胆大小心録 その130
百三十
伊勢では正月に門松を立てずに、
シキミの木を立て、これをさか木(榊)と呼ぶ。
上古の風習が残ったものだ。
さか木とは常磐木(常緑広葉樹)の一種である。
おく山のしきみの花と、万葉集に見えて、さか木とは言わない。
(シキミの)実が落ちて水に入ると、毒があって魚が死ぬという。
魚がそれを解釈し、あしきみ(悪しき実)としているという。
まさに魚が付けた名だ。
伊勢祭主の藤波殿もこれを立てたそうだ。
思うに、シキミを立てるとは、
(戦国期に)国司と神官らがしばしば争って、
追い打たれ、居場所を失って、伊勢には神事を行う者がいなくなった為、
神殿が朽ち果て、見るも無残な状態になったので、
ある尼が念仏を唱えながら全国を奔走し、再建したという事だ。
その尼の功によって、慶光院の名を頂き、今なお伊勢の神に仕えているそうだ。
その尼が立て始めたのが由縁で、シキミが用いられるようになったそうだ。
だから香木で仏家式の供養をするのだ。
香木と花とを奉るのは、仏陀が世に在った時よりのならいだ。
神代記の一書に、いざなぎ、なみの二神が、紀伊の国の熊野に鎮座して、
花季には花を奉るとあるのは、仏教に拠らない日本古来のしきたりである。
熊野は紀伊の国ではない。出雲の熊野だ。神代に出雲には色々な出来事があって、
書に度々出てくるのだ。み熊野の舟と詠むのは、出雲の熊野の早船の事だ。
別名を天の鳥船ともいう。羽根があるが如しと例えるのだ。
樒(シキミ)に関する話です。
現代でも正月などにサカキの葉が売っているのはよく見かけますが、
なかにはシキミを用いる神社も多いそうです。
伊勢神宮は戦国時代には非常に荒れていたそうで、
慶光寺の清順という尼僧が出資を募り、復興したそうです。
それ以外にも宇治橋という神宮の参道にかかる橋を修復したそうで、
その功によって明治後期に従三位を追贈されたそうです。
その頃には慶光寺は明治政府の廃仏毀釈によって
とっくの昔に取り壊されていたのですけどね。
伊勢では正月に門松を立てずに、
シキミの木を立て、これをさか木(榊)と呼ぶ。
上古の風習が残ったものだ。
さか木とは常磐木(常緑広葉樹)の一種である。
おく山のしきみの花と、万葉集に見えて、さか木とは言わない。
(シキミの)実が落ちて水に入ると、毒があって魚が死ぬという。
魚がそれを解釈し、あしきみ(悪しき実)としているという。
まさに魚が付けた名だ。
伊勢祭主の藤波殿もこれを立てたそうだ。
思うに、シキミを立てるとは、
(戦国期に)国司と神官らがしばしば争って、
追い打たれ、居場所を失って、伊勢には神事を行う者がいなくなった為、
神殿が朽ち果て、見るも無残な状態になったので、
ある尼が念仏を唱えながら全国を奔走し、再建したという事だ。
その尼の功によって、慶光院の名を頂き、今なお伊勢の神に仕えているそうだ。
その尼が立て始めたのが由縁で、シキミが用いられるようになったそうだ。
だから香木で仏家式の供養をするのだ。
香木と花とを奉るのは、仏陀が世に在った時よりのならいだ。
神代記の一書に、いざなぎ、なみの二神が、紀伊の国の熊野に鎮座して、
花季には花を奉るとあるのは、仏教に拠らない日本古来のしきたりである。
熊野は紀伊の国ではない。出雲の熊野だ。神代に出雲には色々な出来事があって、
書に度々出てくるのだ。み熊野の舟と詠むのは、出雲の熊野の早船の事だ。
別名を天の鳥船ともいう。羽根があるが如しと例えるのだ。
樒(シキミ)に関する話です。
現代でも正月などにサカキの葉が売っているのはよく見かけますが、
なかにはシキミを用いる神社も多いそうです。
