胆大小心録 その67
六十七
近衛豫樂院様(近衛家熙)が仰るには、
「(狩野)尚信が特に上手だ。思うに、写生を心がけていて、
牧渓のような筆法を持ち、独特の力量があった」
ということらしい。
これは正しい批評だ。
今では絵の世界では芝居や相撲取りと同じ様に、
大物は出ないものと見えた。
そのくせに画料の高い事、(徳川家の)治世の始まり以降例を見ない程だ。
これも応挙の俗欲で始まった事だ。
岸駒が画代を貪るのは、さらに一段上の事だ。
家を買って改善しようと、贅沢にも酒屋の古宅を買ってきた。
同功館とやら名付けて誇らしげにしている。
「絵は書典と功が同じ」
と言った人がいたのを受けての山師のようなやり口だ。
今回は知らない人名が大勢出てきて、色々と勉強になりました。
近衛家熙は当時の太政大臣で、書画に造詣の深い人物です。
狩野尚信は探幽の弟で、
家熙の書いた「槐記」という書の中で、絶賛されているそうです。
牧渓は南宋の僧侶で、水墨画の名人として特に日本で好まれていた画家だそうです。
岸駒は秋成と同時代の画家で、
その技量もさることながら画代をふっかける事でも有名だったそうです。
最後の部分は唐の張彦遠という人物が「歴代名画記」という本で述べた言葉で、
正確には「六籍(六経)と功を同じくする」と書かれていて、
易経や春秋などの経書と同じように、
人の精神を正す効用があるという意味だそうです。
近衛豫樂院様(近衛家熙)が仰るには、
「(狩野)尚信が特に上手だ。思うに、写生を心がけていて、
牧渓のような筆法を持ち、独特の力量があった」
ということらしい。
これは正しい批評だ。
今では絵の世界では芝居や相撲取りと同じ様に、
大物は出ないものと見えた。
そのくせに画料の高い事、(徳川家の)治世の始まり以降例を見ない程だ。
これも応挙の俗欲で始まった事だ。
岸駒が画代を貪るのは、さらに一段上の事だ。
家を買って改善しようと、贅沢にも酒屋の古宅を買ってきた。
同功館とやら名付けて誇らしげにしている。
「絵は書典と功が同じ」
と言った人がいたのを受けての山師のようなやり口だ。
今回は知らない人名が大勢出てきて、色々と勉強になりました。
近衛家熙は当時の太政大臣で、書画に造詣の深い人物です。
狩野尚信は探幽の弟で、
家熙の書いた「槐記」という書の中で、絶賛されているそうです。
牧渓は南宋の僧侶で、水墨画の名人として特に日本で好まれていた画家だそうです。
岸駒は秋成と同時代の画家で、
その技量もさることながら画代をふっかける事でも有名だったそうです。
最後の部分は唐の張彦遠という人物が「歴代名画記」という本で述べた言葉で、
正確には「六籍(六経)と功を同じくする」と書かれていて、
易経や春秋などの経書と同じように、
人の精神を正す効用があるという意味だそうです。
胆大小心録 その66
六十六
応挙とは度々会ったが、衣食住にこだわりの無い素晴らしい人だった。
月渓は常日頃から
「食物の味を理解しない者は、どんな芸でも上達しない」
と言っていたが、(月渓は)食べ物の選り好みが上手であった。
「つくしと豆腐が特に良い」。
そう言っていたが、腎虚で体が弱ってしまって、
久しぶりに会ったら、不如法の晒し者のようになっていた。
前回に引き続き応挙と月渓の話です。
不如法の晒し者とは、
戒律を犯した僧が、数日間市中に晒される刑罰の事を言っているそうです。
月渓は普段から僧服を着ていたそうで、
衰弱して動けない様子をうまく表現したわけですね。
ちなみに晒される僧には女犯の者が多かった事から、
腎虚を患った月渓にかけているそうです。
応挙とは度々会ったが、衣食住にこだわりの無い素晴らしい人だった。
月渓は常日頃から
「食物の味を理解しない者は、どんな芸でも上達しない」
と言っていたが、(月渓は)食べ物の選り好みが上手であった。
「つくしと豆腐が特に良い」。
そう言っていたが、腎虚で体が弱ってしまって、
久しぶりに会ったら、不如法の晒し者のようになっていた。
前回に引き続き応挙と月渓の話です。
不如法の晒し者とは、
戒律を犯した僧が、数日間市中に晒される刑罰の事を言っているそうです。
月渓は普段から僧服を着ていたそうで、
衰弱して動けない様子をうまく表現したわけですね。
ちなみに晒される僧には女犯の者が多かった事から、
腎虚を患った月渓にかけているそうです。
胆大小心録 そ の65
六十五
(円山)応挙が世に出て、写生というものが流行りだして、
京中の絵が皆同じ画風になってしまった。
これは、狩野派の連中がみな下手だったせいだ。
妙法院の宮様(真仁法親王)が、応挙の弟子だった為に、
推挙を受け、禁中のお抱え絵師になり、死んだ跡に、
(松村)月渓がそれに習い、宮様の推挙でお抱え絵師になり、
応挙よりも朝廷に気に入られ、順調に御用を勤めてきたが、
好色が過ぎて腎虚を患い今は絵が描けなくなってしまった。
その弟子たちが大勢いるが、どれをとっても安物ばかりだ。
円山応挙は秋成と同時代の画家で、
本文にもあるように、写生を重視した画風が特徴だそうです。
松村月渓は秋成の友人の一人で、
俳人でもあったようです。
応挙だけでなく与謝蕪村とも交流があり、
応挙と蕪村の特徴を併せ持った画風だそうです。
(円山)応挙が世に出て、写生というものが流行りだして、
京中の絵が皆同じ画風になってしまった。
これは、狩野派の連中がみな下手だったせいだ。
妙法院の宮様(真仁法親王)が、応挙の弟子だった為に、
推挙を受け、禁中のお抱え絵師になり、死んだ跡に、
(松村)月渓がそれに習い、宮様の推挙でお抱え絵師になり、
応挙よりも朝廷に気に入られ、順調に御用を勤めてきたが、
好色が過ぎて腎虚を患い今は絵が描けなくなってしまった。
その弟子たちが大勢いるが、どれをとっても安物ばかりだ。
円山応挙は秋成と同時代の画家で、
本文にもあるように、写生を重視した画風が特徴だそうです。
松村月渓は秋成の友人の一人で、
俳人でもあったようです。
応挙だけでなく与謝蕪村とも交流があり、
応挙と蕪村の特徴を併せ持った画風だそうです。