人から「凄い」と言われたい感情。

これ、あるよねぇ。

大なり小なり、人の中には他人から「凄いね」と認められたい気持ち

承認欲求がありますよね。

この感情は取り扱いが本当に難しい。

 

私の中にもあったよ。

だって、人から褒められたり認められたりすると嬉しいじゃん(笑)

もうね、この感情、私の深い深~~いところに横たわっていて

向き合って、コントロールするようになるまで時間かかったもん。

 

私の場合は、子どもの頃

褒められたり、認められたりする経験が公私ともに

あまりにも少なくて、どちらかというと

出来ないこと、苦手なこと、が山ほどある子どもだったから

そこばかりがクローズアップされる経験が多かったのでした。

 

(保育のお仕事をしていて

 出来たか、出来ないかという結果だけにフォーカスする関わりが

 子どもに及ぼす影響という部分に保育業界が視点を持つように

 なって、結果ではなく、経過を見極めて、声掛けや関わりを

 持つという見解に、赤べこのように頷いちゃいますし、

 私もそういう関わりを意識して行っています。

 ですが、私の子ども時代(昭和時代)は、結果重視な教育が

 主流な感じでもありましたよね、家庭も学校も)

 

大人になり、自分で自分の人生(パフォーマーの道)を選んだ時から

私が選ぶ道、生き方を認められたい

いや、(一番身近な人=家族や親戚などに)「認めさせたい」

という感情を原動力にして生きていたところもありました。

 

他人から(周囲の人、誰でもよい)

「凄いね」と言われることを積み重ねて、

その場その場、その時その時

気持ちよくなりたい、「快」な感情に浸りまくりたいという承認では無くて

(この承認欲求は不思議なほど私には無かったでした。

 まぁ、この種類の承認欲求は、これはこれで、非常にやっかいで

 子どもに関わる人がこれを持っていると、ヤバイ関わりが展開されて

 おい、おい、おい!となるけど)

とにかく私は身近な家族、親戚に私の「存在」を認めさせたい!!

という感情に躍起になっていた時代がありました。

(いや~、今思い返すと根深いし、私もしつこい・・・笑)

 

そこを根底にもっていたから

ある時から数年に渡り

その感情と向き合うお試し課題が、ちゃんとやってきて

感情から逃げても定期的に向き合う出来事がやってくる

そして、どうにもこうにも

腹をくくって向き合うしかない、いや、向き合おうと

選択して向き合い、感情を良い意味でコントロールし

湧き上がる感情に振り回されないようにしていきました。

(いや~けっこうね、自分で言うのもアレですけど

 壮絶な昇華経験でしたがな)

 

今は、もう無いです(笑)

これは、相方さんとの出会い(相方さんの存在)も大きいかな。

(昇華経験したから出会えたとも思っています)

 

なんかね、この記事を書こうと思ったのは

別に、自分が承認欲求と向き合えたよ

ということを自慢したいわけでも

それこそ「凄い」と言われたいわけでも無くて。

 

記事の中でも書いたけれど

子どもと関わる人の中に

承認欲求を言動の奥底に抱えている人がけっこういるな

ということをあらためて感じるこの頃で。

(あ、別に保育士に限らず。世の中で起きていること含めて)

 

その感情に

気づくか気づかないか

向き合うか向き合わないか

これは、その人の人生だし

私がどうこう出来ることじゃ、もちろん無い。

 

けれどねぇ

そこに、子どもが巻き込まれることが

本当に嫌だし

やりきれない。。。

 

承認欲求を強く出してしまう人もまた

幼少期に親や身近な大人から受けた環境があるのかもしれないし

元々持っている性質なのかもしれないけれど

 

辛いものは連鎖してほしく無いな

と思います。

 

やりきれない気持ちを持っても

私が世の中の全てのことに、もちろん、どうこう出来るわけではないし。

 