伊勢神宮は戦国時代には非常に荒れていたそうで、
慶光寺の清順という尼僧が出資を募り、復興したそうです。
それ以外にも宇治橋という神宮の参道にかかる橋を修復したそうで、
その功によって明治後期に従三位を追贈されたそうです。
その頃には慶光寺は明治政府の廃仏毀釈によって
とっくの昔に取り壊されていたのですけどね。
胆大小心録 その129
百二十九
人丸の事は正しく伝わっていないという説は妥当である。
私は、歌聖伝という本を書いて大方は詳細にした。
蕉中(和上)は僧侶なので国史に疎いのは仕方が無い。
事跡考の許せない所は、石見侯の碑文を乞われて書いた事だ。
記文は命に従わず曖昧にごまかしてある。へつらいをこそ憎む。
事跡を詳細にして、へつらいを避けたければ、
なぜ碑文を断り批判を受けないようにしないのか。
人丸の碑は、明石にあるものは林春斎、
大和の柿本村のものは林春常が手がけた。
また柿本寺というものが、布留(天理市)の辺りにある。
その文は百拙が書いた。いずれも正史を知らずに書いてある為、人を迷わせる。
その中で、春斎の書いた明石のものは、詳しく書いてないのでよい。
この事は私の(歌聖)伝の中で論じておいた。
蕉中はこの伝を借りて読んだが、
「(秋成を)訪問するから、茶を飲もう」と言うものの、
結局来なかった。田舎者の坊主だ。友として往来するに足らない人物だ。
再び人丸の話になります。
第127条にも出てきた高角山の柿本神社の碑文を
蕉中が書いたという事です。
柿本神社は西日本に多数あるそうですが、
ここでは、林春斎・春常親子が手がけた
兵庫県の明石市のものと奈良県の葛城市のものが出てきます。
天理にあるという柿本寺(しほんじ)は、奈良時代に建てられたものだそうですが、
明治初期に廃寺になったそうです。
人丸の事は正しく伝わっていないという説は妥当である。
私は、歌聖伝という本を書いて大方は詳細にした。
蕉中(和上)は僧侶なので国史に疎いのは仕方が無い。
事跡考の許せない所は、石見侯の碑文を乞われて書いた事だ。
記文は命に従わず曖昧にごまかしてある。へつらいをこそ憎む。
事跡を詳細にして、へつらいを避けたければ、
なぜ碑文を断り批判を受けないようにしないのか。
人丸の碑は、明石にあるものは林春斎、
大和の柿本村のものは林春常が手がけた。
また柿本寺というものが、布留(天理市)の辺りにある。
その文は百拙が書いた。いずれも正史を知らずに書いてある為、人を迷わせる。
その中で、春斎の書いた明石のものは、詳しく書いてないのでよい。
この事は私の(歌聖)伝の中で論じておいた。
蕉中はこの伝を借りて読んだが、
「(秋成を)訪問するから、茶を飲もう」と言うものの、
結局来なかった。田舎者の坊主だ。友として往来するに足らない人物だ。
再び人丸の話になります。
第127条にも出てきた高角山の柿本神社の碑文を
蕉中が書いたという事です。
柿本神社は西日本に多数あるそうですが、
ここでは、林春斎・春常親子が手がけた
兵庫県の明石市のものと奈良県の葛城市のものが出てきます。
天理にあるという柿本寺(しほんじ)は、奈良時代に建てられたものだそうですが、
明治初期に廃寺になったそうです。
胆大小心録 その128
百二十八
(大伴)家持卿はとても好色な人だ。歌の多さを見よ。
淫首(好色の首領)というのはこの人の事だ。
後世では(在原)業平を淫首という。
(清和天皇の女御の)藤原高子が入内する前の情事と、
加茂神社の述子(伊勢斎宮の恬子の間違い)を犯した事件との二つが理由で、
藤原家に疎まれ、東国に行き、摂津の国にも行ったという。
藤原家がこの人を罰すれば、
