胆大小心録 その61
六十一
「唐人を二度見た事をとし忘れ」
(忘年会で、老人たちが朝鮮人の来聘を二度見たと話している)
という俳句があったが、
翁(秋成)は二度見たが、三度目に見る事はないだろう。
十五歳の時と、三十歳ぐらいの時であった。
(朝鮮人を)唐人と呼ぶと、儒者が韓人だと言って叱ったものだった。
大阪の津村御堂で軽く(朝鮮通信使との)贈和に出た事があった。
秋月(南玉)・龍淵(成大中)という二人の他は、つまらぬ者たちであった。
ただ物を欲しがるだけの事だった。
朝鮮通信使というのは李氏朝鮮から派遣された使節団の事で、
江戸時代には計12回送られたそうです。
秋成が贈和に参加したのは1764年の11回目の通信使を
西本願寺津村別院で接待した時の事で、
これが31歳の頃の話だそうです。
ちなみに贈和というのは、
筆談で漢詩文を披露し合う集まりの事で、
接待の際に余興としてよく行われたそうです。
製述官の南玉と、書記の成大中は共に文才のある人物だそうで、
日本の文人達と交誼を結んだそうです。
「唐人を二度見た事をとし忘れ」
(忘年会で、老人たちが朝鮮人の来聘を二度見たと話している)
という俳句があったが、
翁(秋成)は二度見たが、三度目に見る事はないだろう。
十五歳の時と、三十歳ぐらいの時であった。
(朝鮮人を)唐人と呼ぶと、儒者が韓人だと言って叱ったものだった。
大阪の津村御堂で軽く(朝鮮通信使との)贈和に出た事があった。
秋月(南玉)・龍淵(成大中)という二人の他は、つまらぬ者たちであった。
ただ物を欲しがるだけの事だった。
朝鮮通信使というのは李氏朝鮮から派遣された使節団の事で、
江戸時代には計12回送られたそうです。
秋成が贈和に参加したのは1764年の11回目の通信使を
西本願寺津村別院で接待した時の事で、
これが31歳の頃の話だそうです。
ちなみに贈和というのは、
筆談で漢詩文を披露し合う集まりの事で、
接待の際に余興としてよく行われたそうです。
製述官の南玉と、書記の成大中は共に文才のある人物だそうで、
日本の文人達と交誼を結んだそうです。
胆大小心録 その60
六十
中国の事を考える国学者と、日本の事をあれこれ言う儒者では、
いくら力んだ所でまるで駄目で、儒者の方が見当違いの者が多い。
日本の事を学ぶ国学者が
中国に関して思案するという事と、
中国発祥の学問である儒学を学ぶ者が
日本を語るという事の対比です。
またもや儒者を批判してますが、
この儒者も竹山・履軒兄弟を想定していそうですね。
中国の事を考える国学者と、日本の事をあれこれ言う儒者では、
いくら力んだ所でまるで駄目で、儒者の方が見当違いの者が多い。
日本の事を学ぶ国学者が
中国に関して思案するという事と、
中国発祥の学問である儒学を学ぶ者が
日本を語るという事の対比です。
またもや儒者を批判してますが、
この儒者も竹山・履軒兄弟を想定していそうですね。
胆大小心録 その59
五十九
女髪結いという者がいるが、
「敵討御未刻太鼓」に
「これだけ広い大阪でも、男の産婆と、女の髪結いはお目にかかれない」
という台詞が見えた事だが、
女の髪結いは、翁(秋成)が若い頃にいた、お久米という者が元祖だった。
男の産婆はいなかったが、
賀川玄悦の一派が出てきて、この三、四十年の間に増えてきたのだ。
女の山上参りの先達も、大阪に一人いた。
まだい ないのが、千石船の船頭ぐらいのものだ。
女相撲は見苦しいものだった。
敵討御未刻太鼓というのは浄瑠璃の題名です。
職業に性別の違いが無くなっているという内容ですね。
賀川玄悦は産科医で、高名な人物ですが、
秋成は侮蔑的な意味で産婆扱いをしたそうです。
山上参りとは、大峰山で修行をする事で、
現在でも行われているようです。
女髪結いという者がいるが、
「敵討御未刻太鼓」に
「これだけ広い大阪でも、男の産婆と、女の髪結いはお目にかかれない」
という台詞が見えた事だが、
女の髪結いは、翁(秋成)が若い頃にいた、お久米という者が元祖だった。
男の産婆はいなかったが、
賀川玄悦の一派が出てきて、この三、四十年の間に増えてきたのだ。
女の山上参りの先達も、大阪に一人いた。
まだい ないのが、千石船の船頭ぐらいのものだ。
女相撲は見苦しいものだった。
敵討御未刻太鼓というのは浄瑠璃の題名です。
職業に性別の違いが無くなっているという内容ですね。
賀川玄悦は産科医で、高名な人物ですが、
秋成は侮蔑的な意味で産婆扱いをしたそうです。
山上参りとは、大峰山で修行をする事で、
現在でも行われているようです。