胆大小心録 その71 | むかしのはなし

胆大小心録 その71

七十一

仏教の盛んさで日本に勝る国は無い。
天竺(インド)では衰え、中国では禅宗のみが寺院を建立されている。
わが国では、古代より華厳宗・法相宗・真言宗、
中世より善導大師の浄土宗や禅宗・日蓮宗が伝えられてきた。
最近では門徒宗(浄土真宗)が盛んであり、他の宗派はこれに押されて来ている。
どの宗派も盛衰があり、この門徒という宗派も、
この頃はいささか衰えの兆しを見せている。

しかし各宗派の無駄ごとは、国の為にもならず、
ただ愚民の遊び場になっているように見える。
若者が遊里に通い始め、一夜も自宅にいようとしないのと同じように、
老いた男女は、家に一日もいたくなさげに立ち走って、寺に奉仕するのだ。
また狂信的な者は狐憑きのようなものだ。
これは釈迦の本意にもとるだろうが、(仏も)結局は遊里と同じようなものと思って、
咎めずにいるのだろう。

信者が集まらず閑散とした寺院は、
仏も心安く座っておいでと思い、訪問者の心も落ち着くのだ。

高座に上って、雄弁をふるって説教をする僧というのも、
座を下りれば単なる俗物で、信仰の頼りにできる人間などはいないものだ。
ただ今では、僧侶もたくさんある職業の一つに過ぎず、俗気も見逃されている。
あまりに法を踏み外す者は、刑を受け人前に晒され、
さらに重い場合は島流しにされる。
それでも法を犯す僧が減らないのは、
そもそも仏法の世界自体が腐敗しているからだ。

淫行の罪で晒し・遠島の罰を受けない者でも、
欲深く、私腹を肥やそうとするのは何故なのか。
まず一身の往生を願うべきで、財産上の満足は二の次だろうに。
財産欲というものは宗教家が持つべきものでは無く、俗人が満たして喜ぶものだ。
欲望に負けて倫理を疎んずるのは宗教家でも何でもない愚者だ。
新しく開けた土地に寺院が建ったかと思えば、廟を作り、宗旨替えをするのは、
商人が商売を替えるのと同じ事だ。

庵に住んで、俗世の不浄に交わらない僧もいるが、稀なことだ。
談義で法を語り、諸国を奔走するものもいる。
みな無駄な事をして、食にありつこうとしているのだと思う。


前回の儒者への批判に続いて、堕落していく仏教の批判です。
秋成という人は、学者や趣味人、宗教家などが、
俗っぽく欲に走るのが本当に許せないようです。

現代でもお坊さんが高級車に乗って現れたりする光景をよく目にしますが、
確かに格好のいいものではありませんね。

俗世を捨て漂泊の旅を続けた西行のような生き方こそが、
宗教家の理想像なのでしょうね。