胆大小心録 その73
七十三
高野山に登って、東林院の木食堂(穀類断ちの修行場)に行って拝する。
案内の僧に、
「あの湯にかきたてて食べるものは何ですか」
と問うと、
「蕎麦の粉です」
との事だ。
翁(秋成)が笑って言う。
「仏法的な考えだけをして、礼記を読まないからこんなざまになる。
素麺・団子に作らなくても、湯で調理すれば穀物を食べた事になるのだ。
五穀の他に六穀・九穀・百穀という言葉もある。
続日本紀にある元明天皇の時代に、
「天下凶飢す。蕎麦を今より多く作りてよ(食料難の為、蕎麦を多く作れ)」
と詔令があったという。
これをも知らぬとは気の毒だ」
と言うと、案内の老僧は答えられなかった。
もはや定番となった、相手を閉口させるシリーズです。
木食堂というのは、
穀物を食べずに木の実や草根などを食する
穀断ちという修行をする場所だそうです。
穀断ちの「穀」というのは稲や麦など、いわゆる五穀の事で、
五穀の内容は時代や場所によって違いますが、
多くの場合、蕎麦を含みません。
五穀という言葉が出てくるのが中国の経書「礼記」だそうです。
中国でも五穀の解釈には諸説あり、
また五穀の他に六穀など別のカテゴリーもあるそうです。
当然蕎麦が含まれる事もあったのでしょうね。
知識不足の為に不完全な修行になっている事を指摘したのでしょうが、
相変わらず口の悪い翁ですね。
ちなみに本文で元明天皇となっている所は、
実際には元正天皇の詔だそうです。
高野山に登って、東林院の木食堂(穀類断ちの修行場)に行って拝する。
案内の僧に、
「あの湯にかきたてて食べるものは何ですか」
と問うと、
「蕎麦の粉です」
との事だ。
翁(秋成)が笑って言う。
「仏法的な考えだけをして、礼記を読まないからこんなざまになる。
素麺・団子に作らなくても、湯で調理すれば穀物を食べた事になるのだ。
五穀の他に六穀・九穀・百穀という言葉もある。
続日本紀にある元明天皇の時代に、
「天下凶飢す。蕎麦を今より多く作りてよ(食料難の為、蕎麦を多く作れ)」
と詔令があったという。
これをも知らぬとは気の毒だ」
と言うと、案内の老僧は答えられなかった。
もはや定番となった、相手を閉口させるシリーズです。
木食堂というのは、
穀物を食べずに木の実や草根などを食する
穀断ちという修行をする場所だそうです。
穀断ちの「穀」というのは稲や麦など、いわゆる五穀の事で、
五穀の内容は時代や場所によって違いますが、
多くの場合、蕎麦を含みません。
五穀という言葉が出てくるのが中国の経書「礼記」だそうです。
中国でも五穀の解釈には諸説あり、
また五穀の他に六穀など別のカテゴリーもあるそうです。
当然蕎麦が含まれる事もあったのでしょうね。
知識不足の為に不完全な修行になっている事を指摘したのでしょうが、
相変わらず口の悪い翁ですね。
ちなみに本文で元明天皇となっている所は、
実際には元正天皇の詔だそうです。
胆大小心録 その72
七十二
ある僧が翁(秋成)に意見する事には、
「そなたはドジョウを好んで食べるという話を聞いた。
そなたらしくもない。人は板歯に生まれて、骨を噛んで味わう者ではない。
気性の荒い馬や牛も、人と同じく板歯なので、草を食べるのだ。
生まれつき牙を持つものは、鼠のような小動物でも、よく物を傷つけ、
牙を武器に生涯を暮らすのだ。
(ドジョウを食べるのは)やめた方がいい」
という事だ。
それに答える。
「眼医が時々食えと言うので食べているだけだ。好きで食べている訳ではない。
やめるのは容易いが、魚肉や獣肉もよく調味して、野菜と同じように食べ、
(獣のように)骨をかじる訳ではない。
