胆大小心録 その127
百二十七
(柿本)人丸は歌の名人である。神と崇められるのも当然の事だ
しかし粟田の兼房公の虚夢より前は、
人丸を評価したのは貫之と忠岑ぐらいのものだ。
併せて歌を上手く詠んだとしても官位が上がる例もない。
(人丸を)正三位とするのは堀河院が人丸の影像を祭った後の事だ。
現在ではまさしく正一位の神である。
人丸は若い頃は素行が悪かった。
万葉集によると、京にも田舎にも情人が多く歌を送っていたそうだ。
また田舎のみならず、任地の石見に二人の妻がいたという。
任期中に死に、都の正妻が、
(自分の死を)知らずにいつ帰ってくるかと待っているのだろうと詠んで、
嘆きつつ死んだ。
(人丸は)石見の国の出身ではない。
(賀茂)真淵が近江の人では無いかと言う意見に賛成だ。
石見の妻に、(人丸の)死後に子が生まれて、四十二世ほども綿々と続いたという。
(人丸を)石見の出身であり、綾部氏の者と言うのは何故だろう。
官位が五位より下の者は史に記されない。
一族に猿という人がいて、正四位と記されている。
高角山の社は古跡ではない。以前に津波が起きて山が崩れた為、
現在神社がある所は一里(約4km)ほどの所に、また社祠を建てたという事は、
国人の言う事で、蕉中和上の事跡考に書いてある。
語家命(かたらい)氏とも言うというのは古学を知らぬ説だ。
君主が崩じて喪車役となり、陵墓に向かう道中に、
車中の人に「ここはどこそこだ」などと語り事をするのを、語部(かたらいべ)という。
下官であっても、これに倣って葬式にするのだ。人丸の葬式に、語らい人がいたのだろう。
人丸の若い頃の放蕩のせいで、五十歳に至る前に死んだのだと思う
と、真淵は言う。賛成だ。
(人丸は)火止とも読んで、火難を避ける神でもある。
また火に祟るとも言われている。腎虚火動の火に祟られて死ぬのだ。
歌は真に上手である。
近江の荒れた都(大津宮)を悲しみ、藤原の三井の歌、藤原の宮の歌を作る時や、
役民(賦役の民)の歌を作る時には、人丸が成り代わって詠んだのだ。
その世界に敵は無い。
誰にこの真似ができようか。ましてや凡人が対抗できるものではない。
ただ惜しいかな、三井、役民の二首に脱句があり、
入り乱れて前後すると思う箇所がある。
わざわざこれを正すのも無益な事だ。
(人丸が)近江にしばしば通ったのは、
衣暇、田暇の使いではないかと(真淵は)言う。これも賛成だ。
近江の荒都の歌に関して私に自説があり、常日頃から人に語っている。
長くなるのでここでは省略して言わない事にする。
歴史上最も偉大な歌人の一人、柿本人丸(人麻呂)の話です。
粟田の兼房公の虚夢とは、平安時代の貴族の藤原兼房が、
夢に出てきた人丸の姿を絵に描かせ、
それを白河院・鳥羽院に奉ったというエピソードだそうです。
生前の人丸の官位についてですが、
江戸時代に契沖や賀茂真淵が否定するまでは、
それなりの高官だったという説が有力だったそうです。
現在では正一位を追贈され、島根県の柿本神社にて大明神として祭られているそうです。
とにかく古い時代の人物なので、
出自や生涯などに謎が多く、家柄や出身地、終焉の地に至るまで
諸説入り乱れる状況だそうです。
賀茂真淵の考察がかなり有力らしく、珍しく秋成も賛成し通しですが、
南禅寺の僧侶蕉中和上の事跡考という書物も優秀な資料だそうです。
(柿本)人丸は歌の名人である。神と崇められるのも当然の事だ
しかし粟田の兼房公の虚夢より前は、
人丸を評価したのは貫之と忠岑ぐらいのものだ。
併せて歌を上手く詠んだとしても官位が上がる例もない。
(人丸を)正三位とするのは堀河院が人丸の影像を祭った後の事だ。
現在ではまさしく正一位の神である。
