胆大小心録 その64
六十四
絵は、幕府のご贔屓で、栄川(狩野典信)という人が、
世にも珍しいと話題になり、探幽(狩野守信)以来の繁昌だと言われた。
栄川の絵は知らぬが、それほど上手なわけでは無かったらしい。
探幽は一時代を築いたものの、五条の絵の具屋の蔵の壁に、
絵の具代の代わりにと壁画が描いてある。
今でもそれを見たという人がいる。
狩野派の話です。
室町時代から続く有名な一派ですね。
狩野典信は徳川家治に寵愛された画家で、
当時衰えの激しかった狩野派の再建に努めたそうです。
狩野探幽は江戸初期の人物で、
祖父の狩野永徳に次ぐ知名度でしょう。
絵画の事は全然わかりませんが、
これほどの有名人を捕まえて
上手ではないとは中々言えませんね。
絵は、幕府のご贔屓で、栄川(狩野典信)という人が、
世にも珍しいと話題になり、探幽(狩野守信)以来の繁昌だと言われた。
栄川の絵は知らぬが、それほど上手なわけでは無かったらしい。
探幽は一時代を築いたものの、五条の絵の具屋の蔵の壁に、
絵の具代の代わりにと壁画が描いてある。
今でもそれを見たという人がいる。
狩野派の話です。
室町時代から続く有名な一派ですね。
狩野典信は徳川家治に寵愛された画家で、
当時衰えの激しかった狩野派の再建に努めたそうです。
狩野探幽は江戸初期の人物で、
祖父の狩野永徳に次ぐ知名度でしょう。
絵画の事は全然わかりませんが、
これほどの有名人を捕まえて
上手ではないとは中々言えませんね。
胆大小心録 その63
六十三
能登守は、吟味に念が入り過ぎて、埒があかなかったので、
江戸から勘定方の下役人の、
曲淵庄二郎(曲淵景漸)という人が来て、事を済ませたが、
この曲淵の功は大きく、大阪町奉行になって、
能登が失敗して役を退いた跡へ、甲斐守を受領して任官されたが、
とても上手者で、大阪の町人がとても喜んだという事だ。
孝子に褒美をやる事も、この人が特に有名な事だ。
家質の差配所の設立に町人が反対し、関係者宅の打ちこわしが相次ぎ、
町人の代表者が上訴を繰り返した時も、上手く騙して設立にこぎつけた。
(奉行というのは)色々と悪知恵の働く人でなければできないものだ。
江戸町奉行に転任して、後に大目付になったそうだ。
実は悪い奉行であったと、心ある人は批判したそうだ。
その頃は悪いやり口の事は、曲淵だという言い回しが流行った。
将棋が強かったそうだ。これは浚明院殿(徳川家治)がお好きだった為、
その頃は将棋の強い大名や旗本は大勢いたそうだ。
(家治が)他界した後は、みな下手になったのかどうかは知らぬが、全く流行らなくなった。
曲淵景漸という人物の話です。
大阪と江戸で町奉行として活躍した人だそうです。
とにかく知恵の働く人で、
経済の発展に尽力したそうですが、
天明の大飢饉の際に、配給を要求する町人に対して、
「米が無ければ犬を食え」
という暴言を吐いて、打ちこわしを激化させたという失態もあります。
能登守は、吟味に念が入り過ぎて、埒があかなかったので、
江戸から勘定方の下役人の、
曲淵庄二郎(曲淵景漸)という人が来て、事を済ませたが、
この曲淵の功は大きく、大阪町奉行になって、
能登が失敗して役を退いた跡へ、甲斐守を受領して任官されたが、
とても上手者で、大阪の町人がとても喜んだという事だ。
孝子に褒美をやる事も、この人が特に有名な事だ。
家質の差配所の設立に町人が反対し、関係者宅の打ちこわしが相次ぎ、
町人の代表者が上訴を繰り返した時も、上手く騙して設立にこぎつけた。