私がやれることは

目の前の子どもたちとの関わりの一つ一つを

コツコツと積み重ねていくこと。

うん、そうなのだ。

と思う今日この頃です。

あけましておめでとうございます。

・・・って、もう2月(笑)

 

あ、今日は立春なので

江戸時代までの旧暦・太陽太陰暦の考え方では立春正月。

今日の年頭の挨拶も間違いではないかな照れ

 

ブログ更新が3ヶ月以上空いてしまいました。

なんともマイペース(笑)

そんでもって、年明け一回目の内容が「土いじり」ニコニコ

 

数年前からプランターや鉢で

植物を育てることが趣味になりました。

ガーデニングなんてお洒落かっこいい感じよりは

私の場合は 「土いじり」 という感覚の方がしっくりくる感じニコニコ

 

植え付け、植え替えの時は

毎回プランターの土をシートの上にひっくり返し

ほぐして、かき混ぜて、太陽の光に当てて

またプランターに戻す。

 

この作業をしている時

とーっても気持ちいいのです。

時間を忘れちゃうくらい。

心も身体もフーーっとリラックスして

うん、自然とグラウンディングしている感覚。

ほへぇーーーーーほんわか

 (土の中から何かの幼虫が出てきてビビりまくるガーン時もありますが)

 

庭のある家に住みたいなぁ。

プランターや鉢で育てるのも楽しいけれど

やっぱり植物は地植えしてあげたい。

 

自然がいっぱいの地域に住んでいるので

  (だから何かの幼虫もいっぱいくる

    土いじり趣味になったと言いながら虫苦手。。。

     保育士だけど虫苦手泣き笑い

散歩しているだけで

あちこちの地植えされている植物を見ることができて

もう、私の中の感覚がスーッと整えられて

自分軸の整理整頓グラウンディング。

 

鉢植えで育てているレモンの木が

今年も実をたくさんつけてくれました。

収穫して早速、レモン酢やジャムに。

ジャム作りも、ここ数年で趣味に加わったもの。

うちのレモンの木さんも本当は地植えしたいのです。

 

あ~土いじり楽しいなぁ。

ご無沙汰の記事でございます。

日々、貴重な保育の経験を

子どもたちの中でさせてもらっています。

 

1、2歳の頃に転ぶ経験をたくさんしていると

だんだんと転んだ時に反射的に両手が出るようになり

顔面を打つ、頭を打つなどの大きなケガを防ぐことができたり

足元を気を付けるように歩いたり走ったり、

どういうときに転ぶことに繋がるのかなどの

危険予測をする力を身に着けることが出来ます。

 

また、転ぶことは歩くこと走ることの動作の先にある事象であり

歩く走るは筋力、体力、体幹を鍛え自分の身体の使い方を知ることにも繋がります。

 

この年齢の転ぶ経験は本当に大切な体験です。

この時期の経験をすっ飛ばして

3、4、5歳の幼児期になって

いきなり出来るようになるわけでは無いのです。

 

もちろん、ケガはしないように大人が注意をして

環境を整えることは大前提です。

歩き始めた時期や

まだまだ歩く動作が安定しない時期は特に。

その上で、少しの擦り傷や打ち身など

成長・発達の段階で必要な経験で起きるものは

体験することが必要な経験でもあるのです。

 

少しずつの小さな経験の積み重ねが

未来の子どもたちの心身を作ることへと繋がっていく。

 

大人の都合で

(ケガしたら可哀そう、不安、恐れ、待てない・・・などの感情かな)

大切な経験を奪われませんように。

一番困るのは子どもたちですから。

 

これって

『失敗する経験』

ということにも繋がりますね。

失敗したっていいのです。

恥ずかしいことなんてない。

大切なことは

失敗したことから何を知るのか。

どうしたら次に同じようなことがあった時に

対処することが出来るようになるのか。

 

転ぶことも、失敗も

とーーーっても大切な人生経験。

 

 

今日のタイトル、呪縛って表現怖いですねぇびっくり

 

保育のお仕事を始めて数年ほど。

(子どもに関わるお仕事自体は長年やってきましたが

 保育のお仕事は新米さん、、、なんちて・・・笑)

 

保育の学びと実践をやっていると

自分の成育体験との向き合いに立ち戻るなぁ~と感じます。

(これ、様々な対人援助職に言えることでもありますね)

 

その一つに「話しかける言葉」があって。

子どもがお片付けや衣服の着脱

その他、様々なことをやっている時、

そのことが出来た時に何て話かけますか?