一般人はこれを自然な事と思っている。
神への供物、天子の食膳にも料理して奉るのは古代からの習慣だ。
自ら台所に入って、殺生するので無いのだから、何を忌む事があるのか」
と言うと、僧は黙ってしまった。
このように学があり、庶民生活に疎いのが良い僧というべきだ。
世情に明るく俗気のある僧は信仰の頼みとはならない。
食い養生という言葉がありますが、正にそのパターンですね。
ドジョウは栄養が豊富な食べ物ですが、眼病にも効くのでしょうかね。
自分も健康に不安を抱えている身ですが、
特に好きでもないものを養生食いするのはなかなか大変な事です。
秋成が相手を論破する話はよく出てきますが、
今回は珍しく相手を褒めています。
俗世を知らないが故の言い振りに好感を持ったのかもしれませんね。
ある僧が翁(秋成)に意見する事には、
「そなたはドジョウを好んで食べるという話を聞いた。
そなたらしくもない。人は板歯に生まれて、骨を噛んで味わう者ではない。
気性の荒い馬や牛も、人と同じく板歯なので、草を食べるのだ。
生まれつき牙を持つものは、鼠のような小動物でも、よく物を傷つけ、
牙を武器に生涯を暮らすのだ。
(ドジョウを食べるのは)やめた方がいい」
という事だ。
それに答える。
「眼医が時々食えと言うので食べているだけだ。好きで食べている訳ではない。
やめるのは容易いが、魚肉や獣肉もよく調味して、野菜と同じように食べ、
(獣のように)骨をかじる訳ではない。
一般人はこれを自然な事と思っている。
神への供物、天子の食膳にも料理して奉るのは古代からの習慣だ。
自ら台所に入って、殺生するので無いのだから、何を忌む事があるのか」
と言うと、僧は黙ってしまった。
このように学があり、庶民生活に疎いのが良い僧というべきだ。
世情に明るく俗気のある僧は信仰の頼みとはならない。
食い養生という言葉がありますが、正にそのパターンですね。
ドジョウは栄養が豊富な食べ物ですが、眼病にも効くのでしょうかね。
自分も健康に不安を抱えている身ですが、
特に好きでもないものを養生食いするのはなかなか大変な事です。
秋成が相手を論破する話はよく出てきますが、
今回は珍しく相手を褒めています。
俗世を知らないが故の言い振りに好感を持ったのかもしれませんね。
胆大小心録 その71
七十一
仏教の盛んさで日本に勝る国は無い。
天竺(インド)では衰え、中国では禅宗のみが寺院を建立されている。
わが国では、古代より華厳宗・法相宗・真言宗、
中世より善導大師の浄土宗や禅宗・日蓮宗が伝えられてきた。
最近では門徒宗(浄土真宗)が盛んであり、他の宗派はこれに押されて来ている。
どの宗派も盛衰があり、この門徒という宗派も、
この頃はいささか衰えの兆しを見せている。
しかし各宗派の無駄ごとは、国の為にもならず、
ただ愚民の遊び場になっているように見える。
若者が遊里に通い始め、一夜も自宅にいようとしないのと同じように、
老いた男女は、家に一日もいたくなさげに立ち走って、寺に奉仕するのだ。
また狂信的な者は狐憑きのようなものだ。
これは釈迦の本意にもとるだろうが、(仏も)結局は遊里と同じようなものと思って、
咎めずにいるのだろう。
信者が集まらず閑散とした寺院は、
仏も心安く座っておいでと思い、訪問者の心も落ち着くのだ。
高座に上って、雄弁をふるって説教をする僧というのも、
座を下りれば単なる俗物で、信仰の頼りにできる人間などはいないものだ。
ただ今では、僧侶もたくさんある職業の一つに過ぎず、俗気も見逃されている。
あまりに法を踏み外す者は、刑を受け人前に晒され、
さらに重い場合は島流しにされる。
