むかしのはなし -43ページ目

胆大小心録 その43

四十三

「何をいふても、しら河夜舟」
(何を言っても寝ていて知らぬ)
とは、古めかしい歌だ。
法勝寺の東門へは、白河の流れが大きく、良材を賀茂川に運んだという。


周りの様子に気付かない程、眠りこけてしまう事を白河夜船といいますが、
その語源は、
京都に行った事があると嘘をつく者に
「白河はどうだったか?」
と聞くと、白河とは白河殿を中心にした地帯の名称であるにも関わらず、
川の名前だと思い
「夜船で通ったので川の様子はわからない」
と答えた事によって嘘がばれたと言う話だそうです。
知ったかぶりを指す言葉がやがて現在の意味に変わっていったそうです。

秋成が言いたい事は、
白河という名称の元になった白川は賀茂川に流れ込む支流で、
法勝寺付近では、貨物船が通れるほど川幅が広く、
夜船が通る事もあっただろう。
と言うような意味でしょうかね。

要するに語源にケチを付けているだけですね。

胆大小心録 その42

四十二

丹波は、昔丹後と但馬とを一つにまとめて一国であった。

日本書紀の崇神紀にあるが、
四道を平定する為に派遣された将軍の一人が、丹波に巡察に行くはずだったのだが、
武埴安が謀反を起こし、中止になった。

垂仁天皇の時代に、任那の国から帰化して、
額に角のある人(都怒我阿羅斯等)が舟に乗ってやって来た。
その着いた場所をつぬがといった。今は敦賀という所だ。

また田道間守(タヂマモリ)が常世の国のかぐの実を取りに行ったが、
垂仁天皇の崩御の後に戻り、泣き叫びながら死んでしまったと、
垂仁紀に見える。
(その花を)多遅婆奈(たちばな=橘)というのは、
田道間守が奉った花だというのが理由だ。
但馬というのも丹波というのも、多遅花の国という事だ。

この橘は今も東国にあるが、蜜柑に似ていても苦味が強くてうまいものではない。
それでも聖武天皇のお言葉に、
「橘果子之長上(橘は果物の王である)」
とあるのは、昔はうまいものがなかった為だろう。


前回に続き丹波の話です。

四道というのは北陸、東海、西道、丹波の事で、
各方面に派遣された将軍を四道将軍というそうです。
道というのは当時の行政区分であり、
永らく日本で用いられてきた五畿七道より以前の区分だそうです。

任那の国とは朝鮮半島の南端にあった国だそうで、
そこから渡ってきた都怒我阿羅斯等は「つぬがあらしと」と読みます。
彼について調べたところ、
敦賀にはツヌガくんというゆるキャラがいるそうです。
なんともストレートなネーミングですね。

常世の国というのは伝承などによく出てくる国で、
海の彼方にある理想郷を指す言葉だそうです。
垂仁天皇の命を受けて非時香菓(不老不死の果実)を探しに行ったものの、
帰還した時にはすでに天皇は崩御されていて、
悲しみのあまり死んでしまったという伝承が橘という名の由来だそうです。

胆大小心録 その41

四十一

(丹波は)丹波太郎という雲が出るといって、
何だか恐ろしい所のように言われているが、
食料が乏しい所なので、怖い事は無い。

酒呑童子がいた時代は、京の奉公人を捕らえて帰り、
酒を(名産地の)奈良や京や伊丹や池田から分捕ったという。
そのような事が今あったらいいなと、丹波の人は言うだろうな。


今回は丹波の話です。
現代では京都と兵庫の北側に跨る辺りですかね。

酒呑童子は丹波の大江山に住んでいたとされる鬼で、
その名の通り酒好きで知られています。
各地で似たような伝説があり、
様々な悪事を働いたそうですが、
この酒を集めたエピソードはあまり有名では無いようですね。

それにしても相変わらずの暴言ですね。