胆大小心録 その76
七十六
萩の字は、万葉集には秋芽、もしくは牙子花などと書いてある。
芽とは花の形を言ったのだろう。
中国では、今は胡子花と呼ぶ。または天竺花とも。
名前の由来は天竺寺という所の庭に多く植えてあった為だ。
また胡は夷の国の種類だからという理由で、花の本名も無い。
また百菊の譜という書では、萩をも菊の仲間に数えてある。
中国ではこの類のでたらめが多い。
万葉集には牙子花という花は載っていなく、
芽子花と間違えたらしいです
百菊の譜というのは、南宋の百菊集譜という書物の事だそうです。
古い書物なので、それなりに間違いも多いのでしょうね。
萩の字は、万葉集には秋芽、もしくは牙子花などと書いてある。
芽とは花の形を言ったのだろう。
中国では、今は胡子花と呼ぶ。または天竺花とも。
名前の由来は天竺寺という所の庭に多く植えてあった為だ。
また胡は夷の国の種類だからという理由で、花の本名も無い。
また百菊の譜という書では、萩をも菊の仲間に数えてある。
中国ではこの類のでたらめが多い。
万葉集には牙子花という花は載っていなく、
芽子花と間違えたらしいです
百菊の譜というのは、南宋の百菊集譜という書物の事だそうです。
古い書物なので、それなりに間違いも多いのでしょうね。
胆大小心録 その75
七十五
翁(秋成)が大阪を旅していたある日、野原に出かけた。
そこで萩をたくさん植えた茶屋に案内された。
入ってみると、木萩・草萩 が茂り合って、花はこぼれ散り、
むさ苦しかった。
「座敷に上がってください」
と言われた。
上がって座ると、
「煎茶を差し上げましょう」
と言う。
「この辺は水が悪い。好きじゃない」
と言って立つ。
主人がため息をついて悲しがるのを、
「どうしたのだ」
と(別の人が秋成に)問う。
「(茶屋で無く)萩の牢屋に入ったのだ」
と言う。
周りの人はみな大笑いした。
茶屋と牢屋をかけた駄洒落です。
それだけの話です。
秋成は煎茶道の名人で、
最終的にはどの趣味よりも茶道を重んじたそうです。
萩の仲間はこの時代に5種類ほど見られ、
秋成のこの文では、
冬に茎が枯れないものを木萩、その他を草萩と分類したそうです。
ちなみに次回から花絡みの話がしばらく続きます。
翁(秋成)が大阪を旅していたある日、野原に出かけた。
そこで萩をたくさん植えた茶屋に案内された。
入ってみると、木萩・草萩 が茂り合って、花はこぼれ散り、
むさ苦しかった。
「座敷に上がってください」
と言われた。
上がって座ると、
「煎茶を差し上げましょう」
と言う。
「この辺は水が悪い。好きじゃない」
と言って立つ。
主人がため息をついて悲しがるのを、
「どうしたのだ」
と(別の人が秋成に)問う。
「(茶屋で無く)萩の牢屋に入ったのだ」
と言う。
周りの人はみな大笑いした。
茶屋と牢屋をかけた駄洒落です。
それだけの話です。
秋成は煎茶道の名人で、
最終的にはどの趣味よりも茶道を重んじたそうです。
萩の仲間はこの時代に5種類ほど見られ、
秋成のこの文では、
冬に茎が枯れないものを木萩、その他を草萩と分類したそうです。
ちなみに次回から花絡みの話がしばらく続きます。
胆大小心録 その74
七十四
翁(秋成)はこの頃文章を書く際に、病気の為、
筆が心より先に走ってままならない。
ある客が、
「この書は読めない」
と言う。答えて、
「なぜ今更問うのか。読めなければそれでよい」
と。
また、
「この頃の手振りは、まことに非凡なものだ。
仏祖(宗派の開祖)たちが個性的なのに似ている」
と言われた。それに答えて、
「仏祖とは誰の事を言っているのか。我が書は鳥の跡を書いているだけだ」
と言った。
冒頭の言葉は、
恐らく眼病で思うままに書けないという事でしょう。
褒められているのに相変わらず天邪鬼な返答ですね。
鳥の跡を書くとは、
蒼頡という古代中国の人物が、
鳥の足跡を見たことがきっかけで、
文字を発明したという逸話の事を言っているそうです。
立派な事をしているのでは無く、
自然のままの文章を書いているというような意味でしょうか。
翁(秋成)はこの頃文章を書く際に、病気の為、
筆が心より先に走ってままならない。
ある客が、
「この書は読めない」
と言う。答えて、
「なぜ今更問うのか。読めなければそれでよい」
と。
また、
「この頃の手振りは、まことに非凡なものだ。
仏祖(宗派の開祖)たちが個性的なのに似ている」
と言われた。それに答えて、
「仏祖とは誰の事を言っているのか。我が書は鳥の跡を書いているだけだ」
と言った。
冒頭の言葉は、
恐らく眼病で思うままに書けないという事でしょう。
褒められているのに相変わらず天邪鬼な返答ですね。
鳥の跡を書くとは、
蒼頡という古代中国の人物が、
鳥の足跡を見たことがきっかけで、
文字を発明したという逸話の事を言っているそうです。
立派な事をしているのでは無く、
自然のままの文章を書いているというような意味でしょうか。