それでも法を犯す僧が減らないのは、
そもそも仏法の世界自体が腐敗しているからだ。
淫行の罪で晒し・遠島の罰を受けない者でも、
欲深く、私腹を肥やそうとするのは何故なのか。
まず一身の往生を願うべきで、財産上の満足は二の次だろうに。
財産欲というものは宗教家が持つべきものでは無く、俗人が満たして喜ぶものだ。
欲望に負けて倫理を疎んずるのは宗教家でも何でもない愚者だ。
新しく開けた土地に寺院が建ったかと思えば、廟を作り、宗旨替えをするのは、
商人が商売を替えるのと同じ事だ。
庵に住んで、俗世の不浄に交わらない僧もいるが、稀なことだ。
談義で法を語り、諸国を奔走するものもいる。
みな無駄な事をして、食にありつこうとしているのだと思う。
前回の儒者への批判に続いて、堕落していく仏教の批判です。
秋成という人は、学者や趣味人、宗教家などが、
俗っぽく欲に走るのが本当に許せないようです。
現代でもお坊さんが高級車に乗って現れたりする光景をよく目にしますが、
確かに格好のいいものではありませんね。
俗世を捨て漂泊の旅を続けた西行のような生き方こそが、
宗教家の理想像なのでしょうね。
仏教の盛んさで日本に勝る国は無い。
天竺(インド)では衰え、中国では禅宗のみが寺院を建立されている。
わが国では、古代より華厳宗・法相宗・真言宗、
中世より善導大師の浄土宗や禅宗・日蓮宗が伝えられてきた。
最近では門徒宗(浄土真宗)が盛んであり、他の宗派はこれに押されて来ている。
どの宗派も盛衰があり、この門徒という宗派も、
この頃はいささか衰えの兆しを見せている。
しかし各宗派の無駄ごとは、国の為にもならず、
ただ愚民の遊び場になっているように見える。
若者が遊里に通い始め、一夜も自宅にいようとしないのと同じように、
老いた男女は、家に一日もいたくなさげに立ち走って、寺に奉仕するのだ。
また狂信的な者は狐憑きのようなものだ。
これは釈迦の本意にもとるだろうが、(仏も)結局は遊里と同じようなものと思って、
咎めずにいるのだろう。
信者が集まらず閑散とした寺院は、
仏も心安く座っておいでと思い、訪問者の心も落ち着くのだ。
高座に上って、雄弁をふるって説教をする僧というのも、
座を下りれば単なる俗物で、信仰の頼りにできる人間などはいないものだ。
ただ今では、僧侶もたくさんある職業の一つに過ぎず、俗気も見逃されている。
あまりに法を踏み外す者は、刑を受け人前に晒され、
さらに重い場合は島流しにされる。
それでも法を犯す僧が減らないのは、
そもそも仏法の世界自体が腐敗しているからだ。
淫行の罪で晒し・遠島の罰を受けない者でも、
欲深く、私腹を肥やそうとするのは何故なのか。
まず一身の往生を願うべきで、財産上の満足は二の次だろうに。
財産欲というものは宗教家が持つべきものでは無く、俗人が満たして喜ぶものだ。
欲望に負けて倫理を疎んずるのは宗教家でも何でもない愚者だ。
新しく開けた土地に寺院が建ったかと思えば、廟を作り、宗旨替えをするのは、
商人が商売を替えるのと同じ事だ。
庵に住んで、俗世の不浄に交わらない僧もいるが、稀なことだ。
談義で法を語り、諸国を奔走するものもいる。
みな無駄な事をして、食にありつこうとしているのだと思う。
前回の儒者への批判に続いて、堕落していく仏教の批判です。
秋成という人は、学者や趣味人、宗教家などが、
俗っぽく欲に走るのが本当に許せないようです。
現代でもお坊さんが高級車に乗って現れたりする光景をよく目にしますが、
確かに格好のいいものではありませんね。
俗世を捨て漂泊の旅を続けた西行のような生き方こそが、
宗教家の理想像なのでしょうね。