(奉行というのは)色々と悪知恵の働く人でなければできないものだ。
江戸町奉行に転任して、後に大目付になったそうだ。
実は悪い奉行であったと、心ある人は批判したそうだ。
その頃は悪いやり口の事は、曲淵だという言い回しが流行った。
将棋が強かったそうだ。これは浚明院殿(徳川家治)がお好きだった為、
その頃は将棋の強い大名や旗本は大勢いたそうだ。
(家治が)他界した後は、みな下手になったのかどうかは知らぬが、全く流行らなくなった。
曲淵景漸という人物の話です。
大阪と江戸で町奉行として活躍した人だそうです。
とにかく知恵の働く人で、
経済の発展に尽力したそうですが、
天明の大飢饉の際に、配給を要求する町人に対して、
「米が無ければ犬を食え」
という暴言を吐いて、打ちこわしを激化させたという失態もあります。
胆大小心録 その62
六十二
鈴木伝蔵という対馬の者が、何とかといった韓人を殺して、大騒ぎであった。
興津能登守という町奉行が、厳しい吟味で、何の苦も無く逃げたのを捕らえて、
とてもむごく追求した。
鵜殿出雲守は理屈ばってばかりいて、腹芸は下手だったそうだ。
これはみな対馬藩の家老平田将監という人の欲心から発生した騒動だという事だ。
伝蔵は吟味が済んで、尻無川の韓人の前で、打ち首になったという事だ。
(伝蔵が)引かれていく時に、辻にたくさんの見物人がいたが、
新町の西口に、女郎達が大勢立っていて、
「それそれ唐人殺しが来た」
と言って、駕篭の中を覗いて、美男であった為に、
「あの人かい、あんないい男が何で人を殺すというのか。お上はむごいものだ」
と言ったそうだ。
鈴木伝蔵は第11回目の朝鮮通信使を迎えた際の
対馬藩の小通事(通訳補佐)で、
通信使の崔天崇という人物を刺殺したそうです。
その経緯については長くなるので書きませんが、
名誉を傷つけられたのが原因だそうです。
朝鮮使は使節とはいっても、乱暴狼藉を働くものが多く、
相当評判が悪かったそうです。
興津能登守は大阪西町奉行、
鵜殿出雲守は大阪東町奉行だそうです。
ちなみに平田将監がどういう人物であるかは不明です。
事件にどう関わって来るのかが気になるところです。
鈴木伝蔵という対馬の者が、何とかといった韓人を殺して、大騒ぎであった。
興津能登守という町奉行が、厳しい吟味で、何の苦も無く逃げたのを捕らえて、
とてもむごく追求した。
鵜殿出雲守は理屈ばってばかりいて、腹芸は下手だったそうだ。
これはみな対馬藩の家老平田将監という人の欲心から発生した騒動だという事だ。
伝蔵は吟味が済んで、尻無川の韓人の前で、打ち首になったという事だ。
(伝蔵が)引かれていく時に、辻にたくさんの見物人がいたが、
新町の西口に、女郎達が大勢立っていて、
「それそれ唐人殺しが来た」
と言って、駕篭の中を覗いて、美男であった為に、
「あの人かい、あんないい男が何で人を殺すというのか。お上はむごいものだ」
と言ったそうだ。
鈴木伝蔵は第11回目の朝鮮通信使を迎えた際の
対馬藩の小通事(通訳補佐)で、
通信使の崔天崇という人物を刺殺したそうです。
その経緯については長くなるので書きませんが、
名誉を傷つけられたのが原因だそうです。
朝鮮使は使節とはいっても、乱暴狼藉を働くものが多く、
相当評判が悪かったそうです。
興津能登守は大阪西町奉行、
鵜殿出雲守は大阪東町奉行だそうです。
ちなみに平田将監がどういう人物であるかは不明です。
事件にどう関わって来るのかが気になるところです。