂壁がまだある。その壁はヒビがはいり、崩れたところもある。パイプが壊れた温水器からはお湯が吹き出した。家中はものが散乱し、揺れはつづくその後、近くの中学校が避難所を開設したとアナウンスがはいり、母を連れて移動。父は避難所では都合が悪い身体のため残った。
従姉妹の子供が、29歳にして東京に仕事と住処をみつけて地元を離れた。もともと大学を卒業して、東京で就職したが、精神的に病み地元に戻ってきた経緯がある。少しずつリハビリして、働きにいけるようになった。職場に車があるのを見かけると何気にホッとしてた。でも、彼女には地元に友人もいないことや彼女の興味や趣味は東京にいることで満たされることもあるようで、ある時期から東京に行きたいと言い始めたようだ。今回は自分で準備して出て行ったようだ。私が彼女くらいのころ、家をでてひとり暮らしをしたいと親に懇願したが、反対された。仕事もしっかりしていたし、今よりも収入もあった。親は心配するだけで、私がひとりで暮らせるわけがないと言い張った。私は親を説き伏せることができず今も実家暮らしだ。親離れ、子離れとあるが、私は見事に離れ損ねた。今は老親が心配でそばにいるのが当たり前だと思っている。出ていく選択肢はない。従姉妹は、子供を尊重して地元を離れるのを受け入れた。私が親ならどうするだろう。また病気になるかもしれないと猛反対するような気がする。どんな家庭で育ったか良いとか悪いとが、どうであれ、親の考え方は自分の中に浸透する。少なくとも私はそうだ。東京に出たいなあとか、家を出たいなとか私にも憧れがあった。今でもないとは言い切れない。ある友人は家を出たくて結婚したとか。そんなふうに考えられなかった。私はあまり自分の意思を貫けずに生きてきたのかもしれない。それは、性格と親の顔色ばかりみてきたからだと思う。ネット社会で、離れてるところからでも、色々な情報がとれる。電話しかなかった時代とは違い、どんな形でも離れている人の状況が把握しやすくなった。友人は大学生の子供がコロナになったと聞けば、ネットで病院を探したり、ネットスーパーで食料を手配したりしたという。すぐに行けなくても、遠隔地から色々な支援ができる時代なのだ。この年になってやりのこしてきたこと、やりたかったこと。今更感を思えば、前には進まない。若い従姉妹の子供が羨ましくおもえた。彼女の行動力も、彼女の環境も。
10数年会ってなかった友人と久しぶりに飲んだ。ちょうど病気になったぐらいから なぜか疎遠になってしまった。だが、その頃会えなくなってしまった理由が今頃になってわかった。私が放った言葉が、相手を萎縮させてしまったみたいだ。そんなことを言った記憶もなかったし、相手も私が自分の病気に向き合うことでいっぱいいっぱいになっていたのだと思うと言う。普段、あんなことを言わなきゃ良かったとか後悔することはあるが、意外に相手は気にしてないことが多い。でもそんな意識すらないときに、放った言葉が相手を傷つけていたりするのだ。私は昔から、相手の気分を害した時に指摘されたり、悪かったところを教えてもらったりすることが多い。何も言わずに離れていく人もいただろうけど、友人からの指摘はちゃんと受け止めるようにしてきた。でも、そんな人ばかりではない。難しい事だけど、これからも自分の気づかない言葉を発するであろ う。でも、もし教えてくれる人がいるならば素直に聞ける姿勢だけは持ち続けたい、
18歳からの長年の友人とGW期間中にランチに出かけた。コロナ禍で3年近く会ってなくて、久しぶりの再会。親友として付き合ってきた彼女とは、彼女の結婚を機に会う頻度が少なくなりお互いに違う生活を送ってきた。途中、行き違いもあったけど、やはり会えば青春時代を一緒に過ごした大切な友人、話が止まらない。話は彼女の家族の事が大半でそれでもその話を違和感なく聞いている私がいて。なんだろう、全然日々の生活が異なるのに、心地よく聞いてる私。幸せそうで良かった。(私にはそう感じれる)何よりそう感じれて良かった。穏やかな生活彼女から漂うもの。私も穏やかさを他の人に感じてもらえるようになれたら‥
今年の桜🌸は、あまりにも早く咲き、満開になった我が地域の名所は、平日の夜だというのに沢山の人が花見に訪れていた。例年なら、お花見ランで夜な夜な走っていたのだけど、今年はそんな元気もなく。今月に出た和倉のマラソン大会から戻ってちょうど一週間後熱を出した。こんな時期は発熱だとコロナを疑うしかなく発熱外来へ。休日も挟んでいたのでPCR検査結果がでるのが遅れた上に4日間も熱を出して自室にこもっていた。結果、陰性。良かったけど、いまだ復調せずイマイチな感じが続いている。すっかり走ることを忘れてしまいもう戻れないかもと落ち込みがち。こんな🌸シーズンは初めてかな。2月末に寒い中大阪マラソン走り、暑いなか和倉に出かけ、私にはハードだったかな。いや、年とったんかも‥ と密かに思う。
日曜日に地元のフルマラソン大会が待ってる。どうも晴れ☀️そうだ。昨年は試験勉強を優先してエントリーせず、応援📣にいそしんだ。今年は、くびきのウルトラを練習台にして走るつもりでエントリーした。でも、そのくびきので、足首関節の捻挫。早く復帰出来るかと思ってたら、意外に治らず‥。痛みは鈍痛にまで回復したし、走れるようにもなった。が、イマイチ不安が残る。もともとただのファンランナー🏃♀️の私は記録など気にしてないけど、最低限のタイム目標はある。時間内をゆっくり、のんびり走れば行けるとも思う。でも痛みがでたらどうするか、途中で止める勇気がでるか、収容🚌に乗る気になるか。いや、痛みがでるくらいなら、走らない方がマシか。痛くなく最後まで走れるかも ⁉️42キロは怖くないけど、終わったあとが怖い。スタート会場行きの🚌はキャンセルした。でも他に行く手段は残ってるし‥迷いに迷う毎日。今日も走ってみようー。