むかしのはなし -34ページ目

胆大小心録 その70

七十

儒者の歌人というのも、みな商売気が多くて、
結局老(秋成?)のように閑寂な生活はできないのだ。
気の毒な者たちだ。

また老が隠者仕立てをして、写字などを生業としたのと同じような生活を
表面だけ真似する者がいても、
老のように世間に広く認められないように見えた。
それというのも、才があっても学があっても、
人柄が悪かったり、気が利かなかったりで、世渡りの業にはなりえぬからだ。

冥福の老とは心根が違う為、隠者めかした輩などは到底及ばぬ。


短いにもかかわらず非常に苦労しました。
例によって適当に流しました。

まず老というのが秋成を指しているのかが定かではありません。
文意からすると秋成の事でよさそうですが、正直自信がありません。

隠者仕立てというのは、
法体(僧服を着る事)をして草庵で隠者のような生活をする事だそうです。

冥福というのは、
「冥福天真を覆い、貧厄奇才を顕す」
という秋成の言葉を指しているそうですが、
その言葉自体が非常に難解です。
雑に訳すと、
恵まれた環境にあると才能が発揮されず、
苦しい環境にあれば思わぬ才能が生まれる事もある。
といった感じでしょうか。

要するに、
苦労を重ねて鍛えられた自分の根性は、
雰囲気だけ隠者のように振舞っている軽薄な者が及ぶところでは無い、
という事でしょうね。

胆大小心録 その69

六十九

翁(秋成)は商家の出身だが、放蕩者であったので、
財産を増やすのもうまくいかず、三十八歳の時に、
火事で破産した後は、世を渡るすべを何も持たなかったので、
医術を習ったが、
田舎住まいをして、まずは病をたくさん見て学んだ事だった。

四十二歳で町に帰って開業したが、
学問も技術も未熟で、初めての事だから、患者もつかないと知っていたので、
医は心だと肝に念じて、親切を尽くす事を方針にして、
合点のいかぬ病と思ったら、頼まれないのに日に二、三回も見に行った事だ。
またそうではないと思えば、(自信がなく)他の医者を薦めた後も、
相変わらず日々様子を見に行ったので、患者も喜び、家族にも受けが良かった為、
四十七歳の冬、家を買って立派に建て直して四十八歳の春を迎えた。
十六貫目も要したが、借金やらをして何とか出来たのだ。

医者になる際に、
金の貸し借りの仲介、太鼓持ち、仲人、骨董品の売買の仲介はするまいと心に誓い、
これまで一度もしなかった。
その為、癇症に苦しめられ、五十五歳の春から医者を辞めて、再び村に住み、
母(養母)の前に額を付け、
「これ以上の親不孝は無い」
と言うと、(母は)
「はて、仕方の無い事でしょう」
と答えて、姑と一緒に、草庵を作って住んだのだ。

母は五年住んだ後に、大阪の実家へ七月から遊びに出かけて、
病で十一月に亡くなった。年は七十六。姑は母より先に六月に亡くなった。
それから妻はやけになって、髪を剃って尼になり、瑚璉と名付けた。
「どう書くのか」
と問われたので、
「字はどうでもいい。これこれと呼ぶのに勝手がいいのだ」
と答えた。
姑の物も母の物も、不要な物は売り払って、五~七両になったのを、懐に納め、
度々京都に遊びに行ったものだ。

妻は京都の生まれだった為、
「(京に)住みたい」
と言うので、試しに知恩院の前に住み始めたが、
家の向かいは村瀬嘉右衛門、(松村)月渓が喜んで、互いに頻繁に出入りした。
妻が酒を好むので、月渓と飲み友達になり、豆腐・つくしを肴に酒盛りをし、
その後南禅寺の庵を借りて移ったが、
ここも訳があって引き払い、東洞院の月渓と同じ長屋に住んだが、
訳があって丸太町に移り、そこにも腰が定まらず、
元の知恩院前の袋町へ入っていたが、妻が亡くなった後は、
目が見えなくなるやら何やらと不幸づくしの生活を一年余り続けて、
羽倉という蔵人の所で少し世話になり、
そこで死ぬのだろうと覚悟をしていたが、死なれなかった為、
再び南禅寺の昔の庵のあった所に小庵を建てて、七十三歳の春に移り住んだ。

大阪から金五十両を持って移ったが、今年で十六年、何とか暮らしてきた。
(小沢)蘆庵が薦める(歌の)門人集めをしていたら、
用意した金は一、二年で無くなっていただろう。
麦を食べたり、焼き米の湯を飲んだりして、惜しくも無い命を生きた事だが、
書店に頼まれて落窪物語や大和物語の校訂などをして、十両、十五両の礼をとって、
十二、三年は過ごしたが、もう何もできない為、煎茶を飲んで、死を待つのみだ。


秋成の回想です。
元々私生児で、父の顔も名前も知らなかった秋成は四歳で養子に出されます。
養父は紙と油を扱う商人で、秋成もその跡を継ぎますが、
火災で全ての財産を失ってしまったそうです。
何となく紙と油を扱うのはリスクが高いように見えますが、
当時は珍しい事ではなかったのでしょうかね。

秋成がするまいと誓っていた仲介や仲人は、
当時の医者が副業に行っていた事だそうです。

その後、養母・妻のたま・その母を養っていたそうですが、
その他にも養女を迎えたり、
近所の男の子を息子のように気にかけて世話をしたりと、
自らの出生に原因がありそうですが、
家族愛に富んだ人柄のようですね。
特に長年連れ添った妻が亡くなった時には、地団駄を踏んで泣き叫んだそうです。

秋成は定住を願っていたそうですが、
様々な理由から転居を余儀なくされたそうです。
巣を定めない鶉に因んで鶉居という号を名乗ったというエピソードもありますね。

小沢蘆庵に薦められた門人集めの話は、
第2条に出てくるものです。

ちなみに、この条に限らず、
文中に出てくる年齢などに誤りがある場合が多いそうです。
若い頃の話も多いので記憶違いもあるのでしょうね。


胆大小心録 その68

六十八

絵は図籍(地図や図のある書物)が始まりで、
文字で書き留められない事を図にして沿えて、
これを国政の大事として、なかなか見せなかった。
(諸葛)孔明が得て、天下を三分にし、世に出たのも図籍であった。

それから時代が移り、山水を描く者が出るが、
まあそもそもの意味に沿ったものだ。

肖像画はそれに次ぐもので、
これも聖人や仏の像を描いて、書典に添えるという事で正しい。

花鳥というものは、女が縫い物をするのと同じ事で、
男がするべきでは無い。

明の人が描いた詩経の図に、
「絵は詩を図にして見せたのが始まりだ」
という言葉がある。
もっともそうな事だが嘘だろう。
死人の霊が夜な夜な泣くのは、こんな曲解があるからだ。


絵の起源の話です。
秋成によると、そもそもは地図や挿絵のようなものが発展して
後世の絵画になったという事でしょうか。

山水画や肖像画はそもそもの意義を外れてはいないが、
花鳥画はそうではないそうです。

諸葛孔明は三国時代の人物で、天下三分の計で有名ですね。