人丸は若い頃は素行が悪かった。
万葉集によると、京にも田舎にも情人が多く歌を送っていたそうだ。
また田舎のみならず、任地の石見に二人の妻がいたという。
任期中に死に、都の正妻が、
(自分の死を)知らずにいつ帰ってくるかと待っているのだろうと詠んで、
嘆きつつ死んだ。
(人丸は)石見の国の出身ではない。
(賀茂)真淵が近江の人では無いかと言う意見に賛成だ。
石見の妻に、(人丸の)死後に子が生まれて、四十二世ほども綿々と続いたという。
(人丸を)石見の出身であり、綾部氏の者と言うのは何故だろう。
官位が五位より下の者は史に記されない。
一族に猿という人がいて、正四位と記されている。
高角山の社は古跡ではない。以前に津波が起きて山が崩れた為、
現在神社がある所は一里(約4km)ほどの所に、また社祠を建てたという事は、
国人の言う事で、蕉中和上の事跡考に書いてある。
語家命(かたらい)氏とも言うというのは古学を知らぬ説だ。
君主が崩じて喪車役となり、陵墓に向かう道中に、
車中の人に「ここはどこそこだ」などと語り事をするのを、語部(かたらいべ)という。
下官であっても、これに倣って葬式にするのだ。人丸の葬式に、語らい人がいたのだろう。
人丸の若い頃の放蕩のせいで、五十歳に至る前に死んだのだと思う
と、真淵は言う。賛成だ。
(人丸は)火止とも読んで、火難を避ける神でもある。
また火に祟るとも言われている。腎虚火動の火に祟られて死ぬのだ。
歌は真に上手である。
近江の荒れた都(大津宮)を悲しみ、藤原の三井の歌、藤原の宮の歌を作る時や、
役民(賦役の民)の歌を作る時には、人丸が成り代わって詠んだのだ。
その世界に敵は無い。
誰にこの真似ができようか。ましてや凡人が対抗できるものではない。
ただ惜しいかな、三井、役民の二首に脱句があり、
入り乱れて前後すると思う箇所がある。
わざわざこれを正すのも無益な事だ。
(人丸が)近江にしばしば通ったのは、
衣暇、田暇の使いではないかと(真淵は)言う。これも賛成だ。
近江の荒都の歌に関して私に自説があり、常日頃から人に語っている。
長くなるのでここでは省略して言わない事にする。
歴史上最も偉大な歌人の一人、柿本人丸(人麻呂)の話です。
粟田の兼房公の虚夢とは、平安時代の貴族の藤原兼房が、
夢に出てきた人丸の姿を絵に描かせ、
それを白河院・鳥羽院に奉ったというエピソードだそうです。
生前の人丸の官位についてですが、
江戸時代に契沖や賀茂真淵が否定するまでは、
それなりの高官だったという説が有力だったそうです。
現在では正一位を追贈され、島根県の柿本神社にて大明神として祭られているそうです。
とにかく古い時代の人物なので、
出自や生涯などに謎が多く、家柄や出身地、終焉の地に至るまで
諸説入り乱れる状況だそうです。
賀茂真淵の考察がかなり有力らしく、珍しく秋成も賛成し通しですが、
南禅寺の僧侶蕉中和上の事跡考という書物も優秀な資料だそうです。
胆大小心録 その126
百二十六
槐記を見れば、玉津島の神像に賛を願いに来るという。
乞われるに従い言葉を加え給う。
山科某が語るには、
「私はこの賛詞にて玉津島神を衣通姫だとする説の誤りが明らかになった」
という事だ。
それならば何故賛を断られなかったのか不思議だ。
玉津島の神は島の神である。衣通姫では無い。
聖武天皇が行幸中に、名勝を愛で、明光浦と名づけられ、あかのうらと読む。
和歌とはその音が混同したものだ。和歌の字を書く際に後世の人は迷った。
契沖の考察に、続日本紀に、賜津守連通姓とあるのを、姓の字を姫に間違い、
通姫としたという説がある。
衣通姫が和歌浦に神として鎮座するという根拠は無い。