高子の入内が出来なくなるという事で、蟄居に留めたそうだ。
源氏物語に、「業平の名を汚す事ができようか」と書いたのは、
その人を惜しんだ為だ。
東下りの文中の歌も、多くは(伊勢物語の)作者が詠んだものだ。
業平の歌と混同されたまま後世に至り、勅撰(和歌集)にさえ加わっている。
(賀茂)真淵はよく区別していた。
家持卿の集として残っているものは、偽物ばかりでは無い。
万葉集の中の十巻ほどは卿の家記であると、真淵は言った。
しかしながら、二十巻の末尾に、天平二十年の正月を限りに歌は無い。
桓武天皇の治世まで存命だった。二十七年の間、歌を詠まなかった。
(今の家持集は)後人の偽撰といわれるが、家記の散逸したものの一つである。
子の謀反に連座して、官位を剥奪され、家が滅ぶに至って、家記も散乱したのだ。
奈良・平安の代表的な歌人、大伴家持と在原業平の話です。
在原業平は伊勢物語の主人公とされ、色男としても有名ですね。
藤原高子は清和天皇の女御(后)で、
天皇と外戚関係になる事によって権力を保ってきた藤原家にとっては
切り札ともいえる人物です。
恬子は伊勢神宮の斎王です。
斎王というのは神宮の巫女の事で、内親王から選ばれるそうです。
どちらもその身分以上に高貴な役割を持つ女性で、
そこに手を出す業平の大胆さに驚くばかりです。
大伴家持は官人としても歌人としても有名な人物で、
万葉集の編者の一人とする説もあります。
家持が死んだ1ヶ月後に中納言藤原種継の暗殺事件が起き、
実行犯とされる同族の大伴継人や息子の大伴永主らに連座して、
官位を奪われ、埋葬を禁じられたそうです。
(大伴)家持卿はとても好色な人だ。歌の多さを見よ。
淫首(好色の首領)というのはこの人の事だ。
後世では(在原)業平を淫首という。
(清和天皇の女御の)藤原高子が入内する前の情事と、
加茂神社の述子(伊勢斎宮の恬子の間違い)を犯した事件との二つが理由で、
藤原家に疎まれ、東国に行き、摂津の国にも行ったという。
藤原家がこの人を罰すれば、
高子の入内が出来なくなるという事で、蟄居に留めたそうだ。
源氏物語に、「業平の名を汚す事ができようか」と書いたのは、
その人を惜しんだ為だ。
東下りの文中の歌も、多くは(伊勢物語の)作者が詠んだものだ。
業平の歌と混同されたまま後世に至り、勅撰(和歌集)にさえ加わっている。
(賀茂)真淵はよく区別していた。
家持卿の集として残っているものは、偽物ばかりでは無い。
万葉集の中の十巻ほどは卿の家記であると、真淵は言った。
しかしながら、二十巻の末尾に、天平二十年の正月を限りに歌は無い。
桓武天皇の治世まで存命だった。二十七年の間、歌を詠まなかった。
(今の家持集は)後人の偽撰といわれるが、家記の散逸したものの一つである。
子の謀反に連座して、官位を剥奪され、家が滅ぶに至って、家記も散乱したのだ。
奈良・平安の代表的な歌人、大伴家持と在原業平の話です。
在原業平は伊勢物語の主人公とされ、色男としても有名ですね。
藤原高子は清和天皇の女御(后)で、
天皇と外戚関係になる事によって権力を保ってきた藤原家にとっては
切り札ともいえる人物です。
恬子は伊勢神宮の斎王です。
斎王というのは神宮の巫女の事で、内親王から選ばれるそうです。
どちらもその身分以上に高貴な役割を持つ女性で、
そこに手を出す業平の大胆さに驚くばかりです。
大伴家持は官人としても歌人としても有名な人物で、
万葉集の編者の一人とする説もあります。
家持が死んだ1ヶ月後に中納言藤原種継の暗殺事件が起き、
実行犯とされる同族の大伴継人や息子の大伴永主らに連座して、
官位を奪われ、埋葬を禁じられたそうです。