大人は何て話しかけると思いますか?

 

「すごいね」

「よくできたね」

「いい子ね」

 

などなどでしょうか。

これねぇ。

普通に言っている言葉ですよね。

そして、大人の私たちも子どもの頃に言われて育ってきた言葉。

 

この言葉をいっぱい言われていくと

子どもがどういう風になっていくかというと・・・

 

・片づけるたびに大人を見て「褒めて」という意思表示をするようになる

・褒められるために片づけや良いことをするようになり、褒めてくれる大人が周囲にいない時は片づけない。

・その行為をやる本当の意味を理解しないまま「褒めてもらう→いい気持ち」のループ行動となる

・出来ることが「いいこと」、出来ないことが「ダメなこと」という意識が根付く

・根付くと自分をそのものさしで見るようになるだけでなく

 出来ない子(友達)を責めたり、「ダメな子」とレッテルを張るようになる

・出来ない私(僕)は「いい子じゃないダメな子」という気持ちを持つようになる

 

・・・・・

・・・

ガーン

言葉の呪縛・・・びっくり

 

 

 (もちろん、子ども全員がこうなると言っているわけではないです。

  子どものタイプ、性質、キャラクターによっては

  こういう風にならないパターンも、もちろんあります。

  必ずこうなる、と決め付けて書いているわけではなくて

  こういう風な傾向の側面があります、という意味です。

  また「すごいね」「できたね」という言葉で話しかけることを

  全否定しているわけでもないです。)

 

 

話を戻します。

このような傾向になる

これ、めちゃんこ私の成育体験と合致なんです。

 

自分の中の奥底にある自己評価が低かった私。

パフォーマーのお仕事を生業にしてからは

人前で話すこと、思っていることを伝えることを後天的にやれるようにしましたが

元々(子どもの頃からパフォーマーになるまでは)

人前で話す、人に思っていることを伝える、やりたいと思ったことをやる、ことが

全くと言っていいほど出来ませんでした。

 

理由は

人前で失敗することが物凄く嫌だったから

失敗する姿を見られることが物凄く恥ずかしいことだと思っていたから

人と違うことを思い、言うことはダメだと強く思っていたから

出来ないことはダメなことだと思っていたから

出来ることが少ない自分はダメな子どもだと思っていたから

 

くぅぅぅぅぅぅ

子ども時代の自分が今、目の前にいたら

失敗したっていいんだよ

出来なくてもダメじゃないんだよ

結果が出来た、出来ないじゃなくて

途中までだって、経過や経緯が大切なんだよ

と言ってあげたいニコニコ

 

昭和生まれの私の時代は

家庭のしつけも学校教育も

結果を見て、出来る、出来ない、という評価型の教育で

大人のほとんどは無意識的に、そのような話しかけをしていました。

(中には結果のみに価値を強く持っていた大人もいましたね)

 

あ、評価型の他に比較型の話しかけもよく行われてましたよね~

「〇〇ちゃんはできるよ」

のように、兄弟や友達、親戚など同年代と比較されるパターンの話しかけ。

比較型も怖いよ~~~ガーン

ブルブルしちゃうよ~えーん

 

その教育にどっぷりと浸かって育った私の自己評価の低さ。

そこに気づいた時に、若かった頃は

もう自分のダメなところなんて

見たく無いし、向き合いたく無いし、乗り越える自信無いしで

親のせい、親戚のせい、先生のせい、環境のせい、社会のせい・・・

あらゆる理由をつけて逃げておりました、向き合うことから。

(今振り返れば、ありゃりゃーな行為ですが。。。苦笑)