允恭天皇の皇后が、妹の通姫の美艶を疎んだ為、天皇は(通姫を)都から去らせた。
(その後、通姫は)河内の国の血沼の浦(茅渟宮)に住んだという記載を見た。
帝は皇后を恐れて、しばらく通わなくなった。
姫はある夜に歌を詠んだ。
我がせこがくべきよひなりささ蟹の蛛のおこなひこよひしるしも
(今夜は夫が来るはずだ。
待ち人が来るのを知らせるという蜘蛛が動いているのがその証だ)
また「浦の浜藻の寄る時に」などと申す歌もある。全ては思い出せないが。
このいわれと、浜藻を名乗ったという事は、ともに日本書紀に記してある。
たった二首の歌を根拠に、和歌の神であるという説は疑わしい。
前半部分はほとんど意味がわかりません。
槐記というのは
太政大臣の近衛家熙の侍医である山科道安が編集した、家熙の言行録です。
玉津島というのは和歌山県の和歌浦にある玉津島神社の事で、
そこで祭られる三神の一つが衣通姫だという事ですが、
それに関する是非が今回のポイントらしいです。
衣通姫は日本書紀によると、允恭天皇の皇后の妹で、
姉と同じく天皇の妃です。
姉に嫉妬されたのが原因で、大阪の茅渟宮(ちぬのみや)に転居させられたそうです。
皇后の目もあってなかなか会いに行けなくなった状況で詠まれた歌が、
上記のものだそうです。
勉強不足のせいもあって理解できていない部分が多いので、
そのうちに時間をかけて取り組まなければいけないかなと思いつつ、
今日のところはこの辺で…。
槐記を見れば、玉津島の神像に賛を願いに来るという。
乞われるに従い言葉を加え給う。
山科某が語るには、
「私はこの賛詞にて玉津島神を衣通姫だとする説の誤りが明らかになった」
という事だ。
それならば何故賛を断られなかったのか不思議だ。
玉津島の神は島の神である。衣通姫では無い。
聖武天皇が行幸中に、名勝を愛で、明光浦と名づけられ、あかのうらと読む。
和歌とはその音が混同したものだ。和歌の字を書く際に後世の人は迷った。
契沖の考察に、続日本紀に、賜津守連通姓とあるのを、姓の字を姫に間違い、
通姫としたという説がある。
衣通姫が和歌浦に神として鎮座するという根拠は無い。
允恭天皇の皇后が、妹の通姫の美艶を疎んだ為、天皇は(通姫を)都から去らせた。
(その後、通姫は)河内の国の血沼の浦(茅渟宮)に住んだという記載を見た。
帝は皇后を恐れて、しばらく通わなくなった。
姫はある夜に歌を詠んだ。
我がせこがくべきよひなりささ蟹の蛛のおこなひこよひしるしも
(今夜は夫が来るはずだ。
待ち人が来るのを知らせるという蜘蛛が動いているのがその証だ)
また「浦の浜藻の寄る時に」などと申す歌もある。全ては思い出せないが。
このいわれと、浜藻を名乗ったという事は、ともに日本書紀に記してある。
たった二首の歌を根拠に、和歌の神であるという説は疑わしい。
前半部分はほとんど意味がわかりません。
槐記というのは
太政大臣の近衛家熙の侍医である山科道安が編集した、家熙の言行録です。
玉津島というのは和歌山県の和歌浦にある玉津島神社の事で、
そこで祭られる三神の一つが衣通姫だという事ですが、
それに関する是非が今回のポイントらしいです。
衣通姫は日本書紀によると、允恭天皇の皇后の妹で、
姉と同じく天皇の妃です。
姉に嫉妬されたのが原因で、大阪の茅渟宮(ちぬのみや)に転居させられたそうです。
皇后の目もあってなかなか会いに行けなくなった状況で詠まれた歌が、
上記のものだそうです。
勉強不足のせいもあって理解できていない部分が多いので、
そのうちに時間をかけて取り組まなければいけないかなと思いつつ、
今日のところはこの辺で…。
胆大小心録 その125
百二十五
新嘗祭の翌日は、豊明節会といい、
夜に宴杯を賜い、舞姫が袖を振って、夜通し宴を行った。
この時に神事に加わる堂上・堂下の者は山藍色の小忌衣を着る慣わしだ。
思うにこれは古例とは違う。祭事にはみな浄衣を着る。
翌朝に浄衣を山藍で染めて、色と模様で飾り平常服とするのだ。
祭日に山藍摺りをするのはありえない。
中務集に(このような話があり)、この山藍を、
「急いで摺りなさい」と、(祭に出る)男が言ってきた。中務が読む、
「とくとくとするとはすれどあしびきの山井の水は氷りけらしも
(急いで摺ろうとはするが、山井の水が凍ってしまって出来ないのです)」
と。
これは祭日の朝の急務である。
翁(秋成)はこれを思い、
小野主殿助重賢に乞うと、小忌衣を送って来た。
浄衣に模様があり、梅・柳・蝶・鳥、袖は片方しか無い。
山藍は透骨草というものであり、潅木の実だが、
現在では野草の中にこの種類があり、例年用いているという。
透骨草という名は地方ごとに違う。
その実をビシヤボ(ビシャボ?)というのは聞いた事がある。
野藍は鴨跖草である。ツキクサと呼ぶのは、よく摺り着くのが理由だ。
古歌では山藍を山摺り、野藍を野摺りとも詠む。
ツキクサは、今はツユクサとも呼ぶ。
染物屋では今は用いない品種だ。
前回の新嘗祭に関連したもので、藍染めに関する話です。
中務というのは平安時代の女流歌人で、三十六歌仙の一人です。
彼女の家集が中務集なのですが、
ここに出てくる歌は実際には拾遺和歌集のものだそうです。
小野主殿助というのは
主殿寮という内裏の管理などを行う機関の次官だそうです。
透骨草は中国伝来の植物で、薬草などにも用いられるそうです。
かつてはホウセンカなど様々な種類のものが透骨草と呼ばれたそうです。
鴨跖草は本文にもあるように現在はツユクサという名で呼ばれています。
昔は着き草、月草などと呼ばれていたそうです。
新嘗祭の翌日は、豊明節会といい、
夜に宴杯を賜い、舞姫が袖を振って、夜通し宴を行った。
この時に神事に加わる堂上・堂下の者は山藍色の小忌衣を着る慣わしだ。
思うにこれは古例とは違う。祭事にはみな浄衣を着る。
翌朝に浄衣を山藍で染めて、色と模様で飾り平常服とするのだ。
祭日に山藍摺りをするのはありえない。
中務集に(このような話があり)、この山藍を、
「急いで摺りなさい」と、(祭に出る)男が言ってきた。中務が読む、
「とくとくとするとはすれどあしびきの山井の水は氷りけらしも
(急いで摺ろうとはするが、山井の水が凍ってしまって出来ないのです)」
と。
これは祭日の朝の急務である。
翁(秋成)はこれを思い、
小野主殿助重賢に乞うと、小忌衣を送って来た。
浄衣に模様があり、梅・柳・蝶・鳥、袖は片方しか無い。
山藍は透骨草というものであり、潅木の実だが、
現在では野草の中にこの種類があり、例年用いているという。
透骨草という名は地方ごとに違う。
その実をビシヤボ(ビシャボ?)というのは聞いた事がある。
野藍は鴨跖草である。ツキクサと呼ぶのは、よく摺り着くのが理由だ。
古歌では山藍を山摺り、野藍を野摺りとも詠む。
ツキクサは、今はツユクサとも呼ぶ。
染物屋では今は用いない品種だ。
前回の新嘗祭に関連したもので、藍染めに関する話です。
中務というのは平安時代の女流歌人で、三十六歌仙の一人です。
彼女の家集が中務集なのですが、
ここに出てくる歌は実際には拾遺和歌集のものだそうです。
小野主殿助というのは
主殿寮という内裏の管理などを行う機関の次官だそうです。
透骨草は中国伝来の植物で、薬草などにも用いられるそうです。
かつてはホウセンカなど様々な種類のものが透骨草と呼ばれたそうです。
鴨跖草は本文にもあるように現在はツユクサという名で呼ばれています。
昔は着き草、月草などと呼ばれていたそうです。