 

だいたいね、逃げてもね、今世の人生で向き合おうと思って生まれてきた事柄は

その時は逃げられても(上手くやり過ごせたと思っても)

そのうちまたやってくるもので

何年にも渡って、色んな事象、現象でやってきて

数年前に、もう、いい加減に自己評価の低さと向き合いますわい

と思えるようになり(タイミングありますね)向き合っております。

 

思春期の頃からずーーーーーっと思っているのですけど

言葉って

本当に取り扱いが難しいものですよね。

 

言葉でいっぱい失敗して

言葉でいっぱい苦労して

言葉でたくさん苦しんで

言葉でいっぱい嫌な思いもして

感情ギリギリの淵に立つことになった時もあるけれど

 

言葉に励まされ

言葉に感情ギリギリの淵から向こうに行かずに助けられ

言葉に愛をもらい

言葉に背中を押してもらった

 

取り扱いがとても難しいだけに

だからこそ

言葉の呪縛を生むのではなくて

暖かな言葉を出せる人になりたいです。

 

私が生きる上でとても大切にしていることの一つがユーモアです。

 

ユーモアを調べてみると

人を和ませるような「おかしみ」のことで

そこには相手や周囲を不快にさせない気遣いが必要であり

自然と周囲が笑ってしまうような

品があって自然で心和む笑いがユーモアである

となっています。

 

思わずふっと笑ってしまう

微笑んでしまう

心が和む笑いは

それだけで心を軽やかにし

心がほぐれると、身体も軽やかになります。

 

子どもと関わるお仕事を通して

常に大切にしている軸でもあります。

うん、子どもだけでなく、人と関わることにおいて

大切にしているものでもありますね。

 

ユーモアは

特別な場所などいらないし

何か道具が必要でもない

一対一でも

一対たくさん、でもどちらでも大丈夫

身一つでできる

とても楽しい遊びであり

最高のコミュニケーションスキルだと私は思っています。

 

人の笑顔(楽しいなぁの表情)を見ると

それだけで嬉しくなっちゃうのです。

 

 

長年、子どもに関わるお仕事をしていて

ユーモア、コメディ、コミカルを大切にしている者として

ずっと気になっていることがあります。

 

それは、楽しいこと、面白いことなどがあったときに

子どもが

声を出して笑う

楽しいことをしている人の近くに行く

大きなリアクションをする

などの姿をしていることが正解だと

大人が決めている場合が多いこと。

 

ちょっと離れたところにいて

近づくことなく

大笑いすることもなく

大きなリアクションもない子どもは

「楽しんでない子」、と大人が決めちゃうこと。

 

いやいやいや

声を大にして言いたいょ。

 

ユーモア、コメディ、コミカルなことを

楽しむ方法は人それぞれ(子どもそれぞれ)で良くないかな?

 

大人にだってあるように

子どもたちにだって居心地の良い

距離感やパーソナルスペースがあります。

 

楽しいことに

近づいて大笑いすることで、より楽しさを体感するタイプもいれば

ちょっと遠い距離から楽しい様子を眺めて楽しさを体感するタイプもいる。

それで良くないかな。

 

大声で笑ってなくたって

大きなリアクションしてなくたって

遠いところから見ている姿だって

ちゃんと、子どもの表情、雰囲気などの

微細な様子を見ていると

「あ、楽しんでいる」

って分かります。

 

もちろん、楽しくない、面白くなかった

という感情を持っても、それでOK。

 

楽しかったら楽しんで

楽しくなかったら楽しくない、でいいんだよ。

 

今、感じている気持ちを味わう経験を

たくさんたくさん子どもたちにしてほしいと思います。

 

大人側の感情(エゴね。。。笑)じゃなくて

子どもの気持ちを尊重して

これからもユーモアを盛り込んで遊びを作って生きたいな。